第4話 姉の恋は、扉の外
【ヨハンナside】
協定を結んで3日目。ヨハンナは、自分の顔の筋肉がこれほど言うことを聞かないものだと初めて知った。
妹の声は、ところかまわず聞こえてくる。廊下ですれ違えば(お姉様、今日の髪型も優勝)。図書室で本を渡せば(指まで綺麗。手の模型を作って飾りたい)。そのたびにヨハンナは扇を開き、窓の外を見て、天気の話をした。
おかげでこの3日、窓の外ばかり見ている。父には「晴れが好きになったのか」と真顔で訊かれた。
けれど、嫌ではなかった。
4年前の妹は、ほとんど口をきかなかった。姉のことをどう思っているのか、ヨハンナには分からなかった。継母の言葉を浴びながら、黙って下を向く小さな背中。庇ってやれなかった自分を、嫌われても仕方ないと思っていた。
それが、手の模型だ。
「お嬢様、仕立て屋が参りました」
侍女の声に、ヨハンナは扇を閉じた。
◇
仕立て屋は、南の小間物通りに店を構える老舗だった。父が呼んだのは、娘のデビューのためだ。
小さな客間の卓に、布の見本が広げられていた。絹に繻子、薄い紗。仕立て屋がリーゼの前に一枚ずつ並べていく。
「お嬢様のお好みは、いかがでしょう」
「いちばんお手頃なものを、お願いいたしますわ」
リーゼは迷わず答えた。
仕立て屋が困った顔をする。ヨハンナは唇を引き結んだ。初日の夜にも聞いた言葉だ。「どうせ一度着るだけだもの」と、妹は思っていた。
どうして一度だけなのか。デビューの舞踏会で着るドレスは、そのあとの夜会でも着るものだ。ヨハンナは妹の横顔を見た。妹の口元は、今日も少しも動かない。
「リーゼ。お父様は、遠慮しなくていいとおっしゃったわ」
「はい。ですから、これで十分なのです」
妹は淡い灰色の木綿を指さした。舞踏会どころか、侍女の外出着に使う布だった。
仕立て屋の手が止まる。ヨハンナは扇の陰で、そっと息を吐いた。
ここで言い争えば、妹は黙ってしまう。テオの言葉を思い出す。知ったら、姉様はまた黙る。
「……それなら、わたくしのドレスの相談に乗ってくれる?」
ヨハンナは話を変えた。
「夏の舞踏会に着るものを、まだ決めていないの。あなたの目で選んでほしいわ」
妹が顔を上げた。
「わたくしで、よろしいのですか」
「あなたがいいの」
(お姉様のドレスを選べる……! 公式の衣装担当になった気分)
ヨハンナは窓の外を見た。今日もよく晴れていた。
◇
妹は驚くほど熱心だった。
布の見本を一枚ずつ光にかざし、ヨハンナの頬の横に当てて、色の映り方を確かめる。口数は少ない。けれど頭の中は、ずっと賑やかだった。
(この青は顔色が沈む。こっちの薄紅は……あ、だめ、可愛すぎて会場の視線が全部持っていかれる。それはそれで見たいけど)
仕立て屋がうなずきながら帳面に書きつけていく。聞こえているのは、ヨハンナだけだ。
客間の扉は、半分開いていた。
廊下に、護衛騎士が一人立っている。ヨハンナ付きの騎士、ラルフだった。灰色の短い髪。広い背中。剣の柄に手を置いて、廊下の先を見張っている。
幼いころから、ずっとそこにいる背中だった。
ヨハンナは布の見本に目を戻した。それから、ほんの少しだけ扉のほうを見た。すぐにまた見本に戻る。
妹が、深い緑の繻子を手に取った。
「お姉様には、この色がお似合いだと思いますの」
「ようございますね」
仕立て屋がうなずいた。
「夏の舞踏会のお品でしたら、縫製は懇意にしているマダム・ローザの工房にお願いするのがよろしいかと。あちらは毎年、夏に新作の発表会を開いておりまして」
「では、ご注文はお早めになさって」
妹は仕立て屋に向き直った。
「今年の発表のあとは、注文が殺到いたしますわ。納期が3か月は遅れますの。今のうちに」
仕立て屋が目を丸くした。
「殺到、でございますか。毎年にぎわいはいたしますが、そこまでは……」
「今年は、特別になりますの」
(今年の新作、王妃様のお気に入りになるのよね。ファンブックの年表に載ってた)
妹は淡々と言った。そして、その裏で。
(扉の外のラルフ卿……)
ヨハンナの背筋が凍った。
(お姉様の視線、3秒に1回。気づいてるの、この家でわたしだけよね。尊い)
扇が、手から滑り落ちた。
床で乾いた音がする。仕立て屋が拾おうとかがみ、ヨハンナは「いいのよ」と言いかけて、声が裏返った。
頬が熱い。耳も熱い。首まで熱い。
3秒に1回。
そんなに見ていただろうか。見ていたかもしれない。見ていた。
ヨハンナは反射的に扉を見た。ラルフは同じ姿勢で廊下を見張っている。こちらを振り返りもしない。
扉の外だ。部屋の中ではない。
――同じ部屋にいるときだけ、聞こえる。
初日の夜、書斎で確かめたことだった。ヨハンナは膝の上で、そっと手を握りしめた。
聞こえていない。ラルフには、聞こえていない。
安堵で力が抜けそうになる。けれど、すぐに別の汗が背中を伝った。
もしこれが食堂だったら。父と兄とテオが、今の声を聞いていたら。
(あ、また見た。わかる、わかるわ。あの背中は見ちゃう)
見ていない。いや、見た。今のは確認のためだ。
「お、お姉様?」
妹が不思議そうにこちらを見ていた。
「お顔が赤いですわ。お熱でも」
「……いいえ。少し、日差しが」
「日差しが」
妹は窓を見た。カーテンは閉まっていた。
(お姉様、照れてる? でも何に? ……まさか、わたしの視線に気づかれた? いえ、ないわね。わたし、背景だもの)
ヨハンナは深く息を吸った。協定だ。反応してはいけない。
窓の外を見ようとして、カーテンが閉まっていることを思い出す。仕方なく、天井を見た。
妹の声は、そのあいだも続いていた。
(隣国との婚約。お姉様は家のために、ずっと黙って引き受けてきたのよね。誰にも言えないまま、3秒に1回だけ見てる)
ヨハンナは天井から目を離せなくなった。
婚約は、14のときに決まった。父が悩み抜いて受けた縁談だった。ヨハンナは笑ってうなずいた。長女とはそういうものだと思っていた。
ラルフへの気持ちは、誰にも言わなかった。言えば、誰かを困らせる。父も、ラルフ本人も。
(わたしは味方よ。口には出さないけど。……せめて、あの背中から一番よく見えるドレスにしなくちゃ)
ヨハンナは唇を噛んだ。
誰にも言っていない恋だった。家族にも、侍女にも、日記にさえ書かなかった。
それを、4年ぶりに帰ってきた妹が知っていた。知っていて、黙って味方をすると決めていた。
嫌われていると思っていた妹が。
「……リーゼ」
「はい、お姉様」
「その緑にするわ。マダム・ローザの工房で」
声は震えなかった。自分でも驚くほど、平静だった。
妹がこくりとうなずく。
「それがよろしいですわ。お姉様の目の色が、いちばん映えます」
(よし。夏の舞踏会、最前列で見届けよう)
ヨハンナは扇を拾い、ゆっくりと開いた。扇の陰で、少しだけ泣きそうになった。
◇
仕立て屋が帰り、妹が図書室へ去ったあと。ヨハンナは客間に一人で残って、便箋を広げた。
マダム・ローザの工房への注文書だった。
1枚目には、自分の緑のドレス。2枚目には、妹の寸法を書き写した。仕立て屋が帳面に控えていたものを、こっそり写させてもらったのだ。
布の欄には、灰色の木綿とは書かなかった。
淡い藤色の絹。裾には細かな刺繍。デビューの夜に、妹がいちばん綺麗に見える色を選んだ。
注文主の欄に、ヨハンナは自分の名前を書いた。
――招いてはいない。ここは、お前の家だ。
初日の食堂で、兄が硬い声で言った言葉だ。ヨハンナも同じことを言いたかった。けれど、妹が心の中で思ったことに、口で答えるわけにはいかない。協定がある。だから、布で言うことにした。
封をして顔を上げると、開いた扉の向こうに、ラルフの背中があった。
ヨハンナは一度だけ、その背中を見た。
……これからは、せめて5秒に1回にしよう。
◇
それから、ひと月あまりのちのこと。
マダム・ローザの夏の発表会は、今年は例年にない騒ぎになった。新作のひとつを王妃が気に入り、夜会で身につけたのだ。工房には注文が殺到し、納期は秋の終わりまで延びた。
その翌週、仮縫いに訪れたヨハンナを、マダム本人が出迎えた。
「アーレンス様。ひとつだけ、伺ってもよろしいかしら」
マダムは緑の繻子を手にしたまま、首をかしげた。
「どうして今年に限ってこうなると、発表の前にご存じでしたの?」
ヨハンナは答えなかった。ただ微笑んだ。
その微笑みを、マダムは翌日のお茶会で、面白おかしく話して聞かせることになる。
ヨハンナの藤色の注文書、いつか妹の手に届く日まで見守っていただけたら。
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