第1話 17歳の話
【アルベルトside】
誰も口を開かなかった。
暖炉の薪が崩れて、小さな火の粉が上がった。父は机の向こうで両手を組んだまま動かない。長椅子のヨハンナは膝の上の手帳を握りしめ、テオはその隣で背筋を伸ばしていた。
アルベルトは、もう一度口を開いた。
「東屋で、銀が黒くなったときです。あの子の声が聞こえました」
一度言ってしまうと、あとの言葉は思ったよりすんなり出てきた。
「『ああ、そっか。これが、わたしが17歳で死ぬ理由だったのね』と」
ヨハンナが小さく息をのんだ。
「口は動いていませんでした。ユリウスには聞こえていない。あの子は、驚いてもいなかった」
「……それだけか」
父の声は低かった。昨日の夕方も、父は同じことを尋ねた。あのときは「それだけです」と答えた。今度は首を横に振った。
「居間でも一度。『毒なんて原作になかった。でもどうせ原作補正で、結局は病没するんでしょ。17歳の冬に』」
原作。補正。病没。17歳の冬。
妹の声には、ときどき家族の知らない言葉が混じる。原作、公式、ファンブック、ルート。帰ってきた最初の夜から何度も聞いた。どこかの本の話らしい、ということだけは分かっていた。分からないまま、誰も問わなかった。問えば、聞こえていると知らせることになる。
その本のどこかに、妹の終わりが書いてあるらしい。
「病没……」
テオが繰り返した。声がかすれていた。
「毒じゃなくて、病気で死ぬって思ってるの? 毒が見つかっても?」
「毒が見つかっても、だ」
アルベルトは答えた。自分の声がひどく平らに聞こえた。
「あの子にとって、毒は途中の話でしかない。終わりは、もう決まっている」
テオが膝の上で拳を握った。関節が白くなるほど強く。何か言おうとして唇を噛み、そのまま黙った。泣きはしなかった。
ヨハンナが手帳を開いた。
「17歳の、いつなの」
細い指が頁をめくっていく。家族でお茶をした日。妹を誘って断られた日。その先の、まだ何も書かれていない頁。
「誕生日なのか、その年の終わりなのか。あの子の声でも、そこまでは分からないのね」
「分からない」
「なら、17になる日からだと思っておくわ」
ヨハンナは白い頁に何かを書きつけた。アルベルトの位置からは見えなかった。書き終えると、姉は手帳を閉じて胸に抱いた。
2年もない。
誰も口にしなかった。けれど全員が、同じ数を数えていた。
「……ずっと、知ってたんだ」
テオがぽつりと言った。
「帰ってきた日から。知ってて、ケーキ屋の話とかしてたんだ。兄上のエビのこととか、姉上の刺繍のこととか。自分のことは、なんにも言わないで」
誰も答えなかった。
アルベルトは、おとといの広間を思い出していた。家族の肖像画の話をしていたとき、妹は「端で結構ですわ」と言った。同時に、あの声が聞こえた。
愛されてるのは知ってる。でも頭数に入れなくていいわよ。わたしはそういう役だから。
あのとき家族は、寂しいことを言う子だと思った。長く家を離れていたせいだと。
違った。あれは寂しさではなかった。勘定だった。自分がいなくなったあとの絵を、あの子は先に描いていたのだ。
【ゲオルクside】
ゲオルクは組んでいた手をほどいた。
3人の目が、一斉にこちらを向いた。
言うべきことは決まっていた。ただ、それを口にするのに少し時間がかかった。
「協定は、続ける」
テオが顔を上げた。
「どうして。だって、姉様は」
「知られたと思えば、あの子はまた黙る」
ゲオルクは静かに言った。
「11の年に、あの子を祖父母の家へやった。守るためだった。だがあの子は、家を出されたのだと思って育っただろう。帰ってきてからも同じだ。自分を数に入れずに、先に身を引く。聞こえていると知れば、今度は心の中でまで黙る」
暖炉の火が小さくはぜた。
「あの声があるから、我々は今のあの子を知ることができる。それを失うわけにはいかない」
テオは唇を噛んだまま、小さくうなずいた。
「17のことを知ったまま、何もなかった顔で朝食を取るのね」
ヨハンナが言った。責める声ではなかった。自分に確かめるような声だった。
「取る。あの子の前では、昨日までと同じ顔でだ」
アルベルトが小さく息を吐いた。今日一日、妹の前で顔を保つだけで精一杯だったのだろう。ゲオルクも同じだった。
「……わたくし、明日の朝、あの子の顔を見て笑えるかしら」
「笑わなくていい」
ゲオルクは言った。
「あの子も笑わない。いつもどおりでいい」
「そのうえで、動く。口ではなく、手でだ」
ゲオルクは長男を見た。
「アルベルト。ベアトリスの金の流れを、最後まで洗え。仕立屋の3軒と、ハインツの供述だ。マルタに薬を渡した者がいる。侍女一人で手に入れられる物ではない」
「はい」
「ヨハンナ。家の中を見てくれ。使用人の持ち場も厨房も、お前の目で。あの子の新しい侍女を選んだのはお前だ」
ヨハンナは手帳を胸に抱いたまま、うなずいた。
「テオ」
末の息子が背筋を伸ばした。
「絵を続けろ。日付も、これまでどおりに入れなさい」
「……絵?」
「お前の絵が、あの子の白い頬を最初に見つけた。医師よりも、宰相府の誰よりも早く」
テオの拳が、ゆっくりとほどけた。
「私は宰相府と騎士団を動かす。ヴァルデン公子には、明日にも話を通す」
「父上」
アルベルトが口を挟んだ。
「ユリウスは、聞こえないまま気づきました。銀のことも、あの子の顔色のことも。帰り際には、あの子に『ご自分のことだけは先読みなさらないのですね』と」
ゲオルクは長男の顔を見た。
声を聞いている家族より先に、何も聞こえない男が気づいた。長男はそれを悔しいと言っているのか、感謝していると言っているのか。おそらく、その両方だった。
「……覚えておこう」
ヨハンナが、ほんの一瞬だけ兄の横顔を見た。
それから、ゲオルクは少しだけ黙った。
「今は泳がせる、と私は言った」
アルベルトが目を上げた。あの夜、書斎でその言葉を聞いたのは長男だけだった。
「証が足りない。糸の先を見たい。そう言って、あの女を泳がせた。マルタを付けると言われたときも、断らなかった。断れば、こちらが気づいていると教えることになるからだ」
ゲオルクは机の上に目を落とした。磨かれた天板に、暖炉の火が揺れていた。
「泳がせると決めたのは私だ。その糸の先に、あの子がいた」
誰も、父上のせいではないとは言わなかった。言えば、父がそれを受け取らないことを知っているのだ。
「泳がせるのは、終わりだ」
◇
ヨハンナがテオの肩に手を置き、二人で書斎を出ていった。テオは戸口で一度だけ振り返った。何も言わずに、頭を下げた。
アルベルトが最後に残った。
取っ手に手をかけたまま、長男は少し迷うような顔をした。この息子が迷う顔を、ゲオルクはあまり見たことがない。
「父上」
「何だ」
「……明日のお茶は、3時です。あの子が、自分から聞いてきました」
ゲオルクは、しばらく息子の顔を見ていた。
「そうか」
それだけ言った。アルベルトは一礼して、扉を閉めた。
足音が遠ざかると、書斎には暖炉の音だけが残った。
3時。宰相府の午後の議はたいてい長引く。明日は、どうにかして切り上げなければならない。明後日も、その次の日も。
ゲオルクは引き出しを開けた。
古い手記が一冊入っている。革の表紙は角がすり切れ、綴じ糸も一度替えた。妻が遺したものだった。
リーゼが生まれた年の春から始まって、妻が床についた冬で終わる。ゲオルクはこの十数年、眠れない夜にこれを開いてきた。どの頁に何が書いてあるか、目を閉じていても言える。
頁をめくる。
初めて寝返りを打った日。初めて母を呼んだ日。熱を出した夜。どの頁にも、妻の細い字で娘のことが書いてある。
最後の頁には、一行だけ書かれていた。
何百回と読んだ一行だった。
今夜、ゲオルクは初めて、その一行から目をそらした。
第2部、はじまりです。
第1部に続いて読みに来てくださって、ありがとうございます。
口には出さない家族を、見守っていただけたら嬉しいです。
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