第14話 頭数に入れなくていいわよ
【リーゼside】
テオの3枚目の肖像画は、まだ仕上がっていなかった。
「色が決まらないんだ」
画架の前で、テオは筆先を見つめていた。画布の中のリーゼは、髪も輪郭もできあがっている。頬のあたりだけが、下地の白のまま残っていた。
「急がなくていいのよ。来週でも、その次でも」
「……うん」
テオはパレットを布でぬぐった。何度も混ぜては消したのだろう。布は薄い桃色と灰色で、まだらになっていた。
(テオ、こだわるところはお兄様そっくり。原作では絵を描く場面がほとんどなかったから、こういう顔が見られるのは役得ね)
テオの耳が赤くなった。けれど彼は何も言わず、画架に布をかけた。
「今日のお茶、兄様が東通りのタルトを持ってくるって」
「まあ。あのお店、今は行列でしょう」
「並んだんだって。自分で」
リーゼは瞬きをした。宰相府で書類の山と戦っている兄が、焼き菓子の列に並ぶ。想像しただけで少しおかしかった。
(お兄様、蜂蜜タルトのためなら並ぶのね。さすが隠れ甘党。推しの好物がちゃんと推しの口に入るの、いいわね)
テオが画架の布をもう一度直した。直す必要のない角だった。
◇
家族のお茶は、南向きの広間で開かれた。
卓の上には銀器が並んでいる。ポットもカップも、菓子を取り分けるナイフも、すべて磨き上げられて光っていた。リーゼは椅子に座る前に、そっと背筋を伸ばした。
中央に置かれた箱の蓋を、兄が開ける。
蜂蜜色のタルトが六つ、行儀よく並んでいた。焦がした表面が窓の光を受けて、つやつやしている。
「……たまたま、通りかかった」
兄はそう言って、いちばん端の一つを自分の皿に取った。表情はいつもの完璧な無表情だった。
(たまたまで行列に並ぶ人はいないのよ、お兄様)
ヨハンナがナプキンで口元を押さえた。父は黙って紅茶を口に運び、なぜか長く飲んでいる。
リーゼの皿には、いつの間にか2つ目のタルトがのっていた。ヨハンナが置いたのか、テオが置いたのか、よく分からない。
「わたくし、一つで十分ですわ」
「いいから、食べなさい」
父が短く言った。リーゼは小さく礼をして、フォークを入れた。さくりと音がする。蜂蜜の甘さのあとに、焦げた砂糖のほろ苦さが残った。
(おいしい。お兄様が並んだ甲斐のある味だわ)
兄のフォークが一瞬だけ止まった。
そのとき、広間の扉が開いた。
「まあ、皆さまおそろいで」
ベアトリスだった。淡い金色のドレスに、完璧な笑顔。後ろには侍女のマルタが控えている。
「エマのお稽古の帰りに、楽しそうなお声が聞こえたものですから。少しだけご一緒してもよろしいかしら」
誰も断らなかった。断る理由を口に出せる者は、この卓にはいなかった。
ベアトリスは父の隣に座り、リーゼに目を向けた。形のいい眉が、心配そうに寄る。
「リーゼさん、お顔の色が……少し白すぎるのではなくて?」
「季節の疲れだと、お医者様が」
「まあ、いけないわ。マルタ、明日からリーゼさんには滋養のあるお茶を。蜂蜜もたっぷりね」
「かしこまりました、奥様」
マルタが深く頭を下げた。その微笑みは、いつもと少しも変わらなかった。
「お気遣いありがとうございます、お継母様」
(お継母様が、わたしの顔色を? 珍しいこともあるものね。聖女の噂のおかげで、少しは扱いが良くなったのかしら)
父のカップが、受け皿の上でかちりと鳴った。
ベアトリスは紅茶を一口だけ飲み、タルトには手をつけずに立ち上がった。
「わたくし、甘いものは控えておりますの。では、ごゆっくり」
金色の裾が扉の向こうへ消える。マルタもその後に続いた。扉が閉まると、広間の空気が少しだけ緩んだ。
「あのさ」
テオが口を開いた。膝の上で、指をもぞもぞと組み替えている。
「家族の肖像画を描いてみたいんだ。全員そろったやつ。大きいので」
ヨハンナがぱっと顔を上げた。
「素敵ね。広間に飾れるくらいの?」
「うん。父上が真ん中で、兄様と姉様が両側で」
「描いてくれ。楽しみにしている」
父が即答した。兄も小さくうなずく。テオの頬が少しだけ明るくなった。
「それで、姉様は——」
「わたくしは、端で結構ですわ」
リーゼはカップを置いて、穏やかに言った。
「いえ、いっそ描かなくても。お父様とお兄様とお姉様とテオと……エマもいれば、それで絵になりますもの」
口元は、いつものように動かなかった。
(愛されてるのは知ってる。でも頭数に入れなくていいわよ。わたしはそういう役だから)
広間の音が消えた。
父の手が、カップの取っ手にかかったまま止まっている。ヨハンナのカップは、口元へ運ぶ途中で止まっている。テオは口を開けたまま、瞬きさえしなかった。
兄の手が、膝の上で握られていた。
指の関節が白くなるほど強く握っている。兄の唇がわずかに開いた。何か言いかけて、そのまま閉じる。
ゆっくりと、拳がほどけていった。
(あら。みんな、どうしたのかしら)
リーゼは卓の上を見回した。箱の中には、タルトが一つだけ残っている。兄の視線は、ちょうどそのあたりに落ちていた。
(ああ、最後の一つ。お兄様、欲しいのに言い出せないのね。次期当主の威厳って大変)
リーゼは手をつけていない2つ目のタルトを、そっと兄のほうへ滑らせた。
「お兄様、よろしければこちらも。わたくし、もうお腹がいっぱいですの」
兄は皿を見下ろした。
長いあいだ、何も言わなかった。
「……ああ」
やがて返ってきたのは、それだけだった。
【アルベルトside】
リーゼが「少し休みます」と言って広間を出たあと、誰も立ち上がらなかった。
卓の上には、妹が押しやったタルトの皿が残っている。アルベルトはそれを見たまま、フォークを取れずにいた。
「端って、なに」
最初に口を開いたのはテオだった。声がかすれていた。
「描かなくていいって、なに。僕は姉様を描きたくて言ったのに」
「テオ」
ヨハンナが弟の手を握った。その指先も震えていた。
父は何も言わなかった。組んだ両手に額をつけ、目を閉じている。宰相としての父は、どんな議場でも顔を上げていた。こんな姿を見たのは、母の葬儀以来かもしれない。
「そういう役、と言っていたわね」
ヨハンナが小さく言った。
「あの子の言う『原作』に、そう書いてあるのかしら。わたしたちの知らない本に」
誰も答えられなかった。
アルベルトは、さっき握りしめた拳を見下ろした。
あのとき、声が出かけた。お前は家族だ。端ではない。数に入らないなどと二度と思うな。
言えば妹は気づく。自分の心が聞かれていたことに。そして4年前のように口を閉ざす。いや、心まで閉ざすかもしれない。最初の夜にテオが言ったとおりだ。
だから拳をほどいた。ほどくしかなかった。
「……あの子は、いつも一人で茶を飲んでいる」
アルベルトは言った。自分の声がひどく平坦に聞こえた。
「家族の茶の日以外は、ほとんど毎日だ。自室か庭の東屋で、侍女だけを連れて。皆の手をわずらわせたくないのだろう」
「わたしも、何度か声をかけたの」
ヨハンナが膝の上で手を握りしめた。
「そのたびに『お姉様はラルフ卿と……いえ、お忙しいでしょう』って。気をつかっているのは、あの子のほうなのに」
「僕も知ってる」
テオがうつむいた。
「誘おうとしたこともあるんだ。でも姉様、『テオは訓練があるでしょう』って笑って……いや、笑ってはないけど」
笑わない妹の顔が、アルベルトの目に浮かんだ。一人きりの東屋。風の音しかしない午後。そこでもあの子は、自分を数えずにいるのだろう。
協定がある。口では何も言えない。
けれど、黙って隣に座ることはできる。
アルベルトは押しやられたタルトの皿を、箱の横へ戻した。明日の朝も、あの店には行列ができるだろう。並べばいい。何度でも。
「兄様?」
「宰相府の仕事は、午前に回す」
父が顔を上げた。ヨハンナとテオも、アルベルトを見ていた。
アルベルトは立ち上がった。
「……明日から、あの子の一人のお茶に顔を出す」
「頭数に入れなくていい」。リーゼは今日も、自分の数え方だけ間違えています。 次回、兄はタルトの箱を抱えて東屋へ向かいます。第1部の山場です。
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