65:五歳児の曙光
翌朝、お父様は当主として白樺の豊かな森に踏み入り、数ある青い湖の中でも特に美しいと称される場所から清らかな水を汲んで来てくれた。
奇しくもその湖こそがギレムお兄様が事故に遭った場所であると教えられたのは私が三歳になった頃であっただろうか。
正常な三歳児でも物事の道理が理解出来るようになるのだ。況や私は前世で成人女性として生きた記憶もあるため、その話を聞いて、静かで清浄な湖畔で一人佇むお父様の事を想像しては涙が堪えられなかった。
墓標を清める水として、またこのストラス領を慈しんでくれていると特にその気配が強いとされる水を司る神様へ奉納する水として、かの湖の水を用いるのはこの地独自の風習だ。
敬神に溢れたこの地、この世界ならではだなと納得もするが、その都度、事故当時を思い返すであろう家族の事を想うと胸が締め付けられる。
ただでさえ愛情深い人達だ。
新たな家族が増え、七年の歳月が経てど、未だその傷跡は深い。
せめてお父様が一人で泣かないで欲しいと願い、私が「早く湖から帰って来て下さいね」と言葉を添えるようになったのはその話を聞いてからだ。
大人の男だからと人前で泣かないのは前世でもあった似たような稔侍からだろう。
でも私達はどんなお父様も愛し、受け入れる存在でありたい。
一人で抱えたいものがあったって当然だしそれは構わないが、少なくともギレムお兄様の事故はお父様一人で悔恨すべきものではないと思う。
そんな気持ちを込めて彼を見送り、そして戻りを待っている。
お父様の悲しみも苦しみも分け合いたいと願う私達の事を、どうか失意で見失わないでと乞わずにはいられない。
今回もまた私のおねだりをちゃんと叶えてくれたお父様が、穏やかな顔で速やかに邸に戻って来たのを家族揃って出迎える。
そりゃ愛娘も満足げに顔いっぱいの笑みを浮かべるというものだ。
「おかえりなさい!お父様!」
「ああ、ただいまリーシャ」
お母様やお兄様との抱擁を終えたお父様に抱き上げられ、少し冷えたその頭を抱き締めた。
私の知らない森の香りが仄かに残るのを感じる度にまた鼻の奥がツンとするのを覚えるものの、もう五歳なので泣くのを堪える。
今は共に悲しむよりも父が私達を想い、返してくれる愛情を享受する。
「さぁ、ギレムのところに行こうか」
「はい!」
お父様に抱き上げられたまま全員で馬車に乗り込む。
敷地内にある霊廟には歩いても行ける距離ではあるのだが、私がまだ小さいからだろう、殆ど馬車で向かう事が多い。
ギランお兄様は今でも時折一人で歩いて双子の弟に逢いに行く事もある。
それこそ二歳くらいの時にそんなお兄様を追い掛けて外に出た私が盛大に転んだのもあって、まぁ馬車利用の頻度が各段に上がったのだろうけれども。
しかし私も五歳になった。
そろそろギランお兄様と二人きりでも向かわせてくれて良いとは思うのだが。
短い乗車時間だが私はお父様の腕の中からもぞもぞと抜け出し、独りで座るお兄様の膝の上に忙しなく移動を始める。
此処で早めにポジションを押さえておくのが肝要なのだ。
ギランお兄様も慣れたもので、妹の好きなようにさせてくれる。
落ちないようにと腹部に回された彼の手に自分のそれを重ね、振り仰いで感謝と親愛を込めて笑えば、お兄様も仕方が無いと言わんばかりの苦笑を浮かべた。
昨晩の妹と愛犬セラピーではどうやら足りなかったようだ。
普段より少し元気が無いギランお兄様の胸元に後頭部を預け、ぐりぐりと動かす。
最早気分はマーキングをする犬だ。
レムは静かに私達の脚元で丸くなっていた。
霊廟に到着し、馬車から降りた後もギランお兄様と手を繋ぐ。
レムは賢いのでリードが無くとも私達に着いて来る。
幾ら賢いと言ってもお犬様なので、邸の外に出る時は絶対にリードが必要だと私は何度も口を尖らせて言い募るのだが、中々ギランお兄様が首を縦に振らない。
レムを見つけたのは元よりギランお兄様である。
私のお兄様犬でもあるが、一応レムの管理管轄はギランお兄様なのだ。
本当にこうと決めたら頑固なお兄様である。
万が一レムが外で迷子になったりでもしてみろ。
私はギャン泣きするどころじゃ済まないぞ。
赤子の時から一緒だったのだ、這ってでも探しに行くわ。
その辺りは早めにお兄様へ分からせておかねばと思ってはいるのだが、結局どんな時でもレムは私やギランお兄様の傍を離れないので大体実行できていないというか、大概私が忘れる。
外よりもひんやりとした石造りの霊廟に清らかな木漏れ日が注ぎ込む。
ストラス領は木材にも恵まれているから、所々に木製の飾りがはめ込まれていたりと温もりを感じられるこの場所は意外と居心地が良い。
ギランお兄様が時折来たがるのも何となく分かる。
清水を奉納し、礼拝を済ませた後、私は遠慮なくギレムお兄様に語り掛ける。
この賑やかな故人の偲び方はどうやら特殊らしいが、まぁウチの家族は大らかなので、今となっては一緒に語り掛けてまるで団欒のような雰囲気が辺りを満たすのだ。
それがまた、私は好きだ。
「ギレムお兄様、おはようございます!
今年は我が領に王家の御一行が避暑へいらしているのですよ。
先日はその歓迎の夜会を邸で開きました」
「この前来た時にも話ただろう、ギレム。覚えているか?
準備が大変だったんだぞ」
「ギランお兄様が私と遊ぶ時間を割いてまで準備していたんです。
当然、恙無く終わりましたよ。
それに当日のギランお兄様の晴れ姿のかっこよさったら!貴公子でした!!
私達のギランお兄様は本当に凛々しくて優しくて素敵です!
絶対に来ていた令嬢の五、六人は恋して帰ったと思いますよ!!!」
「何だその妙な想像は」
「女の勘です」
「まぁ」
「五歳児のな」
胸を張って言い放つ私の言葉にお母様とお父様も堪らずに笑みを零す。
穏かな空気にレムも嬉しそうに尻尾を揺らしていた。
「でもそんなギランお兄様ですけどね、また私を理由に勉強から逃げて怒られていましたよ。どう思います?ギレムお兄様?
ギレムお兄様も一緒になって勉強から逃げちゃいます?」
「そしたらリーシャも一緒に勉強させるしかないわね」
お母様が神妙に頷く様子を見て、私は慌てて墓標に言い募る。
「大変ですギレムお兄様!!どうかギランお兄様を諫めてください!!!
私はまだまだ外で遊びたい幼気な五歳児です!!」
「レムだってリーシャと遊びたいだろう?なぁ」
「ウウッ、ワン!」
ギレムお兄様の前ではギランお兄様は時折弟を『レム』と愛称で呼ぶ。
それが愛犬と同じ呼び名だから、大概レム兄様がまるでギレムお兄様の代わりとばかりに返事をするのが何ともややこしくも微笑ましい。
今回のギレムお兄様は私の願いを聞き入れてギランお兄様を諫めたようだ。
勉強しろと叱るようにぐいぐい頭を押し付けるレムを、お兄様が優しい手つきで撫でる。
「だってなぁ、俺が勉強している間にレムはリーシャと遊んでるじゃないか」
「ギランお兄様が勉強している間に私の相手をしてくれてるんですぅ」
「それは自分で言う言葉か?」
「事実ですもの」
「レム、俺達の妹はこういうところがなんかお前に似てるよ。
時折急に大人びて俺を言い負かして来るんだ、小憎たらしいくらいに可愛い」
「ふふふ、ギレムお兄様と私が揃ってラン兄様を諫めたら過剰戦力ですね」
「ああ…ほんとにな…」
少しだけ切なげな面持ちをするお兄様に私は身体を寄せ、一緒になってレムの柔らかく温かな毛並みを指で梳き撫でた。
「じゃあレムはラン兄様の味方でいなきゃね、不公平だわ」
「クゥン」
「なんだ、俺と一緒に勉強は嫌だってか」
「今のは違いますよ、『仕方ないから一緒に受けるよ』ですよ」
「ほらやっぱギレムだって勉強より外の方が好きなんだ」
わしゃわしゃとレムの顔を撫で回しながらギランお兄様が笑う。
呆れたようにされるがままのレム兄様が何とも愛らしい。
「私達はストラス家の一員ですもの、自然を愛して当然です」
「…そうだな。領地を占める豊かな自然は愛しくも恐ろしい。
ギレムが水の神に欲された時も、それを強く感じたよ」
私の言葉に、お父様が静かに零す。
振り返った子どもたちを見つめたまま、お父様はお母様を傍らに抱き寄せながらそのまま言葉を続けた。
「ギランも見ていただろう?
湖の際に落ちたボールは幼いギレムですら手の届くすぐ足元だった。
にも関わらず…まるで何かに引っ張られたようにギレムは湖に落ちた」
「…………」
「湖の淵辺は浅いところが殆どだが、時折深い場所もある。
自力で出てくるかとも思ったが俺は慌ててすぐに後を追って湖に入った」
「ええ…」
硬い声音を漏らすギランお兄様の手が微かに震えていた。
私は咄嗟にその手を強く握り締める。
返される力強さに、少しだけ安堵した。
「俺の膝下くらいの深さだがギレムの姿は見当たらなかった。
流れも無い湖なのに…異常だろう?これじゃまるで神隠しだ」
「…でもギレムお兄様の御遺体は」
「ああ、動転する二人を邸に戻した後も湖の中を探し続けて、漸く見つけられた」
「落ちた岸辺に、…仰向けで打ち上げられていたそうよ」
ああ、だからお父様は湖に行くと余計、自責の念に苛まされるのだろう。
ギレムお兄様が落ちた時にもっと傍を良く探していれば間に合ったかもしれない、と。
湧き水で満たされた青い湖は、覗き込むだけで水底が分かる程澄んでいると聞く。
だから猶更、悔恨が募る。
森の中に出掛けるのだ、子どもに着せる服はハッキリとした明るいものだったろう。
そうした気遣いや留意を忘れるようなお母様ではない。
きっと水の中でもすぐに見つけられた筈だ。
なのに実際は、音も無く静かに、愛しい息子が神の御許へ旅立った。
「思えばあの時から…ギレムは神に執着される程、愛されていたのかもしれない」
「っだからって、命を奪う程でしょうか?!!」
カメリヤ色の瞳が激しい感情を湛えて震える。
今にも零れそうなそれすらも抱き締めたいと、私は堪らずギランお兄様の身体に腕を回した。
「身体だけを返されたって…レムは、俺の魂の半分は奪われたままだ!!」
「ラン兄様、それは違う」
「リーシャに何が分かる!?これはっこれだけはお前にだって分からない!」
「ギラン兄様とギレム兄様だけが分かる繋がりは確かにあるでしょう。
でもギランお兄様の魂はちっとも欠けていない、寂しさを見間違わないで」
「っ!」
「欠けて生まれる命なんてありません、どんな命も魂もありのまま十全なのです」
ぼたぼたとギランお兄様の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
ずっと抱えてきた喪失感の行先に惑いながらも、抱き着く私を振り解かない彼の愛情や優しさが只管に愛おしかった。
「ギランお兄様の喪失感はギレムお兄様を愛して、慈しんでいたからでしょう?
悲しいのも寂しいのも、遣る瀬無いのも当然でしょう。
でも決して永遠に埋まらぬ寂しさではないと、どうか気付いて欲しいのです。
ギランお兄様はギランお兄様。私達家族の愛しく誇らしいたった一人の十全な人」
「…お前は、本当に…時折憎たらしくなる程、愛おしい」
「溺れる程に愛しましょう、私の誇り、私の宝、大事なお兄様。大好きですよ」
「ああ、…寂しくなんかさせてくれるなよ」
「では今夜も一緒に眠りましょうね!」
笑う私を、泣き笑いをしたギランお兄様が抱き締め返してくれた。
ああ、やっと彼が私を見てくれた。
どうか一人で抱えないで。
寂しいなら寂しいと言ってくれて構わない、私達が傍に寄り添おう。
ギレムお兄様が、ラン兄様に与えられる愛情とは違う形であろうけれど、それでも存分に、もう満ち足りたと笑えるほどに私なりの愛情を注いでみせよう。
つい先日、貴方が私に施してくれたように。
抱き合い慰め合う子どもたちを両親が涙目で見つめていた。
二人の愛情をたくさんに与えられたからこそ、私達はこうして人を思いやり、愛し、大事にする生き方が出来ているのです。
幸せです、お父様お母様。
私はこの家族の元に転生出来た事が本当に嬉しい。
きっとレム兄様だってそう思ったから、私に御力を与えて下さったのだ。
ギランお兄様が少し落ち着いた頃合いを見計らって、私は忘れずにギレムお兄様へちょっとした小言をのたまう。
「ギレムお兄様も家族を大好きなのは良く分かりますよ。
でも幾らなんだって王子殿下の目の前で、私に報せるのは如何なものかと」
「苦言の内容がそれで良いのか、リーシャ」
「本当にこの子は…」
「せめて俺とレムが揃っている時にして欲しかったよな」
「全くです」
苦笑するお父様お母様を他所に、私とギランお兄様は顔を見合わせて頷いていた。
ギレムお兄様にも困ったものである。
まぁ大事な事を思い出させてくれたのは大変ありがたいが。
「そういう訳で、もし他にも伝えたい事があるならくれぐれも、くれぐれもですよ!ギランお兄様とレム兄様が私の傍に居る時にお願いいたしますね!」
不遜な妹は言いたい事はしっかりと言う。
甘やかされた五歳児は無敵である。
きっとこんな妹も、あの優しいギレムお兄様なら許してくれるだろう。
「――――――…………」
「リーシャ?」
急にすとんと黙った私の顔をギランお兄様が覗き込む。
その美しいカメリア色の瞳、髪の色は美味しそうだと思ってしまうビスキュイ色。
髪色だけは、ギレムお兄様もギランお兄様も同じだった。
私の大好きな二人のお兄様達。
「…まさか、本当に?」
「何かギレムから伝えられたのかリーシャ」
愛娘の様子を訝しんで一歩下がって見守っていた両親が近づく。
振り仰いだお母様の孔雀の羽を思わせる美しい青緑の瞳は、私もギレムお兄様もそっくりそののまま受け継がなかったが、それぞれ似たような自然を感じさせる青の瞳を賜った。
ギレムお兄様の、前世で見た白樺の森に囲まれた美しい青い湖のような藍玉の瞳。
愛情に満ちていたその色合いを私も愛していた。
私はギレムお兄様にお会いした事は無い。
でも、彼の姿なら昔に家令が描いた絵で見た事がある。
赤ん坊の頃の姿だ。
きっと、その印象が『記憶』に影響しているのだと思う合理的で保守的な考えが頭に浮かべど、それが本当に正しいとは思えないから私はただ口を噤んだ。
「くぅん」
弱々しくレムが私の身体に顔を押し付ける。
『記憶』から引き摺り出されたギレムお兄様とも違う青系の瞳。
レムの瞳は私達よりも紫味があるラピスラズリのような青だ。
(…これは、言うべきなのだろうか、確認するなら今?)
でも、もし、もしもだ。
私が『記憶』から紐解いた内容を話せばきっと家族は全員が泣く。
だってその記憶の世界ではギレムお兄様が生きていた。
悲惨な事件が起きるその時まで。
そう、私は十二歳。
お兄様達は十九歳を健やかに迎えていた。
時間差でありありと浮かぶ当時の家族の姿に、再び憐憫の渦に引き込まれそうになるのを胸元を押さえ唇を噛み締めて何とか堪える。
だって、私の家族は今まさに此処に居る。
ギレムお兄様の姿だけが、『記憶』と違って喪われたまま。
(私が見た『記憶』は…これから私達に訪れる『未来』では無い?)
でなければ一体、何の『記憶』だというのだ。
再びギレムお兄様の墓標を見つめるも、彼は答えてくれなかった。




