第17話 一人のお茶は、もうしない
【リーゼside】
翌朝の食堂には、家族が全員そろっていた。
父も兄も、姉もテオも。空いているのは継母とエマの席だけだった。継母は昨夜から気分がすぐれず伏せっている、と給仕が告げた。
リーゼが席に着くと、兄が顔を上げた。目の下に、うっすらと影がある。
「リーゼ」
「はい、お兄様」
「これから、お茶は必ず家族と摂れ」
いつもの硬い声だった。前置きも理由もなかった。
「一人で済ませるな。誰も手が空いていない日は、私の執務室に来い。宰相府にいるなら、宰相府でいい」
「宰相府で、お茶を……?」
「父上の許可は取ってある」
父が黙ってうなずいた。姉とテオも、そろってこちらを見ている。
断る言葉なら、いくつでも思いついた。お忙しいお兄様のお邪魔になります。わたくしは部屋で十分ですわ。いつもならそのどれかを、迷わず口にしていたはずだった。
リーゼは膝の上で手を重ねた。
「……はい、お兄様」
(手をわずらわせたくないのに。……でも、原作にマルタも、あの公子の顔も、なかった)
言ってしまってから、リーゼは自分の考えに少し驚いた。
マルタは、どこにもいなかった。ファンブックの使用人の一覧にも、屋敷の見取り図の注釈にも。ユリウスのことも、覚えているのは長い髪ばかりだ。昨日、東屋で「なぜ」と言ったあの顔を、リーゼは知らなかった。
全部知っているはずだった。この家の人たちの好物も癖も、誰にも言えない秘密も。
けれど知らないことが、いつの間にか紛れこんでいる。
(……変なの)
ヨハンナが、そっとパンの籠をリーゼのほうへ寄せた。
リーゼはパンをちぎった。いつもより、少しだけ味がした。
◇
食堂を出た廊下で、エマに行き会った。
12歳の妹は、柱の陰に立っていた。リーゼに気づくと、びくりと肩を揺らす。逃げようとして、足を止めた。
「……毒って、本当?」
小さな声だった。
「マルタは、お母様がずっと連れていた侍女なのよ。わたしが小さいころから、髪を結ってくれて」
エマの指が、二つに結った髪の先をぎゅっと握っていた。
リーゼは妹の前で膝を折り、目の高さを合わせた。
「エマ。あなたのせいではないわ」
エマは唇を噛んだ。何か言いたそうに口を開き、けれど結局、何も言わずに廊下の奥へ走っていった。
リーゼはその背中を見送った。エマのこともマルタのことも、自分はほとんど知らない。髪を結ってもらっていたことさえ、今初めて知った。
◇
その日の午後、東屋には椅子が五つ並んだ。
父は宰相府から早く戻ってきた。姉は刺繍の道具を、テオはスケッチブックを抱えてきた。兄はまた、焼き菓子の箱を提げていた。
(お兄様、3日連続……? 並びすぎでは? お店の人に顔を覚えられてるわよ、きっと)
兄は聞こえなかったような顔で、箱を卓の真ん中に置いた。耳の先だけが赤かった。
卓の上には、銀のポットと銀のカップが並んだ。新しくリーゼ付きになった年配の侍女が、一つずつ丁寧に置いていく。姉が自分で選んだ侍女だった。
リーゼの前に置かれたカップだけ、形が違った。
銀だった。けれど、ほかのカップのような彫り模様がない。取っ手は細く、飾りといえば縁に小さな花が一つ刻まれているだけだった。
「……お父様、これは」
「今朝、宰相府の近くの銀細工屋に頼んだ」
父は紅茶を見つめたまま言った。
「急がせたので、細工が間に合わなかった」
(今朝? 半日で作らせたの? ……宰相の急ぎの注文なら、職人さんも断れないわよね。飾りを省いたのは、お父様らしい倹約かしら)
父の眉間に、深いしわが寄った。ヨハンナがナプキンで口元を覆い、テオがスケッチブックに顔を埋める。
リーゼはカップを両手で包んだ。銀なのに、不思議と冷たくなかった。一人のときの陶器と、ちょうど同じくらいの重さだった。
紅茶を一口飲む。蜂蜜は入っていなかった。
(少し苦い。でも、こっちのほうがいい)
ヨハンナがカップの陰で、ひとつ瞬きをした。
兄は無言で箱を開け、いちばん大きなタルトをリーゼの皿にのせた。2つ目をのせかけて、少し迷ってから自分の皿に移す。
(お兄様、今の迷い方……2つ目はやっぱり自分で食べたいのね。分かるわ。推しの欲望には素直でいてほしい)
兄の手が止まった。父がカップを置き、窓の外へ目をそらした。
垣根の外では、護衛のラルフが背を向けて立っていた。ヨハンナが刺繍の針を動かしながら、ときどきそちらへ目をやる。
(垣根の外にラルフ卿。お姉様の視線、やっぱり3秒に1回。刺繍の目、さっきから同じところを3回くぐってるわよ)
ヨハンナの針が、布の端を思いきり突いた。姉は何事もなかったように糸を引き、ほどき、また最初から刺しはじめた。耳の先だけが赤かった。
テオが炭筆を走らせる音がした。
「姉様、ちょっとこっち向いて」
「また描くの?」
「日付、入れたいから」
テオは手早く線を重ね、最後にパステルを一本取った。淡い桃色だった。紙の上の頬に、そっと色をのせていく。
「……今日は、決まった」
小さな声だった。テオはそれきり黙って、紙の隅に今日の日付を書いた。いつもより少し丁寧な字だった。
差し出された素描を、リーゼは覗きこんだ。銀のカップを両手で持つ、自分の横顔。頬がほんのり色づいている。
(頬、ちょっと赤すぎない? テオ、わたしを実物より元気に描きすぎよ)
テオは何も言わなかった。ただ、スケッチブックを胸に抱えて、しばらく顔を上げなかった。
◇
夕方近く、ユリウスが訪ねてきた。
マルタの取り調べの報告だった。父と兄が書斎で話を聞き、リーゼは応接間で待った。伝えられたのは「騎士団で引き続き預かる」という短い言葉だけだった。
帰り際、ユリウスは応接間に顔を出した。
「お加減はいかがですか、アーレンス嬢」
「おかげさまで。昨日は、本当にありがとうございました」
リーゼは立ち上がって礼をした。隣には兄が立っている。
ユリウスは何か言いかけて、またやめた。昨日から、この人はずっとそうだった。社交界では「微笑みの貴公子」と呼ばれ、誰よりも言葉の巧みな人のはずなのに。
「……また伺います。今度は、予告してから」
「ええ。お待ちしておりますわ」
ユリウスが一礼した。結んだ長い髪が肩から滑り落ち、夕陽に透けた。
(……髪さえなければ)
兄が咳払いをした。
一度ではなかった。2度、3度と続き、最後にはむせたように口元を押さえた。
「アルベルト殿?」
「……失礼。喉に、何か」
ユリウスは不思議そうに首をかしげ、それから玄関へ向かった。
(お兄様、また胃が弱ってるのかしら。昨日から無理をしすぎなのよ)
兄の咳払いが、もう一度だけ響いた。
【アルベルトside】
昨夜、アルベルトは扉を開けられなかった。
取っ手に手をかけたまま、長いあいだ立っていた。中から、父が紙をめくる音が聞こえた。母の手記だろう、と思った。その音を聞いているうちに、手が動かなくなった。
結局、朝になってから、お茶のことだけを父に頼んだ。父は理由を聞かなかった。聞かずに、その場で銀細工屋へ使いを出した。
今夜は違う。
父の書斎に、家族が集まっていた。父は机の向こうに座り、ヨハンナとテオは長椅子に並んでいる。暖炉の火が小さくはぜた。
リーゼは自室で眠っている。この部屋に、あの子の声は届かない。
眠る前、妹は廊下で「おやすみなさいませ、お兄様」と頭を下げた。明日のお茶は何時ですか、とも聞いた。自分から予定を尋ねてきたのは、戻ってきてから初めてのことだった。
たったそれだけで、今夜もやめておこうかと思った。
「アルベルト。お前が呼んだのだろう」
父が言った。
アルベルトは3人の顔を見た。昼間、東屋で妹を囲んでいた顔だった。花の刻まれたカップを両手で包む妹を見て、ほんの少しだけ安堵していた顔だった。
これから、それを壊す。
アルベルトは息を吸った。
「話がある。リーゼは——自分が17歳で死ぬと思っている」
第1部、これにて幕です。ここまでお付き合いくださって、本当にありがとうございました。
一人のお茶は終わりましたが、兄が口にした一言から、家族の「黙って行動する」はもっと本気になっていきます。第2部もどうぞよろしくお願いします。
ブックマークや★で応援していただけたら、第2部を書く大きな力になります。




