第7話 宰相は娘の声で帳簿をめくる
【ゲオルクside】
娘の足音が遠ざかっても、ゲオルクはしばらく動けなかった。
机の陰で握っていた拳を、ゆっくり開く。手のひらに、爪の跡が赤く四つ並んでいた。
――後悔していらっしゃるから、わたしの小さな意見も聞いてくださるんだわ。
違う、と言いたかった。
罪滅ぼしで聞いたのではない。15になった娘が、自分から書斎の扉を叩いてくれた。それだけで、ペンを落としそうになるほど嬉しかった。あの子の言うことなら、どんな話でも聞く。後悔があるからではなく、あの子がリーゼだからだ。
けれど、口には出せない。
――知ったら、姉様はまた黙る。また消える。
あの夜、テオはそう言って唇を噛んでいた。14の息子が、10の頃の顔に戻っていた。だから4人で決めたのだ。聞こえても絶対に反応しない、と。
ゲオルクは書類の下から、革の帳面を引き出した。
妻の手記だった。この十数年、夜ごと開いている。誰にも話したことはない。アルベルトも、ヨハンナも知らないはずだ。
それを、あの子は知っていた。「ファンブック」という、聞いたこともない本に書いてあったらしい。
分からないことは、今はいい。
ゲオルクは手記を閉じ、引き出しの奥にしまった。
分からないことより、分かったことのほうが多かった。孤児院への寄付。ドレスの資金。受け取りの帳面と、家の帳簿を並べること。礼状が届いているかどうか。
娘は、調べ方まで教えていった。
ほどなく、扉が叩かれた。
「旦那様、本日の書類をお持ちしました」
ハインツが、いつもの澄ました顔で入ってきた。ゲオルクは書類の束を受け取り、目を通すふりをした。それから、何気なく言った。
「今月から、会計の書類はアルベルトを通せ。あれにも、そろそろ家の金の流れを覚えさせたい」
「かしこまりました。若様もお喜びになるでしょう」
ハインツは微笑んで下がった。扉が閉まるまで、その背中から目を離さなかった。
◇
その夜、ゲオルクは長男を書斎に呼んだ。
昼間のことを話すと、アルベルトは黙って聞き、最後に目頭を強く押さえた。
「……孤児院の件は、騎士団との共同の管轄です」
「知っている」
騎士団遺児院。任務で命を落とした騎士の子を預かる施設で、運営は騎士団、費用の一部をいくつかの家が寄付している。アーレンス家もその一つだった。
「向こうの受け取り帳を取り寄せます。私の名で頼めば、目立たないでしょう」
「頼む」
アルベルトはそこまで言って、少しためらった。
「父上。あの子は、ほかに何か」
ゲオルクは答えなかった。答えられなかった。
長男はそれで察したらしい。何も訊かずに一礼し、書斎を出ていった。
◇
3日後、ゲオルクは宰相府を早めに切り上げた。昼過ぎに屋敷へ戻ると、物置から一脚の椅子を運ばせた。
小ぶりの椅子だった。背もたれに蔓草の彫りがあり、座面には色の褪せた刺繍の布が張ってある。昔、この書斎の窓際に置かれていたものだ。
妻が、仕事をする夫のそばで本を読むときに座っていた。
妻が逝ってから、ゲオルクはこの椅子を見ていられなかった。それでも捨てることはできず、物置の奥にしまい込んでいた。
布を張り替えさせる時間はなかった。埃を払い、窓際の机の横に置く。午後の日が、ちょうど座面に落ちる場所だった。
それから、侍女にリーゼを呼ばせた。
娘は3日前と同じように、控えめに扉を叩いて入ってきた。窓際の椅子に目をとめ、足を止める。
「座りなさい」
「……わたくしが、ですか」
「お前の椅子だ。好きなときに来ていい」
リーゼはしばらく椅子を見つめていた。それから、おそるおそる腰を下ろす。
「まあ」
小さな声だった。表情は、ほとんど動かない。
(まあ……わざわざ、わたしのために? お父様、そこまでしなくていいのに。これも申し訳なさの表れね)
ゲオルクは手元の書類に目を落とした。1文字も頭に入ってこない。
申し訳なさでは、ない。
言えない言葉が、また一つ喉の奥に積もった。
「お前の言ったとおりにしている」
それだけ口にした。娘が口に出して話したことへの返事なら、協定には触れない。
「調べは進んでいる。近いうちに、はっきりする」
「さようでございますか。……お役に立てたのなら、何よりですわ」
(よかった。これで孤児院の子たちに、冬の薪が届くわね)
娘は膝の上で手を重ね、窓の外を見た。日の光が、その横顔を淡く照らしている。妻の座っていた場所に、妻によく似た顎の線がある。
ゲオルクは、もう一度書類に目を落とした。
そのとき、扉が叩かれた。
「旦那様。騎士団のヴァルデン公子がお見えです」
新しく書斎付きにした従僕の声だった。ゲオルクは短く「通せ」と答えた。
入ってきたのは、長身の青年だった。
騎士団の若き将、ユリウス・ヴァルデン。公爵家の嫡男で、まだ19だが、すでに一隊を預かっている。長い髪をうなじで一つに束ね、脇に分厚い帳面を抱えていた。
「アーレンス宰相閣下。遺児院の受け取り帳をお持ちしました。ご子息から、閣下に直接と」
よどみのない声だった。社交の場では「微笑みの貴公子」と呼ばれていると聞く。その評判どおり、口元にはやわらかな笑みが浮かんでいた。
その目が、窓際の椅子で一瞬止まった。
リーゼは椅子から立ち上がり、静かに礼をした。
(あ、ヴァルデン公子。本物だわ。……長髪。それさえなければ素敵なのに)
ゲオルクは、無表情のまま咳払いをした。
ユリウスがこちらを見る。宰相の咳払いを、何かの合図と受け取ったらしい。すぐに姿勢を正した。
「……失礼いたしました。ご令嬢がいらっしゃるとは」
「娘だ。気にするな」
「お仕事のお邪魔になりますので、わたくしはこれで」
リーゼはもう一度礼をして、扉へ向かった。ユリウスが道をあける。すれ違いざま、彼の目がもう一度だけ娘を追ったのを、ゲオルクは見ていた。
扉が閉まる直前だった。
(どうして、あの人だけ髪が長いのかしら。騎士なのに邪魔じゃない?)
廊下へ出る直前まで、娘の声は律儀に届いていた。
ゲオルクは、2度目の咳払いをこらえた。
◇
遺児院の受け取り帳は、残酷なほど分かりやすかった。
アーレンス家の帳簿には、毎月の寄付がきちんと記されている。3年分、一度も欠けていない。ところが遺児院の帳面には、同じ3年間、アーレンス家からの受け取りが一行もなかった。
「礼状も、この3年は出していないそうです。寄付が止まったのだと、院長は思っていたとか」
ユリウスが静かに言った。その声から、さっきまでの笑みが消えていた。
「冬の薪を減らした年もあったそうです。子どもたちは、毛布を分け合って寝ていたと」
ゲオルクは帳面を閉じた。
娘の声がよみがえる。あの子は3日前、ほとんど同じことを考えていた。
◇
ハインツを書斎に呼んだのは、その日の夕方だった。
2冊の帳面を並べて見せると、執事の顔から血の気が引いた。言い逃れは長く続かなかった。賭け事の借りがあった、自分一人でやったことだ、と繰り返した。
ゲオルクはその日のうちに、ハインツを解雇した。身柄は衛兵に引き渡し、横領の件として正式に訴え出た。
金の行き先は、アルベルトがすでに洗っていた。
「王都の仕立て屋が3軒。支払いの名義は、どれも義母上です」
夜の書斎で、長男は低い声で言った。
「ハインツは義母上の名を出していません。義母上も、執事がどこから金を工面していたかは知らなかったと言うでしょう」
「言うだろうな」
「どうなさいますか」
ゲオルクはしばらく黙っていた。窓の外は暗く、庭の向こうの東棟に灯りがともっている。ベアトリスと、エマの部屋だった。
「今は泳がせる」
アルベルトが目を上げた。
「証が足りない。それに、一人で動ける女ではない。糸の先を見たい」
「……エマのことも、ですか」
ゲオルクは答えなかった。長男も、それ以上は訊かなかった。
◇
噂は、ゲオルクが思っていたよりずっと速く広がった。
リーゼ様が旦那様の書斎に入った翌日から、執事の書類が止まった。東通りの焼き菓子の店も、マダム・ローザの納期も、リーゼ様は前から知っていた。使用人たちの口から出た話は、厨房から市場へ、市場から社交界へと流れていった。
1週間もしないうちに、宰相府の廊下でまでささやかれるようになった。
――アーレンスの次女は、聖女らしい。
ゲオルクは、その噂を黙って聞き流した。
否定すれば、あの子が何を知っていたのかと問われる。肯定すれば、あの子はまた人目にさらされる。黙っているしかなかった。
口を閉ざすことばかり、うまくなっていく。
その夜、ゲオルクは久しぶりに妻の手記を開かなかった。代わりに、窓際の椅子の座面を、手のひらでそっと撫でた。
【ベアトリスside】
東棟の居間で、ベアトリスは扇をゆっくりと開いた。
執事が一人いなくなった。それだけのことだ。代わりはいくらでもいる。
けれど、あの娘は書斎に入った翌日に、執事の書類を止めさせた。
扇の陰で、ベアトリスは唇だけで笑った。
「あの子、何を知っているのかしら」
お父様、椅子を用意するのに3日かかりました。インクの染みと、どちらが先に消えるでしょう。
そして長髪の公子、ちらりと登場です。ブックマークや★で応援していただけると、執筆の励みになります。




