第6話 お父様、あの執事には
【リーゼside】
翌朝、リーゼは寝台の上で膝を抱えていた。
窓の外はよく晴れている。けれど目に浮かぶのは、昨日の午後に同じ窓から見た光景だった。
薔薇の垣根の陰で、執事のハインツが継母に何か耳打ちしていた。継母は扇を広げたまま、小さくうなずいていた。
(あの人、横領してるのよね)
ファンブックのハインツは、名前だけの人物だった。けれど、手がかりはもう一つある。限定版についてきた、おまけの小冊子だ。
そこに、ヒロインが孤児院を訪ねる短い話があった。子どもたちの服はつぎはぎだらけで、冬の薪も足りない。院長が調べてみると、ある侯爵家からの寄付が何年も届いていなかった。
着服していたのは、その家の執事だった。
小冊子に書かれていたのは、それだけだ。家の名前も、最後にたった一行出てくるだけだった。
――アーレンス侯爵家の執事が、寄付金をすべて懐に入れていた。
(あの話が出るのは、本編が始まってしばらくしてから。わたしはもう、いない頃ね)
17歳で病没するモブには、関係のない話だ。そう思おうとした。
けれど挿絵の子どもたちの顔が、どうしても頭から離れない。薄い毛布を分け合って、火の消えた暖炉の前で丸くなっていた。
それに、話が表に出れば困るのは父だ。宰相の家の執事が、孤児の薪代を盗んでいた。世間はきっと、主人の目は節穴かと笑うだろう。
(お兄様の出世にも響くかもしれないし)
リーゼは寝台から降りた。
どうせ残りは2年だ。少しくらい妙なことを言っても、困る未来はない。それなら、言えるうちに言っておくほうがいい。
◇
朝食のあと、リーゼは父の書斎へ向かった。
父が宰相府へ出仕するのは、朝食から半刻ほどあとだ。それまでの短い時間、父は書斎で家の書類に目を通す。4年前から変わらない習いだった。
廊下の角で、ちょうどハインツとすれ違った。書類の束を胸に抱えている。背筋の伸びた、手入れの行き届いた執事だった。
「おはようございます、リーゼ様」
「おはよう、ハインツ」
ハインツは丁寧に腰を折り、足音も立てずに去っていく。抱えた束のいちばん上に、見覚えのある紋が押してあった。家の会計の帳簿だ。
(ああいう人ほど、仕事ができるのよね。だから誰も疑わない)
リーゼは書斎の扉の前で、小さく息を整えた。
4年前まで、この扉は叩いてはいけないものだった。父は忙しく、書斎はいつも静かで、子どもが入る場所ではなかった。帰ってきてからも、一度も訪ねたことがない。
控えめに扉を叩く。
「……入れ」
低い声が返ってきた。
書斎は記憶のとおり、紙とインクの匂いがした。壁一面の書棚に、分厚い本がぎっしり並んでいる。窓際の大きな机に、父が座っていた。
客用の椅子は、壁際に一脚あるだけだった。その座面も、書類の山に占領されている。リーゼは机の前に立ったまま、スカートをつまんで礼をした。
「お忙しいところ、申し訳ございません。少しだけ、よろしいでしょうか」
父のペンが止まった。
「……ああ」
顔を上げた父と、目が合う。帰ってきた日の食卓でも思ったが、やはり少し痩せた。目の下にうっすらと影がある。
(お父様、眉間のしわ……ファンブックの立ち絵より一本多い)
父の指が、眉間に伸びかけて止まった。
リーゼは机の端に目をやった。書類の山の横に、革の表紙の古い帳面が一冊置かれている。角がすり切れて、何度も開かれたのが分かる。
(あれ、お母様の手記ね)
知っていた。ファンブックの父の項目に、そう書いてあった。宰相ゲオルクは、亡き妻の手記を今も夜ごと読み返している、と。
父の手が、そっと帳面を書類の下に滑り込ませた。
リーゼは気づかないふりをした。人には、触れられたくないものがある。
「それで、話とは」
「はい。……差し出がましいことを申し上げますけれど」
リーゼは両手を体の前で重ねた。
「お父様、あの執事には書類を回さないほうが……。一度きちんとお調べになったほうが、いいと思います」
(孤児院への寄付を横領してるのよね。お継母様に取り入るために、ドレスの資金に回して……。孤児院の受け取りの帳面と、うちの帳簿を並べれば一目で分かるはず)
父は動かなかった。
ペンを持った手が宙で止まり、ペン先から黒いしずくが一滴落ちた。書きかけの書類に、小さな染みが広がっていく。
長い沈黙だった。
リーゼは少し不安になった。やはり、いきなりすぎただろうか。帰ってきたばかりの娘が、長年仕えた執事を疑えと言う。普通なら叱られても仕方がない。
「……理由を、聞いてもいいか」
「勘、のようなものですわ。はっきりしたことは申し上げられません」
(ごめんなさい、お父様。まさか、おまけの小冊子で読みましたとは言えないもの。とくにお金の出入りのところを見てほしいんだけど……あ、寄付の礼状が最近届いているかどうかも、確かめるといいかも)
父の目が、ゆっくりと閉じられた。
1度、2度。深く息をする音がする。それから父は目を開け、染みの広がった書類を脇へどけた。
「分かった。調べよう」
短い答えだった。
けれど父は、リーゼの話を笑わなかった。理由を問い詰めもしなかった。ただ真っすぐに娘を見て、うなずいた。
リーゼは瞬きをした。
(……聞いてくださるのね。こんな、根拠もない話を)
胸の奥で、何かがすとんと腑に落ちた。
(そうよね。お父様は今もお母様の手記を読んでいるんだもの。優しさからわたしを預けたこと、わたしは知ってる。後悔していらっしゃるから、わたしの小さな意見も聞いてくださるんだわ)
父の肩が、ほんのわずかに揺れた。
(罪滅ぼし、みたいなものかしら。そんなに気にしなくていいのに)
父の手が、机の上の文鎮をつかんだ。何かを押さえつけるように、指先が白くなっている。
リーゼは首をかしげた。
(お父様、また疲れた顔。宰相のお仕事って、ファンブックで読んだよりずっと大変なのね)
「……ほかに、何かあるか」
父の声は、さっきより少しかすれていた。
「いいえ。それだけですわ」
「そうか」
父はそこで言葉を切り、机の上の書類に目を落とした。それから、ぎこちなく顔を上げる。
「……ドレスは、決まったのか」
「はい。仕立て屋に、いちばん手頃な布でお願いいたしました」
(灰色の木綿で十分。それより、お姉様の緑のドレスのほうがずっと大事。マダム・ローザの工房なら、きっと最高の一着になるわ)
父の口の端が、ほんのわずかに引きつった。何かをこらえたようにも見えたが、きっと気のせいだろう。
「ヨハンナに任せておけばいい。……費用のことは、気にするな」
「ありがとうございます」
「お仕事の邪魔をいたしました。失礼いたします」
もう一度礼をして、リーゼは扉のほうへ向き直った。背中に、父の視線を感じる。何か言いたげな気配だけが、しばらく部屋に漂っていた。
扉に手をかけたところで、父が言った。
「リーゼ」
振り返る。父は机の上で両手を組み、娘を見ていた。
「……よく、言ってくれた」
それだけだった。
リーゼは少し驚いて、それから小さく頭を下げた。口元は、やはり動かなかった。
(お父様、無口キャラなのに気を遣ってくださって。優しい人なのよね、昔から)
扉を閉める直前、父がまた眉間を押さえるのが見えた。
◇
廊下に出ると、窓から朝の光が差し込んでいた。
リーゼは歩きながら、胸に手を当てる。言いたいことは言えた。あとは父がうまくやってくれるだろう。宰相の調べなら、きっと抜かりはない。
(これで、あの子たちの冬の薪も少しは増えるといいな)
自分にできるのは、このくらいだ。ほんの少し、先の景色を知っているだけの娘だから。
角を曲がると、また書類を抱えたハインツが向こうから歩いてきた。書斎へ向かうのだろう。
「リーゼ様、旦那様のお部屋にいらしたのですか」
「ええ。デビューのことで、少し」
嘘は、令嬢のたしなみの一つだ。ハインツは愛想よく微笑んで、また丁寧に腰を折った。
リーゼはその横を通り過ぎた。背後で、書斎の扉を叩く音がする。
一拍おいて、父の低い声が聞こえた。
「……入れ」
いつもと同じ声だった。リーゼは振り返らずに、図書室へ向かった。
お父様、言いたいことが山ほどあるのに言えない回でした。インクの染みは、たぶん当分とれません。
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この作品は土日投稿ですが、明日は祝日ですので投稿いたします。
明日9時もよろしくお願いします。




