第5話 空気みたいなほうがいいのよ
【リーゼside】
継母が屋敷に戻ったのは、リーゼの帰還から5日目の昼だった。
その日、屋敷には家族が誰もいなかった。父と兄は朝から宰相府へ。姉はマダム・ローザの工房へ注文書を届けに出かけ、テオは騎士団の訓練場だった。
図書室で本を読んでいると、ハインツが呼びに来た。
「奥様がお戻りです。リーゼ様に、ご挨拶をなさりたいと」
(……来た)
リーゼは本を閉じた。指先が少し冷たかった。
◇
南向きのサロンは、4年前と模様が変わっていた。
壁紙は淡い金色に張り替えられ、窓辺には新しい長椅子が置かれている。卓の上の花瓶には、季節外れの白薔薇がこぼれるほど活けてあった。
その長椅子に、継母のベアトリスが座っていた。
「まあ、リーゼさん」
継母は立ち上がり、両手を広げた。
「ご挨拶が遅れてごめんなさいね。お茶会のお誘いが重なってしまって、どうしても抜けられなかったの」
完璧な笑顔だった。口角の上がり方も、目の細め方も、首の傾け方も。社交界の奥方たちが手本にするという笑顔だ。
リーゼはスカートをつまみ、深く礼をした。
「ただいま戻りました、お継母様。お変わりなく、何よりですわ」
「ええ、ありがとう。あなたも」
継母はリーゼの顔をじっと見た。頭の先から、靴の先まで。
「すっかり大きくなって。お祖母様のところは、よほど空気が合っていたのね。4年も帰ってこないなんて」
帰ってこなかったのではない。15になるまでは戻らない約束だったのだ。
リーゼは黙ってうなずいた。
「こちらは窮屈でしょう。田舎とは違って、決まりごとが多いから」
「精いっぱい、努めますわ」
「そう。偉いわね」
継母は扇を開き、口元を隠して笑った。
「相変わらず、お静かなのね」
4年前にも、同じ扇の陰から、同じ声で言われた。
――笑わない子ね。どうしてこう、可愛げがないのかしら。
リーゼの口元は、今日も動かなかった。
(ええ、静かですとも。あなたの前で話したいことなんて、ひとつもないもの)
(それにしても、本物は挿絵より綺麗ね。ファンブックでは社交欄に一枚だけで、「外面がいい」の一言で片づけられてたけど。……外面だけは、本当に完璧)
綺麗で、よく笑って、リーゼのことが好きではない人。それが継母だった。
(ドレスも新しい。袖のレース、たぶん今年の春の最新作ね。宰相家の奥方の予算で、毎季これが買えるものなのかしら)
「デビューのドレスは、もう決めたの?」
「はい。仕立て屋に、手頃な布でお願いいたしました」
継母の扇が、ぴたりと止まった。それから、さっきより少しだけ柔らかく笑った。
「……そう。身の丈をわきまえているのは、いいことね」
(ええ、わきまえておりますとも)
そのとき、サロンの戸口で小さな足音がした。
振り向くと、少女が一人立っていた。継母によく似た蜂蜜色の髪を、高い位置で二つに結んでいる。
妹のエマだった。
4年前は8歳だった。リーゼの後ろをついて歩いたことが、1度か2度はあったと思う。今は12歳。背が伸びて、顔立ちがくっきりとしていた。
「エマ。お姉様にご挨拶なさい」
エマは戸口から動かなかった。リーゼの顔を、珍しいものでも見るようにじっと見つめる。
「……お姉様って、本当に笑わないのね」
それだけ言うと、くるりと背を向けて行ってしまった。
継母が扇の陰でため息をつく。
「ごめんなさいね。あの子、正直だから」
「いいえ」
リーゼは首を振った。
「本当のことですもの」
(エマ、大きくなった。お継母様にそっくり。……わたしのこと、いろいろ聞かされて育ったのよね)
胸の奥が、小さくきしんだ。痛いというほどではない。4年前から、ずっとそこにある音だった。
◇
継母のサロンを辞して廊下に出ると、侍女が一人待っていた。
「リーゼ様。お茶の支度は、いかがいたしましょう。夕方には皆様がお戻りになりますので、サロンでご一緒に……」
リーゼは少し考えた。
夕方に戻る家族は、きっと疲れている。父も兄も、宰相府で一日中働いてくるのだ。姉は工房から、テオは訓練場から。そこへ4年ぶりの妹が座っていたら、また気をつかわせてしまう。
この5日間、家族はずっと気をつかってくれていた。焼き菓子も、仕立て屋も。みんな優しい。優しすぎて、ときどき咳き込んだり、むせたりしている。
「わたくしは、お部屋でいただきます」
侍女が瞬きをした。
「お一人で、ですか」
「ええ。皆様のお手をわずらわせたくありませんの」
◇
部屋に運ばれてきたお茶は、温かかった。
ポットと、カップがひとつ。小皿に焼き菓子が二つ。2日前の朝に食べた、東通りの貝の形の焼き菓子だった。兄の「もらい物」の残りを、料理長が取っておいてくれたらしい。
侍女が下がると、部屋は静かになった。
リーゼは窓辺の椅子に座り、カップを両手で包んだ。
祖母の家でも、よくこうしていた。一人でお茶を飲むのは、嫌いではない。誰にも気をつかわなくていい。誰にも気をつかわせなくていい。
祖父母の家の午後は、いつも静かだった。祖父は書斎で古い地図を眺め、祖母は居間で繕いものをしていた。リーゼは自分の部屋で本を読みながら、ポットの紅茶をゆっくり空けた。ときどき祖母が顔をのぞかせて、焼き菓子を一枚だけ置いていった。何も訊かずに、何も言わずに。
あの静けさが、リーゼには居心地がよかった。自分が誰の邪魔にもなっていないと、安心できたから。
さっきのエマの顔を思い出す。珍しいものを見る目だった。
継母の扇を思い出す。4年前と同じ角度だった。
それから、4年前の朝を思い出した。
玄関で父が膝をつき、約束をくれた。けれど父はすぐに屋敷の奥へ戻っていき、リーゼは一人で庭を歩いて馬車に乗った。兄も姉も、テオの姿もなかった。最後まで見送ったのは継母だけだった。これでやっと、気味の悪い子の顔を見なくて済むわ、と。
厄介払いされたのだと、ずっと思っていた。
今なら少しだけ分かる。父は娘を守るために手放した。ファンブックはそう教えてくれた。あの朝、父がすぐに背を向けたのも、もしかしたら。
けれど、分かることと、平気になることは別だった。
11歳の自分が、胸のどこかでまだうずくまっている。厄介払いされた子、と膝を抱えている。15歳の自分がいくら頭で説明しても、その子はなかなか顔を上げてくれない。
リーゼは紅茶をひと口飲んだ。少し渋かった。
(いいのよ、それで)
誰もいない部屋で、リーゼは思った。
(どうせ17歳で死ぬし)
窓の外では、庭師が薔薇の枝を切っていた。ぱちん、ぱちんと乾いた音が届く。
(あと2年。わたしがいてもいなくても、この家の物語はちゃんと続く。お兄様は宰相府で出世して、お姉様は隣国へ嫁いで、テオは騎士になる。エマだって、きっといつか笑える)
家系図の一行が、目の奥に浮かんだ。立ち絵も台詞もない、背景の一行。
(だったら、空気みたいなほうがいいのよ)
焼き菓子をひとつ、口に入れた。甘かった。兄が幸せそうに食べていた顔を思い出すと、胸の奥のきしみが少しだけ静かになった。
(それでも、見届けたいものはいっぱいある。お兄様の蜂蜜タルト。お姉様の緑のドレス。テオの……)
テオのことを考えかけて、リーゼは窓の外に目をやった。
庭の奥、薔薇の垣根の陰に、人影が二つあった。
一人は継母だった。淡い金色のドレスが、陽の光を弾いている。
もう一人は、ハインツだった。
執事は継母のすぐそばに立ち、身をかがめて何か耳打ちしていた。継母が扇で口元を隠し、小さくうなずく。周りに使用人の姿はない。庭師も、いつの間にかいなくなっていた。
リーゼはカップを置いた。
記憶の底で、何かが引っかかった。前世で読んだ、ごく短い話。アーレンス家の古い執事のことが、そこに書かれていた気がする。
垣根の陰で、ハインツが顔を上げた。一瞬、こちらの窓を見た気がした。
リーゼは静かにカーテンを引いた。
(そういえば、あの人。横領してるのよね)
第5話までお付き合いくださり、ありがとうございます。
次回、その「そういえば」が、思わぬところへ届きます。
リーゼの一人のお茶に「ちょっと待って」と言いたくなった方は、ブックマークや★で見守ってもらえるとうれしいです。




