第2話 全員、聞いたな
【アルベルトside】
フォークが床で跳ねる音を、アルベルトは遠くに聞いた。
目の前の皿には、香草で焼いたエビが5尾並んでいる。料理長の自信作らしく、焼き色まで美しかった。
アルベルトはこの7年、エビを口にしていない。食べれば首筋に赤い斑が出る。軽いものだ。知っているのは医師と父だけだった。宴席では皿の端に寄せ、話に夢中なふりをして下げさせてきた。次期当主が食べ物ひとつに負けるなど、誰にも知られたくなかった。
それを今、妹が言った。
いや。言っていない。
アルベルトは妹の口元を見ていた。スープを飲み終えてから、リーゼの唇は一度も開いていない。それなのに声は聞こえた。すぐ隣で話しかけられたように、はっきりと。
「……どうかなさいまして?」
今度は口が動いた。4年ぶりに帰った妹が、小首をかしげてこちらを見ている。
(わたし、ナプキンの折り方でも間違えたかしら)
口は閉じたままだった。
ヨハンナのグラスが震えている。アルベルトは卓の下で、ヨハンナの靴先を軽く蹴った。グラスが止まる。
「……手が滑った」
父が言った。宰相府で大臣たちを黙らせるときの声だった。父は給仕が差し出した新しいフォークを受け取り、何事もなかったようにエビを切りはじめる。
アルベルトも倣ってナイフを持った。エビには触れず、付け合わせの芋を切る。
頭は冷えていた。数字の合わない帳簿を前にしたときと同じだ。驚くのはあとでいい。まず、何が起きているのかを確かめる。
1つ目。聞こえているのは誰か。
父の顔は石のようだった。だがフォークを落とした。ヨハンナとテオの様子は言うまでもない。家族は4人とも聞いている。
では、ほかの者は。
アルベルトは視線だけを動かした。リーゼの斜め後ろに若い給仕が控えている。水差しを抱えたまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。あの位置なら、声はアルベルトよりずっと近いはずだ。
戸口には執事のハインツがいる。こちらも澄ました顔のままだった。
思い返せば、兆しはもっと前からあった。リーゼが食堂に入ってきたとき、耳元で声がしたのだ。
――お父様……ファンブックの立ち絵より、少し痩せてる。
父はハインツを見た。アルベルトも見た。後ろに控えた執事が、無礼な耳打ちをしたのだと思った。ヨハンナは戸口を見ていたし、テオは部屋中を見回していた。誰もが声の主を探していたのだ。
(お兄様、エビをよけてる。……よかった。ご自分で分かってるのね)
アルベルトの手の中で、ナイフがわずかに滑った。
給仕が水を注ぎに来た。リーゼのグラスを満たし、次にアルベルトのグラスを満たす。その手は少しも揺れなかった。
使用人には、聞こえていない。
アルベルトは父を見た。父も同じ給仕を見ていた。目が合う。父はごく小さくうなずいた。
2つ目。どこまで届くのか。
「テオ」
弟の肩がびくりと跳ねた。
「厨房に行って、デザートを少し急がせてくれ。父上はこのあと書斎でお仕事がある」
テオは瞬きをした。それから兄の目を見て、何かを察したように立ち上がった。
「……うん。行ってくる」
「扉は閉めていけ。廊下の風が入る」
テオが出ていき、扉が閉まった。
食堂が静かになった。リーゼはエビを小さく切り、丁寧に口へ運んでいる。4年前と同じ、音を立てない食べ方だった。
(ここの料理長、腕がいい。お祖母様のお家の料理も好きだけど、ソースの深みが全然違う)
妹の視線が、ふとヨハンナに流れた。
(……お姉様、エビを食べる所作まで綺麗。顔面国宝ってこういう人のことね)
ヨハンナが盛大にむせた。
ナプキンで口元を覆い、身をよじって咳き込む。給仕が慌てて水を差し出した。リーゼが心配そうに腰を浮かせる。
「お姉様、大丈夫ですか」
「……ええ。ええ、平気よ。ちょっと香草が」
(むせかたまで優雅。わたしがやったら、ただの事故なのに)
ヨハンナは水を一気に飲み干した。耳まで赤い。アルベルトは唇の内側を噛んで、真顔を保った。
まもなく扉が開き、テオが戻ってきた。ほっとしたような、困ったような顔で席に着く。そしてアルベルトにだけ分かるように、小さく首を振った。
何も聞こえなかった、という意味だ。
(テオ、戻ってきた。……やっぱり落ち着かなそう。4年も離れてたら、知らない人みたいよね)
テオの眉がぴくりと動いた。
同じ部屋にいるときだけ、聞こえる。
デザートの木苺のタルトが運ばれてきた。父は一口だけ食べて席を立った。
「長旅で疲れただろう。今夜は早く休みなさい」
「はい、お父様。おやすみなさいませ」
(お父様、デザートは一口だけ。……甘いものがお好きじゃないのかしら。それとも、わたしがいて気まずいのかな)
父の背中が、戸口でほんの一瞬止まった。
◇
書斎に4人がそろったのは、夜の鐘が鳴ってからだった。
ハインツが「奥様とエマお嬢様は、今夜から数日、先方の別邸にお泊まりになるそうです」と告げて下がっていく。扉が閉まり、足音が遠ざかるのを待って、父が口を開いた。
「全員、聞いたな」
誰も否定しなかった。
「給仕には聞こえていませんでした」アルベルトが言った。「ハインツにも。テオが廊下にいるあいだは、テオにも」
「扉一枚で、何も」テオがうなずく。「戻った瞬間に、また聞こえた」
ヨハンナが長椅子に沈み込んだ。
「……顔面、国宝」
「ヨハンナ」
「だって、あの子の口から出たのよ。いえ、口からは出ていないけれど」
ヨハンナは扇で顔を覆った。扇の上から、赤い耳がのぞいている。
「あの子、あんなことを考えていたの? ずっと?」
アルベルトも同じことを思っていた。
記憶の中のリーゼは、いつも黙っていた。継母に何を言われても、じっと下を向いていた。何を考えているのか分からない子だった。分からないまま、守りきれずに手放した。
その妹の頭の中が、あんなに騒がしかったとは。
「予言ではないな」
父が机の上で指を組んだ。
「エビの件は、すでにある事実だ。あの子は先を言い当てたのではない。頭の中で思ったことが、そのまま我々に聞こえている」
「『ファンブック』とか『原作』とかは?」とヨハンナが言った。「『公式』というのもあったわ」
「分からん」
父の答えは短かった。
「祖父母の家で、何か本を読んだのかもしれん。我々の知らない本だ。今は分からないものとして置いておく」
アルベルトはうなずいた。分からないことを、無理に決めつけない。父らしい判断だった。
それに、本の出どころよりも気になることがあった。
「あの子は、我々に聞こえていると気づいていません」
「ええ」ヨハンナが扇を下ろした。「気づいていたら、顔面国宝なんて思えないもの」
「……気味の悪い子」
テオが低い声で言った。食堂で聞いた、妹の声の中の一言だった。
「あの人、姉様が出ていくとき、そんなこと言ってたの」
父の組んだ指に、力がこもった。
4年前のあの朝、父は玄関で娘に約束をして、そのまま書斎へ戻った。宰相府からの急ぎの使いが待っていたからだ。馬車に乗るまで見送ったのは、継母だけだった。
「会いたくもない、と」ヨハンナが小さく繰り返した。「……当然よ」
アルベルトは父の横顔を見た。石のような顔の下で、何かが静かに燃えていた。
「ベアトリスには、何も悟らせるな」
父はそれだけ言った。
「どうして、こんなことが起きているんだろう」
テオのつぶやきに、答えられる者はいなかった。
ランプの芯が小さく鳴る。父は長いあいだ黙っていた。やがて、重い声で言った。
「……本人に、話すべきか」
最初に首を振ったのはテオだった。
「だめだ」
14歳の弟は、膝の上で拳を握っていた。
「知ったら、姉様はまた黙る」
声が震えていた。
「頭の中まで黙らせて、また何も言わなくなる。それで……また、消える」
誰も口を挟めなかった。
4年前、テオは10歳だった。朝の稽古から戻ったら姉がいなかった。泣いて父に詰め寄り、誰からも答えをもらえなかった。アルベルトはあの朝のテオの顔を覚えている。
――招いてはいない。ここは、お前の家だ。
アルベルトは食堂での自分の声を思い出した。
おかえり、と言いたかった。それだけのことが、あんなに硬い声になった。妹はそれを「お兄様は言葉が硬いのよね」と受け取っていた。そして「身内には甘い」とも。
口では言えなかったことを、妹は勝手に分かっていた。
「反応しない」
アルベルトは言った。
「何が聞こえても、顔に出さない。口にも出さない。あの子が気づかないように」
「……むせるのは?」とヨハンナ。
「努力してください」
「努力でどうにかなるものかしら」
「なる」父が言った。「するのだ」
父は3人の顔を順に見た。
「聞こえたことには答えない。だが、聞こえたことを無駄にもしない。それでいいな」
「はい」
「ええ」
「うん」
こうしてアーレンス家に、ひとつの協定ができた。
◇
翌朝、アルベルトは誰よりも早く起きた。
身支度を整え、朝食の前に厨房へ降りる。料理長が驚いて手を拭いた。若様が夜明けに厨房へ来るなど、初めてのことだった。
「昨夜のお料理に、何か」
アルベルトは一度だけ息を吸った。7年間、誰にも言わなかったことだ。
「私の皿に、エビは出さないでくれ」
料理長がきょとんとする。
「体に合わないんだ。……今まで言わなくて、すまなかった」
妹は「あとで料理長に言っておこうかな」と思っていた。帰ってきたその日に、兄の弱みを代わりに告げに来るつもりだったのだ。誰にも気づかれないように、一人で。
それだけは、させたくなかった。
厨房を出ると、窓の外が白みはじめていた。アルベルトは階段の上を見上げた。妹の部屋はまだ静かだ。
何が聞こえても、顔に出さない。
それがどれほど難しいか、アルベルトはこの朝、まだ知らなかった。
聞こえてしまった家族の「反応しない」生活が、ここから始まります。
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本日はこの後もう1本投稿します。




