第13話 修正力ね(※公子のせい)
【リーゼside】
雨は三日三晩降り続いた。
4日目の朝、ようやく雲が切れた。濡れた庭の木々が、久しぶりの日差しにきらきらと光っている。
朝食の席に、テオが駆けこんできた。騎士団の早朝訓練から戻ったばかりらしく、髪の先がまだ湿っている。
「南橋、落ちなかった」
椅子に座るより先にテオは言った。
「川は橋脚のすぐ下まで来てたって。でも騎士団が先週から石を積んで補強してたから、びくともしなかったんだ。荷馬車の通行も止めてあったから、けが人も出てない」
「まあ。騎士団の方々のおかげですわね」
リーゼは紅茶のカップを置いた。
(原作だと、この雨で南橋は落ちるはずだった。けが人がたくさん出る事件。それが、落ちなかった)
胸の奥で、小さな驚きがはじけた。舞踏会で口にしたのは、ほんの思いつきだった。まさか本当に、誰かが動いてくれるなんて。
(……ううん、違うわね。わたしが一言言ったくらいで、騎士団が動くわけないもの。先週から補強してたってことは、前から決まってたのよ。つまり原作の修正力ね。世界のほうで帳尻を合わせたんだわ)
向かいの席で、兄が紅茶にむせた。
激しく咳きこむ兄の背中をヨハンナが無言でさする。父は新聞を顔の前に立てた。新聞の端がかすかに震えている。
(お兄様、また胃ね。宰相府のお仕事、雨の日は特に大変だったでしょうし)
「街では、姉様が予言したから騎士団が動いたって言ってる」
テオがパンをかじりながら続けた。
「舞踏会で、誰かが聞いてたみたい。聖女さまが南橋を救ったって」
(それは違うのに。噂って、勝手に育つのね。騎士団の方に申し訳ないわ)
「わたくしは何もしておりませんわ。騎士団の方々が、先に備えてくださっていたのでしょう」
兄の咳がようやく止まった。兄は口元をナプキンで押さえたまま、何か言いたそうに妹を見た。けれど結局、ナプキンを畳んで膝に戻しただけだった。
誰が補強を命じたのかテオは知らないようだった。リーゼも特に知りたいとは思わなかった。世界が勝手に帳尻を合わせたのなら、そういうものだ。
◇
その日の夕方にリーゼは姉の部屋を訪ねた。
ヨハンナは窓辺で、乗馬用の手袋の縫い目を確かめていた。明日は久しぶりに晴れるから、北の丘まで遠乗りに出るのだという。
「リーゼも行かない? 丘の上から、街がぜんぶ見えるのよ」
「わたくしは、お留守番をいたしますわ。馬はあまり得意ではありませんの」
(二人の邪魔をするほど、野暮じゃないもの)
姉の指が手袋の上で止まった。
「お姉様。明日の遠乗りは、ラルフ卿を護衛にお連れになって」
リーゼは静かに言った。
「北の丘は、午前は風が強いのですけれど、午後は晴れますわ。帰りは、少し遅くなっても大丈夫」
(ファンブックの年表どおりなら、明日は午後から晴れる。丘の上から見る夕焼けが、すごく綺麗な日。……隣国との婚約は変わらない。でも明日くらいは、ね)
ヨハンナはしばらく何も言わなかった。
手袋を膝の上に置き、窓の外を見る。夕暮れの庭を、見回りの騎士が一人歩いていく。ラルフだった。
「……そうするわ」
姉の声は少しだけかすれていた。
「ありがとう、リーゼ」
(お礼を言われるようなことじゃないのに。お姉様、目が赤い。雨上がりで、空気が冷たいせいかしら)
◇
翌日の屋敷は、静かだった。
姉は昼前に北の丘へ出かけていった。兄は宰相府、父は王宮。テオは騎士団の訓練で夕方まで戻らない。継母とエマは、どこかのお茶会に招かれているらしい。
「お茶をお持ちしました、リーゼ様」
マルタが盆を運んできた。いつもの素朴な陶器のカップ。湯気の向こうに、ほのかに甘い香りが立つ。
「ありがとう。そこに置いておいて」
一人で窓辺に座ってカップを口に運んだ。
(最近、マルタのお茶は蜂蜜が多いわね。甘いのは嫌いじゃないけど)
二口三口と飲むうちに甘さにも慣れた。リーゼは窓の外の空を見上げた。北のほうの雲が少しずつ薄くなっている。
(今ごろ、お姉様は丘の上かしら)
見たことのない景色をリーゼは頭の中で思い描いた。風の中に、並んで立つ二人。何も言わない騎士と、何も言えない令嬢。
(わたしがいなくなったあとも、お姉様の思い出に今日という日が残ればいい)
カップを置くと指先が少し冷たかった。窓を閉めて、肩掛けを膝にかける。午後の光の中で、まぶたがゆっくり重くなっていった。
【ヨハンナside】
丘から戻ったのは、日が沈んでからだった。
夕焼けは妹の言ったとおりに綺麗だった。ラルフは馬一頭ぶん後ろにいて、最後まで何も言わなかった。ヨハンナも何も言わなかった。ただ、同じ空を見ていた。それだけで、1年ぶんの言葉を交わした気がした。
――隣国との婚約は変わらない。でも明日くらいは、ね。
あの子は、口を動かさずにそう言った。
変わらないことを知っていて、それでも今日をくれたのだ。
夕食の席でリーゼの顔を見たとき、ヨハンナの胸から丘の上の温かさがすっと引いた。
白かった。
白粉を塗っていない素顔が、蠟燭の光の下で紙のように白い。唇の色も薄かった。
「リーゼ。具合が悪いの?」
「いいえ。少しうたた寝をしてしまって、寝起きの顔ですの」
(お姉様、頬が赤い。いい一日だったのね。……よかった)
妹の口は動いていなかった。父が匙を止め、兄がこちらを見た。ヨハンナは小さく首を横に振る。何も言ってはいけない。言えば、この子はまた黙る。
その夜、妹はスープを半分残した。
けれど翌日に温室で家族そろってお茶をしたとき、リーゼの頬には色が戻っていた。
「料理長の焼き菓子、今日は木の実が入っていますのね。香ばしくて、いくらでもいただけそう」
(お兄様、焼き菓子を3つ目。隠れ甘党が隠れてない)
兄が4つ目に伸ばしかけた手を、そっと引っこめた。
妹はよく食べてよく喋った。昨日の白さが嘘のようだった。銀の食器が並ぶ卓で銀のフォークをくるくる回しながら、テオの絵の話を聞いていた。
波があるのだろう、とヨハンナは思った。
母もそうだったと、ずっと昔に父から聞いたことがある。調子のいい日と悪い日がある人だったと。
けれどその波は、3日後にもう一度来た。
父が王宮に泊まりこみ、兄もテオも出かけていた日の夕方。リーゼはまた紙のような顔で夕食の席に着いた。
◇
父は翌朝、医師を呼んだ。
長年アーレンス家を診ている老医師は、脈を取って舌を見て、まぶたの裏を確かめた。長い時間をかけたわりに、診立ては短かった。
「季節の変わり目のお疲れでしょう。デビューもございましたし、雨も続きましたからな。よく眠って、滋養のあるものを召し上がることです」
父は黙ってうなずいた。けれど組んだ腕をなかなかほどかなかった。
寝台の上でリーゼが小さく頭を下げた。
「ご心配をおかけして、申し訳ございません」
(虚弱設定だもの。お母様も体が弱かったから、お父様は怖いのよね)
父の腕にぐっと力がこもるのが見えた。
ヨハンナは目を伏せた。父がこの子を祖父母の屋敷へ預けた日のことを、ヨハンナは覚えている。あの日も父は、娘に短い約束をひとつ告げたきり、こうして腕を組んで黙りこんでいた。
医師が帰ったあと、父はリーゼの部屋の前にしばらく立っていた。やがて何も言わずに書斎へ戻り、その日のうちに厨房へ滋養の献立を三つ書き送った。
◇
その週の終わりにテオは3枚目の肖像画を描いた。
初夏の光が居間の窓から斜めに差していた。リーゼは窓辺の椅子に座り、言われるままに少しだけ顔を傾けている。ヨハンナは少し離れた長椅子で、刺繍をするふりをしながら二人を見ていた。
テオの筆はいつもより遅かった。
「姉様、動かないで」
「動いていませんわ」
(テオ、真剣な顔。騎士団の訓練より集中してる。この顔、描いてあげたいくらい)
テオの耳が赤くなる。けれど筆は止まらなかった。髪を描き、肩を描き、ドレスの襟を描いていく。
最後にパレットの上で頬の色を混ぜる。
白にほんの少しの赤。テオはそれを筆に取って画布へ運ぼうとして、ふとリーゼの顔を見た。
もう一度パレットを見た。
テオの筆を持つ手が、頬の上で止まった。
お読みいただき、ありがとうございます。
南橋の件、リーゼの中では「世界の修正力」だそうです。 ヨハンナとラルフの夕焼けに少しでも胸が温まったら、ブックマークや★で教えていただけるとうれしいです。




