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潮待ちのレール ― 霧のホーム ―  作者: たむ


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第二章 白線の内側

 駅日誌の写しを前にしたまま、しばらく三人とも口を開けなかった。


 白帽の少女。

 霧のため確認しづらし。

 上り発車直前まで見送り線上に留まる。

 乗車せず。

 その短い記述の中に、これまでのシリーズで何度も触れてきた気配が、あまりに濃く集まっている。

 第一作で見えていた父の一瞬の判断の遅れ。

 第三作で知った、千紘が島と本土のあいだを動かされる子どもだったこと。

 そして、春口では「乗る」「見送る」「迎えに行く」といった行為が、しばしばその場では決まりきらず、ぎりぎりまで宙づりになること。

 駅日誌は、それを鉄道側の言葉で記録していたのだ。


「見送り線上って」

 湊が言った。

「正確にはどこを指すんですか」

 篠原が日誌の端を指で押さえながら答える。

「昔の駅員の言い方ですね。今ほど厳密じゃないですが、白線の内側ぎりぎり、あるいは発車を見送る人が下がるべき位置を指していることが多い」

「白線の内側」

 汐里が繰り返す。

「ええ。客として乗るなら、列車が来たら乗る側へ寄る。見送るだけなら、もう少し後ろへ下がる」

「でもこの人は」

「そのどちらにも決まりきらない位置にいたんでしょう」

 篠原は言った。

「だから駅員の目に残った」


 その説明を聞きながら、湊の頭の中には霧のホームが広がっていた。

 白線。

 濡れたホーム。

 列車の灯りがまだ白い靄の向こうにある。

 そのとき、一人の男が白線の内側ぎりぎりに立ち、乗るのか見送るのか決められないままいる。

 そこへ、白帽の少女の気配が重なる。

 霧の日の春口なら、たしかにそういう光景は現実のようでもあり、幻のようでもあるだろう。

 見えているのに確かめきれない。

 第五作の核が、そこにはっきりあった。


「この時期」

 汐里が日誌の頁をめくる。

「数日続いていますね」

「ええ」

 篠原が答える。

「一日だけなら、ただの乗り遅れた人かもしれない。でも、何日か続くと話が違う」

「毎日、発車直前までいて、乗らない」

「あるいは、乗るつもりで来て、毎回見送ってしまった」

「……」

「駅員にとっては、かなり目につくはずです」


 店の窓の外では、ようやく霧が少し薄くなり始めていた。

 だが完全には晴れない。

 ホームの輪郭は見えても、その先のレールはまだ白く曖昧なままだ。

 春口の鉄道は、こういう天気の日にこそ、行き先と留まる理由を同時に人へ突きつけるのかもしれなかった。


「この人が父だとして」

 湊が言った。

「何をしようとしていたんでしょう」

「乗るつもりだったのか」

 汐里が言う。

「それとも」

「千紘を見送るつもりだったのか」

 湊は頷く。

「その違いは大きい」

「ええ」

 篠原も静かに同意した。

「乗るつもりだったなら、自分の出発を決めきれなかった人。見送るつもりだったなら、誰かの出発を受け入れきれなかった人」

「でも春口では」

 汐里が言う。

「その二つが時々重なりますね」

「そうなんです」

 篠原が少しだけ目を細めた。

「だから、駅は面白いんです。港と違って、鉄道は本来もっと“はっきりしている移動”のはずなのに、この町ではやはり曖昧になる」


 喫茶店を出たあと、三人はそのまま駅へ向かった。

 昼の光は出てきたが、空気はまだ湿っている。

 ホームへ上がると、霧の名残が手すりやベンチの木に薄く残っていた。

 白線は乾ききらず、ところどころ鈍く光っている。

 日誌に記された「見送り線上」が、いまはごく普通のホームの一部としてそこにある。

 だが、そこへ立つだけで、この巻の重心が確かに駅へ移ったのが分かった。


「ここですね」

 汐里が言った。

「ええ」

 篠原が頷く。

「昔と細部は変わっても、基本の位置関係はそう変わらないはずです」


 湊は白線の少し内側へ立ってみた。

 風はない。

 だが、霧の朝の名残のせいか、視界が完全に定まらない感じがまだある。

 列車が来れば乗れる位置。

 だが、見送りの人間がつい前へ出すぎたとも取れる位置。

 ほんの半歩の違いで意味が変わる。

 その曖昧さが、春口らしかった。


「ここに立って」

 湊が低く言う。

「白帽の少女がいたかもしれない」

「ええ」

 汐里が答える。

「そして父が」

「乗るのか、見送るのか、決めきれなかった」

「あるいは」

 篠原が言葉を挟む。

「そのどちらも同時にやろうとしたのかもしれません」

「どういうことですか」

「誰かを見送りながら、自分も別の便へ向かうつもりだったとか」

「……」

「春口では、接続の都合でそういうことも起こり得る。島へ行く子を見送り、そのあと自分は上りへ乗る、あるいは逆」


 それは十分あり得る話だった。

 第一作で父が千紘をめぐって抱えた負い目は、「置き去りにした」だけでなく、「自分の動きと相手の動きの両方を半端に扱ってしまった」ことの重さだったのかもしれない。

 駅のホームなら、その曖昧さはなおさら濃く出る。

 列車は時間どおりに来る。

 ホームは一本道だ。

 それでも、人の側の気持ちだけが決まりきらず、白線の内側に留まってしまう。


 篠原はさらに別の写しを取り出した。

 同じ時期の運転記録らしい。

 そこには小さく、「霧により視認性不良」「乗降確認に時間を要す」とある。


「乗降確認に時間を要す」

 湊が読む。

「つまり、乗る人と見送る人の区別がつきにくかった」

「そうでしょう」

 篠原が答える。

「霧の日は特に」

「春口って」

 汐里がホームの先を見ながら言った。

「人の気持ちの曖昧さが、そのまま駅の運用にも出る町なんですね」

「ええ」

 篠原は苦笑した。

「普通なら、鉄道はもっときっぱりしている。でもこの町では、港や島の便と絡むせいで、ホームにいる人間の事情も複雑になる」


 その言葉を聞きながら、湊は第四作の宿を思い出していた。

 宿は、決める前の夜を荒らさない場所だった。

 ではホームは何か。

 おそらく、決めきれないまま朝を迎えた人が、最後に立つ場所なのだろう。

 宿が一夜を預かるなら、駅は出発の一瞬を引き受ける。

 その一瞬に迷いが残れば、人は白線の内側で止まる。

 霧のホームは、その迷いをいっそう可視化する。


「篠原さん」

 湊が訊く。

「この時期に、春口駅の駅員でまだ話を聞けそうな人はいますか」

「一人だけ」

 篠原が即答した。

「誰ですか」

「元助役の三輪さん」

「まだご存命で」

「ええ。ただ、最近はあまり外へ出ません」

「それでも」

「聞くなら今でしょうね」


 春口の港にも、島にも、宿にも、それぞれ記憶を持つ高齢者がいた。

 駅もまた同じなのだろう。

 誰かがいなくなれば、そのホームで毎朝何が起きていたかを知る人も減っていく。

 しかも霧の日のことなど、公式記録だけでは分からない。

 「見送り線上に留まる」男の立ち方や、白帽の少女の見え方は、現場にいた人間の目にしか残らないはずだ。


 駅を出たあと、篠原は三輪の家の場所と、大まかな事情を教えてくれた。

 駅から歩いて十分ほどの、古い官舎の並びの先らしい。

 今日は体調が分からないので難しいかもしれないが、明日の朝なら会える可能性が高いという。

 それもまた駅員らしい話だった。

 朝。

 人が便に合わせてまだ動き出す前の時間のほうが、鉄道に関わってきた人間にはしっくりくるのかもしれない。


 宿へ戻る途中、霧はようやく完全に晴れた。

 海が見える。

 港の向こうの島影も、昼の光の中に戻っている。

 だが、いったん見えなくなった朝を経験したあとでは、晴れた風景も以前ほど単純ではなかった。

 見えていたものが、実は簡単に見失われる。

 そして見失われた一瞬が、何十年も人を引き戻すことがある。

 第五作は、そういう物語になるのだろうと、湊は静かに思った。


 夕方、ホームの端にもう一度一人で立った。

 今度は霧がない。

 レールは遠くまでまっすぐ見える。

 それでも、白線の内側に立つと、決まりきらなさの気配は消えなかった。

 駅というのは不思議な場所だ。

 はっきりした時刻、はっきりした行き先、はっきりしたホーム番号。

 その明確さの只中で、人の心だけがいちばん曖昧になる。

 乗るか。

 見送るか。

 戻るか。

 ここにいるか。

 その曖昧さが、この町ではいっそう濃くなる。


 レールの向こうに、上り列車の灯りが見えた。

 今度は霧がないから、遠くからはっきり分かる。

 それなのに湊は、むしろ霧の朝よりも強く、あの日誌の人物のことを想像してしまった。

 視界が良い日でさえ決めきれないことがあるのだ。

 ならば霧の朝には、どれほどだっただろう。

 白帽の少女が立ち、列車の灯りが滲み、駅員が様子を見ている。

 そして男は、白線の内側に留まったまま、発車を見送ってしまう。

 それが父だったのかどうかは、まだ分からない。

 だが、“そういう人間が春口に確かにいた”ことだけは、もう疑いようがなかった。

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