第15話 なぜ彼女だけ、銀ではない?
【リーゼside】
東屋の屋根に、午後の光がやわらかく溜まっていた。
庭の奥にあるこの小さな東屋が、リーゼは好きだった。薔薇の垣根が屋敷の窓をさえぎってくれる。ここなら誰の目も気にせず、ぼんやりしていられた。
「お待たせいたしました、リーゼ様」
マルタが盆を置いた。白い陶器のポットと、揃いのカップ。縁に小さな青い花が一つだけ描かれた、飾り気のない器だった。
注がれた紅茶から、甘い香りが立ちのぼる。
「奥様のお言いつけで、蜂蜜をいつもより多めにしております」
「ありがとう、マルタ」
「お一人のときは、どうぞお気楽に」
マルタはいつもの微笑みで一礼し、東屋の端に下がった。
リーゼは椅子の背にもたれた。このところ、体が少し重い。朝起きるのがつらい日もある。けれど医師は季節の疲れだと言ったし、もともと丈夫なほうではない。気にするほどのことではなかった。
風が垣根を揺らした。薔薇の葉が擦れる音のほかは、何も聞こえない。
昨日の広間のことを、リーゼはぼんやり思い出した。家族の肖像画。端でいいと言ったら、なぜか皆が黙ってしまった。兄に譲ったタルトは、最後まできちんと食べてもらえたのだろうか。
(テオの大きな絵、きっと素敵になるわ。お父様が真ん中で、お兄様とお姉様が両側で。……うん、ちゃんと絵になる)
口に出す相手のいない考えは、紅茶の湯気と一緒にほどけていった。
カップに手を伸ばす。
「リーゼ」
垣根の向こうから声がした。
振り向くと、兄が立っていた。片手に、見覚えのある焼き菓子の箱を提げている。
「お兄様? 宰相府は」
「午前に済ませた」
兄は短く答え、東屋の段に足をかけた。
その後ろに、もう一人いた。
背の高い青年だった。騎士団の濃紺の上着に、長い髪を背中でひとつに結んでいる。
「……ヴァルデン様」
リーゼはカップから手を離し、急いで立ち上がった。
「まあ、ようこそお越しくださいました。存じ上げず、お迎えもせずに」
「いえ。約束もなく押しかけたのは、こちらですから」
ユリウスは穏やかに微笑んだ。けれどその目は、リーゼの顔をじっと見ていた。何かを確かめるような目だった。
「……驚かれましたか」
「ええ、とても」
正直に答えると、ユリウスは一瞬だけ目を細めた。安堵とも落胆ともつかない顔だった。
「玄関で行き合った」
兄が箱を卓に置いた。
「孤児院の件の書類を届けに来たそうだ。ついでに、お前の顔を見たいと」
「アルベルト殿、それは言わない約束では」
ユリウスがわずかに言葉に詰まった。社交界では誰より口の立つ人だと聞いている。その人が、耳の端を少し赤くしていた。
(予告なしの訪問……原作に、こんな場面あったかしら。この人のところは一度さらっと見ただけだから、自信がないのよね)
兄が咳払いをした。
(それより、お兄様の箱。今日もタルト? 昨日の今日で? 推しが好物を2日続けて……これは幸せな日ね)
兄は無言で蓋を開けた。蜂蜜色のタルトが、昨日と同じように並んでいた。
「今朝、並んだ」
「お兄様が?」
「……たまたまだ」
ユリウスが何か言いたげに兄を見た。兄はそれを無視した。
マルタが足早に近づいてきた。顔にはいつもの微笑みがあったが、動きは少し硬かった。
「すぐに、お二人のお茶をご用意いたします」
「急がなくていいわ、マルタ」
マルタは一礼し、屋敷のほうへ小走りに去っていった。
(急に二人分なんて大変よね。あとでお礼を言っておかなきゃ)
垣根の向こうへ消える背中を、ユリウスが目で追っていた。振り返ったときには、もういつもの微笑みに戻っていた。
「いい東屋ですね。屋敷からは見えない」
「ええ。ですから、気に入っておりますの」
「いつも、ここでお一人で?」
「皆、忙しいですもの。わたくしのために手をわずらわせるのは、申し訳なくて」
ユリウスはそれ以上聞かなかった。兄は黙ったまま、開いた箱をリーゼのほうへ押しやった。いちばん大きな一つが、ちょうどリーゼの正面に来ていた。押しやる兄の手は、ほんの少しだけ乱暴だった。
リーゼは二人に席を勧めた。兄が右に、ユリウスが左に座る。小さな卓が急に狭くなった。
ユリウスは座るなり、リーゼの顔を見た。
「失礼ですが、お加減が優れないのでは」
「季節の疲れですの。お医者様もそうおっしゃって」
(昨日はお継母様にも言われたのよね。そんなに白いかしら。明日は白粉を少し控えめにしよう)
兄が膝の上で指を組み直した。ユリウスはまだ何か言いたそうだったが、結局は小さくうなずいただけだった。
「南橋の件では、ご忠告に感謝いたします」
ユリウスが言った。
「補強が間に合いました。あのままなら先週の雨で、橋脚が一本ずれていたそうです」
「わたくしは、噂を耳にしただけですわ。騎士団の皆様のお手柄です」
(本当は、あの橋で荷馬車が落ちるはずだったのよね。落ちなかったのは修正力のおかげ。案外優しいところもあるのね)
兄のこめかみがぴくりと動いた。
「噂、ですか」
ユリウスは繰り返した。それから少し黙って、言葉を選ぶように口を開いた。
「デビューの夜、あなたがおっしゃったことを考えていました。当たっても、誰も褒めてくれない、と」
「……そんなことを申しましたかしら」
「言われました。あれから何度も思い出しています」
ユリウスは卓の上で指を組んだ。長い指だった。
「では、あなたご自身は? 当てたとき、誰かに褒められましたか」
リーゼは返事に困った。持ち上げかけたカップを、受け皿に戻す。
「わたくしは、少し勘がいいだけですもの。褒めていただくようなことは、何も」
(原作を知ってるだけです、ごめんなさい。褒められたらむしろ罪悪感で倒れちゃう)
兄がタルトを口に運んだ。黙々と、いつもより大きな一口だった。
ユリウスは何か言いかけて、やめる。代わりに、卓の上へ視線を落とした。
マルタが戻ってきた。盆の上で、銀のカップが二つ光っている。ポットも銀だった。
「お待たせいたしました」
マルタは兄とユリウスの前に、手早くカップを置いた。紅茶を注ぎ、銀の小皿を添える。その手つきは、いつもより少しだけ速かった。
卓の上に、器が三つ並んだ。
銀と銀、そして白い陶器。
リーゼは気にしなかった。客人と跡取りに銀を出すのは当然だ。一人のお茶に銀が出ないのも、この家ではもう当たり前のことだった。
リーゼは自分のカップを持ち上げた。まだ一口も飲んでいない紅茶は、少しぬるくなっている。
「なぜ彼女だけ、銀ではない?」
ユリウスの声だった。
さっきまでの穏やかな響きがなかった。低く平らな声が、まっすぐにマルタへ向いていた。
東屋が静まった。
リーゼはカップを持ったまま、動きを止めた。
「て、手違いで……」
マルタが言った。
「急いでおりましたので。すぐにお取り替えいたします」
マルタの手が、リーゼのカップへ伸びた。
兄が顔を上げた。
兄の目は、リーゼの手の中の陶器を見ていた。青い花がひとつだけ描かれた、飾り気のないカップ。兄の唇がかすかに動いた。
「一人のときの、素朴なカップ……」
独り言のような声だった。
兄の目が、ゆっくりとマルタへ移る。
「……いつもなのか」
マルタの手が宙で止まった。
リーゼは首をかしげた。
「ええ。一人のときは、いつもこれですの。わたくしは、このほうが気楽で」
言いながら、リーゼはマルタを見た。
マルタの顔から、色が消えていた。
唇が白い。微笑みの形だけが、張りついたように残っている。盆を持つ指が小刻みに震えていた。
(マルタ、どうしたのかしら。そんなに叱られると思ったの? わたしは別に……)
兄が立ち上がった。
リーゼの手から、そっとカップを取る。触れた兄の指は冷たかった。
兄は自分の銀のカップを傾け、紅茶を芝生に捨てた。空になった銀の中へ、リーゼの紅茶を注ぐ。
蜂蜜の甘い香りが、ふわりと広がった。
誰も息をしなかった。
銀の内側に、影が差した。
最初は光の加減かと思った。けれどそれは、紅茶の縁から滲むように広がっていく。磨き上げられた銀が、みるみるうちに鈍い黒へ変わっていった。
リーゼはそれを見ていた。
不思議なほど、驚かなかった。起きるのがつらかった朝。蜂蜜の多いお茶。筆を止めたテオの横顔。いくつもの小さなことが、音もなく一つの場所へ落ちていく。
ああ、と思った。
リーゼは顔を上げ、小さく首をかしげた。
「まあ、困りましたわね」
口元は、いつものように動かなかった。
(ああ、そっか。これが、わたしが17歳で死ぬ理由だったのね)
兄の顔から、血の気が引いていった。
第1部の山場、最後まで見届けてくださってありがとうございます。
銀のカップの色が変わる場面は、書いている間ずっと手が冷たかったです。 心に残るものがあれば、感想や★をいただけると本当に励みになります。




