第8話 お一人のときは、どうぞお気楽に
【リーゼside】
銀の盆の上に、手紙が山になっていた。
「本日の分でございます、リーゼ様」
執事代理の老僕が、申し訳なさそうに頭を下げる。リーゼは盆を見下ろして、そっとため息をついた。
封蝋の色はさまざまだった。伯爵家、子爵家、名前も聞いたことのない商会。開けてみなくても、中身の見当はつく。
――聖女様に、ぜひ一度お目にかかりたく。
ハインツが屋敷を去って、10日が経っていた。
執事が衛兵に引き渡されたこと自体は、ちょっとした醜聞で済むはずだった。ところが話は、妙な方向へねじれた。次女が書斎に入った翌日に、執事の悪事が明るみに出た。その前には、焼き菓子の店も工房の納期も言い当てていた。
気づけば、「アーレンスの次女は未来を視る聖女」ということになっていた。
(どうしてこうなったの。わたし、ちょっと先の予定を知ってただけなのに)
手紙だけならまだいい。困るのは、手紙の返事を待たずにやってくる人たちだった。
◇
その日の午後、応接間には3組目の客が座っていた。
恰幅のいい商家の奥方だった。息子が来月、王立学院の試験を受けるのだという。合格するかどうか、ひと目見て教えてほしい。
リーゼの両隣には、ヨハンナとテオが座っている。客の相手を一人でさせるわけにはいかないと、姉が言い出したのだ。テオは騎士見習いの稽古を抜けてきたらしく、袖口に土がついていた。
「聖女様。どうか、ひと言だけでも」
奥方は身を乗り出して、リーゼの手を取らんばかりだった。
リーゼは静かに首を振る。
「わたくしはただ、少し勘がいいだけですわ。聖女などと呼ばれるような者ではございません」
(ごめんなさい。原作を知ってるだけです、ほんとうにごめんなさい。学院の試験なんて、原作に一行も出てこないの)
ヨハンナが、すっと目を伏せた。テオも膝の上の自分の手を見ている。
二人とも、客の必死さに胸を痛めているのだろう。リーゼはそう思った。
「ご子息が毎晩遅くまで机に向かっていらっしゃるなら、それがいちばん確かな答えではございませんか」
奥方ははっとした顔をして、それからハンカチで目元を押さえた。
「そう……そうですわね。あの子、本当に頑張っているんです」
奥方は何度も頭を下げて帰っていった。扉が閉まると、ヨハンナが扇を開いて、ゆっくりと息を吐いた。
「リーゼ。今のは、とても良い答えだったわ」
「ありがとうございます、お姉様」
(言いながら冷や汗かいてた。聖女の演技、これで3回目よ。わたしに向いてない役だわ)
テオが、なぜか小さく咳き込んだ。
◇
その週から、アーレンス家には新しい決まりができた。
週に一度、家族そろって午後のお茶をする。言い出したのは父だった。理由は何も言わなかった。
(お父様、家の行事をきちんと整えたいのね。宰相らしい几帳面さ)
庭に面した広間の卓には、銀器がずらりと並んでいた。銀のポットに銀の砂糖壺、銀のカップに銀の匙。窓からの光を受けて、どれもまぶしいほど磨かれている。
貴族の家では昔から、食卓に銀を使う習わしがある。どこの家でもしていることだが、これだけ並ぶと壮観だった。
父が上座に座り、兄と姉とテオが続く。今日は継母とエマも席についていた。
「まあ、にぎやかでいいこと」
継母のベアトリスは、非の打ちどころのない笑顔で言った。エマは母の隣で、黙ってリーゼを見ている。
「聖女様ですって。お姉様」
エマが口を開いた。
「笑わない聖女なんて、聞いたことがないわ」
「エマ」
継母がやんわりとたしなめる。けれど、その目は少しも娘を叱っていなかった。
「わたくしもそう思いますわ。ですから、聖女ではないのでしょうね」
リーゼは静かに答えた。エマはつまらなそうに唇をとがらせ、焼き菓子に手を伸ばした。
(12歳でこの切れ味。社交界に出たら、きっと敵なしね)
兄が、カップを持つ手をいったん止めた。
ベアトリスがカップを置いたのは、お茶が2杯目に入ったころだった。
「そうそう、リーゼ。あなた、帰ってきてから決まった侍女がいないでしょう」
「はい。手の空いている方に、その都度お願いしております」
「それでは不便よ。聖女様がお困りでは、家の名にかかわりますもの」
継母はふわりと笑い、後ろに控えていた女を手で示した。
「わたくしの侍女のマルタを、あなた付きにしてあげるわ。嫁いでくるときに連れてきた者なの。気の利く子よ」
進み出たのは、30前後の女だった。地味な灰色のお仕着せに、きっちりとまとめた髪。穏やかな顔立ちで、目立つところが一つもない。
「マルタと申します。どうぞよろしくお願いいたします、リーゼ様」
父のカップが、受け皿の上で小さく鳴った。兄がわずかに眉を寄せる。姉はカップを持つ手を止め、テオは継母とマルタを交互に見た。
リーゼは、マルタの顔をじっと見つめた。
(マルタ……? ファンブックにも載ってない。原作に出てこないモブね)
知らない顔だった。
原作の登場人物なら、使用人の端役まで覚えている。ファンブックの人物一覧も、隅の小さな文字まで読んだ。けれどマルタという名前は、どこにもなかった。
(そりゃそうか。侯爵家の侍女一人一人まで、設定があるわけないものね。わたしだって一行だけだし。モブ同士、仲良くしましょ)
「ありがとうございます、お継母様。ご親切に」
リーゼは礼を言って、マルタに小さく会釈した。マルタも深々と頭を下げる。
継母は満足そうにうなずき、またカップを口に運んだ。
父が何か言いかけて、口を閉じた。その横で、兄も同じように口を閉じた。
(お父様もお兄様も、お継母様からの申し出だから気を遣ってるのね。この家の人間関係、ファンブックの相関図より複雑だもの)
リーゼは自分のカップに目を落とした。
銀のカップの中で、紅茶が揺れている。匙も銀、皿の縁にも銀の細工。手に持つとずしりと重い。
(家族のお茶だと銀器ずらりで緊張する……一人のときの、あの素朴なカップのほうが落ち着く)
部屋で一人でお茶をするときは、白い陶器のカップだった。受け皿に銀の匙が一本添えてあるだけの、飾り気のない器だ。祖父母の屋敷で使っていたものに少し似ていて、リーゼはあれが好きだった。
兄の手が止まった。
銀のカップを持ち上げかけたまま、兄はリーゼの手元を見ていた。ほんの一瞬のことだった。すぐに何事もなかったようにカップを口へ運ぶ。
(お兄様も、銀器の重さが気になるのかしら。完璧主義だから、並べ方にもこだわりがありそう)
リーゼは重いカップを両手で持ち、紅茶をひと口飲んだ。
家族のお茶は、嫌いではない。けれど週に一度で十分だと思う。毎日これでは、皆の時間をわずらわせてしまう。
◇
翌日の午後、リーゼは自分の部屋でお茶を待っていた。
家族のお茶の日ではないから、いつもどおり一人だ。窓辺の小さな卓に本を広げていると、扉が叩かれた。
「失礼いたします、リーゼ様。お茶をお持ちしました」
マルタだった。
盆の上には、白い陶器のポットとカップが載っていた。湯気の向こうで、マルタは穏やかに微笑んでいる。手際よくカップを置き、紅茶を注ぐ。焼き菓子の小皿が添えられた。
リーゼは受け皿に目をやった。
いつもなら、そこには細い銀の匙が一本添えてある。今日は、白い陶器の匙だった。ポットの蓋のつまみも陶器、砂糖の器も陶器。盆の上に、銀色のものは一つもない。
(あら、銀じゃない。……ま、わたしの扱いなんてこんなものよね。気楽でいいわ)
リーゼは瞬きを一つしただけだった。
侍女が変われば、支度の仕方も変わる。継母の侍女は、継母の流儀で茶器を選ぶのかもしれない。聖女だと騒がれていても、この家での次女の扱いなど、その程度のものだろう。
むしろ、陶器の匙のほうが手になじんだ。銀の匙はカップに当たると高い音がするが、これは柔らかい音しかしない。
リーゼは紅茶をひと口飲んだ。熱すぎず、ぬるすぎない。悪くない味だった。
「おいしいわ。ありがとう、マルタ」
「もったいないお言葉です」
マルタは盆を胸に抱え、一歩下がった。
窓から午後の光が差し込んで、白いカップの縁を照らしている。静かな部屋だった。誰の手もわずらわせず、誰の時間も奪わない。リーゼの好きな時間だった。
「マルタ。わたくしのことは、あまり気にかけなくていいのよ」
「まあ、リーゼ様」
マルタは顔を上げた。穏やかな、目立つところの一つもない顔が、やわらかくほころぶ。
「お一人のときは、どうぞお気楽に」
聖女の演技は向いていないリーゼと、新しい侍女の回でした。陶器の匙、きっと手になじむのでしょう。 「気になる」と思っていただけたら、ブックマークや★で応援してもらえると嬉しいです。




