77:七歳児の置き土産
少年の部で繰り広げられた決勝戦の激闘は多くの観客を沸き立たせた。
その熱冷めやらないまま少年の部と先に行われていた少女の部の表彰式を行う構成だったのだが、ギランお兄様が蹲った私を見て構成そっちのけで慌てて観覧席に戻って来てしまったのもあり、急遽午後の成人の部を終えてからまとめて執り行われる流れに変えられた。
大変申し訳ない、私が不甲斐ないばかりに多方面にご迷惑をおかけする。
ま、領主の子息が華々しいデビューをしたのだ。
それくらいのハプニングはどうかご容赦頂きたい。
こうして改めて怪我の処置や着替えを済ませたお兄様と昼食後は並んで仲良く観覧もといお留守番を楽しんだ。
結局、闘技場に来ている貴族への挨拶周りは領主夫妻だけで向かったのだ。
邸に戻った後に淑女教育の見直しが行われない事を願うばかりである。
そんな中ちょっと私が観覧席から離席し、通路をマノン達と歩いていた時の事だ。
「リーシャ嬢」
ふと声を掛けて来たのは光り輝く程の美しい顔をした子どもだ。
呼び止めた私へと向けて彼が歩む度にシャルトル―ズ色の髪が揺れ、そっと弛ませたベゴニア色の瞳は美しくもその奥には僅かな緊張が見えた。
私はすぐさま立ち止まり頭を垂らして礼を尽くす。
驚いた間抜けな表情が見られていなければ良いのだが。
「昨年振りだね」
「お目に掛かれて光栄です、ヴュルテンベルク辺境伯子息様」
「キミも息災のようで嬉しいよ」
「ええ、貴方様も健やかにお過ごしのようで」
一年振りに拝見したアロイーズ様は、子供部屋でお会いした時より随分と大人びた印象を受けた。
己の成長は分からないが、傍から見たら子どもの一年とはこうも大きいものなのかと親のような気持ちを抱いてしまいつつ、寿ぐ気持ちそのままで私も微笑みを浮かべ自然と頷く。
彼が居るという事は、今年もヴュルテンベルク辺境伯家はストラス領で避暑をお過ごしなのだろうか。
であれば閣下もギランお兄様達の雄姿を目にして下さったかもしれない。
いやぁますますお兄様の株が上がるだろうね!
その辺りのお話かな、と余所行きの笑顔を浮かべる私を、天使のように愛らしい面立ちのアロイーズ様がじっと見つめていた。
「奉納の舞も素晴らしかった、…本物の妖精かと思ったよ」
「お楽しみ頂けたのなら嬉しいです。
私も兄も日々練習を重ねた甲斐があるというものですから」
ははは、鏡を見ろ。キミこそ天使だ。
いや、妹姫様を見るだけで充分本物を味わえるだろう。
オリアーヌ様こそ天使であり妖精のような面立ちをされている。
仮面と舞台の効果って凄いんだな。
まぁお世辞は貴族のご挨拶、ってな。
「昨年は閣下に父達もご教授頂きました御恩もありますし、貴家の方々にも祝福が届いたのであれば本望で御座います」
「ああ、父にも今日のキミ達の活躍を早く伝えたくて堪らないよ」
おや、閣下は不在でしたか。
これは避暑自体に来ていないのか、武術大会だけなのか。
でも確かにお父様が開始前のご挨拶周りで、ヴュルテンベルク辺境伯家にお顔出しされたとは聞いていないなと思い返す。
猶殿下達への挨拶に来た貴族達は私も知らない。
彼等は別室を用意されてそこで挨拶を受けていたようだ。
恐らくヴュルテンベルク辺境伯家の双子もそれを済ませていたのだろう。
「妹もボルドー家の子息に熱を上げていた。
全く、隠微に動いている事を忘れていそうで心配だよ」
「…かの御方は王都でも一目置かれる方ですからね」
は?隠微に動くって何だ?親にか?
いや、流石に六歳児の可愛い盛りの双子の外出先を親が知らない訳も無い。
じゃあ誰にだ?なんだ急に不穏だぞ。
一瞬言葉に詰まった私の取り繕った表情を、彼はじっと観察していた。
止めてくれ!猫が!猫が逃げる!
そもそも手洗い帰りでスッキリはしているものの気が抜けているんだ!
まさかそれも狙われたというのか?!なんという策士!恐ろしい六歳児だ!
「キミはそうじゃない、と?」
「私には素敵なお兄様がいらっしゃいますから」
年上耐性というか、寧ろギランお兄様が大好き過ぎて他が霞むというか。
まぁ確かにグウェンダル様もカッコいいとは思いますけど、お兄様がその隣に立つとやっぱり目線はそっちに移ってしまうというか他が見えないというか。
それだけでなく、今まさに圧倒的天使な同年代を前にしても冷静で居られるのは、日頃から王都でも指折りの美形を見慣れたからであろう。
ちょっとは役に立つじゃないか殿下。
「ではやはり同年代かな」
「ふふ、どうでしょうね。まだまだ恋よりも遊び心が勝る年頃ですもの」
「見目麗しい貴公子達と過ごしていれば自然とそうなるのでは?」
「まさか。身の程を弁えているつもりです」
おおい!直球だな!
妹姫の恋敵として牽制されるのかと思いきやそっちが聞きたかったのか?!
こんな田舎娘が王都の貴公子と縁付く訳などあり得ないだろう!
ただの噂話で本人のスペックを知らぬならまだしも、キミ、今目の前で私を見てそれを言うとはいっそ勇気があるなぁ。
あれだろ、「キミ如きの令嬢が公子達の隣に立てるとでも?」って意味だろ。
マジかぁまさか天使に、しかも異性に毒づかれるなんてちょっと予想外過ぎるよ。
「…何か勘違いされているようだけれど、キミの隣は…立つ男側が試されるものだと思うよ」
「ふふ、貴方様にそう言って頂けるだけで舞い上がってしまいます」
「本気なのだけどなぁ」
困ったように笑っても天使だ。
凄いな、此処まで雰囲気がぶれない御人も珍しい。
勿論、あの麗しいが人の形を持ったようなイザイエ様でさえ、この滞在の間で少しばかりのんびり屋さんだなと認識を改めさせられたので、もしかしたらアロイーズ様も長い交流の果てでイメージが変わるのかもしれないが。
少なくとも六歳児で此処まで躾けられているというか、雰囲気を崩さないのは最早素なのだろう。
素で天使なのかぁ。
妹姫様と並んだらさぞ愛らしいだろうなぁ。
いいなぁヴュルテンベルク辺境伯家。
「…まぁ、まだ間に合うのなら、猶更にだけど」
暢気な事を考えていた私に一歩、アロイーズ様が近づく。
毛穴の存在しない肌だな、なんて更にどうでも良い事を考えている私を他所に、彼は顔を近づけて声を潜め囁くように耳打ちをした。
「ユーデス様には近づいてはダメだ、心を許してはいけない」
「………」
「どうか、忘れないで」
ベゴニア色の瞳に映し出された私の顔は唖然としていた。
それを、彼がどう受け取ったのかは分からない。
ただじっと此方を見透かすように、踵を返すその瞬間まで私を見つめていた。
ぽつりと残された私はまだ動けずにおり、傍に控えていたマノンが恐る恐ると言った様子で私の顔を覗き込む。
「ヴュルテンベルク辺境伯子息様から何か?」
「…え、あ…うん……ちょっと、ませた事を」
「まぁ」
何となく、マノンにはぼかして伝えた。
最後に耳打ちされ、熱烈に見つめられた状況は傍からはそう見えなくもない筈。
ちょっと子息様には申し訳無いが、彼もそれを言い訳として使わせてくれるために同年代の異性関係を匂わせた会話に誘導したのだと思う。
そう思いたい、切実に。
多分、彼は躾が行き届いただけでなく頭の良い子どもだ。
私との会話の中で、閣下が不在であることや子どもだけで隠微に動いている事を示唆しつつ、何故私の前に現れたのかを端的に示した。
観覧席には王子殿下達もギランお兄様も居る。
そこで話せる内容で無いのは当然だが、何より私だけに聞かせる場を望み、それを叶えるだけの行動力と場を整え逃さない機を見る力を彼はお持ちなのだ。
(そもそも、そんな彼が態々足を運んで私に忠告してきた内容が、アレ?)
だからこそ、それはきっと本当に忘れてはいけない事なのだろう。
でもだとすれば猶更、一体何故今更忠告を?
(去年、閣下の元にお父様やお兄様が訪問した時にだって多分忠告出来る機会はあったと思うのだけれど)
急遽オリアーヌ様とお兄様の顔合わせが行われたくらいだ。
まだ当時五歳の彼等なら、きっと一緒に別荘内に居た筈だろう。
我が家に差し向ける忠告であれば子どもの私ではなく、お父様達にするべきだ。
賢そうな彼ならすぐにその点に気付いて実行出来そうでもあるのだが。
(と、なると…私にこそ言わなければならない諫言である、と)
それがユーデス様に近づくな、心を許すなという内容なのがまた不可解だ。
確かに今彼等は我が邸に良く顔を出しているし、何ならユーデス様はそれこそ閣下にご相談した北街道の改修についてもご意見を下さっている。
でもだからと言って元々は殿下の随行者である為、我が家の感謝が捧げられる先は結局クロヴィス殿下へと集約される。
彼はこの図式が分からぬ子どもではないだろう。
それもあって特段、ネウストラ公爵家と近づくような事は無い。
勿論アンヴァリッド公爵家にも、王家にもだが。
あくまでも我が家は視察を受け入れるだけだ。
その点は両親も私達子ども達もしっかりと弁えているつもりだったのだが。
(傍から見れば、そうは見えないという事…?
確かに去年に比べ殿下達が邸に御訪問されている事は大っぴらにされてるけど)
雪崩も、その対策についての視察も、我が家が事前に防げるものではない。
まぁだからこそ「心を許すな」という忠告になるのかもしれないが。
しかしそれにしてももう滞在も僅かな時間となった今に言う事ではないし、本当に今更な忠告にしか聞こえないのが何とも心に蟠りを残した。
観客席に戻っても一人考え込んだまま時は進み、いつの間にか舞台上では締め括りの表彰式を執り行っていた。
今年は殿下もいらっしゃるので、彼直々に入賞者へ御言葉を掛けていた。
それをぼんやりと見下ろしながらつらつらと考えは深みに嵌る。
(確かに私はグウェンダル様への恋心を抱いた様子を見せたけど、それもたかが一週間程度で終わったような茶番だしなぁ)
アロイーズ様がこの点を指摘するのならば、どこから我が家の内情が漏れたのだと心底不安になるのだが、どうやらそうでも無いらしい。
オリアーヌ様の様子について触れたのがまさかそれに当たるのか?
あれじゃあ余りに遠回し過ぎて判断に困る。
(もし正しく私にグウェンダル様への懸想を牽制するのなら、忠告の内容が猶更可笑しいだろうに)
グウェンダル様への憧れを抱きつつ、ユーデス様へも懸想をしてる。
そんな二心を抱ける程器用な幼女に見えたのだろうか。
逆に幼子だからこそ無邪気にそれが出来るのかもしれない。
同年代の同性の友人が居ない為、その辺りは正直良く分からない点だ。
(ユーデス様…ユーデス様、ねぇ)
近づく予定も無ければ心を許す気も無い。
優しい御人だとは思うけれど、身分が違い過ぎる。
それに次男ではなく長男だ。嫡男だ。嫡流ど真ん中は選択外である。
(まだイザイエ様を引き合いに出された方が分かるよ)
イザイエ様なら三男だ。
彼ならその類稀なる美貌に抗えずに田舎娘でも恋心を抱いてしまうだろう。
私は別だが、もう既に彼のファンクラブ的なのが邸には存在する。
恐ろしい御人である。
そうやって王都でも信者を増やしているんだろうな。怖い怖い。
しかしそんな不安も思考も、壇上で祝福されるギランお兄様が顔を上げ、観覧席に居る私達へ誇らしさに満ちた笑顔で大きく手を振る姿で霧散した。
あー!お兄様かっこいい!可愛い!大好き!嬉しそう!!
きっと私の身体からはさぞお兄様愛が漏れ出していた事だろう。
その後の帰りの馬車の中でもずっとギランお兄様にべったりさせて頂いて本当にギランお兄様で満ち溢れた一日であった。最高。
そうこうしている内に我が邸で視察団の送別会が執り行われた。
一団の責任者というか最高位が八歳のクロヴィス殿下なので、日中に茶会形式で催される回には私もデイドレスに身を包んで参加する事となる。
夜には大人達による夜会も行われるのだ。
先日の舞とは違い瞳の色に合わせた空色のドレスは涼し気な色合いだ。
さぞ夏空に映える事だろうし、ギランお兄様も可愛いと言ってくれたのでもう私は最初からにっこにこである。
「リーシャちゃ…リーシャ嬢」
そんなご機嫌な私に声を掛けたのはグウェンダル様だ。
彼は今日も見習い服に身を包んでいるが、その主は別の貴族と話をしている。
邸の中で自由に過ごしている時とは違う場なのだから、本来は殿下の傍に侍らなければならないのに良いのだろうかと小首を傾げる私にグウェンダル様は表情を引き締めて口を開く。
「アレからの事は手紙に書くよ、ラン宛に同封するから」
「ギランお兄様はお許しになってくださったので?」
「送っちゃえばランの事だ、キミに渡すよ」
確かに私もギランお兄様経由でグウェンダル様から王都の近況や情報を仕入れようと当初は画策していたが、それが親愛なるお兄様の心労になるのなら実行しなくて良いと今は考えている。
なので改めて彼から私へ情報を送ってもらうように文を出そうと思っていたのだが、何とも強引な手を使ってくれるではないか。
これ以上我が愛しのお兄様を困らせたくは無いのだが、と悲し気な面持ちを見せてみれば相手は苦笑を浮かべた。
「そんな顔しないでよ」
「本当にギランお兄様とはちゃんとお話出来たのですか?」
「したよ、したした。だから心配しないで」
「なら猶更ラン兄様を介する必要は無いでしょうに」
「逆、キミに直通が許され無かったんだよ」
「…成程」
自分の知らないところでグウェンダル様と私が文を交わすくらいなら、という意味なのだろうかギランお兄様よ。
全く可愛い御人である、好き。
そう思い至り思わず笑う私を、相手も緩んだ顔で見下ろす。
互いに微笑み合い、穏やかな空気が流れる。
「…短い間だったけどキミと逢えて、話せて…良かった」
「私もですよグウェンダル様」
「主を放って令嬢を口説くとは頂けないな、グウェン」
ふと、険を含んだ声が飛んできて二人して其方に顔を向けた。
颯爽と芝生を踏みしめ闊歩する王子殿下に揃って頭を下げる。
「口説いてはおりません、あくまでも御礼と今後の自主鍛錬についての話を」
「どうだか?なぁユーデス」
「ふむ、聞こえていたのは確かに恋仲のような会話だったが」
「グウェン」
「ご容赦を」
何と。
それなりに離れていたにも関わらずユーデス様は私達の会話が聞こえていたのか。
どんだけ御耳が良いのだと目を瞬かせる私に、イザイエ様が苦笑を零す。
「ユーデスは兎耳だからね、特にこうした社交の場では人一倍」
「ヴィーが見張れと言うからやっただけだ」
「ユーデス」
嘆息と共に彼のステッキがとすとすと柔らかい足元を苛立たし気に叩く。
その仕草と言葉を制するように、クロヴィス殿下がユーデス様の名を口にするが、却って彼は毅然とした面持ちで殿下へと顔を向け口を開いた。
「嫉妬は勝手だが、姑息な手に使われた私の心情を慮れ」
「…すまなかったよ」
「はいはい、功労賞のグウェンへのご褒美時間はもう良いかな?
リーシャ嬢、少しこっちへ」
「はい」
そう告げて歩き出すイザイエ様の後に着いて行けば、彼は然程離れていない場所で立ち止まった。
私の侍女や、それこそ殿下達から見える位置だ。
この距離ではまたユーデス様に聞こえるんじゃないかと振り返った私を、クロヴィス殿下が何とも言えぬ表情でじっと見つめていた。
「安心して、ユーデスは確かに鳶目兎耳だけど実際は聞こえていないから。
それとも何かな?本当にグウェンと恋仲だった?」
「いえ、違いますが…」
まぁそう聞き取っても可笑しくない会話をしてはいた。
私の傍にもグウェンダルの傍にも人が居たのだ、そうせざるを得なかった。
「聡いキミの事だからわざとそうしたのかと思っていたけど」
「グウェンダル様を差し向けたのこそ御二方では?」
「さっきのは違うよ」
イザイエ様が肩を竦め苦笑を零す。
暫くして、仕方が無い人を見るようにちらりと離れた集団へ向ける。
私は振り向かなかった。
「…同年代の僕等じゃなく、兄君と同い年のグウェンを選んだのは慧眼だったんだけどねぇ。
ある意味一番キミ達の爵位に近くて現実的でもあるっていうか」
「周囲への説得力はあると思ったのですが」
「ねぇ」
元よりグウェンダル様へはギレムお兄様について話をするつもりだった。
それに便乗するように、イザイエ様が示唆するところを含ませ、まるで恋心を抱いているような様相を擬態したのだがそれがいけなかったようだ。
本当に何が良いのか分からない。
たかが田舎の伯爵令嬢だぞ?物珍しさか?
「僕としてはリーシャ嬢なら、とも思うのだけどねぇ。
参謀が首を振るのだから致し方ない」
ユーデス様は冷静に世情を鑑みて判断をしてくれたようだ。
相変わらず有難い御人である。
幾ら現王夫妻が恋愛結婚であり、彼等の名誉の為にそれが受け入れられる世情を整えたとしても、クロヴィス殿下は緩んだ地盤を取り戻す為に政略結婚をするべきだ。
況や、何の権力も無い田舎貴族と縁を結ぼうなど、以ての外である。
そう私自身も考えるからこそ、元よりそういう対象として見ていないが、王子殿下が私に向けてくれている心に寄り添うつもりは毛頭無い。
「いっそ僕の妹になる?」
「それは私に国を出ろと同義ですよ」
「ははは、それは困る」
確かに私が養子縁組で高位の、それこそイザイエ様やユーデス様くらいの爵位をガワに纏えば、クロヴィス殿下の希望もそれなりに叶う可能性も出てくるのかもしれないが。
ストラス家だからこそ私はこうして在れるのだ。
家族と離れる選択肢など絶対に無い。
「まぁ愚問だろうなとは思っていたけどね、一応これも体裁」
「お心配り、ありがとうございます」
「全然気持ち籠ってないね」
「うふふふ」
淑女らしい笑みを浮かべて見せれば、彼は申し訳なさそうに微笑む。
「…リーシャ嬢には感謝しているんだ。
滞在中も本当に楽しく過ごせたし、クロヴィスの誘いに乗ったのは正解だ」
「ユーデス様の策謀では無くて?」
「元よりクロヴィスの希望だってば。
その時は本人もその気は無かったんだろうけどね、不思議なもんだ」
「だからこそ賢明な殿下も惑われるのでしょうね」
「ふ、かもねぇ…帰りの道中は僕らが責任持って慰めるからさ」
「では遠慮なく」
「手加減はして、初恋だよ?」
何もトラウマになる程の事は言うつもりはない。
微笑む私を見つめるイザイエ様はどこか不安げな面持ちをしていたが、一つ息を吐き出してクロヴィス殿下と入れ替わり、私から離れていく。
「リーシャ嬢」
「ご機嫌は直りまして?」
私にそんな事を言われた相手は一瞬目を見開き、仕方なさげに肩を揺らして笑う。
「生憎、自分で自分の機嫌を取った事など無くてな」
「流石王子殿下」
「そこで合いの手を入れてくれるな」
クロヴィス殿下がそっと歩き出し、更に一行から離れたガゼボへと私を誘う。
語り合う人々のさざめきが少し遠くに聞こえるものの、やや視界を遮られたからだろうか、改めて二人きりになったのだと少しだけ緊迫した空気を互いに抱いた。
会場側に背を向ける形で私を座らせ、殿下は見守っているであろう一行から表情が見える形で向かいに腰を下ろす。
「偶には私の機嫌を取って欲しいのだが?」
「いつもそうしている心積もりでしたが、お気づきで無い?」
「普段のでは…今は、足りないよ」
切なさを湛えた黄金の瞳が細められる。
陰りのせいか、その色味はずっと普段より深く彼の感情を秘めていた。
懇願と哀愁と、そして恋慕。
あからさまにぶつけられたそれに、私はそっと視線を落とす。
「…キミの蹲る姿を見るのとは違う、堪らなさがあるのだが…なぁ、いつものようにどうにかしてくれないか?」
「まるで普段からしているように仰る」
「私を此処に二か月も留まらせたのはキミだよ」
「いいえ、それを決められたのは殿下御自身です」
一呼吸整えて顔を上げ、真っ直ぐに彼を見据える。
未だゆらゆらと揺れ動くその感情の灯をただ見つめ返す。
「抱き締めてくれるだけで良い」
「何故そのような事を?」
「…なら、手を握るのは?キミなら断りはいつだって不要だ」
「そのお許しこそ身に余ります」
「リーシャ嬢」
「ご寛恕を」
ずるいヤツだ。
立場云々よりも、恐いからだろう。
その先を決して口にしまいとしている。
言えば、私が断じるのを分かっているからだ。
でも、命じないのは彼の優しさだろう。
それが出来る立場であるのに。
若しくは幼くも男としてのプライドなのだろうか。
「夢の中でなら叶うのに」
「何て夢を見ているのですか」
「毎回起きて、その朧げな記憶を辿るようにキミに逢いに来れたのに。
なぁ、それも叶わなくなるんだぞ?」
「であればストラス領から王都へ向かう合間に忘れてしまえますね」
「茶化すな」
にじり寄りった彼の生み出す影が私を覆う。
それでも触れるのは吐息だけだ。
「…初めは、出会い頭に泣き崩れた様子が不可解だった。
どう見てもただの子どもの癇癪には思えない、深い憐憫が気になったんだ。
正直、ただの好奇心だったよ」
確かにあの出会いはクロヴィス殿下にとっても衝撃だっただろう。
それこそ忘れて欲しいのだが。
「実際に会って話せば想像以上に賢いとも思ったし、気も強くて驚いたよ。
だから猶更に慟哭の理由が知りたかった…今も教えてくれないが」
「女の秘密を暴こうとすると碌な事になりませんよ」
「似たような事をユーデスにも言われた。
でもそれを覆い隠せる理由を齎したのはキミ自身だよ」
いや、報告書に関しては揚げ足だろうよ。
提出せよと言ったのは王宮であるし、私はちゃんとしたものを用意した。
なんでこう人のせいにするかね。止めてくれたまえ。
「再会しても茶会や報告会だけに留めておくべきだったね。
屈託なく兄君達と戯れる姿が…淑女らしく澄ました姿も今はもう、ただ只管に私を此処に引き留める」
「所詮は田舎貴族の娘ですもの、被る猫も奔放でしょう」
「そう語る割に私の前ではまだ隠しているが」
「であればその努力を誉めて下さいまし」
「キミは、それが逆に相手を煽る事を知った方が良い」
いや、そんなの知らんがな。
というかそれは物好きなキミ限定だろうよ。
殿上人の前で素を出せる程気楽な性格でも無ければ、壁を取り払うだけの心に成れないのは、そういう事なのだと気付いているだろうに。
それでも彼は私から距離を取らない。
黄金の双眸に、私の瞳がまだ映し出されていた。
「それに、そういう相手の前で見せつけるように兄君ばかり縋るのもだ」
「ですから何故そのような事を私が配慮する必要が?」
「言えば口づけを許してくれるか?」
おいおい、袖にされるのを分かっている相手にそれを強請るのか。
どんだけ強かななのかと思わず私は半目になった。
「転んでもただでは起きぬ心積もりですか」
「転んだ、なんてそんな言葉で片付けられるものじゃない」
「それで片付けられるのなら」
「………………」
キス一つで過去の恋として終わらせられないんかい。
じゃあ言うなよ。
「私の初めてのキスはそんなに軽いものと仰る?」
「軽くない」
「では対価として相応しいと思う程には欲しくない?」
「欲しい」
八歳児の癖して、キスをせがむとは本当にませてやがる。
大人に囲まれ将来への期待を背負わされて育った彼だからなのか、王都の貴族子息とは皆これくらいの情操教育を受けているのかは不明だが、今がこれでは将来が心配だ。
「…欲しい…キスが、したい」
熱の籠った吐息が唇に掛かり、そっと、更に彼が顔を近づけるも、私はすっと顔を背けて立ち上がり離れた場所に座り直した。
退場しないだけマシだと思え。
なんだ、どさくさに紛れてキスしようとしやがって。
そもそも告白も出来ないのにコイツ。
好いてる相手ならまだしも、キミにはそんな事を断じて許さないぞ。
「リーシャ嬢」
「御断りいたします」
「…リーシャ嬢」
「そのようにしおらしい御顔をされても御断りいたします。
どうか御容赦ください」
「一時の物にするつもりが無くとも?」
「猶更御断りいたします」
彼の香りと熱が遠ざかり、夏空を撫でるような優しい風が吹く。
霧散し、入れ替えられた空気を思いきり胸に吸ってから私は深く頭を垂れた。
「どうか我が国の繁栄を。至らぬ身ですがこの地より祈り申し上げます」
「……」
返事を頂くまでは顔を上げるつもりは無いぞと、私は低頭をし続ける。
それがどれくらい続いただろうか。
やがて、彼が身動ぎと共に盛大に息を吐き出す気配がした。
「分かった、その気持ちに応えるように私も尽くそう」
クロヴィス殿下の言葉を受け、私が顔を上げるよりも早く彼はガゼボを出て行く。
これが私と殿下の交わした最後の言葉であった。
一団の見送りの時にも顔を出したが彼はお父様に感謝の言葉を述べるに留めた。
その凛々しい表情はいつも通りにも見えたのだが、恐らくそう感じるのは私が然程彼に心を砕いていないからなのだろう。
寧ろ、これほどまでに我が領地へも心を砕いてくれた殿下へそのような心持ちで居る方が不敬でもあるのかもしれないが、如何せん敬意以外のものを抱くのは今は殊更難しかった。
こうして私の六歳の夏がやっと終われば足早に秋がストラス領を駆け抜ける。
慌ただしく収穫を終えた田畑が広がったかと思えば、あっと言う間に外は雪がちらつき始め冬が色とりどりの外装の街を白く染め上げて行った。
私達はと言えば、お父様は引き続き北街道の整備に追われ、お母様は社交で集めた情報を元に王都でのタウンハウス選びに夢中であった。
物件探しなんてただただこの時代ではあちこち回りめんどくさいものであるのだが、どうやらお母様は図面だけを取り寄せているようで、それを一緒に見てあれこれ妄想するのは意外と楽しかった。
将来は自分の邸を持つのもやはり良いよなぁ。
事業を起こし財を蓄え、前世では住めないような家でも建てるか。
ま、既に前世とは比べ物にならない邸に住んでいるのだが。
王都での物件を探しているという事は矢張り私もギランお兄様と一緒に暫くは王都暮らしとなるのかな、と思ったがどうやら違うようだ。
ギランお兄様がニヤニヤと何か企んでいらっしゃるようである。
楽しそうで可愛いから良いけど、ちゃんとレム兄様の事も考えて下さいよ。
私はレム兄様と一日離れるだけでも嫌ですからね。
「以前も思ったが、お前、レムの年齢を考えてないだろ?」
「…」
そうか、犬の寿命ってどれくらいなのだろう。
でもそんな早い訳も無いだろうし、前世でも友人が学生時代から飼っていた犬が社会人になっても存命だったとかいう話を聞いたような聞いていないような。
早速マノンと一緒に図書室で調べると、大型犬の寿命は思ったよりも短かった。
既にもうレム兄様は七歳だ。
人間換算するとほぼ五十歳くらいとなるようで、お父様より随分年上だった。
「そんな…レム兄様…」
「オンッ」
暢気に笑みを浮かべているレムお兄様の身体をぎゅっと抱き込み、熱くなった目頭を誤魔化す様に何度も顔を埋めた。
この日を境に冬という時期もあってレム兄様を外に出すのを渋るようになった私を見てギランお兄様は笑っていたが、笑いごとでは無いと思うのだが。
「長生きするよレムは。何たっていつでもお前と走り回ってるからな」
「レムの好きなようにさせてあげましょうリーシャ、それが何よりも大事よ」
「リーシャの足がレムを追い越せるようになるのはまだ先だろうしな」
むっ。
私は持久力が無いだけで短距離ならレム兄様にも負けないのだが。
そんな事を言ってるお父様こそ私より足が遅いのではありませんか?
六歳児の鋭敏性を舐めてはいけないぞ。
最近はギランお兄様と室内で筋トレや武術訓練もするようになったので、じわじわと身体能力が上がってきているのは身に染みて分かっているのだ。
春になったらお父様に勝負を嗾けてやろうと私は心に決める。
覚えていられればの話だが。
そんな日々を過ごす中、私の元に一通の手紙が届いた。
差出人は、ユーデス・ネウストラ公爵子息からだ。
受け取った本人である私だけでなく家族も何事かと、封筒を目にした瞬間慄いた。
余りに何が書かれているか見当もつかず恐ろしいので全員で読もうと声を上げたが、まずは宛先である私一人で読みなさいと告げられ、まるで屠殺に差し出された子豚の気持ちを抱きながら心持ち涙目で自室にて静かに封を開く。
『――― 親愛なるリーシャ・ストラス嬢
夏は素晴らしい時間をありがとう。
心からの持て成しとストラス領の長閑な日々は心地良く、今でもふとした瞬間にもう一度ストラス領に足を延ばしゆっくりと過ごしたくなる。
その時の滞在先を考えると、暫くは難しいなと残念に思うよ。
さて、私からの手紙に驚かせているかと察するが、更に悪い報せだ。
二度に渡る王子殿下の滞在先として選ばれたストラス領が注目を浴びている。
恐らく来年あたり、キミが聞いた事もないような貴族から声が掛かるかもしれない。
この辺りはまた冬の社交が始まってから変わるかもしれないが、まぁ、私の所見ではそうなるであろうなと想定している。
我々の滞在が決まった当初からそれは危惧してはいたのだが、正直二か月も居る心積もりは無かったし、そもそも帰路に情けない愚痴ばかりを聞くなら私は同行しなかった。
グウェンが居なかったらさぞつらい道中になっただろう。
彼が随分耐えて見習いを続けているのはリーシャ嬢が何か強請ったのか?
兄君経由でも構わないから、頑張りを褒めておいて欲しい。
恐らく私が評価しても帰路で助けなかった事を根に持たれているだろう。
まぁその愚直さも相俟って我が友人が大変面倒臭い事になっている。
このまま冬の社交期で宜しくない会話を耳にしようものならどうなってしまうのかが容易に思い浮かぶので、この文をしたためたという訳だが、聡いキミの事だから言い表さなくとも冒頭の報せで察しただろう。
あまりこういうものは文で伝えるべきではないと爺も言うので、また春になったら改めて貴家へ訪問する事をどうか伯爵にも伝えておいて欲しい。
キミの朋友 ユーデス・ネウストラ ―――』
「…いや、察しておりませんが?」
思わず手紙に向かって呟いてしまった。
足元でレム兄様も首を傾げ、鼻を鳴らす。
そんなお兄様を何度か撫でた後、私は小首を傾げた姿勢のままユーデス様からの手紙を手に、お父様の執務室へ向かう事となった。




