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潮待ちのレール ― 霧のホーム ―  作者: たむ


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第一章 見えない発車

 霧の出る朝の春口は、海の町というより、音だけでできた町に近い。


 島影は消える。

 港も半分ほど白く溶け、岸壁の先にあるはずの船も、輪郭を失っている。

 駅の赤い屋根はかろうじて見えても、その向こうへ延びるレールは数十メートル先で曖昧になる。

 見えていたはずのものが一つずつ薄くなり、最後には、遠くから届く汽笛や警笛や、ロープの軋みや、濡れたホームを歩く足音だけが残る。

 春口に何度も戻るようになって、湊は霧の日のこの町が、ほかのどの日よりも“途中”そのものに近いと感じるようになっていた。

 着いたのか、まだ着いていないのか。

 発車したのか、まだしていないのか。

 そうした境界が、霧の朝にはいっそう曖昧になる。


 その年の初夏、湊が春口へ戻ってきたのは、まさにそんな霧の朝だった。


 列車が速度を落とし、海沿いを進みながら白い靄の中へ入っていく。

 窓の外に見えているはずの海は、今日は平らな明るさとしてしか存在しない。

 停留所の標識も、港の倉庫も、少し遅れてからようやく輪郭を持つ。

 春口駅へ着いたとき、ホームにはもう夏の手前の湿り気があった。

 梅雨入り直前の、空気だけが水を含んでいる朝。

 人の顔も、声も、ふだんより少し近く聞こえる。


 改札の外には、汐里がいた。

 薄い紺のシャツに、灰色のカーディガンを羽織っている。

 春の柔らかさが終わりきらないうちに、もう夏の手前の重さが町へ入り始めている。

 その季節の移り目が、春口では人の表情にも少し出るのだと、湊は思った。


「おかえりなさい」

 汐里が言う。

「ただいま」

「今日はひどい霧ですね」

「ええ。海が見えない」

「でも、春口ってこういう日があります」

「知っています」

 湊が答えると、汐里は少しだけ笑った。

「そうでしたね。もう“初めての人”ではないですもんね」


 坂道を下りる途中でも、霧は完全には晴れなかった。

 港の屋根がぼんやり見え、その向こうの海はただ白い。

 駅から宿へ向かう道も、これまでなら何度も歩いて身体に馴染んでいるはずなのに、今日は少しだけ別の町のようだった。

 見慣れた場所が見えにくいだけで、人はこんなにも“途中”へ戻されるのかと思う。

 霧の朝は、春口を知っている者にも等しく不確かさを与えるのだ。


 宿へ着くと、帳場の灯りがまだ点いていた。

 外が白いぶん、その小さな明かりだけがやけにはっきり見える。

 第四作で知ったことを思い出す。

 宿とは、人生を変える場所ではなく、一夜の波が静まるまでを預かる場所。

 ならば、この霧の朝に点いている帳場の灯りもまた、“見えない発車”のための灯りなのかもしれない。


「今回は」

 荷物を置いたあと、居間で茶を出されながら汐里が言った。

「駅のほうなんです」

「駅」

 湊が湯呑みを持ったまま顔を上げる。

「ええ。宿ではなく」

「何かあったんですか」

「篠原さんから連絡がありました」

「また」

「はい。今度は古い駅日誌です」

「駅日誌」

「春口駅の、かなり昔の」

 その言葉だけで、湊の胸のどこかが静かに動いた。

 第一作からずっと、春口の鉄道側にはまだ掘りきれていないものがあると感じていた。

 潮待ち浜は仮場だった。

 港は待たされる場所だった。

 宿は一夜を預かる場所だった。

 ならば駅は何だったのか。

 ただ出発と到着の場ではないはずだ。

 霧の日のホームに立つと、なおさらそう思う。


「駅日誌に何が」

 湊が訊くと、汐里は答えた。

「“発車見合わせ常習の乗客”のことが何度か出てくるんです」

「発車見合わせ常習?」

「毎回ぎりぎりまでホームに残って、乗るか乗らないか決められない人がいたみたいで」

「……」

「しかも、それが一度だけではない」

「春口らしいですね」

 湊が言うと、汐里はすぐには笑わなかった。

「ええ」

 少し遅れて頷く。

「とても、春口らしいです」


 発車見合わせ常習。

 駅の言葉で書けば、ただの迷惑な乗客かもしれない。

 だが春口では、その“ぎりぎりまで決められない”ということ自体が、もっと深い意味を持ちそうだった。

 帰るのか。

 戻るのか。

 島へ向かうのか。

 春口へ留まるのか。

 これまでのシリーズで描いてきたほとんどすべての人物が、どこかでそのホームに立っていた気がする。


「その人」

 湊が言う。

「誰なんですか」

「まだ分かりません」

 汐里が答える。

「でも、駅日誌の年代が、父や千紘の時期と少し重なるんです」

「……」

「直接の関係があるかどうかは分からない。でも、篠原さんは“春口の鉄道側にも、まだ残った未完了がある”って」


 未完了。

 それは『潮待ちのレール』というシリーズ全体の別名みたいな言葉だった。

 出せなかった手紙。

 届かなかった絵葉書。

 島の名を捨てきれないままの暮らし。

 閉じた迎えの部屋。

 春口には、終わりきらないものばかりが集まってくる。

 ならばホームにもまた、発車しきれなかった時間が残っていて不思議ではない。


 霧は昼近くになっても完全には晴れなかった。

 篠原と会うまで少し時間があるというので、湊は一人で駅へ上がった。

 ホームの端に立つと、レールはまだ先で白く消えている。

 列車が来る気配はある。

 音も振動も少しずつ近づいてくる。

 だが姿はなかなか見えない。

 見えない発車。

 見えない到着。

 それがこの巻の核なのだと、湊はほとんど直感した。


 ホームには、地元の高校生が二人、ベンチに座ってスマートフォンを見ていた。

 それから、島へ向かうらしい老女が一人、濡れた手すりに手を置いて遠くを見ている。

 みな、霧を前にすると少しだけ黙る。

 春口の人間は、見えない朝には必要以上に喋らないのかもしれない。

 何かが遅れているのか、まだ来る途中なのか、そうした判断を少しだけ保留するために。


 列車がようやく姿を現したとき、湊は思わず目を細めた。

 白い中から銀の車体が滑り出てくる。

 たったそれだけのことが、霧の日には妙に胸に残る。

 見えなかったものが、音のあとから形になる。

 もし誰かが、このホームで発車を決めきれずに立ち尽くしていたなら、その人にとって列車はいつもこういうふうに見えていたのかもしれない。

 来る。

 でもまだ見えない。

 乗るべきだ。

 でも、乗った先で何を失うかはもっと見えない。

 そうした揺れを、この町の霧はよく象徴している気がした。


 昼過ぎ、篠原は駅前の小さな喫茶店に現れた。

 今日は布鞄ではなく、駅名の入った古い紙封筒を抱えている。

 それを机に置くと、いつもより少しだけ真面目な顔で言った。


「今回のものは」

「ええ」

「かなり面白いです」

「どういう意味で」

 湊が訊く。

「駅の仕事の記録のはずなのに、ほとんど一人の乗客の観察記録みたいになっている」

「そんなに」

「ええ。駅員というのは、やはりホームに立つ人間をよく見ていますから」


 封筒から出てきたのは、古びた駅日誌の写しだった。

 日付、天候、遅延の有無、貨物の扱い、特記事項。

 整然とした欄の中に、ある年の梅雨前後だけ、何度か奇妙な記述が混じっている。


 ――同一人物か。

 ――上り発車直前まで見送り線上に留まる。

 ――乗車せず。

 ――翌日も同様。

 ――白帽の少女と関係あるか不明。

 ――霧のため確認しづらし。


 湊の指が、その一文の上で止まった。

 白帽の少女。

 千紘。

 それを思わずにはいられない。

 しかも、霧のため確認しづらし。

 霧のホームに立ち尽くした誰かと、白い帽子の少女の影。

 第五作は、初手からこれまで以上に第一作の核心へ近い場所へ触れてしまっていた。


「これ」

 湊が低く言う。

「父でしょうか」

「断定はできません」

 篠原が答える。

「でも、年代は近い。場所も春口。白帽の少女という記述まである」

「……」

「少なくとも、千紘を見送ったか、見送りきれなかった側の誰かです」

「発車直前までホームに留まる」

 汐里が読み上げる。

「乗るつもりだったのか、見送るつもりだったのか」

「そこがまだ分かりません」

 篠原が言う。

「だからこそ、今回は駅なんです」


 霧のホーム。

 発車を見送る人。

 乗るか乗らないか決めきれない人。

 白帽の少女。

 春口の鉄道側に沈んでいた未完了は、思っていた以上に直接的なかたちで、すでにこちらへ浮かび上がり始めていた。


 湊は窓の外を見た。

 昼になっても霧はまだ完全には晴れていない。

 駅の赤い屋根がぼんやりと見え、その向こうでホームの白線だけが曖昧に光っている。

 第五作の始まりに、これ以上ふさわしい風景はないように思えた。

 見えているのに、確かめきれない。

 発車したのか、まだしていないのか分からない。

 春口のホームには、そういう時間が今も残っているのだろう。

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