74:六歳児の微睡み
私とグウェンダル様の話し合いが終われば次はギランお兄様を交えてだ。
応接間へ呼び出されたギランお兄様は室内に踏みいれた瞬間、明らかに泣いた跡のあるグウェンダル様を見て怪訝な顔をする。
そして隣に立つ私へ一体何を話したのだと、咎めるような視線を寄越した。
私は私で、彼の隣でどうにか控えめな笑顔を浮かべつつ、一人掛けのソファーに腰を下ろしたお兄様へ早速話を切り出した。
「グウェンダル様に私の見た『記憶』をお話いたしました」
「は?」
「元より、彼も同じ『記憶』を有しておられました」
「どういう事だ!!?」
ギランお兄様が椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。
先程のグウェンダル様を見ている時のように冷静でいる事は出来ず、すぐさま妹は隣の少年を慰めるのを放り出して憤るお兄様に侍る。
「私が情報源がお母様だけである事を憂いたのを覚えていらっしゃるでしょう?」
「だが…っそれとグウェンが!
リーシャと同じ『記憶』を持っているのは話が違うだろうよ!!?」
「私も偶然に驚きました」
怒りか驚愕からか、震えるギランお兄様の手を握れどそれは落ち着く気配が無い。
怒った肩が呼吸の度に上下するのをどうか治めてくれと眼差しを注ぐも、私へ向けられたカメリヤ色は未だぐつぐつと感情を煮え立たせていた。
「お前が、我が一家を襲う相手を危惧し、近隣領に関する情報だけでなく王都の動向にも気を向けるのは分かる。
諜報機関を欲していたのも確かに知っている。
だったら猶の事、頼る相手はグウェンダルでは無いはずだろう?!!」
「それは…」
ラン兄様の言いたい事も分かる。
情報戦に長けているのは、国内の流通を司るネウストラ公爵家だ。
流通と情報は表裏一体。
ドゥドネ王国で最も情報が集まる家である事は間違いない。
幸い、今年はかの家の嫡男がストラス領に滞在しているだけでなく、王子殿下の紹介もあり縁を得る事も叶った。
しかし私の中で彼に頼むという選択肢はそもそも挙がらなかった。
それは何故だろう。
今更になって己の心の裡を見つるが、答えはすぐに見つからない。
ユーデス様は王子殿下に随行しただけの御人だ。
それでも今回の視察の趣旨を全うしようと、我が家にも有難い事に助言を下さる。
彼の真面目さも誠実さも知っている。
だけど、私は彼にこれ以上の助力を願えなかった。
(頼りたく、ない…?)
「ラン」
考え込み言葉に詰まる私の肩をグウェンダル様の手が軽く引く。
はっと息を取り戻し、振り仰ぐ彼の視線は真っ直ぐにお兄様へ注がれていた。
「キミが言えなかった事をリーシャ嬢は俺に言っただけだよ」
「っそんな事、考えた事も無い!!!」
「考えないようにしていただけだろう」
「グウェン!!」
「悪いけど、俺はそういうつもりで今回、殿下に同行を申し出た」
「…お前、本当に……」
今度こそギランお兄様が言葉を無くす。
肩から、握り締めて震える拳から力が抜け落ちたのが目に見えて分かった。
凛々しいお顔から、すとんと何かが消え去った。
ああ、駄目だ。
咄嗟に私はお兄様に抱き着くも、彼は私に目もくれない。
「ラン兄様!グウェンダル様は本当に」
「リーシャは黙ってろ」
「っラン兄様!!」
「黙っていろと言ったのが分からないか!!!」
「っそれで黙る妹では無いとご存じでしょう?!!」
「なら出て行け!!!!」
「嫌です!!!!」
再び燃え出す感情に煽られ、私も声を荒げる。
此処で勘違いをさせたらそれこそギランお兄様とグウェンダル様の友情に罅が入ってしまう。
そんな事を私は望んだ訳も無い。
ただ、私がギランお兄様の心情を測り切れなかっただけ。
「切欠は確かに彼も『記憶』でした!でも縁を繋ごうと思えたのはっギランお兄様の真っ直ぐなお人柄があったからこそです!!!」
「何を言おうと言い繕いでしかない!!」
「心を閉ざさないで下さい!ラン兄様が見て来たものを忘れないで!!」
「っだから猶更なのだろう?!!
お前は家族だからまだ分かる!だがグウェンは?!
共に過ごした事も無いグウェンに何故ギレムが託すというのだ!!?」
「っ」
ああ、ギランお兄様の心が揺さぶられているのは、グウェンダル様との友情への疑念だけでは無かった。
「何故俺に託されない?俺はアイツの双子の兄だぞ?
それ程頼りにもならなければ、助力として不足なのか?
家族として、誰よりも近い存在と感じていたのは俺だけなのか?」
語る口を誰も持ち得ていなかった。
安易に、死者の名を借りた私の責が今になって露になる。
もっとよく考えるべきだった。
ギレムお兄様の名を口に出さず自分が聖女の肩書を担えば。
クロヴィス殿下に探し人を求めず、もっと下らない内容を問えば。
グウェンダル様に私から助力を願わずラン兄様に素直に相談していれば。
最愛の家族を傷つけなかったかもしれない。
いや、きっとそうだろう。
何故そこに私は思い至らなかったのだ。
己を過信した結果がこれだ。
私の愛する人が、愛する家族に絶望を抱かんとするのに、私はただ唇を強く噛み立ち尽くすしか出来ない。
私がギランお兄様を傷つけた。
見て来たものを忘れたのは、私自身。
力無くギランお兄様は踵を返し、部屋を出て行く。
その後を追えず、未だ動けずにいる私にグウェンダル様が何か言葉を掛けてくれたが私はただただ首を振った。
私は彼の善意までも悪戯に巻き込んだ。
「…申し訳、ございません…私の申し出は、忘れてください」
やっと、辛うじて出た言葉は掠れていた。
「リーシャちゃん、それは」
「いえ、更に失礼を…そういう問題ではありませんね…。
取返しがつかない事をした責の、補填を考えるべきでした」
「責とか補填とか、そういう言い方…いや、ごめん」
「更に御不快にさせてしまった事を謝罪申し上げます」
「…この件に関して夫人に報告するね」
ゆるりと顔を上げれば、私を深い藍色が真っ直ぐに見つめていた。
「俺は殿下達のように頭が良い訳じゃないし、悔しいけど、まだまだキミ達に心から頼ってもらって返せる程の力も無かったんだ。
…気持ちだけが逸っていたのは俺自身もだよ」
「…」
伏せられた美しい彼の瞳が影を帯びる。
お兄様達へ優しい想いを抱いてくれる彼をも私は傷つけた。
なんて愚かなのだろう。
「本当にカッコ悪い…結局大人に頼ってしまう自分が」
「グウェンダル様に非はありません、全ては私が浅はかだから」
「やめよう?傷の舐め合いにしかならない。
俺は、ただ…キミ達兄妹は仲良く居て欲しい、それだけだよ。
だから…リーシャちゃんにも思うところがあるならどうか、仲良しで居続けて」
「…はい……」
グウェンダル様の手が伸ばされ掛けるが、それは虚空で止まった。
結局それはゆっくりと下ろされて何事も無かったように彼も退室した。
恐らく、この席を設けてくれたお母様への挨拶に加え、先程言ったとおりにご報告をしてくれるのだろう。
(それだって…私が、するべき事だ…)
グウェンダル様は、御自身にも『記憶』がある事をお母様に伝えるのだろうか。
いや、きっと私のせいでそれを話さなければ、ギランお兄様があれ程傷ついて失望している理由の説明とならない。
(これも、わたしのせいだ)
ぐるぐると自己嫌悪が渦巻くも、泣くのだけはどうにか堪えた。
堪えられてしまう自分の薄情さに嫌気がする。
心配そうな視線を寄越すマノンとエタンを従え自室に戻れば、当然の顔をしてレム兄様が待っており出迎えてくれた。
しかし私の気配が萎んでいる事を察したのだろう。
普段よりも大人し目に近づき、鼻を鳴らす。
「レム兄様は流石賢いわね…どうか今は、ラン兄様の傍に」
扉の前に控える護衛へ、ギランお兄様の元にレム兄様を連れて行くように託す。
遠ざかる足音が消えれば私の部屋は物音一つしなかった。
「…マノン、温かい紅茶が飲みたいな」
「すぐに」
そうして動き出した彼女の手元からやっと微かな音が立つ。
ソファーに腰掛け、ぼんやりとその物音に耳を傾けるだけで思考は動かさない。
今は、何も考えたくなかった。
マノンが淹れてくれた丁度良い温度の香り高い紅茶が喉を潤し、鼻孔を擽る。
ほっとひと心地が付けられたのは、持て成してくれた彼女の優しさのお陰だ。
ありがとう、と一言添えればどこか哀愁を伴った笑顔が返された。
応接間からギランお兄様が出て行った後に、私がこれだけ沈んだ様子で現れたのだからマノンもエタンも何かあったとは察しているのだろう。
ただ、余りにも仲が良い兄妹だったから仲違いも初めてだ。
歳も離れているし、私が癇癪を起しても大体ギランお兄様が折れてくれていた。
(…何が、前世持ちよ)
幾ら知識や田舎貴族の娘らしからぬ賢しらさを持とうと、結局、大事な人を傷つけるような性根を持っていれば、私にとって全て余計なものとなる。
欲しかったのは優しさと慎重さ。
相手を慮り、寄り添える人間で在りたかった。
己の傲慢さを改めて知ったのが、最愛のお兄様を傷つけた後。
(ギレムお兄様…ごめんなさい、貴方の妹は期待に沿えぬ愚かな人間でした)
本当に詫び入るべき相手へはまだ何も言えていないのに、そんな言葉ばかりはすぐに意識に上がるのだから救いようが無いだろう。
お茶を飲んだ後、一人になりたいとマノンに退室を指示して寝室へ籠る。
女児らしい愛らしさに満ちたお気に入りのベッドが今は滑稽に見えた。
その真ん中で、抱えた膝に顔を埋める私はもっと笑える姿であろう。
(…ラン兄様……)
謝る事は簡単だ。
でも、それは何に対してだ。
不用意にギレムお兄様の名を使った事?
私が見た『記憶』について隠していた事?
グウェンダル様に勝手に頼り、お兄様の友情に罅を入れた事?
(表向きは、グウェンダル様へ勝手に話を通した事だろう)
ほら、まただ。
表向きだなんて賢しらに考えて、己の保身に走っている。
なんて可愛げのない子どもなのだろう。
性根が悪い。
こんな妹、愛想を尽かされるのも当然だ。
(…もういっそ、全部話してしまいたい)
私が違う世界の記憶を有している事も、だからこそ懸念している事についても全て洗い浚い吐き出してしまえばどんなに楽だろう。
そうすればギランお兄様だって私を。
「…っ」
じわりと滲んだ涙は形を取る間もなくスカートに染み込んだ。
ゆっくりと濡れた感触が目元だけでなく、膝にも及ぶ。
嗚咽を何処にも漏らさないように己の両肩を強く抱き込み、顔をより深く、痛いくらい膝に埋めてゆく。
(こんな考えしか浮かばない私が嫌だ。
嫌だと思うのに、嫌がる事しか出来ない自分が、嫌いだ)
私自身が楽になる方法は確かに全てを誰かと共に背負う事だ。
分かち合う安堵感を知らぬ身ではない。
でも、そうしたら楽になるのは私だけで、愛しい人には再び重荷と苦痛を背負わせるだけだと分かっているからこそ。
そうするのは嫌だと思ったから、私は拙く浅慮な行動を採ったのだ。
結果を受け入れる覚悟も見通しも、甘かっただけ。
私の愚昧さが引き起こした事が最愛の家族を傷つけた。
(謝りたい、赦されたい、再び愛されたい…でもそれは私のエゴ)
動き出さなければいけないのに、その気も起きず。
傷つけた事を分かっているのに掛けるべき言葉も、その先も見えず。
蹲ってどれくらいの時間が経っただろう。
寝室の扉が開かれ、部屋が灯りで照らされてゆく。
「リーシャ」
ギシリとベッドを弾ませ、端に腰掛けた人の大きな掌が私の頭を撫でる。
そっと何度も温かく優しく滑るそれが今は過分に思えた。
温もりを享受出来る立場ではないのに、身体は動かない。
「お母様から聞いた。
お前とギランがこんな喧嘩をするのは、初めてじゃないか?」
暢気な声が、慌ただしく夜の準備をするマノンの靴音に溶けていく。
その間も私の頭を優しくお父様は撫で続ける。
「ボルドー侯爵子息については…まぁあれだ、運命の悪戯、なのかもなぁ」
「そんな一言で片づけないで下さい」
ギランお兄様には聞かせられない。
そんな安っぽい言葉で慰めめてなどいるまいな、と思わず私が顔を上げる。
お父様はギランお兄様と同じ色の瞳を大きく見開き、くつくつと肩を揺らした。
「お前が怒るのか」
「…怒りますよ、そりゃあ」
「そうさなぁ、お前は俺に似て浅慮だが愛情の無い人間じゃないものなぁ」
「お父様は別に浅慮じゃ」
「そう見えているのなら嬉しいがな、誤魔化しが上手いだけだろう」
年の功だと呟きながら私を力強く持ち上げ、ぽすりと膝の上に乗せた。
まだまだ子どもなのだと、その扱いで思い知らされる。
甘えてしまいたくなる温もり。
「お母様も言ったろう?一人で抱えるな、と」
「でも、これは、私の」
「そういう責任感はお母様似だなぁ」
「…お二人の、子どもですもの」
堪えていた涙が盛り上がり、視界が再び滲む。
歳に似合った誤魔化し方でお父様の肩に顔を埋めた。
私の背を、ぽんぽんとあやす様に叩く大きな掌。
「まずは自分で考えようとするのは良い事だ。
でも苦しかったら相談しても良いんだよ、そうして覚えて、大人になれ」
「…私、もう淑女ですもの」
「早いなぁ、俺はまだまだ頼られる父親で居たいのだが」
「じゃないと、家族の為に動く事も出来ません」
「ん、それは俺も反省すべき点だよな」
いつの間にかマノンが退室した空間には、父親と娘だけ。
チラチラと揺れ灯りが揺れ動けど、他の灯りも多く付けられているからだろう、照らし出すお父様のお顔はハッキリと私に見えた。
何処にも、陰りの無い優しい父親の顔。
「頼り頼られ、支え支えられ、共に生きて行こう。家族なのだから」
「…時にぶつかっても、それは壊れないのでしょうか」
「壊れそうになったら手を尽くすよ、愛おしんでいるのはお前だけじゃない」
「こんな、情けなく…頼っても…いい?」
「良いとも。どんなお前だって私達の愛おしい家族だ、愛しているよ」
注がれる愛情に涙が止まらなかった。
こんな、情けない娘ですら愛おしんで大事にしてくれる家族。
私の尊敬する、最愛の両親。
私は此処に生まれ落ちた事を永遠に感謝し続ける。
今を、前向きにさせてくれる愛情を力いっぱい抱き締めた。
「っ…お父様…、ごめん、なさい…」
「謝りたい気持ちは俺じゃなくてギランに向けてだろう?」
「はい、…っはい」
「余所見をするなよ、アイツはそういうところは妻に似て敏感だからな」
「ふふ、うん、…ギランお兄様だけ見て、気持ちを伝えます」
全てを許して貰えなくとも、受け入れられなくとも。
私がギランお兄様を想い抱く家族愛は疑わないで欲しい。
至らずとも、不格好であろうとも、この身の全てを賭してお兄様を愛しています。
私の愛おしい家族。
守りたい、だから未来を乗り越えて見せると願う原動力。
ギランお兄様は何時だって、その中に在る欠かせない存在なのだと。
それだけは何があっても絶対聞いてもらう。
何としてもだ。
その決意を胸に眠ろうとした時、今度はお父様と入れ替わりでお母様が私の部屋を訪れた。
「ボルドー侯爵令息からお話を聞いた時は眩暈がしたわ」
可愛すぎるベッドに、私と一緒にお母様が横になるなど初めてだ。
何時もは私がお母様達の寝室に転がり込むのが常。
美しいお母様には少し幼過ぎるフリルだが、それもなんだか可愛らしい。
きっと、お父様が見たらそんな事を笑顔で零すだろうと容易に想像出来た。
「安易に場を整えた私もいけなかったわね」
「お母様のどこに非があるというのです。
そうと知った時に予定を変える機転が私に無かっただけです」
「リーシャも背負い過ぎです。常に最善を採れるのが人生ではないわ。
でも、後悔をそのままにはしてはいけないと学べるのが貴方の長所でしょう」
「はい、精進します」
「ふふふ、返事はしっかりしているのに結局迂闊なところ、あの人にそっくり」
「お母様に似た部分は?」
「そうねぇ、妙に頑固なところかしら」
「お母様が頑固なところなんて」
「あるわよ?今日だってまずは絶対、ギランに話すのは私にしました」
「お父様…」
男同士の話をさせる前に冷静なお母様がギランお兄様のケアをしたようだ。
成程、確かに迂闊な娘の後に迂闊な父親を宛がう訳にはいかない。
そういうところは頑固というより、流石の采配だと思うのだが。
「子息に話す場も、順番も私が決めましたもの」
「ですからそれは」
「リーシャが幾ら言い募ろうと意見は曲げません。ね?頑固でしょう?」
「…優しく、責任感と愛情があるだけですよ」
「嬉しいわ、貴方が優しく愛情深く育ってくれて」
また何だか泣けてきて、誤魔化し甘えてお母様の温かな胸元に擦り寄る。
瞼を閉じても、穏やかなお母様の香りが胸を満たして、その存在がすぐ傍に在る事がまるで暗闇を照らすように気持ちを支えてくれた。
今夜ばかりは六歳児に戻ろう。
明日にはきっと、歩き出せる筈。
愛しい人の元へ。
そんな自分を想い描きながら、訪れる微睡みに身を預けた。




