第16話 兄は、聞いてしまった
【アルベルトside】
17歳で死ぬ。
その言葉が、耳の奥で鳴りやまなかった。
黒ずんだ銀のカップを持ったまま、アルベルトは動けずにいた。妹は椅子に座り、困ったように首をかしげている。唇は閉じていた。さっきの声は、一度もその口から出ていない。
「動くな」
ユリウスが立ち上がっていた。
マルタが盆を取り落とし、垣根のほうへ後ずさっている。ユリウスは彼女の前に回りこみ、逃げ道をふさいだ。剣には手をかけていない。それでもマルタは、その場に膝をついた。
「門の外に供の騎士を待たせています。呼んでも?」
ユリウスがこちらを振り向いた。アルベルトはうなずくことしかできなかった。
妹はまだ座っていた。膝の上で両手を重ね、黒い銀のカップを静かに見ている。怯えてもいなければ、泣いてもいなかった。
◇
マルタは屋敷の一室に留め置かれた。
騎士に両脇を固められても、彼女は取り乱さなかった。背筋を伸ばして床を見つめ、同じ言葉を繰り返した。
「私一人の考えです」
誰に頼まれた、と問うても。毒をどこで手に入れた、と問うても。
「私一人の考えです。リーゼ様が恐ろしかったのです。何でも見通すような目で、いつか私の小さな盗みも暴かれると」
小さな盗み。そんなものが、この女に本当にあったのか。アルベルトには分からなかった。分かるのは、彼女が一度も「奥様」と口にしないことだけだった。
廊下で衣擦れの音がした。
「マルタ!」
ベアトリスが駆けこんできた。金色の袖で口元を押さえ、大きな目に涙をためている。
「なんて恐ろしい……どうして、どうしてこんなことを。わたくしがあなたをリーゼさんに付けたばかりに」
涙はひと粒ずつ、形よく頬を伝った。
「リーゼさんに、なんとお詫びすれば」
マルタは継母を見上げなかった。床を見たまま、深く頭を下げた。
「申し訳ございません、奥様。すべて私一人の」
アルベルトは黙って二人を見ていた。昨日の広間で「滋養のあるお茶を」と言った声が、まだ耳に残っている。蜂蜜もたっぷり、と継母は言った。今日の紅茶は、ひどく甘い香りがした。
証拠はない。今ここで何を言っても、この涙の前では通らない。
王宮から戻った父が、戸口に立っていた。父は継母の涙を一瞥しただけで、騎士に短く告げた。
「その女は騎士団に預ける。……ヴァルデン公子、頼めるか」
「承知しました」
父の声は静かだった。けれどアルベルトは、父の手が袖の中で震えているのを見た。
騎士たちがマルタを連れ出すと、父がこちらを振り返った。
「アルベルト。東屋で何があった」
アルベルトは順に話した。銀と陶器のこと。ユリウスが最初に気づいたこと。マルタの顔から色が消えたこと。黒く変わっていく銀のこと。
けれど、最後の一つだけは口から出なかった。
父の目がこちらを見ていた。議場で相手の嘘を見抜くときの、宰相の目だった。息子が何かを飲みこんだことに、この人が気づかないはずがない。
「……それだけか」
「それだけです」
父はしばらく黙っていた。やがて小さくうなずき、医師を呼べと言った。それから、侍女長を呼んだ。
マルタを妹付きにすると継母が言ったとき、父は断らなかった。断れば、こちらが気づいていると継母に教えることになる。代わりに侍女長へ、マルタから目を離すなと命じてあった。アルベルトも、それを知っていた。
侍女長は青ざめた顔で頭を下げた。家族のお茶の日は、自分の手で銀器を確かめていた。けれど一人のお茶は、東棟の配膳室で淹れられていた。東棟は継母の侍女たちの持ち場で、侍女長が立ち入れる場所ではなかった。
「……お前の落ち度ではない」
父の声は低かった。誰の落ち度なのかを、父は口にしなかった。
◇
医師の見立ては、遅効性の毒だった。
少しずつ、長く。蜂蜜で味がごまかされていたこと。今日のカップには、幸い口をつけていなかったこと。医師はそれらを順に述べ、最後に言った。
「このまま続いていれば、2年もしないうちに」
その先は言わなかった。言う必要もなかった。
アルベルトは、東屋で聞いた声を思い出した。17歳。妹はいま15だ。2年足らず。
数が合う。
合ってしまう。
「日付順に並べる。姉様の絵、全部」
テオは短く言うと、広間の床に画布とスケッチブックを並べはじめた。3枚の肖像画。それに、訓練の合間に描いた小さな顔の素描が何十枚も。どの紙の隅にも、テオの角ばった字で日付が書いてある。
ヨハンナが手帳を開いた。家族でお茶をした日を、彼女はすべて書きとめていた。妹を誘った日と、断られた日も。
二人で日付を合わせていく。
「……これ」
テオの指が止まった。
家族のお茶の翌日の素描は、頬に色がある。テオはいつも、同じ淡い桃色で頬を塗っていた。けれど一人のお茶が続いた週の素描では、その桃色がどこか浮いている。紙の上の妹は、少しずつ白くなっていた。
一人のお茶の日付と、白い頬の日付。一枚ずつ、ぴたりと重なっていく。
3枚目の肖像画の頬は、下地の白のままだった。
「色が決まらなかった。いつもの色だと、嘘になる気がして」
テオは低く言った。
「……気づいてたのに。描いてたのに」
それきり、テオは唇を噛んで黙った。泣きはしなかった。ただ、膝の上で握った拳が震えていた。
ヨハンナが、その拳にそっと手を重ねた。アルベルトは並んだ紙を見下ろしたまま、何も言えなかった。
気づいていたのは、自分も同じだった。
一人のときの素朴なカップのほうが落ち着く。妹の声で、たしかにそう聞いた。あのとき、なぜ聞き流したのだろう。可愛いことを言う、としか思わなかった。
◇
妹は居間の長椅子で休んでいた。
膝に毛布をかけ、背にはクッションを重ねている。顔色は悪いが、声はしっかりしていた。
「皆様にご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
暇を告げに来たユリウスに、妹は丁寧に頭を下げた。
「騎士団のお手まで煩わせてしまって。本当に、なんとお礼を申し上げればいいか」
「礼には及びません」
「それから、マルタのことですけれど」
妹は少しだけ言いよどんだ。
「あの人にも、何か事情があったのかもしれません。どうか、あまり酷いことには」
ユリウスは長椅子の傍らに立ったまま、じっと妹を見ていた。
アルベルトは窓際にいた。二人の会話に口を挟む気にはなれなかった。
(毒なんて原作になかった。でもどうせ原作補正で、結局は病没するんでしょ。17歳の冬に)
妹の唇は閉じたままだった。
アルベルトの指が、窓枠に食いこんだ。
病没。原作。兄の知らない本の、知らない一行。そこに、妹の終わりが書いてあるらしい。そして妹は、それを少しも疑っていない。
ユリウスには何も聞こえていない。彼に見えているのは、毛布の上で静かに手を重ねた令嬢だけだ。
それでも公子は、長いあいだ黙っていた。
「アーレンス嬢」
「はい」
「あなたは、ご自分のことだけは先読みなさらないのですね」
妹が瞬きをした。
「……わたくしのことなど、読んでも仕方がありませんもの」
いつもの顔だった。笑ってはいない。けれど、悲しんでもいなかった。
ユリウスは何か言いかけて、口を閉じた。一礼して居間を出ていく。アルベルトは、見送りのためにその後を追った。
玄関の手前で、ユリウスが足を止めた。
「アルベルト殿」
振り返った公子の顔に、いつもの微笑みはなかった。
「妹君は、驚いていませんでした。銀が黒くなったときも、侍女が崩れたときも」
アルベルトは答えなかった。
「本当に先が見える人なら、驚かないはずだと思っていました。……でも、あれは違う」
ユリウスはそれ以上言わず、門の外へ出ていった。
◇
夜になっても、屋敷は静かにならなかった。
騎士の足音。使用人たちのひそひそ声。継母の部屋からは、ときおりすすり泣きが漏れていた。
アルベルトは自室の机に向かっていた。書類を開いたが、一行も読めなかった。
協定を結んだのは、妹の声が初めて聞こえた夜だった。反応しない。気づかせない。そうしなければ、あの子はまた黙る。また消える。
17歳のことを、家族はまだ知らない。父も姉もテオも。
言えばどうなるだろう。父は顔色を変える。姉は泣く。テオは——テオはどうなるか分からない。あの子は最初の夜、姉が消えるのが怖いと言ったのだ。
それでも。
黙っていれば、あの子は一人で数を数え続ける。誰にも知られずに、自分の終わりまでの日を。
アルベルトは椅子を立った。
廊下は暗かった。燭台の火が、壁に長い影を落としている。父の書斎の扉の下から、細い明かりが漏れていた。
父はまだ起きている。
アルベルトは扉の前に立ち、取っ手に手をかけた。
兄の長い一日でした。テオが隅に書き続けてきた日付が、ここでようやく意味を持ちます。 聞いてしまった兄が、扉の前で何を選ぶのか。見守っていただけたら嬉しいです。
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