63:プロローグ
低く頭を垂れ、視界が花紅柳緑を思わせる絨毯で満たされた時、私は思い出した。
『思い出す』という表現は相応しくないかもしれない。
まるで、初めて自分が「呼吸をしている」のだと意識するような、そんな感覚。
無意識から意識上に浮きだしたそれは、あまりに荒唐無稽で。
言葉の代わりに細い嗚咽が押さえきれず口から零れたと思った瞬間、身体を支えていた糸がぷつりと切られたマリオネットのように私はその場に崩れ落ちた。
「リーシャ嬢?」
「お嬢様!」
つい今し方まで話していた相手が眼前で急に蹲り倒れたのだ、流石の王子殿下だって声が上擦るだろう。
傍らに控えていたマノンが異常行動をとる私の両肩をそっと支える。
「っ、ぁ…ああ……っ」
大丈夫と口にする代わりに私の喉から出たのは情けない呻き声。
波濤のように押し寄せる絶望と喪失感に一度開けた口が閉じられず、ぼたぼたと大量に落ちる涙と鼻水に涎まで垂らして泣き喚く姿は到底五歳の淑女には相応しくないものだ。
「申し訳ございません。
主に代わり御前から下がる事を何卒ご容赦賜りますようお願い申し上げます」
「許可する、此方を気に留めなくて良い」
「深謝申し上げます」
マノンが唐突に泣き崩れて動かなくなった私を力強く抱えあげ、足早に王子殿下の前から辞去して向かう先はすぐ傍の空き部屋だった。
兎にも角にも目上の人の前から醜態を晒す主を隠す事を優先してくれた。
本来私は今はまだ、夜会の来客対応をしなければいけない。
小休憩を挟んだ後にだって折角来てくれたお客さまへのおもてなしを色々とお母様達と一緒に考えたのだ。
戻らなきゃ、やらなきゃ、私はもう五歳なのだから。
そう頭の片隅では考えているのに、胸を突き上げ今にもこの身を打ち破らんと言わんばかりの慟哭が一向に収まる気配が無い。
王子殿下の前から隠されたからか愈々大声をあげて私は泣き喚いた。
叫ぶようなその異常な泣き方に、マノンがまるで我が事のように泣き出しそうな顔をして私の事をぎゅうと抱き締めてくれるが、それでも慰めが足りなかった。
「リーシャお嬢様…っああ、どうか泣かないで…」
「あああああァっ、ああっうっわぁぁあああっあああアああぁッん」
「そんなに泣かれると、その可愛い瞳が溶けてしまいますよ」
「っあ、ヴぁ、あああ、ぃ、いあ、あああああああぁ」
マノンの身体に縋りながらも私の慟哭は止まらない。
止められない。
脳裏に何度も繰り返し翻る映像と、脳を刻むような残酷な記憶がこのまま私を散り散りに引き裂いてこの身も心も壊そうとしているのかとすら思えた。
「っリーシャ?!!」
荒々しく開かれた扉から顔を出した人を見た瞬間、私は弾かれたようにマノンの腕の中から飛び出す。
「ら、ラン兄様ぁあああああアアッ!!!!」
「ああ俺だ、もう何も怖く無いだろう?」
「ああああああああああっ!!!あああああああああっ、あああっああ!!」
「何でより酷くなるんだ…」
私を力強く抱き締める嗅ぎ慣れた匂い、温もり。
夜会会場から全力で駆けてきてくれたのか汗ばんだ首筋に齧りつくように顔を埋めながら、私はより一層痛哭な声を上げ続けるのだからギランお兄様も困るだろう。
それでもただお兄様は優しく何度も私の背を撫で、髪を指で梳き、まるで赤子をあやすかのように穏やかなリズムで小さく揺すってくれた。
私が生まれて間も無い頃より、随分上手になった仕草だ。
久々に味わう極上の甘やかしに私の心も安堵し、泣き声も落ち着き始める。
ギランお兄様は的確にそれを見抜き、泣き喚く主人の為に出来る事の少なさを歯痒そうに押し堪え佇む侍女のマノンと護衛のエタンへと声を掛けた。
「マノン、…いやエタン、子供部屋を頼めるか」
「畏まりました」
二人とも私が夜会中に開かれる子供部屋で何をしようとしていたのか把握しているものの、それを実行し取り仕切るには身分が足りない。
本当なら、私の代わりにギランお兄様が彼等を持て成すのが対応としては適切なのだろう。
しかしお兄様は抱き上げた私を降ろす気配は皆無だ。
不謹慎だが、今はそれが嬉しくて堪らなかった。
「お前以上に優先するものなど無い」とでも言わんばかりのお兄様の愛情へ応えるように、私も一際強くその身体を抱きしめ返した。
こうして満たされた私が少し落ち着いたタイミングを見計らい、お兄様の護衛が私達を先導して人通りが無い廊下を足早に進む。
迷いなく向かう先は私の部屋だ。
ラン兄様の凛々しい夜会服は既に私の涙や鼻水でべしょべしょに汚され、強く縋り付かれたせいで皺だらけになり見るも無惨な状態だった。
それも気に留めず、させたいようにさせてくれる家族が愛おしい。
甘えさせてくれる存在のありがたみを噛み締める度に、またぶり返す様に『記憶』が呼び起こす喪失感に私の心は大きく揺れた。
「レムは?」
「もう間もなく」
また再び声を上げて泣き出した私の騒音を縫うように独特な足音が微かにする。
居室の扉が開いたと同時に茶色の塊が私目掛けて飛び込んで来た。
「レム!!」
「オンッ!」
温かく濡れた舌が私の汚れた顔を嘗め回す。
生暖かい獣の吐息は荒々しく、だけど優しく温かい。
私は両手に収まるその頭をぎゅうと抱き締め、その艶やかな毛並みに顔を埋めた。
嗅ぎ慣れた匂い、高い体温。
私のもう一人の「お兄様」。
ギランお兄様に抱き締められたまま、生まれた時からずっと一番一緒の時間を過ごし、共に育ってきた愛犬をも与えられた私は少しずつまた泣き声を収めてゆく。
か細く鼻を鳴らすレムが、まるで「泣かないで」と言いたげに何度も私の顔にその温かな肌を擦り付けてくれる感触が心地良かった。
温もりは喪われていない。
私の周りには、まだ、みんながちゃんと居る。
「はぁ…レムの方があやし上手とか、妬けるなぁ」
「ギラン様の膝の上だからお嬢様も落ち着いたのですよ」
「ありがとう、マノン」
本当にマノンの語る通りである。
大好きなギランお兄様が私の小さな身体を抱き留めたまま、且つ、大好きなレムを抱き締める事で私はやっと安息を覚えたのだ。
落ち着きを取り戻せば、『記憶』ではなく今この瞬間に目を向けられた。
この部屋に姿が見えない両親だって大丈夫、ちゃんと生きている。
確かに私の愛しい家族は此処に存在する。
あんな、悲惨な光景は、嘘だ、幻だ。
轟々と朱く燃えるストラス邸。
ちらつく雪か火の粉か、曇天を炙らんが如く昇る劫火。
あの中には私の大事な家族がまだ居るのに。
私を慈しんでくれる大切な人々が残っているのに。
嫌だ、止めて、こんな悪夢。
どうかそれこそ夢であってくれと切に願いながら、ことりと意識が落ちた。
だが、きつく閉じた瞼の裏に映し出される悲惨な光景は、気を失うように落ちた眠りの先でも私を待ち構えていた。




