第9話 スケッチブックの画家ルート
【テオside】
木剣を振るたびに、腕の奥がじんと痺れた。
「そこまで。四半刻、休め」
教官の声で、見習いたちが一斉に地面へ座り込んだ。テオは汗をぬぐい、誰にも見られないように訓練場の裏手へ回った。
厩舎と武具庫のあいだに、古い石のベンチがある。そこは日陰で、馬の匂いがして、誰も来ない。
テオは上着の内側から、薄い帳面を取り出した。
手のひらより少し大きいくらいの、革張りのスケッチブックだった。炭筆を指先でつまみ、さっきまで目の前にあったものを描いていく。木剣を構える同期の背中。汗で額に張りついた前髪。柵の上で首をかしげる雀。
描き終えると、紙の右下の隅に小さく日付を書き入れた。
5の月、14日。
どの絵にも、必ず書く。描いたのがいつだったか、あとで分かるように。
4年前、テオは一つの日付を失くした。
姉が屋敷からいなくなった日だ。その朝、テオは剣の稽古に出ていた。帰ってくると、姉の部屋はもう空だった。見送りもしなかった。誰も教えてくれなかった。春のどこかの一日だったことしか、テオは覚えていない。
それからだった。何かを描くたびに、隅に日付を書くようになったのは。
騎士を目指す男が、絵など描くものではない。テオは誰にも見せたことがなかった。父にも、兄にもだ。
「テオ! 戻れ、組手の相手が足りん」
遠くから同期の声がした。テオは慌てて立ち上がり、帳面をベンチに置いたまま駆け出した。
戻ってきたときには、四半刻がとうに過ぎていた。
◇
ベンチには、先客がいた。
淡い色のドレスの姉が、膝の上に何かを広げて座っていた。脇には日傘と、見覚えのある水筒が置いてある。今朝、テオが屋敷に忘れてきたものだった。侍女長に頼まれて、届けに来てくれたらしい。
テオの足が止まった。
姉の膝にあるのは、テオのスケッチブックだった。
「……姉様」
リーゼが顔を上げた。いつもの、ほとんど動かない表情だった。けれど、紙をめくる指先だけがひどく丁寧だった。
「ごめんなさい。落とし物かと思って、持ち主の名前を探していたの」
(うそ。1枚目で分かった。この線はテオの線だわ)
テオは息を止めた。
姉の唇は、ぴたりと閉じたままだった。それなのに、声は耳のすぐそばで聞こえる。帰ってきた日の夜から、もう何度も経験したことだ。それでも、まだ慣れない。
「……べつに、大したものじゃないから」
テオは手を伸ばしかけた。リーゼはその手をよけるでもなく、ただ紙を1枚めくった。
雀の絵だった。
(……原作で一枚だけ出てきた、テオの絵。あのときと同じ、首をかしげた雀)
テオは伸ばしかけた手を止めた。
原作。姉の声によく出てくる言葉だ。家族の誰も知らない本の名前らしい。その本に、自分の絵が載っているという。
(原作のテオは、誰にも絵を見せないの。一枚だけ出てきたあの絵も、隠していた帳面から見つかったって話で……画家ルートがあればよかったのに)
画家、という言葉が胸に刺さった。
テオは、その言葉を自分に使ったことがない。一度も、だ。
「とても上手ね。わたくし、絵のことはよく分からないけれど」
姉は、口ではそれだけ言った。
(分からないなんてうそ。この雀、羽の一本一本まで生きてる。線が迷ってない。14歳でこれって、ちゃんと習ったらどこまで行くの。……だめ、泣きそう)
テオは顔を背けた。
反応してはいけない。協定を言い出したのは、自分だった。姉が口にしていない言葉に、顔色を変えてはいけない。
分かっている。それなのに、耳のあたりが熱くなる。
「……誰にも、言わないで」
どうにか、それだけ言った。
「騎士の家の男が絵なんて、って言われる。父上にも、兄上にも」
「言わないわ」
リーゼは静かにうなずき、帳面を閉じてテオに差し出した。
(言わない言わない。言うわけない。むしろ額に入れて、廊下に飾りたいくらい)
テオは奥歯を噛んだ。笑いそうになったのか、泣きそうになったのか、自分でも分からなかった。
帳面を受け取る。手が少し震えた。
◇
テオは、姉の隣に腰を下ろした。
並んで座るのは、4年ぶりだった。姉の横顔を、こんなに近くで見るのも。
あの頃の姉は、もっと小さかった。いつも黙っていて、いつも一人でいて、それでもテオが転んだときだけは真っ先に駆けてきた。何も言わずに膝の土を払ってくれた、その手を覚えている。
そして、ある日いなくなった。
「姉様は、なんで急にいなくなったの」
言葉が、勝手に口からこぼれた。
言ってから、しまったと思った。訊いてはいけないことだった気がする。けれど、4年分の問いは一度出てしまうと、もう引っ込められなかった。
「僕、見送りもできなかった。朝、稽古から帰ったら部屋が空で。……誰も、何も教えてくれなかった」
リーゼは少し黙った。
風が吹いて、日傘の縁が揺れた。厩舎のほうで、馬が小さく鼻を鳴らす。
「お祖父様のお家の空気が、わたくしに合っていたの」
姉は、穏やかにそう言った。
「空気のきれいな田舎だったから。それだけのことよ」
きっと、何度も用意してきた答えなのだろう。すらすらと出てきた。
けれど同じ瞬間に、もう一つの声が重なった。
(厄介払いだと思ってた。でも本当は、お父様の優しさだったのよね)
テオは息をのんだ。
厄介払い。
姉は、そう思っていたのだ。捨てられたのだと。この家に要らない子だったから、遠くへやられたのだと。
10歳のテオは、違うことを考えていた。姉様は、この家が嫌で出ていったのだと。自分たちのことが、嫌いになったのだと。だから見送りもさせてくれなかったのだと。
違った。
姉は、出ていったのではなかった。嫌われたと思いながら、送り出されたのだ。
(お継母様とうまくいかなくて、お父様はわたしを守るために遠くへやった。……ちゃんと分かってる。分かってるから、もういいの)
もういい、と姉は言う。声には出さずに。
テオは膝の上の帳面を握りしめた。
姉様は、僕たちを嫌っていなかった。
4年間、胸の奥で固まっていた何かが、少しだけほどけていくのが分かった。そのかわりに、別の熱いものがこみ上げてくる。姉は一人で、厄介払いだと思いながら4年を過ごしたのだ。
「……そっか」
テオは、それしか言えなかった。
「空気が合ってたなら、よかった」
「ええ」
リーゼはうなずいた。口元は、やはり動かなかった。
◇
しばらく、二人とも黙っていた。
教官の笛が遠くで鳴っている。戻らなければ叱られる。それでも、テオは立ち上がらなかった。
帳面を開き、白い頁を出す。炭筆を握り直した。
「姉様」
「なあに」
「……毎週、描かせて」
リーゼが瞬きをした。
「わたくしを?」
「うん。毎週、一枚ずつ」
「笑わない顔を描いても、つまらないわよ」
姉は本気でそう思っているようだった。
(え、うそ。テオがわたしを描くの? いいの? わたし、画家テオの記念すべきモデル第1号? 原作にない展開すぎて頭が追いつかない)
テオは下を向いて、炭筆の先を紙に当てた。顔を上げたら、きっと笑ってしまう。
「つまらなくないよ」
それだけ言って、描き始めた。
姉の横顔。日傘の影。膝の上で重ねた手。閉じたままの唇。
線を引くたびに、姉がそこにいることを確かめている気がした。4年前、描いておけばよかったと何度も思った顔が、今は手の届くところにある。
(テオの手、迷いがない。……いいな。この子の絵、もっとたくさんの人に見てほしい)
描き終えるまで、姉はじっと動かずにいてくれた。
テオが帳面を向けると、リーゼは少し身をかがめてのぞき込んだ。
「……わたくし、こんな顔をしているのね」
(思ってたより、ずっとやわらかい顔。テオの目には、わたしがこう見えてるんだ)
姉の指先が、紙に触れる寸前で止まった。炭がこすれてしまうのを気にしたのだろう。
最後に、テオは紙の右下の隅に日付を書き入れた。
5の月、14日。
1枚目の、姉の肖像画だった。
日付を失くした弟が、日付を書き足していく回でした。 次回、いよいよデビューの支度と、髪の長いあの人の話が少し。
ブックマークや★で応援していただけると嬉しいです。




