第10話 聖女さまのデビュー準備と、髪の長い公子
【リーゼside】
朝食の卓に、手紙は一通もなかった。
(あら?)
先週まで、毎朝銀の盆に山と積まれていたのに。宛名はどれも同じだった。
――アーレンス家の聖女さまへ。
孤児院の件から半月あまり。噂は街を一巡りして、今では屋敷の門の前にまで届いている。朝には花束が置かれ、昼には「一目だけでも」と馬車が停まる。手紙だけが減るはずはなかった。
リーゼが首をかしげていると、父が新聞から目を上げずに言った。
「デビュー前の娘に直接手紙を寄こす家は、礼儀を知らん。すべて私のほうで預かっている。お前は支度に専念しなさい」
「はい、お父様。お手数をおかけしますわ」
(お父様、宰相のお仕事だけでもお忙しいのに。わたしの手紙まで背負わせてしまった)
新聞がかさりと鳴った。父は黙って頁をめくる。めくったばかりの頁を、もう一度めくり直した。
兄は無言でパンをちぎり、姉は紅茶に角砂糖を三つ落とした。いつもは一つなのに。テオはスープの匙をくわえたまま、天井の染みを数えている。
(みんな、今朝はぼんやりしてる。デビューの前って、家族まで落ち着かないものなのね)
リーゼは首をかしげて、自分の皿に目を戻した。
◇
仕立て上がったドレスが届いたのは、その日の午後だった。
マダム・ローザの工房から来たお針子が、箱の蓋をうやうやしく開ける。薄紙の下から淡い藤色が現れた。
光を受けて、布が花びらのように揺れる。襟元には小粒の真珠が縫いとめられていた。袖の透かし編みは、指でなぞるのがためらわれるほど細かい。
リーゼは言葉をなくした。
(……一番安い布でって、頼んだはずなのに)
最初の採寸の日に、たしかにそう伝えた。けれど箱の中にあるのは、どう見ても工房で一番いい絹だった。
「ヨハンナお嬢様のご注文でございます」
お針子が誇らしげに言う。
「お色も、ヨハンナお嬢様が選ばれました。お代は旦那様から、布はすべていちばん上等なものをと。金額のことは一言もおっしゃいませんでした」
戸口に父が立っていた。いつからいたのか分からない。いつもの無表情で、ドレスをじっと見ている。
「こんなに立派なものを……ありがとうございます、お父様」
(そうよね。宰相家の娘がみすぼらしい格好をしていたら、お父様が笑われるもの。体面って大事)
父の眉間に、深い皺が一本刻まれた。
何か言いかけるように唇がわずかに開く。けれど父は、そのまま口を閉じた。小さくうなずいて、戸口から姿を消す。
(お気に召したみたい。よかった)
リーゼはドレスの裾をそっと持ち上げた。重さのない雲を抱えているようだった。
翌朝、鏡台の上に小さな箱が置かれていた。
蓋を開けると、真珠の髪飾りが入っていた。粒は古く、少しだけ黄みがかっている。台座の裏に細い字で名が彫られていた。
母の名前だった。
箱の下には、父の字で短い書きつけが挟まっていた。
――デビューの日に。
リーゼは長いあいだ、それを見つめていた。記憶の中の母は、顔さえおぼろげだ。1歳と少しで別れた人の形見が、今は自分の手の中にある。
(……お母様の、髪飾り)
胸の奥で何かがきゅっと縮んだ。その感覚に名前をつける前に、リーゼは箱の蓋を閉じた。
(きっと、アーレンス家のしきたりね。娘のデビューには母親の品を持たせるっていう)
そういうことにしておけば、心は波立たずにすむ。リーゼは書きつけを丁寧に畳んで、引き出しの奥にしまった。
◇
「1……2……3。1……2……3」
兄の数える声が、小広間に響いた。
デビューまで、あと3日。最初の一曲は兄と踊ることになっている。ダンスの教師を呼ぼうとした父を、兄は「私が教えます」の一言で止めたらしい。
姉のヨハンナがピアノを弾き、テオは部屋の隅でスケッチブックを広げている。騎士団の訓練が早く終わった日は、たいていこうしてリーゼを描いていた。
少し前まで、テオは絵を誰にも見せなかった。父にも、兄にもだ。それが今では、家族の前で堂々と炭筆を走らせている。父の書斎には、いつの間にか上等な画用紙の束が届いていた。
(テオ、お父様たちに打ち明けたのね。騎士の家で絵を描きたいなんて、勇気がいったでしょうに)
先週の家族のお茶のとき、リーゼはテオの雀の絵を思い出して、一人でじんとしていた。もちろん口には出していない。約束どおり、誰にも言っていないのだ。
(えらいわ、テオ。自分の口で言えたのね)
ピアノの音が、一瞬だけ乱れた。部屋の隅で、テオの耳が赤くなった。
兄の手が、リーゼの背にそっと添えられる。
「顔を上げろ。足元を見るな」
「はい、お兄様」
言われたとおりに顔を上げると、兄の顎の線が目の前にあった。リードは驚くほど正確だった。どこへ足を出せばいいのか、背中の手が先に教えてくれる。
(お兄様のリード、完璧……。社交界で一番踊りたい相手って言われてるの、本当なのね。わたしの足がもつれても、なかったことにしてくれる)
兄の耳が、じわりと赤くなった。
次の瞬間、兄の靴がリーゼのつま先を踏んだ。
「っ、すまない」
「いいえ。わたくしが遅れましたの」
(お兄様が踏むなんて珍しい。完璧主義だから、今ごろ頭の中で反省会をしてるわね)
兄は無言で姿勢を直した。耳の赤みは首筋のほうまで降りてきている。ピアノの旋律が、半拍だけ揺れた。
「もう一度、頭から」
兄の声は、いつもより少しだけ低かった。
3度目の通しで、ようやく足が音楽に追いついた。くるりと回るたびに、練習着の裾がふわりと広がる。窓から差す光が床の上を流れていく。
曲が終わり、兄が手を離した。
「悪くない。当日もこの調子でいい」
「ありがとうございます」
兄は上着の襟を直しながら、何気ない調子で続けた。
「それと、当日はヴァルデン公爵家の公子も来る」
「ヴァルデン様……ですか」
「騎士団の若い指揮官だ。孤児院の件で宰相府とやりとりがある。書斎で一度会っただろう。最初の曲のあとで、挨拶に来るはずだ」
リーゼは記憶をたどった。
父の書斎。書類の束を抱えた背の高い青年。こちらを一瞬だけ見た、落ち着いた目。
そして、うなじで一つに束ねた長い髪。
「まあ。光栄ですわ」
(ユリウス……! あの人のルートは1回さらっとやっただけなのよね。スチルの記憶、ほぼ髪。髪しか覚えてない)
ピアノが、ぽーんと間の抜けた音を立てた。
(お父様もお兄様もテオも、みんな短髪で爽やかなのに。なんであの人だけ、あんなに長いの。顔立ちは整ってたのに、もったいない)
ヨハンナの指が鍵盤の上で止まっていた。背中が小刻みに震えている。
部屋の隅では、テオの炭筆がぴたりと止まった。テオはリーゼの顔と兄の頭を見比べて、スケッチブックの頁を1枚めくる。
兄だけが動かなかった。
正確には、動けなかったのかもしれない。兄の顔は石のように固まっていた。口の端だけが、ほんのわずかに引きつっている。
「……公子は、優秀な男だ」
長い沈黙のあとで、兄はそれだけ言った。
「宰相府の者も、みな一目置いている。先見の公子と呼ばれているくらいだ」
「存じておりますわ。お噂は、かねがね」
(お兄様、ご友人を悪く思われたくないのね。大丈夫、髪以外は素敵だと思ってるから)
兄が小さく咳払いをした。一度では足りなかったらしく、2度、3度と続く。
「……少し、喉が」
「お水をお持ちしましょうか」
「いい。自分で行く」
兄は足早に部屋を出ていった。扉が閉まった瞬間、ピアノのほうからこらえきれない息の音がした。
振り向くと、ヨハンナは扇で顔を半分隠していた。
「お姉様?」
「な、なんでもないの。少し、指がつって」
(お姉様まで。今日はみんな調子が悪いのね)
リーゼは首をかしげた。
ふと、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
ユリウス・ヴァルデン。名前も肩書きも知っている。先見の公子と呼ばれていることも知っている。けれど、それ以上のことがほとんど思い出せなかった。好物も癖も、誰にも言えない秘密も。
この屋敷の家族のことなら、頁の隅まで覚えているのに。
(まあ、いいわ。挨拶して、髪を見て、それで終わりだもの)
「姉様」
いつの間にか、テオがそばに来ていた。スケッチブックを胸に抱えている。
「今日の、描けた。2枚目」
差し出された頁には、練習着のリーゼがいた。兄の肩に手を置き、少しだけ顎を上げた横顔だった。頬の線がやわらかい。右下の隅には、小さく日付が入っている。
(テオの絵、やっぱり上手……。誰にも見せないはずだった絵を、わたしが2枚ももらえるなんて)
「ありがとう、テオ。とても素敵」
口元は、やはり動かなかった。それでもテオは満足そうに鼻の下をこすった。
閉じたスケッチブックを、テオはなぜか大事そうに抱え直した。
◇
デビューの朝は、よく晴れていた。
マルタが髪を結い上げ、母の真珠を差し込む。鏡の中で、藤色のドレスが朝の光を拾っていた。
「よくお似合いでございます、リーゼ様」
マルタが穏やかに微笑む。リーゼ付きになってまだ日は浅いが、手際はいい。一人のお茶も、呼べばすぐに運んでくる。
(マルタ、器用ね。名前も知らなかった人なのに、すっかり頼りにしちゃってる)
リーゼは鏡に顔を近づけた。
目の下に、うっすらと影がある。頬の色も、昨日より少し薄い気がした。
(緊張で眠れなかったせいね。3日も続けて、夢に大広間の階段が出てくるんだもの)
「白粉を、もう少しのせましょうか」
マルタが刷毛を手に取った。
「デビューの日ですもの。いちばんお綺麗なお顔で参りませんと」
「……ええ。お願い」
柔らかな刷毛が頬をなでる。影が薄れ、色が均される。鏡の中の顔が、少しずつ「令嬢」の顔になっていく。
笑わない口元だけは、白粉では変わらなかった。
(まあいいわ。どうせ一度きりの舞台だもの。背景は背景らしく、きちんと整えて出ればいい)
扉の向こうで、テオが「姉様、馬車が来た」と呼んだ。
リーゼは立ち上がる前に、鏡の中の自分へ、もうひと刷毛だけ白粉をのせた。
お読みいただき、ありがとうございます。 お兄様の耳が赤くなるたびに、書いている側も一緒に咳払いしていました。 いよいよデビュー当日です。
ブックマークや★で、リーゼの晴れ舞台を見送ってもらえたらうれしいです。
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読んでくださる皆様ありがとうございます。
土日のみの更新でしたが、今後は火木曜日も更新していきますので、お時間あればお付き合いください。




