第12話 微笑みの貴公子は言葉を失う
更新日を日、火、木、土にしました。
週4回お付き合いいただけると嬉しいです。
【ユリウスside】
帰りの馬車の中で、ユリウスは自分の口元に指で触れた。
笑っていなかった。いつから笑っていなかったのか、思い出せない。
ユリウス・ヴァルデンにとって、微笑みは礼装の一部だった。袖口のカフスと同じで、屋敷を出るときに身につけ、帰れば外す。言葉も同じだ。相手が聞きたいことを、聞きたい順に並べればいい。19年のあいだ、それで困ったことはなかった。
微笑みの貴公子。社交界はそう呼ぶ。悪くない呼び名だと思っていた。
それが今夜、2度も途切れた。
ドレスを褒めた言葉は、いつもどおり滑らかに出た。彼女も、いつもどおりの礼で受け取った。そこまでは、何もかもいつもの夜だった。
1度目は、彼女の言葉を聞いたあと。2度目は、南橋の名が出たときだ。
――先が見える方は、お疲れになるでしょう。当たっても、誰も褒めてくださいませんもの。
馬車の車輪が、石畳の継ぎ目で小さく跳ねた。
◇
騎士団の執務室に戻ったのは、夜半を過ぎてからだった。
当直の副官が、礼装のままのユリウスを見て目を丸くする。
「舞踏会からそのまま、ですか」
「南橋の書類を出してくれ。先月の巡回報告と、工部に出した修繕の申請書だ」
副官は何か言いたそうな顔をしたが、黙って棚へ向かった。途中で一度だけ振り返る。
「舞踏会で、何かございましたか」
「少し、言葉に詰まっただけだ」
「公子殿が、ですか」
副官は、敵の伏兵を見つけたときよりも驚いた顔をした。ユリウスは返事の代わりに、机の上の燭台を引き寄せた。
机の上に紙の束が広がる。ユリウスは上着を椅子の背に投げ、袖をまくった。束ねた髪が肩から滑り落ちてくるのを、指で背中へ払う。
先見の公子。これも、社交界がつけた呼び名だ。
実際には、先など見えていない。見ているのは紙だけだった。川の水位の記録。上流の村から届く雪の便り。商人の荷馬車が南橋を渡る数。30年前に積まれたきりの橋脚の石。
今年の冬は、北の山に雪が多かった。暖かい南風が吹き始めて、もう10日になる。この風のあとには、たいてい長い雨が来る。雪解けの水と雨が重なれば、川は膨れる。そして南橋の2本目の橋脚には、先月の巡回で亀裂が見つかっていた。
7割がた、来週か再来週の雨で危ない。ユリウスはそう読んでいた。
工部に修繕を申し入れたのは、半月前だ。返事は短かった。
――晴れが続いているのに、何を急ぐのか。
「……それを、あの令嬢は」
来週の雨で、南橋が危ない。
彼女は、それだけを言った。数字も根拠も、何ひとつ添えずに。まるで明日の献立を告げるような口ぶりだった。
ユリウスは紙の束に目を落とした。
彼女の予言も、自分と同じ種類のものだろうか。
アーレンス宰相の書斎なら、国中の報告が集まる。15の娘がそれを盗み読んで、同じ答えにたどり着いた。ありえない話ではない。孤児院の帳簿の件も、書類を読める者なら気づけたはずだ。
だが、彼女は祖父母の屋敷から戻ってまだ日が浅いと聞いている。それに、あの口ぶりには計算の匂いがなかった。答えだけを知っていて、途中の式を一つも持っていない。そういう話し方だった。
分からない。
ユリウスは椅子の背にもたれた。分からないと認めるのは、ずいぶん久しぶりだった。
◇
目を閉じると、今夜の顔が浮かんだ。
いや、今夜が初めてではない。孤児院の書類を届けに宰相の書斎へ入ったとき、彼女はそこにいた。宰相の机の横に、蔓草の彫りのある小さな椅子が置かれていた。あの厳格な宰相が、書斎に娘の席を作っている。そのことに驚いて、一瞬だけ目を向けたのだ。
椅子に座った娘は、こちらを見て、ほんの少しだけ眉を寄せた。理由は分からない。初対面の相手に嫌われる覚えは、あいにく持っていなかった。
白粉が厚かった。デビューの令嬢なら珍しくはない。けれど踊っているとき、耳の下の白粉の薄いところで、肌の色が透けて見えた。燭台の光の中でも、そこだけが青白かった。
手袋越しの指も冷たかった。
そして、一度も笑わなかった。
令嬢たちに囲まれても、兄と踊っても、姉と並んでも。口元は最初から最後まで、ほとんど動かなかった。それなのに、冷たいとは感じなかった。むしろ逆だった。
――当たっても、誰も褒めてくださいませんもの。
あれは、自分に向けられた言葉だと思った。
16のとき、東の堤の決壊を読んで兵を回した。堤は持ちこたえ、村は沈まなかった。何も起こらなかったのだから、誰も何も言わなかった。父は「当然だ」とだけ言った。
防ぎきれずに読みどおりのことが起きたときだけ、人々は口をそろえた。さすが先見の公子だ。生まれつきの力だ。
紙を何百枚めくったかを、知っている者はいない。知ろうとした者もいなかった。
それを、会ったばかりの15の娘が、果実水でも勧めるような調子で言い当てた。
だが、今になって思う。
あれは本当に、自分のことだったのだろうか。
聖女の噂は騎士団にまで届いている。孤児院を救った次女。門の前には花束と馬車の列。人々は彼女に「次は何が見えますか」と尋ねる。当たれば喜び、次をねだる。
その中に、礼を言った者はいたのだろうか。
当たっても、誰も褒めない。
それは、彼女自身のことではないのか。
ユリウスは目を開けた。燭台の火が、紙の上で小さく揺れていた。
もう一つ、引っかかることがあった。
アーレンス家の者たちだ。
姉のヨハンナは、妹が黙っているときに限って扇で顔を隠した。兄のアルベルトは、妹が自分の頭のあたりを見るたびに咳払いをした。宰相まで、階段を降りるときは耳を赤くしていた。
まるで、彼女が黙っているときにこそ、何かを聞いているような家族だった。
「……髪に、何かついていたか」
ユリウスは思わず、束ねた髪の先をつまんだ。何もついていない。いつもの自分の髪だった。
彼女の視線は、ときどき確かにそこで止まっていた。
◇
「南橋を補強する」
夜明け前、ユリウスは副官に告げた。
「石工を集めろ。2本目の橋脚に石を積み、上流側に杭を打つ。明日から荷馬車の通行を止める」
副官が目をむいた。
「工部の許可は、まだ下りておりませんが」
「騎士団の渡河演習ということにする。責任は私が取る」
「雨など、どこにも……」
副官は窓の外を見た。夜明けの空は、今日も雲ひとつなかった。
それから副官は、探るようにユリウスの顔を見た。
「何か、見えたのですか。先見の公子殿」
ユリウスは少しだけ考えた。
「見えたのは、私ではない」
副官はしばらく黙っていたが、やがて敬礼して部屋を出ていった。廊下を走る足音が遠ざかる。
ユリウスは机の端に置いた書類の束に手を伸ばした。孤児院の件の続きだ。宰相府のアルベルト殿に、いずれ届けなければならない。
口実としては、十分だった。
雨が来れば、自分の読みが当たったことになる。持たなければ、彼女の言葉を信じた自分が間違っていたことになる。どちらに転んでも、確かめなければならないことがある。
彼女は、どこまで見えているのか。
そして、自分のことは見えているのか。
◇
4日後の夕方、ユリウスは南橋のたもとに立っていた。
2本目の橋脚のまわりには、新しい石が肩の高さまで積み上がっている。上流側には太い杭が3列に打ち込まれた。石工たちは「演習にしちゃ念の入ったことで」とぼやきながらも、手を止めなかった。
南の空の端に、灰色の雲が低く湧いていた。
風が変わった。湿った匂いがする。ユリウスが手のひらを上に向けると、最初の一粒が、そこにぽつりと落ちた。
「……来たか」
隣で、副官が空を見上げて呆然としていた。
「本当に、来週の雨ですな」
ユリウスは答えなかった。濡れ始めた石を、しばらく黙って見ていた。
「アーレンス家へは、訪問の予告の手紙を出しておきましょうか」
ユリウスは書類の束を揃えながら、首を横に振った。
「予告はしない。本当に先を読める人なら、驚かないはずだ」
お読みいただき、ありがとうございます。
今回はユリウス視点でした。微笑みの貴公子が言葉を探す回です。
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