第3話 反応してはいけない朝食
【リーゼside】
本家で迎える最初の朝は、よく晴れていた。
リーゼは鏡の前で髪を整えた。祖母の家の侍女は連れてこなかった。代わりに、侍女長がつけてくれた若い侍女が手伝いに来てくれた。手つきは丁寧で、鏡越しに目が合うと、はにかむように頭を下げる。
(侍女長の人選ね。……笑わないお嬢様の担当なんて、貧乏くじを引かせてごめんなさい)
リボンを結び終えると、侍女は「よくお似合いです」と言って下がっていった。
リーゼは鏡の中の自分を見た。薄い色の髪に、薄い色の目。表情のない顔。祖母は「お母様に似てきたわね」と言ってくれたけれど、リーゼには母の記憶がほとんどない。
(似てるのは顔と、熱を出しやすいところ。……体の弱さまで似なくてよかったのに)
口角を上げてみる。
少しも上がらなかった。
(ま、いいか。モブに笑顔の差分はいらないもの)
◇
食堂には、もう家族がそろっていた。
継母とエマの席は、今朝も空いている。ハインツによれば、お茶会の先方の別邸にしばらく泊まるのだという。
「おはようございます、お父様。お兄様とお姉様も。テオも」
「ああ。おはよう」
父が新聞から顔を上げた。兄が短くうなずき、姉が「よく眠れた?」と微笑む。テオは口の中で何か言って、パンをちぎった。
昨夜より、ずっと普通だった。
(よかった。みんな、昨日は疲れてただけなのね)
リーゼは席に着いた。温かいパンと卵、薄く切ったハム、果物の皿が並んでいる。兄の前の皿を、それとなく確かめた。エビはない。朝だから当たり前だった。
(料理長には、いつ言いに行こう。お兄様に恥をかかせないように、こっそり)
兄のナイフが、ほんの一瞬止まった。すぐにまた動きだす。
リーゼは父を見た。新聞を読む父の眉間には、深い皺が刻まれている。
(朝から宰相府の記事かしら。お父様、新聞を畳む角度まで几帳面。前にもこうやって……)
4年前の朝を思い出しかけて、やめた。代わりに姉を見る。
(お姉様は朝もきらきらしてる。寝起きの概念がない)
ヨハンナが紅茶をひと口飲み、静かにカップを置いた。完璧な所作だった。ただ、ソーサーに当たったカップが、かちゃかちゃと小刻みに鳴っていた。
(……手首、痛めてるのかしら)
テオはさっきから、同じパンに3度もジャムを塗っている。
(テオ、甘いの好きなのね。わたしも好き。4年ぶりの共通点、発見)
テオがジャムの瓶を倒しかけた。隣のアルベルトが無言で受け止め、元の位置に戻す。
朝の食卓は、不思議な緊張に満ちていた。みんな普通に話している。普通に食べている。なのに、なぜか全員の背筋が伸びていた。
(本家の朝って、こんなに厳かだったかしら。お祖父様のお家は、もっとのんびりしてたけど)
父が新聞を畳んだ。
「リーゼ。今日の予定は」
「仕立て屋が来るまで、特にございません」
「そうか。……街を見たければ、馬車を出させる。ヨハンナと行くといい」
姉がぱっと顔を上げた。
「そうね。欲しいものがあったら、何でも言って」
「ありがとうございます、お姉様」
欲しいものは特にない。けれど街と聞いて、リーゼはひとつ思い出した。
原作の、ある場面だった。宰相府で遅くまで働く兄が、帰り道に東通りの長い行列を見る。蜂蜜の匂いが通りまで流れてくる。兄は並びたそうに行列を見て、結局そのまま通り過ぎるのだ。完璧な次期当主が、甘いもののために行列に並ぶわけにはいかない。
ファンブックの小さなコラムで、それを知ったとき。前世の自分は、ずいぶん笑って、少しだけ切なくなった。
リーゼは姉のほうを向いた。
「そういえば、お姉様。来月、東通りに焼き菓子の店が開くそうですの。すぐ行列になりますから、お早めに」
(お兄様、隠れ甘党なのよね。蜂蜜タルトが推し。あの店のは絶品なのに、お兄様は一度も食べられないのよね)
「げほっ」
兄が咳き込んだ。
口元をナプキンで押さえ、横を向いて肩を震わせる。父がゆっくりと新聞を開き直した。姉はうつむいて、膝の上のナプキンを握りしめている。テオは天井の模様を熱心に数えはじめた。
「お兄様?」
「……何でもない。紅茶が、気管に」
(公式設定の胃弱ね。宰相府の激務のせい。朝から紅茶で咳き込むなんて、よっぽど疲れてるんだわ)
兄の咳が、さらに深くなった。
「アルベルト」父が新聞の向こうから言った。「医師を呼ぶか」
「……不要です」
兄は深く息を吸い、ナプキンを置いた。顔が赤い。けれど表情はいつもの硬さに戻っていた。
「東通りの店だったな」
「はい。お姉様が、甘いものをお好きかと思いまして」
「……そうか」
兄はそれきり黙って、卵を切った。
姉が紅茶のカップ越しに、ちらりと兄を見た。父は新聞をめくった。テオは天井を数え終えたらしく、今度は窓枠を数えていた。
(みんな朝は無口なのね。本家の家風かしら)
リーゼは果物をひとつ取った。甘い梨だった。
◇
その日は、何事もなく過ぎた。
仕立て屋との約束は翌日に延び、リーゼは一日中屋敷の中を歩いた。4年ぶりの廊下は記憶より短く、図書室は記憶より広かった。窓辺で本を開くと、午後の日差しが膝の上に落ちてきた。
夕食の席では、兄がいなかった。宰相府で遅くなるのだという。
(お兄様、お忙しいのね。胃弱なのに)
父のスプーンが、かちりと鳴った。
◇
翌朝、食堂の扉を開けたリーゼは足を止めた。
卓の真ん中に、焼き菓子が並んでいた。
貝の形の小さな焼き菓子。木の実を練り込んだ固い焼き菓子。薄く焼いた蜂蜜の菓子。その中央に、つやつやと光る丸いタルトがひとつ。蜂蜜の甘い匂いが、食堂中に満ちていた。
添えられた包み紙には、金の文字で「東通り」と刷ってあった。
(……え?)
「おはよう、リーゼ」
兄が言った。いつもどおりの硬い声だった。
「お兄様、これは」
「もらい物だ」
兄は短く答え、紅茶に口をつけた。
「開店前に、試しに焼いたものを配っているらしい。宰相府の者が持ってきた」
(開店前なのに、もう手に入れてる……!)
リーゼは卓の菓子を見つめた。昨日の朝、話したばかりだった。店の名前も言っていない。「東通り」と「焼き菓子」だけで、一日のうちに探し当てたのだ。
(さすがお兄様。完璧主義だから、情報収集も完璧なのね)
兄が紅茶のカップを、少しだけ強く置いた。
父がタルトを切り分けはじめた。宰相が自らナイフを持つのは珍しい。最初の一切れは兄の皿に。2切れ目は、なぜかリーゼの皿にのせられた。
「わたくしは、あとで結構ですわ」
「食べなさい」
父はそれだけ言って、3切れ目を姉の皿にのせた。
リーゼはフォークを取った。蜂蜜の層がとろりと崩れる。ひと口食べると、焦がした砂糖の香りが鼻に抜けた。
(……おいしい。前世で何度も絵を眺めたタルト。本当にこんな味だったんだ)
口元は動かなかった。いつものように。
向かいで、兄がタルトを口に運んだ。ゆっくりと噛む。硬かった眉が、ほんのわずかにほどけた。
(お兄様が、蜂蜜タルト食べてる)
リーゼは瞬きも惜しんで兄を見た。
(しかも、ちょっと幸せそう。……この顔を見られただけで、本家に戻ってきた甲斐があったわ)
兄の手が、フォークごと止まった。噛んでいたはずの口も動かない。耳だけが、みるみる赤くなっていく。
姉がナプキンに顔を埋めてむせた。テオはタルトを皿ごと持ち上げ、顔を隠している。父だけが無表情で、自分の皿のタルトを小さく切っていた。
(お兄様は固まるし、お姉様はむせるし。今朝もみんな、なんだか忙しい)
リーゼは首をかしげて、2口目を食べた。
◇
朝食のあと、リーゼは図書室へ向かった。
厨房の前の廊下を通りかかったとき、中から話し声が聞こえてきた。昨日の朝、食堂で給仕をしていた若い侍従の声だった。
「だから、リーゼ様がおっしゃったんだって。来月、東通りに焼き菓子の店ができるって」
「まだ看板も出てないのに?」
「そうだよ。俺、昨日の昼に東通りを通ったけど、ただの空き家だった。それが今朝、若様が本当にその店の菓子を持って帰ってきたんだ」
リーゼは足を止めずに通り過ぎた。
噂話には慣れている。4年前は、金色のリボンの侍女たちに散々言われた。それに比べれば、「笑わないお嬢様」が「変わったお嬢様」になるくらい、どうということはなかった。
背中のほうで、侍女の弾んだ声がした。
「……リーゼ様って、よく当たるらしいわよ」
お兄様、2度むせました。協定、2日目にしてなかなかの試練です。
東通りの蜂蜜タルト、わたしもひと切れ食べたいです。 「家族、がんばれ」と思っていただけたら、ブックマークや★をぽちっとお願いします。
本日はこれで投稿終了です。
次回は日曜日の9時に投稿します。




