第三章 助役の記憶
翌朝の春口は、前日ほど深くはないが、やはり少し白んでいた。
霧と呼ぶには薄い。靄といったほうが近い。海も駅も見えるが、その輪郭の縁だけがやわらかく滲んでいる。梅雨に入りきる前のせとうちには、こういう朝が多いのだろうと湊は思った。全部を隠すほどではない。しかし、見えているものの確かさだけを少し弱める。それが、この町にはよく似合う。春口で起きることの多くは、完全な喪失よりも、半歩の行き違いや、少しの判断の遅れとして残るからだ。
朝食のあと、湊と汐里は駅の裏手へ向かった。
元助役の三輪が住んでいるという古い官舎跡は、駅から歩いて十分ほどの坂の途中にある。
港へ下る道とは逆に、少しだけ山側へ寄る。
そこへ行くと、春口が海と駅だけでできている町ではないことを、いつも思い出す。洗濯物、郵便受け、鉢植え、古い木塀。鉄道に関わる人間たちの生活もまた、この町の静かな背骨の一部だったのだろう。
三輪の家は、官舎を少し手入れして住み続けているような造りだった。
低い門、薄いガラス戸、玄関脇に置かれた古びた長靴。
呼び鈴を押すと、しばらくして戸が開き、小柄な老人が現れた。
八十代半ばくらいだろうか。背は曲がっているが、目は思ったより澄んでいる。駅員だった人に特有の、相手の顔をまず正確に見ようとする目だった。
「篠原さんから」
汐里が言う。
「お話を伺っていて」
「ああ」
三輪はすぐに頷いた。
「春口の宿の」
「はい」
「それと、相沢です」
湊が頭を下げると、三輪の目が少しだけ細くなった。
「前にも誰かを探しに、この町へ来とった顔やね」
「ええ」
「入んなさい」
通された居間は、整頓されていた。
飾り気は少ないが、棚の上には古い時刻表、腕章、駅名の入った琺瑯の札などがさりげなく置かれている。
それらは鉄道趣味の展示物というより、仕事を終えた人がしまい損ねたまま暮らしの中へ残したもののように見えた。
湊は、第四作で宿の帳場が町の縮図に見えたことを思い出した。ならば、この居間もまた、春口駅の余韻そのものなのかもしれない。
茶が出され、三輪は単刀直入に言った。
「白帽の少女のことやろ」
湊と汐里は、ほとんど同時に息を止めた。
三輪は二人の反応を見て、わずかに肩をすくめる。
「駅日誌に残っとるなら、そこへ行き着く」
「覚えておられるんですか」
湊が訊く。
「全部やない」
三輪は正直に言った。
「けど、霧の朝にホームで何度も同じように迷う男がおったことは覚えとる」
「その人は」
「若かった。三十そこそこ」
「父と近いです」
湊が低く言うと、三輪は頷いた。
「そうやろな」
窓の外で、駅のほうから薄く列車の音が聞こえた。
三輪はその音に一瞬だけ耳を向ける。
長く鉄道と暮らした人間は、引退しても音の聞き方が少し違うのかもしれない。
「その男は」
三輪が続ける。
「最初からおかしかったわけやない」
「どういうことですか」
汐里が訊く。
「最初の何日かは、普通に来て、普通にホームで立っとった。けど、ある朝から急に、白線の内側から動かんようになった」
「白線の内側」
「乗るなら前へ出る。見送るなら下がる」
三輪は手で小さく位置を示した。
「でも、あの男はどっちにもならん。列車が入ってきても、そのままやった」
「声はかけましたか」
「かけた」
「何と」
「“乗るならお急ぎください”や」
「返事は」
「ない日もあったし、“まだ”と言う日もあった」
まだ。
その一語に、春口の時間がそのまま詰まっているように思えた。
まだ乗る。
まだ見送る。
まだ決めていない。
まだ間に合う。
この町では、その“まだ”がしばしば長すぎる。
「白帽の少女は」
湊が慎重に訊く。
「その男と一緒にいたんでしょうか」
三輪は少し考えた。
「一緒、というほどでもない」
「では」
「同じ朝に、見えた」
「見えた」
「霧の日やからな。はっきり並んでたとは言えん」
それでも三輪は、言葉を濁さなかった。
「ただ、同じホームの空気におった」
「少女は乗客?」
「たぶん」
「男は」
「送りか、乗る側か、最後までよう分からんかった」
それが第五作の主題そのものだった。
誰かを見送るために来たのか。
自分も乗るつもりだったのか。
その二つが春口では簡単に重なってしまう。
島へ行く子どもを見送る。
そのあと本土側の便へ乗る。
あるいは逆。
接続の都合と感情の迷いが重なれば、人は白線の内側で動けなくなるのだろう。
「その日は」
汐里が訊いた。
「結局どうなったんですか」
「少女は乗った」
三輪が言った。
「男は乗らんかった」
「見送った」
「いや」
三輪はゆっくり首を振る。
「見送った、という感じでもない」
「……」
「列車が出たあともしばらく、そのまま立っとった」
その情景が、湊の胸に重く落ちた。
見送るなら、列車の動きとともに何かしらの区切りが生まれる。
だがその男は、列車が出たあともしばらく動けなかった。
それは見送りではなく、“発車に取り残された”姿に近いのかもしれない。
「父だと思いますか」
汐里ではなく、自分自身に問うように湊が口にした。
三輪はすぐには答えなかった。
代わりに、棚の上の古い時刻表に目をやってから言う。
「顔はもうあやふやや」
「ええ」
「でも、あの立ち方は覚えとる」
「立ち方」
「ホームに立ちながら、気持ちはまだ駅へ着いてない人の立ち方やった」
湊は息を止めた。
ホームに立ちながら、気持ちはまだ駅へ着いてない。
それは、あまりに春口らしい表現だった。
「列車は来ている」
三輪が続ける。
「白線もある。行き先も決まっとる。せやのに、その人間の中だけがまだ来てないんや」
「……」
「だから、乗れん。見送れん。発車だけが先に済んでしまう」
「それで駅日誌に残った」
「ええ。駅員は、そういう人間を見逃さんからな」
その言葉で、駅日誌の冷たい欄が急に人間の体温を帯びた。
発車見合わせ常習の乗客。
それは駅の業務用語であると同時に、“まだ駅へ着いていない人間”の別名でもあったのだろう。
「三輪さん」
汐里が言った。
「春口では、そういう人は珍しかったんですか」
三輪は苦くも温かくもない笑いを浮かべた。
「珍しくはない」
「ええ」
「ただ、毎朝同じようにやる人間は珍しい」
「何日も」
「そう。たいてい一日で済む。便を逃した、気持ちがついていかん、そういうことはある」
「でもその人は」
「何日も同じ朝をやっていた」
「……」
「だから、駅も覚える」
同じ朝を何日もやる。
その言い方は、父の夏や、春乃の待ち続けた午後や、澄江の島への再訪とも重なる。
春口では、人は出来事そのものより、その出来事を“何度も反復する時間”に縛られるのだろう。
たった一度の失敗より、そのあと何日も同じ場所へ戻ってしまうことのほうが、深く人生に食い込む。
「最後に」
湊が訊く。
「その男はどうなったか、覚えておられますか」
三輪は茶を一口飲んでから答えた。
「ある朝、ようやく乗った」
「乗った」
「ええ」
「上りですか」
「いや」
三輪は言った。
「下りやった」
その一言に、部屋の空気が変わった。
下り。
つまり海側。
島へ向かう、あるいは港へ近づく側。
父が本土へ去るのではなく、むしろ海側へ動いた。
あるいは千紘を追おうとした。
それとも別の接続を取りに行った。
どちらにせよ、この証言はこれまでの想像を少しだけずらす。
「下り……」
湊が繰り返す。
「ええ。そこが私にも印象に残っとる」
三輪が言う。
「毎日上りを前にしとったのに、最後に乗ったのは下りや」
「それは」
汐里が言う。
「何を意味するんでしょう」
「まだ分からん」
三輪は正直に答えた。
「けど、あの人は“去る人”やなかったのかもしれん」
「……」
「むしろ、何かを追って海側へ行く人やったのかもしれん」
湊は、胸の奥で何かが組み変わるのを感じた。
父は、見送りきれずに立ち尽くし、最後には下りへ乗った。
それは敗北や離脱ではなく、別の接続を取りに行く遅すぎた決断だったのだろうか。
第五作は、ここで単なる「見送れなかった父」の話から、「発車を見送ったあとで、なお海側を追った父」の話へ変わり始めているのかもしれない。
家を出ると、靄はもうだいぶ薄くなっていた。
駅のほうから午後の列車の音がする。
三輪の話を聞いたあとでは、その音まで少し違って聞こえる。
列車は行き先を明確に持っている。
だが人間は、その明確さにいつも追いつけるわけではない。
だからこそ春口のホームには、発車に間に合わない心が立ち尽くすのだろう。
「相沢さん」
帰り道、汐里が言った。
「はい」
「お父さん、もしかしたら」
「ええ」
「ただ千紘を見失ったんじゃなくて」
「追おうとしたのかもしれません」
「下りに乗って」
「そうですね」
「そうなると、第一作で見えていた父の背中も少し変わりますね」
「変わります」
湊ははっきり答えた。
「去った人じゃなく、遅れて追った人になる」
「……」
「その違いは大きいです」
駅へ戻ると、ホームの白線が午後の光の中ではっきり見えた。
霧はもうない。
それでも湊には、あの朝、白線の内側に留まった男の影がまだそこにあるように思えた。
見送るのか。
乗るのか。
最後に下りへ向かったのか。
第五作は、このホームに残る“見えない発車”の続きを、さらに深く追うことになるのだろう。




