私は役ではなく私として選ばれる
王太子家からの正式文書が届いたのは、その三日後だった。
謝罪文。
契約違反に関する認定文。
主要行事記録に対する注記修正の写し。
そして補償金支払いに関する確認書。
どれも簡潔で、余計な感傷はなかった。
私はその方が好きだった。今さら美辞麗句を並べられても困る。必要なのは、何があったかが分かる記録と、後から覆せない形式だけだ。
書斎の机に並べられた紙束を見ながら、父が低く言う。
「終わったな」
「ええ」
私は最後の確認書から目を上げた。
「少なくとも、契約上は」
父は椅子にもたれ、書類の山を眺めた。
「王太子家から正式謝罪。記録修正。補償。公務見直し。
ずいぶん大きくなったものだ」
「大きくしたかったわけではありません」
「分かっている。だが、軽く見られていたものを正しい大きさに戻せば、結果としてそうなる」
それはたぶん、そういうことなのだろう。
私は謝罪文を閉じた。
そこに書かれているのは、私が欲しかった言葉ではない。
理解でも、後悔でもない。
ただ、違反があったこと、王太子家に責任があったこと、私の立場が曖昧に扱われていたことが、形式として認められているだけだ。
それで十分だと、頭では思う。
実際、これ以上のものを求めても仕方がないとも分かっている。
けれど、人は頭だけで終われない。
「まだ足りない顔だな」
父の言葉に、私は少しだけ眉を上げた。
「そんな顔をしていますか」
「している」
父はあっさりと言った。
「勝った顔でも、安心した顔でもない。
やるべきことを終えたあとの顔だ」
「では、その通りです」
私は小さく息をついた。
「やるべきことは終わりました。
ただ、それで埋まるものではなかった、というだけです」
父はそれ以上、無理に聞かなかった。
そこはありがたい。
窓の外では、春の陽射しが庭の芝を薄く照らしている。
数日前まで灰色だった空が、今日は妙に高く見えた。
私は書類をまとめて立ち上がる。
「倉庫の対応表、第二版を作ります。
あと、今年の備蓄計画も見直した方がいいかと」
「仕事に逃げるな」
思わず足を止めた。
父は腕を組んだまま、こちらを見ている。
「なら、少し休め。
今のお前は、止まると考えてしまうから動いていたいだけだ」
……そこまで分かりやすいのだろうか。
私は少しだけ視線を逸らした。
「父上は、時々余計なところまで見ますね」
「お前ほどではない」
その返しが少しだけ可笑しくて、私は口元を緩めた。
そのとき、扉が叩かれた。
「お嬢様」
ガスパールの声だ。
「お客様です」
「どなたですか」
「セレヴァン様でございます」
私は一瞬だけ黙った。
父が横でぼそりと言う。
「今度は何の用だ」
「……分かりません」
けれど、何となく分かっていた。
少なくとも、今日は正式文書の受け渡しではない。
必要なものはすでに届いている。
ならば、残る理由は一つしかない。
応接間へ向かう廊下で、私は一度だけ立ち止まった。
鏡に映る自分は、王都にいた頃より少しだけ肩の力が抜けて見える。
それでも、何となく落ち着かない。
これでは、まるで私が会いたかったみたいではないか。
……会いたくなかったわけでも、ないのだけれど。
応接間へ入ると、アルノー様は一人で立っていた。
今日は王宮仕様ではなく、侯爵家の私的な訪問らしい装いだ。けれど相変わらず隙がなく、そして相変わらず、こちらの様子を余計に探るような視線もしない。
「お忙しいところ、失礼いたします」
「いえ。王宮からの使いではないのですね」
「はい」
彼は静かに答えた。
「本日は、王宮の依頼ではありません」
私は向かいの椅子へ座る。
彼も、それを見てから腰を下ろした。
「では、個人的なご用件ですか」
「そうです」
短い。
そして無駄がない。
私はその簡潔さに、少しだけ気が楽になるのを感じた。
この人は、話しにくそうなことほど、かえって回りくどくしない。
「まず、申し上げておきたいことがあります」
アルノー様はそう言って、一度だけ視線を落とした。
「今回の一連の清算について、私は王宮側の人間として動きました。
ですが、それとは別に、個人としてお伝えしたいことがあります」
私は黙って続きを待った。
「あなたは、王宮で過小評価されていました」
「知っております」
「ええ。ですが、それだけではありません」
彼は顔を上げる。
灰青の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「あなたは、あまりにも長く“役割”として扱われすぎた」
その言葉に、私は少しだけ息を止めた。
慰めではない。
同情でもない。
ただの観察だ。
だからこそ、変に胸に残る。
「婚約者役。
便利な調整役。
細かいことが得意な人。
王宮にいた頃、あなたを指す言葉は常に機能でした」
私は視線を逸らさずにいた。
逸らしたら、認めてしまう気がしたからだ。
「ですが私は、最初からそうは見ていませんでした」
「……最初から?」
「ええ。
あなたが王妃宮で教育を受け始めた頃から、何度か同席する機会がありました。
そのたびに思っていたのです。
この人は、与えられた役目をこなしているのではなく、崩れないように全体を支えているのだと」
私はそこで、ようやく少しだけ視線を落とした。
そんな昔から見られていたとは思わなかった。
少なくとも、私の記憶の中でアルノー・セレヴァンという人は、もっと後になってから“話の通じる宰相補佐”として輪郭を持った相手だった。
「……それを、なぜ今おっしゃるのですか」
「今でなければ意味がないからです」
「なぜ」
「あなたが、もう王宮の役ではないからです」
応接間が静かになる。
窓の外で風に枝が揺れる音だけが、薄く聞こえた。
彼はそこで、言葉を選ぶように少しだけ間を置いた。
「もし清算の前に申し上げれば、それは王宮へ引き戻すための方便に聞こえたでしょう。
もし契約中に申し上げれば、あなたの立場をさらに曖昧にした。
ですから、今です」
私は少しだけ口元を引き結んだ。
正しい。
悔しいくらいに正しい。
この人は、こちらが何を嫌うかをかなり分かっている。
曖昧な好意。
立場を利用した優しさ。
役割に紐づいた必要性。
そういうものを混ぜれば、私は絶対に受け取らない。
だから今、全部切り分けたうえで来たのだろう。
「本題を伺っても?」
私がそう言うと、彼はほんのわずかに目を細めた。
「はい」
そして、静かな声で言った。
「私は、王都と領地をつなぐ新しい運営の仕組みを作りたいと考えています」
少しだけ意外だった。
いや、完全に意外ではない。
この人が来るなら、感情だけでは来ないと思っていた。
だから、半分は予想通りだ。
「具体的には」
「外務、儀礼、返礼、記録。
王太子家に限らず、王都側の判断と地方側の実情がずれる場面は多い。
今回の件で、それが一つの家の問題ではないと分かりました」
彼は机の上で指を組んだ。
「制度として整えたいのです。
少なくとも、“誰かの善意”や“誰かの器用さ”に乗ったまま回る仕組みではなく」
私はその言葉に、小さく息をついた。
やはりこの人は、最後まで構造で考える。
そしてそれが、嫌ではない。
「それを、私に?」
「はい。
あなた以上に、その歪みを見てきた人はいません」
「買い被りです」
「いいえ。事実です」
間髪入れない返答だった。
私は少しだけ肩を抜く。
「では、その新しい仕組みを作るために、私を雇いたいと?」
「それもあります」
“も”。
私はその一語を聞き逃さなかった。
アルノー様は視線を逸らさない。
「ですが、それだけではありません」
ここまで来たなら、もう引き返せないのだろう。
たぶん彼も分かっているし、私も分かっている。
「私はあなたに、仕事だけを頼みに来たのではありません」
応接間の空気が、ほんの少しだけ変わる。
私は何も言わずに待った。
待つしかなかった。
「あなたが有能だから、必要なのではありません」
その言い方は、どこかで一度聞きたかった言葉だったのかもしれない。
「あなたが、役割の中に埋もれずにいたからです。
誰にも見えないところで整え続け、それでも誇りを失わなかった。
私は、その在り方をずっと尊敬していました」
尊敬。
それは思ったより静かな言葉だった。
けれど、静かだからこそ軽くない。
「そして」
彼はそこで、ほんのわずかに声を落とした。
「今後、制度を作るにしても、仕事を共にするにしても、私はあなたに、ただの協力者としてだけそばにいてほしいとは思っていません」
私はそこで、初めて完全に言葉を失った。
分かる。
意味は分かる。
分かるからこそ、すぐには返せない。
今までの人生で、私は何度も必要とされてきた。
便利だから。
細かいから。
気がつくから。
埋めるのがうまいから。
けれど今この人は、そのどれでもない理由を持ち出している。
それは、想定していたよりずっと難しい。
「……ずるいですね」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
アルノー様が少しだけ首を傾げる。
「何がですか」
「今でなければ意味がない、などと先に言われてしまうと、こちらも反論しづらいでしょう」
彼はそこで、初めて本当に小さく笑った。
「反論なさいますか」
「したい気持ちはあります」
「では、なさってください」
「……それもずるいです」
私は少しだけ額に手を当てたくなった。
こんなふうに言葉の運び方が正確な人は困る。
しばらく沈黙が落ちる。
私は窓の外を見た。
春の陽射しが、ガラス越しに薄く差している。
王都にいた頃なら、こういう沈黙も何かの調整に使っていただろう。
相手の顔色を読み、言葉を選び、角の立たない結論へ持っていくために。
けれど今は、そうしなくていい。
私はゆっくりと視線を戻した。
「すぐに答えをお返しすることはできません」
「はい」
「私はようやく自由になったばかりです。
その自由を、今度は自分で選びたい」
「それで結構です」
「そして、もし一緒に何かを作るとしても。
私はもう、誰かの“役”として動くつもりはありません」
「承知しています」
彼の返答に迷いはなかった。
「ですから」
私は一度だけ息を整えた。
「今は、仕事から始めましょう」
その言葉を口にしてから、自分でも少しだけ可笑しくなる。
いかにも私らしい逃げ方だ。
けれど、アルノー様は否定しなかった。
「ええ。それがあなたらしい」
「褒め言葉ですか」
「もちろんです」
私はほんの少しだけ笑った。
「では、受け取っておきます」
彼は立ち上がった。
私もつられるように席を立つ。
「王都と領地をつなぐ仕組みについて、案をまとめて持ってまいります」
「書面で?」
「書面で」
「曖昧な言葉はなしで」
「なしで」
そのやり取りが、妙に心地よかった。
たぶんこれが、私たちらしい始まり方なのだろう。
玄関まで見送ると、庭の風は少しだけやわらかくなっていた。
春はまだ途中だが、少なくとも冬ではない。
馬車へ乗り込む前、アルノー様が一度だけ振り返る。
「リゼット様」
「何でしょう」
「あなたは、役でなくても十分に厄介です」
私は目を瞬いた。
「それは褒めていらっしゃるのですか」
「最大限に」
「……では、それも受け取っておきます」
今度こそ彼は、少しだけはっきりと笑った。
それを見送ってから、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
役ではなく。
婚約者としてでもなく。
便利な調整役としてでもなく。
私として。
その言葉が、思ったよりずっと静かに胸の中へ落ちていく。
書斎へ戻ると、机の上にはまだ王太子家からの正式文書が残っていた。
違反の認定。
謝罪。
補償。
修正。
それらは確かに必要だった。
必要で、正しかった。
けれど、それだけでは終わらなかったのだと思う。
終わりというより、ようやく空いたのだ。
自分で選べる余白が。
私は窓を開け、春の空気を少しだけ吸い込んだ。
「私は役ではなく私として選ばれる」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
昔の私なら、そんな言葉を少し気恥ずかしいと思っただろう。
けれど今は、それでよかった。
役目は終わった。
契約も終わった。
清算も済んだ。
そのうえで、これから先を選ぶのは、もう私だ。
そしてその選択肢の中に、
仕事も、領地も、王都も、
たぶん、あの人もいる。
私は机の上の白紙を一枚引き寄せた。
新しい制度案のメモでもいい。
あるいは、次に会うときに聞くべきことの整理でもいい。
いずれにせよ、書き始めるには十分だった。
春の光は、まだ弱い。
けれど、先が見えないほどではない。
だから私は、今度は自分のために、ペンを取った。




