閑話:薄倖の真神
自分と他人を理解した時は既に「母親」は亡く、家族という括りの中には「父上」と呼ぶ人間だけしかいない事がどうやら他から見たら「可哀そう」なのだと知った。
己を世界に送り出した人が既に不在となり一年経った折りだ。
次々と現れる見知らぬ黒服の人々の波がただただ不思議な群れに見えた。
そして彼等彼女等は代わる代わる私の顔を覗き込み、誰もがその眉を潜ませ力無く落とし、様々な色の瞳を潤ませ時には涙すら流して見せては口々に「可哀そう」と零した。
私の世話をしてくれていた乳母や爺が見せた事の無い表情は興味深かった。
ああ自分は「可哀そうな子ども」なのだと、当時はその意味をまだ良く理解していないものの認識は果たしつつ、向けられる視線の中に潜んだ蔑みはしっかりと感じていた。
だが不思議なもので、彼等は蔑みつつ私を過剰な程丁寧に扱うのだ。
まるで傷つけてはいけない真珠になったかの心地を覚えた。
柔らかな陽が差す子供部屋で侍女や従僕と遊ぶ時の高揚とはまた違う、何か不思議な心地が胸を落ち着かせなくした。
むず痒くて俄かに口元を緩めて笑う私を見て、彼等は更に息を呑み嗚咽を堪える。
己の感情はまだ育ち切らず目の前の人の表情を真似る幼児期であっても、そんな人々の感情の変化を見る都度興味深いと驚き観察していたのだから、やはり私は父上の子なのだろう。
共感よりも他人と自身の乖離に気が向いてしまう。
ふとすると考え込み表情が無くなれば、誰もが怪訝な眼や具合が悪いのかと聞くものだから、幼心に誤魔化しを覚え微笑を張り付ける癖が付いた。
それすら面倒臭くなった大人が私の「父上」だ。
それが当たり前の生活を送っていた中、唐突に「父上」がアンヴァリッド公爵家への訪問時にまだ二歳の私を伴った。
久し振りに繋いだ「父上」の手は相変わらず極上の絹に包まれていた。
私の覚えている彼の感触。
何時も、そのしなやかさの中に硬い何かが詰まっている。
得体の知れない温さは私に奇妙な心地を覚えさせた。
本当は皺の多い冷えた爺の手の方が好きだった。
だからそんな私達を見て、良いわねぇと微笑む人の気持ちが良く分からなかった。
ならばと「それ」を相手に差し出せば、誰もが目を丸くする。
そして「父上」は直後に私の手を少し乱暴に振り解くのだ。
だがこの時ばかりは、何かを託すようにそっと離されたのを覚えている。
見慣れた我が邸の玄関とも違う、厳格で静謐な教会などとは掛け離れた温かみのある色合いをした広いホールは見た事がある他人の方が圧倒的に少なかった。
偶に邸に顔を出す、親近感を抱かせる銀灰の髪をした男はいつも通りの笑みだ。
その隣に佇む美しい女性が柔和に私を見つめていた。
「ユーデス、挨拶を」
「…ゆーです、ねうすとら、ともうします」
「まぁなんてお上手なご挨拶かしら、御立派ですわ」
良い香りのする夫人が私の背丈まで膝を折り、微笑みと共に私の顔を覗き込む。
毎回、他人にこれをされると何処となく心が落ち着かなくなる。
下げてはいけないのに、視線は自然と服の袖を握る丸い自分の手に落ちた。
「貴殿に瓜二つな幼子が恥じらう姿は何とも奇妙だが、愛らしいな」
「一言余計だ」
闊達に銀灰色の髪を揺らして笑うアンヴァリッド公爵の背後には、まるで型を多少ずらしたように似通った子どもたちが控えていた。
その中に私を多少大きくしたような美しい子どもが居た。
まるで「母親」が大切にしていた真珠の首飾りに似た髪色をした子どもだ。
彼はじっとその真珠を微動だにさせずラベンダー色の瞳で私を見つめていた。
自己紹介する他の兄弟の声を他所に私もずっと彼の瞳を見ていた。
「さぁ子どもは子どもらしく遊びなさい」
気が付けば広く明るい応接間へと移動していた。
室内でテーブルを囲み歓談する大人達とは別にされた私は、見上げなければいけないような子どもにそっと背を押されながら開け放たれたテラスから出て、整えられた広く緑美しい庭に連れ出された。
「ユーデスは普段どんな遊びをしているんだい?」
年下の扱いには慣れているぞと言わんばかりにしゃがみ込み私を覗き込む長兄の問い掛けに、傍らで控えていた爺を振り仰ぐも彼は微笑むばかりだった。
「…つみきとか、おいかけっこ」
絞り出す私の言葉に大きく頷いたのは次男だ。
「折角庭に出たんだ、おいかけっこをしよう」
そうして唐突に始まった遊びに多少の戸惑いはあったが、初めての子ども同士での遊びはすぐに私の心を掴み、邸で上げた事のないようなはしゃいだ声が自分の喉から出ていた。
次男が私を捕まえれば当然のように擽って来て、柔らかな芝生の上を笑い転げながらまだまだだと立ち上がり再び逃げ出す。
これの繰り返しだ。
一方長兄は、捕まえた三男をさっと持ち上げると高く掲げぐるりと回す。
羨ましそうに見ていた私に気付いた彼が、同じように私に手を伸ばしたかと思えば「軽いな!」と公爵に似た笑顔で空に放り投げた。
未体験の浮遊感。
あっと言う間に虜になった私はそれを何度も強請った。
長兄が疲れれば、また今度はかけっこに戻り私は次男を追い掛ける。
中々彼は捕まらなかったが、何とかその温かい身体に触れた時は得も言われぬ達成感に満たされた。
先程の仕返しだとばかりに彼を擽れば屈託のない笑い声が響く。
楽しかった。
嬉しかった。
夢中になった。
笑顔ばかりが溢れる無邪気な時間。
ネウストラ公爵家には無い、賑やかな世界。
駆け回る事に疲れて一息を入れる為に室内に戻ればその席も騒がしかった。
卓上に並ぶ菓子は知っているものばかりだったが、まるで違うものに映ったし、その味わいもはしゃぎながら食べると一段と美味しく感じられたのを覚えている。
目移りする自分の前に誰もが笑顔で差し出す事を当然のように甘えた。
今思えば、それがいけなかったのだろう。
「ねぇユーデス、僕と庭に行こう」
「うん!」
心も小腹も満ちて自然と私の顔は笑顔になる。
美しい瞳をした三男イザイエに手を引かれ私達だけで庭に出る最中、ふと振り返れば、それを嬉しそうに長兄らや閣下夫妻が笑顔で見守っていた。
「父上」の顔はいつも通りだったがかえってそれが私を安心させた。
躊躇いつつも小さく「父上」に庭から手を振れば、そっと彼が白い手を振り返す。
反応を返された事が嬉しくて堪らずその場で何度も跳ねた。
そんな親子の様子をまた、閣下が笑っていた。
「イザイエ、何してあそぶ?おいかけっこ?」
言い終わらない内に笑顔で駆け出そうとする私の手を彼がぐっと引き寄せた。
大きく思い頭が後ろに身体を傾げる。
ぼすりと後頭部が彼の肩に当たり、顔をそのまま上に向ければ、真っ青な晴天を背に仄暗い美しい瞳が私を覗き込んでいた。
「どうしてそんなに楽しそうなの?」
「イザイエたちとあそぶの、たのしい!」
心のままにそう口にすれば表情もそれを物語るように殊更笑顔となった。
イザイエも、その左右均等の整った顔をゆっくりと笑みの形にする。
しかし私の笑顔を映し出す瞳は歪まず、見開いたままだった。
「どうして笑っていられるの?キミのせいで母親は死んだのでしょう?」
「…えぇ?」
彼の言葉の意味が良く分からなかった。
私が知る「母親」は既にこの世に居ない人だ。
話した事も無ければその姿は絵でしか見た事も無い。
悦びも悲しみも、愛情も、何も彼女から与えられた事も無ければそれは最早あの黒服の他人以上に、私の世界の外側に存在するものだった。
だからイザイエに、私の「母親」が私の責で死んだと言われても実感が生じる訳も無く、ただただあの日の参列者に浮かべたような曖昧な微笑みを浮かべて見せた。
そうすれば「母親」の話をする誰もが私を「可哀そうな子ども」として大事に接してくれる。
幼く浅はかな自衛と媚び。
きっとそれも彼の気に障ったのだろう。
「分かっている?キミがこの世に生まれたから夫人は死んだんだよ?」
「………」
初めて言われた言葉だった。
具体的に、私の浴びた「可哀そう」の意味を知った。
他人が私を見て可哀そうと口にするのは「母親を亡くした私」にではなく、きっと、「私を生んだ事で死ぬ事になった母親」を悼んでいたのだと。
傷一つない完璧な真珠は、私にそれを告げた。
ならば正しく「可哀そう」の意味を知り、その言葉を浴びせられた私はどんな表情を取るべきなのか。
込み上げて来たのは無表情を通り越した「悲しみ」だった。
瞬きを忘れた私の視界が歪む。
それは間違いだと言わんばかりに、室内から見えぬ側のイザイエの手が私の髪をぐしゃりと力強く掴み、ブチブチと毛が抜ける音と痛みが意識を浚う。
「どうしてキミが泣くの?
可哀そうなのは夫人なのに、キミの死んだ「母親」なのに?」
はくりと唇だけが動く。
喉は震えるも音を出せず、身体から何かが漏れ出すような呼気を零す。
見上げる彼の表情が影と笑みを深めた。
「泣きたいのは夫人だよね?だってキミに殺されたんだよ?
まだ若いのに、閣下とも仲睦まじかったとも聞くよ?
それをキミなんかに奪われて壊されて、死んでしまったんだよ?」
「…そんな、の、しらない」
私の負うべき責じゃないと反感を抱いた。
私が「母親」をそうしようと願った事など一度たりともない。
だって知らない人だ。
何故そんな事を願わなければならないのだろう。
でもイザイエは、そんな事が問題ではないと言いたげにぐっと私に顔を近づけて、痛みを覚えるものの痕が残らない絶妙な力加減で私の頭皮に爪を立てた。
まるで頭を撫でるように何度も上から下へ。
私の皮を剥ぎ、中にある何かを取り出さんとするかのように。
「知らなければ殺したって良いの?人の命や尊厳ってそんなに軽いの?
だからキミはそんなに暢気に笑うの?」
笑っているのはイザイエの方だ。
何故、そんな私に美しく顔を弛ませているのだろうか。
彼と自分との乖離に、己の顔が無表情へ変わる。
それに気づき、癖で微笑みを張り付けた私に彼の表情が抜け落ちた。
「知った上でその顔をするの?なんてヤツなんだろうキミは。
それじゃあ閣下も息子として愛せないのは当然だよね」
それも、知らない。
「父上」は私を愛していない?
爺や乳母は、不器用ながらも「父上」が私を愛していると言ったのに。
ああ、だから手を離したのか。
やっと離れられる、と「父上」も安心したんだろう。
玄関でのあの触れ合いが脳裏を過った。
「寧ろ閣下はお辛いだろうね、最愛の妻を殺したキミが家族だなんて。
でも蔑ろにすれば醜聞になるから愛している体裁を取らなければならない。
旧友である僕の父にも隠さなければならないなんて、苦悩だろうに」
蔑ろ、醜聞、体裁、苦悩。
聞いた事の無い言葉ばかりが並んだ。
でもきっとそれは「父上」を「可哀そう」と思ってイザイエは口にしているのだという事は、幼心ながらにハッキリと理解した。
「それでもキミは嗤うのだろう?愉しいのだろう?
声を上げ、明るい陽の差す世界を謳歌し続けるのだろう?
ねぇ、そんな事を神様が赦すと思う?」
知っている。
神様は、そんな事を許さない。
悪い事をすれば罰を与えるのが神様だ。
ならば「母親」の命を奪い、「父上」を苦しめる私に与えられる罰とは?
急に恐ろしくなって膝から力が抜けた。
その身体をイザイエが後ろから抱き締めるように支える事により、辛うじて人の形を保っていられた。
「坊ちゃま」
「どうやら眠くなってしまったみたい」
慌てて駆け寄る爺に、イザイエがそう穏やかな声音で告げながら私の身体を反転させ、大した対格差も無いのにまるで長兄のように私を抱き留めていた。
見えなくなったのにまだ私の瞳には彼のラベンダー色の瞳が映っていた。
美しく仄暗いそれが、チラチラと燃え残った暖炉の薪のように明滅していた。
微かに香る彼の匂いはあの日の教会と同じものだった。
それがまた、黒服の人波を私に思い起こさせ無理矢理に目を閉じた。
やっと慣れた香りと体温に包まれても私は眼を開けなかった。
開ける事が怖かった。
もしかしたら爺も、あの穏やかな笑顔をしながら「可哀そう」と思っていたのでは無いかと思えては、また込み上げる涙を必死に飲み込むために顔を彼の肩に擦り付けた。
それは傍から見れば眠くてぐずっているように思える仕草だった。
「あんだけはしゃげば疲れもするよなぁ」
「ふふ、イザイエの小さい頃を思い出すよ」
「僕はこんなじゃありません」
「あははは!そうかそうか」
いつの間にか庭に出て来ていた長兄達の笑い声が心をざわつかせた。
早くこの空間から逃げ出したかった。
急かす様に、私をイザイエから受け取った爺の胸元を強く握る。
「部屋に案内させるよ」
「ありがとうございます」
そうして私はアンヴァリッド公爵家の一室に連れ込まれた。
未だ力を込めて目を開かず横たわる私の額を、冷たい手が撫でる。
「ようございました、坊ちゃま」
ポツリと爺がそんな言葉を零す。
それは、「可哀そう」を正しく理解した事に対してなのだろうか。
彼が退室するや否や私は上掛けを頭から被って蹲った。
そしてやっと爆発するように震えて泣いた。
くぐもった声と熱で頭が朦朧とする。
感情も考えも纏まらないまま、ただそうしていた。
気が付けば馬車の中だった。
ふと視界の中に、夕暮れに照らされる「父上」が映り込む。
彼は黙って私を見ていた。
「起きたか」
「…」
それだけを言い、同じダブグレー色の瞳はふっと逸らされ窓の外に向いてしまう。
ガラガラと静かに規則正しく車輪が回る音と振動に、私は再び目を閉じた。
次に起きた時には既に空は青く晴れ渡っていて、自分の見慣れた寝室である筈なのにまるでアンヴァリッド公爵家に居る時間へと遡ったかのような錯覚を覚えた。
実際にはそんな事はなく、だがそれに近いものではあった。
日を置かず再び私はアンヴァリッド公爵家に連れていかれたのだ。
正直、行きたくなかった。
また知りたくも無い現実を知らされて泣くのは嫌だった。
だが得体の知らない何かが詰まった手は私の手を握ってそこへ導く。
振り解きたかった。
振り解けたのならどんなに良かっただろうか。
「やぁユーデス」
明るい玄関ホールで見るイザイエの瞳は美しくも恐ろしかった。
それに躊躇する私を長兄がひょいと抱き上げ、昨日のように笑う。
「なんだぁ、人見知りかぁ?」
「一晩寝てもう忘れちゃうなんて寂しいじゃないか、ユーデス」
「さぁ今日も遊ぼう」
口々に彼等が笑顔で零す言葉に、私は何と返せば良いのか分からず、昨日イザイエに窘められたにも関わらず曖昧な笑みを顔に張り付ける。
それを彼等は何も言わない。
この日は昨日と違い積み木で遊ぶことになり、まぁ幼いから仕方が無いが先程まで抱えていた不安は何処にいったのか、またはしゃいで大口を開いて笑うようになるのに時間は掛からなかった。
そうすればまたイザイエが痛みと共に私に言うのだ。
「母親を殺した罪人の癖に」
「愛されない子どもは上辺も媚びも見抜けない阿呆だ」
「公爵家の血を残すだけに生かされているんだよ、キミは」
「ねぇ何で笑えるの?」
「ねぇ何でキミが苦しそうな顔をするの?」
「ねぇ愉しんで良いと思うの?キミが?どうして?言って御覧?」
堪えられなくなればまた眠くなった振りをして、一人で泣いた。
普通、昼寝をしていた子どもの目元が明らかに泣いた跡があれば誰だって何かあったと気付くものだと思うものだが、誰も私にそんな声を掛ける事は無かった。
「ユーデス、楽しくて帰りたくないんだって。
こっそり僕だけに教えてくれたんだ。
だからね、寝たふりしちゃえばって言ったんだ。
そしたらきっと閣下も泊まらせてくれるよって」
そんな事をイザイエが初日に爺へ話していたと知ったのは随分後だった。
何時までも遊びに来てはぐずって眠るを繰り返す私に、さも微笑ましいと言わんばかりの微笑みを浮かべて爺がゆったりと教えてくれたのだ。
「坊ちゃま、お泊りしたいのなら直接閣下にお願いをしましょう。
閣下は貴方様のそのお願いを叶えてくれますよ」
それは体裁の為だろう。
我儘を言って「父上」を苦しめて、罪を重ねたくなかった私は首を横に振る。
そもそも、アンヴァリッド公爵家にも行きたくないのだ。
でもそうすればそれはそれで「父上」を困らせる。
だから私は何も言わずに隠すしかなかった。
もうこの頃には邸でも感情の起伏がほぼ無くなっていた。
でもそれを周囲は、遊び相手と離れて寂しがっていると錯覚していた。
言えない事がどんどんと降り積もっていく。
身動きが取れなくなった頃には、アンヴァリッド公爵家に行って兄弟達と遊んでもらっても私は無表情になっていた。
少しでも笑えばその都度イザイエが私に知らしめるのだ。
私は楽しむべきではない、と。
私は喜ぶべきではない、と。
私はそれを嘆き悲しむ立場ではない、と。
私は人前で泣くのも許されない、と。
だから人に知られないように心を圧し潰して、隠した。
他の人は騙せても、イザイエだけは鋭く私の心の機微を見抜く。
「今嬉しいんでしょ?まだ喜びを求めるなんて薄汚い心だね」
「隠せていないよ、不愉快だ」
「ああ、本当に救えないヤツだよキミは」
表情が消えるだけでなく雰囲気まで硬質になり、人を近づかせる事を避けた。
乳母も早々に任を解き、傍に仕える人間も最低限にする。
私がそうなる以前からアンヴァリッド公爵家に行く頻度は極端に減った。
それでも無にならないのは、大人の付き合いとやらだろう。
訪問しても邸の図書室で静かに本を読む時間が増えた。
庭で遊ぶ兄弟達の声も聞こえない其処は、地獄の中の密かな安らぎだった。
「折角遊びに来たのだから、一緒に遊ぼうよユーデス」
だがイザイエはそれすら許さない。
私を無理矢理外へ連れ出し、兄弟達の輪に投げ込むのだ。
何をしても無表情の私に彼等も気まずそうな空気を抱くのは当然で、結局、同じ場所で同じ遊びをしている筈なのにまるで其処に存在していないかのような状態になる。
気遣いをふんだんに乗せた長兄の歪な笑み。
次兄は、呆れたように嘆息を良く漏らす様になった。
それでも「何故お前が此処に居るんだ」とは言わないのが彼等だ。
一人にこにこと笑うイザイエだけが何時も楽しそうな不可思議な時間。
こうして日々を重ねた四歳の冬の事だったと記憶している。
珍しく王都に積もる程の雪が降ったせいか、複数台が絡んだ大きな馬車事故があったと目にした時、私はふと思ったのだ。
(私の婚約者も馬車事故で亡くなったな)
はたと読んでいた新聞を捲る手が止まった。
視線は動かぬままだが、瞳は文字を追ってはいなかった。
己の中に自然と浮かんだ『記憶』があまりにも不可解で呆然としていた。
(婚約者?いや、私はまだ婚約などしていない筈だが)
顔を上げて雪化粧をした庭を眺めながら己の「記憶」を再び、丁寧に辿る。
(婚約者…そう、私は彼女を大事にしていた…大切にしたいと思ったんだ)
姿形は全く思い描けないのに、何故か不思議と心に熱が燈る。
久々に感じた温かみだった。
私の中に、まだ他人を想える心があったのだと驚く。
思わず胸元を押さえる私に爺が小首を傾げた。
「どうかされましたか、坊ちゃま」
「…いや、この馬車事故が余りにも悲惨でな」
「左様ですね、誠に悲しい事故ですね。
献花台も設置されているそうですが贈りますか?」
「ああ」
小さく私が頷き返せば爺が穏やかに頷く。
己の些細な動きを誤魔化せた後、再び新聞を捲り読みながら更に思考をなぞる。
(私は彼女を大切、いや、守りたいとすら思えていた)
温かみをなぞればなぞる程胸が引き絞られるような悲しみが沸き起こった。
滲む視界を誤魔化すように目頭を揉む仕草をするが愈々堪え切れず、控えていた爺に献花台への手配を改めて言いつけて暫く一人きりにするように頼んだ。
静まり返った部屋で背凭れに身体を預け、独り「思い出」に耽る。
(何だろうこの『記憶』は…彼女を思い起こそうとすると胸が温かくなる。
胸の締め付けは、喪失の悲しみだけじゃない)
今度こそはっきりと己の胸元を握り締めた。
そうでもしないと、虚空に手を伸ばしてしまいそうだった。
(苦しい、彼女に会いたい…会いたい?
誰かも分からず出会った事も無い婚約者に?)
私は一体何をさっきから考えているのだろうと自嘲すら零れそうになる。
だが代わりに落ちたのは涙だった。
ほとほとと、静かに胸を掻き乱すそれが目から形に成らぬ感情を押し出す。
亡くしたくなかった。
守りたかった。
一緒に居たかった。
共に生きて行きたかった。
声も名も知らぬ、まして絵姿すら見た事も無い。
それは私の「母親」以上に私の世界の外の存在であるにも関わらず。
(どうして…、どうして、こんなに……胸が掻き乱される…!)
堪らず嗚咽が口から出た。
抑えるように額を机に付け、更に胸を圧し潰せど止めどない。
まるで思い出されるのを待っていたかのように、感情が、堰き止めを打ち砕いて隠して来た「私」を表の世界に引き摺り出すのだ。
(逢いたい、抱き締めたい…っああ、これが、『恋しい』という感情なのか)
私の中に呼び起こされた『記憶』は喪失の悲しみだけでなく、見知らぬ婚約者へと抱いた恋慕を伴い、まるで嵐のように激しく心を揺さぶり続けた。
何時しか窓の外は再び雪が降り始めていた。
気が付けば身体は寝台にあり、目元に熱が残るのを感じた。
泣き疲れて眠るなど久し振りだと感じつつも、この身を運んでくれた人に心配をかけてしまったのでは無いかと不安にもなった。
一体何があったのかと聞かれても答えようがない。
いや、答えたところで訝しがられるだけだ。
(これは…『記憶』ではなく、予言なのだろうか?)
窓の外に広がる、己の髪色に似た灰色の空を見上げながら思う。
(だとしたら、私はきっと彼女に出逢える、のか?)
考えるだけで幸福感を抱いた。
形容しがたい甘い痺れが、きゅうとまた胸を締め付ける。
そこに添えた指先がトコトコと早鐘を打つのを感じさせた。
何かを心待ちにするなど、それこそ記憶に無かった。
(一体どんな子だろう…彼女も、私の事を予言しているのだろうか)
その日はずっとそんな事ばかりを考えてしまい何も手に着かなかった。
だが時間が経てば、もしかして相手が無表情で愛想の無い私を見て気を落とし、愛してくれる事は無いのかもしれないだとか、そもそも予言など当たらないでイザイエのような人が婚約者になるかもしれないかと恐ろしい事を考えたりもした。
喩え婚約者と巡り合えたとしても、「彼女が馬車事故で亡くなる」までが予言だ。
(でもきっと未来なら、変える事が出来るかもしれない)
変えられないからこそ予言だときっと彼なら言い含めただろう。
それでも私は希望を抱き、信じたかった。
これこそ「母親」や「父上」を「可哀そう」にした私に課せられた試練なのだと。
(私は、絶対に婚約者を守ってみせる)
この気持ちがあったからこそ翌年のクロヴィス殿下との顔合わせも熟せた。
相変わらず私とイザイエは一緒に行動させられたし、常に彼に苛まされるのは変わらなかっただけでなく周囲からの視線も煩わしかったが、こんな私にもまだ人を愛せる心があるんだという自信が支えてくれていた。
(叶うならば、愛されたい)
大事に撫で愛ですぎて擦れた気持ちは歪さもあった。
生来の不器用さも相俟って、それは今でも苦笑を覚えざるを得ないものだが。
それでも私の最愛は、私のそのままを慈しんでくれた。
一目見た時からその瞳が印象的だった。
あの日、イザイエ越しに見た何処までも広い空を思わせる彼女の瞳。
いっそあの恐ろしくも美しいものを全て塗り替えて、私の世界を一色に染め上げるような、圧倒的に真っ直ぐに見つめるリーシャの瞳が。
抗おうなんて露も思わなかった。
彼女は言葉を飾らない。
無防備な程、その剥き出しの温かさを差し出してくる。
「ユーデス様は別に無表情ではありませんし、無関心でもありません」
忘れもしない。
誰がどう見たって無表情な私に向かって彼女はそんな事を言ったのだ。
きっと彼女以外が口にしたら、下手な世辞として気にも留めなかった。
でも彼女は本気でそう思っていたのだ。
感情を見せたくないから、そうしているだけなのだろうとすら看破して。
好きになった。
それはもう、簡単に。
こんな単純な程、キミは私の苦悩を解いた。
見透かした上で私を見つめるのだ。
その落ちてくるような空色の瞳を優しく弛ませ、笑う。
好きだ。
愛しい。
共に過ごす刹那毎に、その気持ちが降り積もってゆく。
積年で埋もれた筈の私の心は、優しく降り積もるそのふわふわとした悦びに押し上げられ、少しずつ、いや恥ずかしながらも急速に形を露にしていった。
愛し方も、愛され方も知らない私だが、それでも心の儘に手を伸ばせば彼女は愛らしい指先でそれを掴んで温め育んでくれる。
抱き締め返さずに居られる訳がない。
腕の中に彼女が在ると実感する度、幸福感で眩暈がした。
好きだよ。
愛している。
だからこそ絶対に未来は変えてみせようと思った。
危惧する馬車事故だけでなく、イザイエが私のブローチに目敏く気付き、当然のようにその幸福を奪おうとしたから余計必死に隠し、自らを窮地に追い込み彼からも彼女を守ろうとした。
最早己に課せられた試練であるなど念頭に無かった。
ただ、彼女と共に生きる未来が欲しかった。
私の傍らで笑い、腕の中で幸せそうに微睡むキミの姿を願った。
(逢いたい、抱き締めたい…っリーシャが、恋しい)
寝ても醒めてもキミの事ばかりを考えていた。
数えきれない程夢の中でキミを見た。
現実に戻る度に喰らう喪失感は堪えたが、永遠と比べれば乗り越えられた。
キミを永遠に喪う事に比べれば、何だって堪えられた。
一体何を間違えたのだろう。
いや、正解などこの世界に存在し得ないのだとあの瞬間に知った。
どう見たって彼女にしか見えない人の、どう思い直したって彼女しか言えない言葉を告げる人に、心を少しだけ掬われて持ち直した間も無くの事だ。
逆巻きの聖者の説話は私も知っている。
何度もその身を過去に飛ばして未来を良き方向へ変え人々を救済する話。
その陰で、繰り返し常に喪われる誰かが。
それが自分の最愛の人とは、一体何の冗談だろうか。
お前が戻る度に私の愛しい人は苦しみ、私は絶望を抱く。
「だって、だって、そうじゃなきゃ、あなたはそうじゃなきゃ」
違う。
私はそう在りたいと願った事など一度たりとも無い。
私が彼女を愛し慈しんだからこそ、彼女は死んだとすら言うのか。
私はそう在りたいと願った事など一度たりとも無い。
私が愛を傾ける先となる「母親」も「父上」も叶うならば愛したかった。
私は、そう在りたいと願った事など。
「……何故」
呆然と歩き続けた学院の庭先で一人、血塗れの顔で空を仰ぎ見た。
希えど空は落ちて来ない。
「リーシャ」
代わりに止めどない涙が流れた。
「リーシャ…っ」
口砕かれた顎から血と、嗚咽交じりの涎が垂れる。
隠す上掛けも無くあの頃のようにただただ泣き叫んだ。
「っすまない…私が、私が……キミを、愛したから…!」
知っていたとしてもきっと私はキミを愛しただろう。
だからこの世界に、私が生きる世界に私の求める正解は存在し得ない。
私の愛する人は、私が愛するが故に喪われる運命なのだから。




