76:六歳児の不退転
雪晒しで漂白された美しい白い布地に映えるのは細やかな緑の刺繍。
木漏れ日を表現するようにとこどろころに刺された金色が、夏の日差しを受けて煌めくのが何とも美しい。
オーガンジーが当てられた二の腕や裾を風が通り抜けては膨らむ。
領民や避暑に訪れた貴族達からの喝采を浴びながら、中央の壇上で跪くのは私とギランお兄様だけだ。
楽隊は少し離れたところで始まりを待ち構えている。
私の表情の半分を隠す仮面の端に吊るされた、朝露を思わせるビーズが舞の始まりとして俯いた顔の横でシャラシャラと音を立てて揺れ動くのと、緊張で弾む心音だけが聞こえた。
やがて小鳥の囀りを模した笛と弦楽器が静寂の波間を心地良く、舞台を温かく包みだしていけば私達もゆっくりと動き出す。
まずはギランお兄様のパートだ。
長い手足をゆっくりと動かしていくのは見掛けに反して難しい。
練習でも特にお兄様が苦戦していたのが、この序盤である。
しかも殆どソロなので誤魔化しも効かない。
指先一つ、筋の一本、己の身体の全てに意識をしつつも表情は穏やかに。
まるで美しい森を慈しむかのような凛々しくも優しい面差しで、ゆったりとした音楽に合わせて身体を動かしていく様子は物語の中に出てくる王子様のようだ。
はぁかっこいい。
繊細な動きを制する為に筋力を上げたり、このパートだけを何度も練習していたギランお兄様のご苦労は深く理解しているが、私はこの序盤が特にお気に入りだ。
何たって舞うお兄様が見放題だからな。
さて音楽に弾む様な音色が混ざり出すと私の出番だ。
跳ねるようにギランお兄様の前に躍り出ては、また離れる。
森を歩く勇者と戯れんと誘う、妖精たちを表しているのだ。
時に手を取り合い、軽やかにそれを離して跳ねる。
私が跳ぶたびに揺れる裾も気持ちも、どんどんと積み重なっては口元に浮かべる笑みはそれこそ自然なものとなっていく。
(楽しい)
時折悪戯に笑うギランお兄様と顔を見合わせ、笑う。
跳ねまわってばかりの私は疲れるパートだがその辺りは普段の遊びの延長だ。
息を弾ませて笑う私を、お兄様も楽しそうに捕まえてはぐるりと回す。
練習中の姿を見ていたエタンも「普段のお二人ですね」と言っていた程、何だか日常感があるので自然体で踊れるのは有難い。
さぁ激しい打撃音が鳴り響いた。
巨大な竜が森の上を浚うように飛び回り、妖精が怯えるシーンだ。
森に差し迫る脅威を振り払うようにギランお兄様が腰から下げていた宝剣を力強く回して踊る、剣舞の一際美しい見所が始まる。
此処からは私は耐久に入る。
なんせ、荒ぶる風に煽られ飛ばされそうになる妖精を演じるのだ。
気分は独楽になったように剣舞を披露するお兄様の周りをくるくると回る。
最初は良く目を回していたが、この辺りこそイザイエ様からご指導を賜った部分で、今では体力の続く限り回り続けられるくらいには得意になった。
でもまだまだ、中央で舞うお兄様を見続けていられる程ではない。
ああー剣を揮うラン兄様がめちゃくちゃにカッコイイのに私は見れない!
帰ったらこのパートだけもう一度見せてもらおうと心に決める。
それも終わればやっと終盤だ。
竜を追い払った勇士へ感謝と祝福と、そして討伐に向かう彼へ精霊から精一杯の餞を贈る。
肩で息をしながら跪くお兄様の傍らで私の見せ所として躍る。
普段は見上げてばかりの彼が、私の視線の下に居るのが不思議だ。
見る事が滅多に無いつむじすら愛おしい。
(ギランお兄様、大好き)
心からの愛情と祝福を精一杯込めて捧げる。
ストラス領を守って下さる神様に奉納する目的なのに、何時だって私は目の前の人に夢中で想いを捧げているのだが、イザイエ様曰くそれで良いとの事だった。
真摯な願いこそ、誰かの為に祈る事こそが奉納になるのだと。
ならば私はここぞとばかりに全力で祈るのだ。
愛しい人のこれから進むべき道に光が差し、困難を乗り越える力を賜る事を。
喩え傷ついても愛情がその痛みを癒し慈しめると示す。
(貴方に、祝福を)
最後に彼の頭を抱き込みながら思わず零れた「大好き」の言葉に、ギランお兄様が小さく笑うのが聞こえた。
「!」
腕を離すよりも早くお兄様の両手が私を掲げ上げる。
「我らがストラスの地に祝福を!!」
声高に叫んだ言葉に、闘技場を割らんばかりの喝采が上がる。
領民達も大きな声でお兄様の言葉を真似て復唱する。
何時までも響き渡るその声に驚きながらも、私を抱き上げる人を見下ろした。
重なる視線。
闘技場に掲げられた飾り布と同じカメリア色が幸せそうに弛む。
「妖精を祝福してはいけない、なんて事は無いだろう?」
「ふふふ、では私からも感謝の祝福を追加しましょう」
美味しそうな髪色に口付けを落とし、再びその頭を抱き締める。
公に我らが兄妹愛を見せつけるのだ!
領主一家は仲良しで麗しい兄妹愛も持っていますと喧伝してやる。
黄色い声援を送っている淑女方よ!お兄様の隣に立つにはこの溺愛妹が高い壁となり立ちはだかる事を知るがいいさ!
凛々しいギランお兄様を支え続けられる、教養と美しさに溢れ乍ら優しくて素敵な義姉様で無ければお断りです!
そんな意気込みに鼻息を荒くしながら観客へ礼を尽くす。
例年、領主一家が座する席には今年は殿下達も座っていた。
穏かに微笑む両親の隣で拍手をする貴公子達に、私も少しばかり気恥ずかしくも誇らしい気持ちで笑みを返した。
楽しんでもらえたのなら良かった。
私にとってはこの奉納舞が一番大きな仕事だが、ギランお兄様は違う。
お兄様は武術大会の少年の部にも出場するのだ。
少年の部は十三歳から出場が可能となる。
領主の息子として成長を領民に披露する場としても用いられてきた。
しかも今年はグウェンダル様も出場されるそうだ。
これは熱い展開過ぎるだろう!
普段から邸で打ち合いをしている二人を見ている護衛達も、どちらが勝利するのかを影で賭ける程に楽しみにしている程である。
王都の銘家ご出身のグウェンダル様は流石の実力をお持ちだ。
だがギランお兄様だって負けていない。
というか、同年代の打ち合う相手が出来たからかここ数か月で物凄く腕を上げたとエタンが話していたのを嫉妬心と同時にしっかり覚えている。
嬉しくも悔しい。
私も剣の才能があればギランお兄様の御力になれたのに。
グウェンダル様が王都に戻られた後、私も本格的に習うべきだろうか。
そんな野心を抱きつつ、他の少年たちの動きを備に観察する私にお母様が胡乱な眼をしていたが、晴れ舞台を見事に納めた娘に小言を刺すのも憚れるのだろう。
今は大人しく観覧しているのだからご容赦願いたいものである。
ま、そのガワもギランお兄様が舞台に上がる度に剥がれていたが。
「ギランお兄様ーーーー!!!!頑張ってーーー!!」
「元気だねぇ」
愛しのお兄様を応援するぞ!と、前に出たいのを必死に抑える代わりに着座したまま観覧席を割らんばかりの声量で檄を飛ばす私にイザイエ様も苦笑を零す。
見ればユーデス様や殿下も苦笑いを浮かべていた。
五月蠅くてすみませんね。
しかしちょっと今は淑女している場合では無いのですよ。
「あの舞台上での妖精は幻だったのだろうか」
「どこからそんな声量が出るのか、本当に不思議だよ」
「ギランお兄様を応援出来るのは今だけですから!喉が潰れようと構いません」
「構え、そして邸でも応援出来るだろう」
「私の愛しいお兄様であると知ら占めるのは今だけです!!」
「ヴィー、好きにさせてあげろ」
ユーデス様の取り成しはいっそ投げやりであったが、些事である。
寧ろ殿下達はグウェンダル様への声援を殆ど贈らないが良いのだろうか。
代わりにとばかりに私が声を張れば、今度こそ胡乱な眼でクロヴィス殿下が私を見やるのだから良く分からない。
まぁそんな疑問も、試合からお兄様が戻られる度に霧散する。
「ラン兄様お疲れ様です!とってもかっこよかったです!!」
「リーシャの声援が一番デカいの、毎回笑うんだが」
「愛ゆえでしょう!ちゃんと届いていて嬉しいです!!」
「母上、リーシャの淑女教育は随分伸びやかなのですね」
話を振られたお母様はにこりと淑女らしい笑みを浮かべて返すだけだ。
それがいっそ恐ろしくもあるが、まぁ今は殿下達もいらっしゃるので怒られないのを良い事に私は伸び伸びとギランお兄様を全力で応援する。
喩えこの後の社交が潰えたって構やしない。
「ギラン殿の腕前は邸でも目にしてきたが、大舞台でも怯まない胆力は流石だな」
「恐縮です」
殿下のお言葉にギランお兄様が控えめに返すもその表情は嬉しそうだ。
しっかりと努力を重ねて来た実力を出せるのもお兄様の才能だ。
きっと私のどでかい声援が緊張を解している面もあるのだろう、多分。
見上げ、にっこりと笑う私の頭を大きな手が撫でる。
「あと少しで決勝だが、俺とグウェンのどちらを応援するんだ?」
「お兄様ですが?」
愚問過ぎてちょっと聞かれた意味が分からない。
何かギランお兄様への愛を疑われるような事があっただろうか。
いや、先日の喧嘩は別として。
頭の形を確かめるようにしっかりと撫でられる心地に意識が持っていかれる寸前、私は思い至り閉じていた瞳を見開く。
「アッ」
「ん?」
「…私は、次男以下としか結婚しませんよ」
「ははははは!」
思わず零した言葉にギランお兄様が破顔する。
堪らずといった様子で私を抱き上げ、此方を覗き込むカメリヤ色は優しい。
「なら遠慮せず伸してくる」
「全力で楽しんで来てくださいね!でも怪我はしないように」
「難しい注文だが、善処しよう」
「だ、そうだよグウェン」
「何がです?」
丁度試合終わりで観覧席に上がって来たグウェンダル様に殿下が話を振るが、何の事やらと彼は小首を傾げていた。
ただ、ギランお兄様は既に勝ったかのような表情をしていた。
「グウェン、遠慮は無しだ」
「最初からそのつもりだけど?
たかが数か月で追い抜かれるような鍛え方してないし?」
「今日の俺には精霊の加護がある、なぁリーシャ」
「そうですね!たっぷりたーっぷり振り撒きました!」
強いて言うなら今もである。
どうか私の最愛のお兄様に勝利を!
その甲斐もあったのか、お兄様とグウェンダル様は順当に決勝戦で相まみえた。
顔の良い二人が向かい合って不敵に嗤い合うのは何とも胸が躍る絵面である。
まるで少年漫画の一幕にすら思える、と一人暢気にわくわくしながらギランお兄様への声援を飛ばしまくっていたのは序盤までだ。
邸での打ち合いなど児戯だと言わんばかりに激しく二人がぶつかり合う。
十三歳同士、まだ身体の出来上がり切っていないにも関わらず、圧倒的な覇気を伴い剣戟を交わす彼等にいつの間にか場内は水を打ったように静まり返っていた。
(ラン兄様…ラン兄様…っ!!)
私も固唾を呑み、己の手を握り締めて一挙手一投足を眼で追う。
先程剣先が掠めた頬から流れる鮮血が、ギランお兄様の動きに合わせて空を舞う度に痛々しさで胸が圧し潰されそうになる。
如何に刃を潰してあろうとも剣技が伴えば人体を損なう事など容易だ。
グウェンダル様も先程交わしきれなかった腕の衣服が破け、じわりと赤く染まっているのが遠目でも分かった。
(怪我しないで…これ以上、怪我しないでっ!)
祈る気持ちの強さから目を瞑りたくなるのを必死に堪える。
ラン兄様が一瞬たりとも気を抜かないのだ、私も共にそう在るべきだ。
震える掌をじっとりと濡らす手汗が手首に滑り落ちれど、拭う間もない程。
グウェンダル様の剣技は近衛に多い所謂護りの剣だ。
相手の攻撃を受け、往なし、反撃が主要な攻撃となる。
若くも殿下の傍へ上がれるだけあって彼の動きは洗練されていると素人でも思う。
美しく、そして隙が無い。
ギランお兄様が繰り出す攻撃を捌く真剣な面持ちはぞっとする程端麗ですらある。
かと言ってギランお兄様は攻め手を緩めない。
寧ろ、邸での手合わせをしてきたからかグウェンダル様の呼吸の隙を突くように鋭い一撃を何度も不規則に放つ。
反撃を誘うような大振りから一転しての穿つような攻撃は、流石のグウェンダル様も防戦に徹しなければならないようで流れが何時もギランお兄様に傾く。
だがそこからの立て直しの速さは流石だ。
崩し崩され、幾度となく攻守が入れ替わる。
「っ!」
何度目かの鍔迫り合いを制したのはギランお兄様だ。
グウェンダル様よりフィジカル面での利があるのだろう。
接近戦になるといつもギランお兄様が有利となるからこそ、グウェンダル様も間合いを取ろうと必死になるのだが愈々その体力も欠いて来たのかもしれない。
強かにお兄様の一撃がグウェンダル様の剣を叩き上げる。
騎士として戦闘中に剣を手離すのは何よりもの屈辱だ。
グウェンダル様は死んでも離すものかと意識が其方に向いたのだろう、その隙を突いて当身をすればぐらりと彼の身体の芯がぶれた。
そこを一気に畳みかけ、舞台上から叩き落す。
バランスを崩して転がり落ちたグウェンダル様は受け身を取っていたが、暫く立ち上がれない様子でずっと激しく肩で息をしていた。
審判も声を上げるのを忘れて二人の圧倒的な試合に魅入っていたようで、慌ててギランお兄様の名を叫ぶ。
刹那、会場は爆発したように湧き上がった。
爆音の中で勝鬨を叫ぶお兄様の声音も掻き消される程。
その光景があまりにも胸を熱くさせて、私は口元を押さえて涙した。
安堵と喜びと、祝福と感謝と、様々な感情が綯い交ぜになって堪らずに蹲る。
「リーシャ嬢」
「っ、もうし、わけ」
「いい」
いつの間にかすぐ傍に来ていた殿下が私の肩を宥めるように撫でる。
見苦しい姿を見せまいと、私も顔を伏せたまま立ち上がり彼に頭を下げてからお母様の隣にすぐさま駆け戻った。
拍手していたお母様が私を優しく抱き留め、そっと泣き濡れた顔を隠してくれる。
「出迎えは笑顔を。出来ますね?リーシャ」
「はい…はいっ!」
「っリーシャ!」
私が数度深い呼吸を繰り返し己を鎮めんとしている最中だ。
先程まで舞台に居た人が大量の汗を滴らせながら観戦席に飛び込んで来た。
愛しい人の声に弾かれるように私は駆け出し、当然のように広げられたその胸の中に飛び込んで顔を埋める。
「ラン兄様っラン兄様!ご無事で良かった…!!」
「ははっまるで戦場から戻ったような台詞だ」
「あんな、戦いを見せられたら誰だって!そうなります!!」
「もっと心配かけないように、精進せねばだな」
抱き上げられ、隠していた顔を覗き込まれる。
また少し心がぶり返して乱れ、涙目の私を優しい顔が見上げていた。
「もっと強くなってみせる、お前を守り切れるように」
「私も強くなります、もう泣きなどしません」
「泣いても良いぞ?俺がすぐに駆け付けよう、何時だって」
「もう…そうやってすぐ甘やかす」
汗で張り付いた前髪を丁寧に掌で撫で払えば、ギランお兄様が嬉しそうに笑う。
「まだその役目を誰にも譲る気は無いぞ?俺も、レムもな」
邸で留守番をしているもう一人の兄を引き合いに出して悪戯に笑い、肩を揺らす人が只管に愛おしくてその頭を抱き締め舞の時と同じように呟けば、「俺もだよ」と小さく返された。
それがどれほど嬉しい事か。
分からせたくて、腕に込める力を強くした。
大好き。
大好きなお兄様。
絶対に喪う未来など起こさせない。
私がこの人を守る。
何に変えても。




