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パドマの箱庭  作者: 菌床
三章:我らが女神の望み
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62:エピローグ


 深闇に落ちるような控えめなノックで目が覚めた。

扉の外に明らかな人の気配がして、一気に覚醒した頭と目で暗がりを睨む。

この頃は朝晩めっきり冷えるようになったので、扉に向かいつつ手早く羽織れるものを掴んで袖を通しながら誰何する。


「シャラムか?」

「…オスカー」


弱々しくも聞き間違える事の無い声にすぐさま歩みを早め、鍵を解き扉を開く。

其処には外套を被ったままの彼女が所在無さげにぽつりと佇んでいた。

灯りを持たないのは、寝起きの自分の事を思ってだろうか。

それともその恰好が目立つのを避ける為だろうか。


普段は考えない事に意識が行ってしまう程、無性に、佇まいが儚くて目が逸らせなかった。


普段以上にそっとその肩に手を置き、引き寄せれば容易くその身体が傾ぐ。

とつと軽い靴音だけを廊下に残すように扉を閉めた。


「任務帰りだろ…?おかえり」

「オスカー」


ぎゅうと彼女が俺に縋りつく。

脇から背中に伸ばされ、絡みつく腕が震えていた。

やたら冷たい。

濡れたまま服を着て来たのかと思うくらいだ。

外套が雨具替わりにもならない程、外は強かに雨でも降っていただろうか。

いや、今はそんな音も聞こえない。


静かに虫達が夜をそっと象るように鳴いているだけだ。


「何でこんな濡れてるんだ?いくらお前でも風邪引くぞ」

「人を殺した」


道理で、血の匂いがすると思った。

急いで水で洗い流して、そのまま戻って来たのだろうか。

堪らなくなってその身体を力いっぱい抱き締めた。

少しでも、自分の体温が移るようにと。


「だからって濡れたまま帰ってくるバカが居るか、馬鹿者」

「二回もバカって言う…」

「兎に角風呂入るぞ」

「離れたくない」

「誰が一人で入れるって言った」

「…うん」


丸まった背中を押してシャワー室へ向かう。

色の濃い外套を剥ぎ取れば、鬘のままで水を浴びたのだろう、びしゃびしゃに水を滴らせ、ところどころまだ血が残った薄汚れた癖のある金髪の彼女が居た。

髭までご丁寧に本物のようについている。

一瞬、本当にシャラムか分からなくなって躊躇った俺を見上げる瞳を見て、落ち着かせるようにそっと冷たい唇に自分のそれを重ねた。


「髭面のお前にキスするのは妙な気分だ」

「…」


そそくさと髭も、金髪も外して洗面台に投げ捨てる。

おいおい一応変装用の備品だろうに、そんな雑な扱いで良いのか。

こいつ妙なところで雑だよな。


濡れそぼった男物の古着を脱ぐのを手伝えば、見慣れたお守り袋が彼女の晒で覆われた胸元で揺れる。


そっとそれを俺が持ち上げれば、彼女が冷え切った両手を重ねて、何よりも大事だと物語るように丁寧にゆっくりと外し洗面台ではなくわざわざ寝室の机の上に置きに行く。

シャラムの宝物。

大事な物は、本当に大事に扱う、俺の愛しい人。


俺も着ていた物を脱いで二人でシャワーを浴びた。

何時も自分が使っている石鹸を泡立てては肌に当て、流し、また泡立てては流す彼女の後頭部に何度も口づけを落とした。

短い黒髪に紛れていた若白髪は今は随分減った。

そうさせたのが自分かもしれないと思うと心が逸るが、今はそんな場合じゃない。

優しく指の腹で頭を洗い、地肌を撫でる。

いつもこうやって触れると彼女は心地良さそうに目を閉じる。

知っているよ、頭を撫でられるのが好きな事も。


顔に泡が行かぬように上向かせ、そっと流しながらその額や眉にも何度も飽きずにキスを繰り返し、冷え切った腹部を何度か宥めるように撫でた。


(怪我してる)


薄く絞った灯りの中、ぼんやりと浮かぶ彼女の肌に明らかな変色があった。

顔や腹だけでなく肩や腕にもだ。


(戦闘の末に、殺したのか?)


諜報員として動く彼女の仕事内容について、俺は基本的に口は出さないし聞かされない。

だから、何があったのか聞きたくても聞けない。

それでもこうして曝してくれているのが、信頼の形に思えて胸が詰まる。


多少、人を傷つけ命を奪う事に耐性が出来たからと言って、心が無い訳じゃない。

少なからず俺にこうして甘えて来ているのは、苦しい気持ちがあったからだろう。


(俺だけに)


その甘美さに眩暈を覚えながら、同時に切なさで視界が歪む。


(早く、一緒になろう…幸せだけを与えたい)


そんな事を願ったって今は叶えられないと嘲笑うように、着替えてベッドに座った彼女が俺を見上げて告げた。


「殺しちゃダメなのに、殺してしまった」

「…それは、」


明らかに、俺だけに留めて置ける内容じゃない。

見上げる空のような瞳からポロリと涙が落ちる。


「抑えなきゃいけない殺意だった…でも何でだろう。

 私、今なら心から笑える気がするの」


そう言いながら彼女は、目元を口元を震わせ、泣いていた。

よく俺達に身体を折り曲げてまで隠していた笑みの方が、よっぽど見ていられる。


何だよそれ。

何で、お前がそんな苦しそうなんだよ。


「こんなの可笑しいよね、狂ってる」


勢いを増す涙を見ていると此方が溺れている感覚を覚える。

息が出来ない。

胸が苦しい。


彼女の感情の正しい形すら分からないのに、ただ只管、抱き締めるしかなかった。


壊れないように。

崩れないように。

お前がお前を喪わないように。


「お前の年季の入った無表情が、そんな、すぐに治る訳ないだろ」

「…ひど」

「笑えてない、全くそんなの、俺は笑顔と認めない」

「オスカー」

「死ぬ間際まで待っててやるから…焦るな」

「オスカー」

「お前が無理なく笑える家庭を、家族を…俺と一緒に作ろう?」

「っ」

「愛してるよ、シャラム」

「わ、私も、愛してる、オスカー」


わぁわぁと泣き叫びながらやっと彼女が口にしてくれた言葉を噛み締める。

どんなお前でも愛してるよ。

人を殺め、狂いそうになってるお前だって。

何時までも表情を取り戻せない、傷ついたお前だって。

全部、全部愛してる。


(本音を言えば…もう、王都に居させたくない)


泣き疲れて眠る彼女の頬を撫でながら思う。

此処に来てから、明らかに彼女の感情の振り幅が大きくなった。

泣き顔なんて訓練後の一度しか見た事無かったのに。


(でも、アロイーズ様もオリアーヌ様も、彼女との学院生活を心待ちにしていた)


きっと本来彼女が立つべき位置ではなくとも共に過ごせるのをどんなに楽しみに、そして幸福だと感じているのかは、ふとした時に交わす会話を見ていれば嫌でも分からせられる。

そしてそれはシャラム自身の幸福でもあった。


(事件の解明が先か、シャラムが…いや、そうさせない為に俺が支える)


ぎゅうと再び温かいその身体を抱き締め直してから、漸く身体を起こして従僕服に着替えて主様の部屋へ向かった。

外はもう灯りも不要な程、白んでいた。


「失礼致します、アロイーズ様」


夜番の他の者に退室を言いつけ、そっと主の寝室を叩く。

暫くしてから返答の声を頂き扉を開いた。


「お休みのところ、申し訳御座いません」

「いいよ、どうかした?」

「シャラムが昨晩、…恐らく、観察対象を弑して戻りました」

「…………」


寝台に上体だけ起こしていた主が言葉を無くす。

きっと彼は、シャラムが殺したであろう人物に思い当たっているのだろう。


「処罰案件ですか」

「…レオやピピには」

「分かりません、『殺してはいけないのに殺してしまった』と」

「シャラムは今」

「眠っています」

「そう…怪我は?」

「見立てでは左肋骨を少々、後は打ち身が右半身に」

「侍医が起きたら向かわせて」

「は」


アロイーズ様はそう言いながら、ベッドから出てサイドテーブルから書面を出し、何やら書き記したものを俺に差し出した。


「これを厩の者に」

「畏まりました」


俺は直ぐに礼を取り、賜った書面をもって厩に向かい男に渡した。

恐らく、この後何度か人の手を渡り、諜報員に、レオさんかピピさんにシャラムの起こした件についての報告が伝わるのだろう。


朝靄が残る庭から、自分の部屋の窓を見上げる。


(シャラム)


早く戻ってこの身体で暖を与えたい。

だが、現実として、従僕として動かなければならない自分。

もどかしい。



 侍医と共にオスカーの部屋へ向かった時には、怪我によるものかシャラムは熱を出して意識も朦朧としていた。

辺境領で似たような怪我をした時にはけろっとしていたが、恐らく精神的なものもあるのだろうとの見立てに僕は密かに奥歯を噛み締めた。


(もう苦しみを、分け合う事も出来ない)


そんな自分の浅ましさに気付いては怖気が走った。

眠るシャラムの額をそっと撫で、労わるオスカーを見て背筋を伸ばす。

彼の漆黒の瞳が彼女を見つめる様は将に夫婦のそれだ。

愛し、愛される者特有の、穏やかで温かい色合い。


(僕が得られなかったもの)


僕だってリーシャを大事に思ってる。

愛していると言ってすら過言ではない。

でもそれはオスカーのものとは違うのか?

家族を思うのと、リーシャを思うのは同等なのに?

分からない。

恋が、愛し合う事が分からない。


だって初恋を彼女が終わらせてしまった。


(違う、リーシャは…僕の大事な、大切な『人』)


家族でも恋人でもなく、ただただ、大切にしたい人。

それにまだ名づける名前を知らないだけで、愛情が分からない訳じゃない。

だって何時だって家族を、妹を、リーシャを、兄様達を慈しんで来た。

何も不安になる事じゃない。

そうだ、今はそんな事を考えている場合じゃない。


「オスカー、シャラムは暫く休ませるよ」

「ありがとうございます」


だから何でそこでキミが感謝を述べるかなぁ。

本当、もう気分は夫だよね、オスカー。

その割にはシャラムをもう王都に置いておけない!と言い出さないのが不思議だ。


思考から追い出したつもりが気になってしまったのだろう、ぼんやりとしていたら馬車の中でぽつりとその事を聞いてしまっていた。


「アロ様も、オリアーヌ様もシャラムが一緒に学院に来るのを楽しんでいらっしゃるでしょう?」


さも当然のように答える彼の表情に言葉を無くす。

ああ、何かもう、良く分からないな。

あれだけ独占欲を出して、欲しい欲しいとしつこく追い回していた割に、結局彼女の事やその周囲の人の事まで考えて自分を律せるのか。


それが愛だというのならば、僕も覚悟を決めなければいけない。


「…そうだね、僕はオスカーも一緒なのが、嬉しいよ」

「光栄です。俺も、想像以上に学院は楽しいです」


歳に見合った笑顔を浮かべる彼の幸せそうな顔を見ているとほっとする。

きっと、シャラムが居たら満足そうに頷いている事だろう。


ああ本当、何処を歩いたって、何を見たってキミの事を考えるよ。

もしキミが何事もなく僕等と学院に上がっていたらどんな日常になっただろう。

今と大して変わらないのだろうか。


休みの日にはオーリと買い物ばかり出掛けて、僕は留守番で拗ねて。

御機嫌取りと分かっていても一緒に郊外まで馬を走らせ、遊んで。

偶には兄様達の話をしながら美術館や植物館を回ったり。

それこそキミが知らないような王都の名所も連れて行くとか。

流行のカフェで甘いものを食べて、あれこれ学院の話をしよう。

きっと外で話すのも楽しいだろうね。


そんな世界が本当はあったのかもしれない。

でも今だってそう悪い世界じゃない。


だってキミは苦しみながらも自らの足で立って、そして最愛の人と手を取り合える未来の道を得た。

少しまた苦しみの最中であろうけれど、大丈夫。

僕もオーリもキミを愛してる。

支えるよ、ずっと。

だからこの世界で生きて行こう。


もう後戻りなんかさせない。

だから、僕は。



「―――…ヴュルテンベルク辺境伯子息」

「こんにちは、ネウストラ公爵子息」

「わっ、わー…」


当初の計画とは多少違うが誤差の範囲だろう。

ミレイユ嬢とユーデス様が茶会をしている庭に白々しく乱入する。


ざわりと周囲の者がさざめくのが手に取るように分かる。

ああ、そうだとも、傍から見たら修羅場だろうね。

渦中のミレイユ嬢はと言えば僕と、いやオスカーか?

彼の顔と対面に座るユーデス様の顔を見比べては頬を赤らめていた。

暢気だなぁ、状況分かってるのだろうか本当に。


一方公子はと言えば、チラリと視線で僕の周囲を探る。

生憎だが彼女は此処に居ないよ。


「ミレイユ嬢がネウストラ公爵子息とお茶をしていると聞いてね。

 僕も混ぜて貰って構わないかな?」

「え、えと、私は…」


口元を緩めたままのミレイユ嬢がちらりとユーデス様を見る。

彼は口を付けていなかった紅茶を一口だけ頂き、立ち上がろうとする。

その肩を無遠慮に僕の手が押さえる。


「…」

「おや、公子の紅茶が冷めているようだよ」

「わっそれは失礼しましたっ!マリー!」

「はい、ミレイユ様」


そっと彼女の侍女がユーデス様の前に新たな紅茶を差し出した。

恐らく侍女は何時でも彼が帰れるようにわざとそのままにしていたのかもしれないが、それにしても温そうな紅茶だったな。

シャレット家の侍女としてはユーデス様との縁はあまり喜ばしくないのだろうか。

まぁイザイエ様の圧が凄そうだもんね。

此処でミレイユ嬢争奪戦でイザイエ様が負けてくれたら笑えるんだけど。

ざまぁみろって思うくらいは良いだろう。


「渦中の華が随分揺らされていると聞いてね。

 僕も怖気づいていないで手を伸ばさなければならないと思って、ね」

「そんな…でも、アロイーズ様と、私なんて」

「僕が至らぬ事はあれど、ミレイユ嬢には無いよ。

 だから『私なんて』という言葉は仕舞ってくれないかな」

「アロイーズ様…」


はぁーちゃっかりと僕の名前を気安く呼ぶねぇ。

渡り廊下で話した時よりも随分外面が剥がれているのは、気の緩みからか?

どちらにせよ精神的に疲れるから早く終わらせてしまいたい。


「寧ろきっと僕まで顔を出して困らせてしまっただろうか?

 …ミレイユ嬢は愛し子だから皆を引き寄せ、愛されるのでしょうね。

 それこそ聖典に残るに相応しい聖女のように」

「そんな事ありませんっ皆に愛されるだなんて…」


まんざらでも無さそうだけどねぇ。

僕にもやっと目を留めるようになったけど、やっぱり背後のオスカーも見るし。

あれかな、イザイエ様の事はさておき、公子と僕とオスカーの三つ巴かとでも思っているのかなミレイユ嬢は。

とんでもないねぇ。

オスカーの嫁は怖いよぉ。


「ならば私は」


茶番に付き合いきれないとばかりに再び立ち上がり掛けるユーデス様の腕を、これまた無遠慮に掴んで退席を阻止する。

キミには最後まで居てもらうよ。

少なくとも、僕一人で彼女の相手は無理だ。


「貴方にも無関係な話ではありません」

「…」

「っ!っ!!」


ミレイユ嬢や野次馬の令嬢達が声に成らない悲鳴を上げた。

そうだね、傍から見たらガッチガチに彼女を奪い合う男達の図だね。

はっはー、シャラムに話したら凄い笑ってくれそう。

そう思わないとやってらんないよ。


僕は表情を切り替えてミレイユ嬢に向き直る。

傍らで、腰を据え直した気配がした。


「因みに愛し子と言えば様々な福音がありますが、ミレイユ嬢は何が?」

「ええ?そんな大した事はありませんよ。

 探し物が見つかったり、森で迷ってもすぐに道へ出れたり人に出会えたり。

 後は…会いたい、と思った人に…偶然、会えたり」


頬を赤らめて上目遣いでミレイユ嬢がユーデス様を見る。

少女らしい仕草だが、これでときめく男も…居るのか?

もしやユーデス様とかそうなのか。

まぁ分かって、ふざけてやってくるのとかは可愛いなって思うけど。

リーシャとかオーリも偶にやってきて僕を宥め賺せようとしてたし。

大体絆されないけど。


意識を正常に保とうとしてか、ちょくちょく思考が何処かに飛ぶ。

それを無理やり戻しながら出来る限り紳士的に見える笑みを浮かべた。


「細やかな幸せが多いのですね、何とも可愛らしい話だ」

「聖典にあるような怖い話なんて体験した事はありませんよぉ」


確かに彼女の言う通り、聖典に記されている愛し子の福音話は教訓ものも多い。

だが正しくはそれだけでなく不思議で、将に愛されていると言われんばかりの話もたくさん収録されている筈なのだが。

印象操作だろうか、自分は無害な愛し子だという。


(そしてやはり、愛し子である点は隠さないか)


王に奏上したくらいなのだ。

その肩書は背負うくらいはしよう。

確かに彼女の虹彩は、まるで宗教画に描かれる女神の花のようだ。

細い髪の色合いも相俟って、誰もが最高神の祝福を感じる事だろう。


(確かにこの姿なら偶像ではなく聖女としてアンヴァリッド公爵家が欲する)


そんな事を考えながら話す自分の横で、ユーデス様は優雅に紅茶を飲んでいる。

もうコイツ喋る気無いじゃないか。

僕が居るからなのか、そもそもミレイユ嬢との茶会もこんな雰囲気だったのか。

シャラムが居れば何かしら情報がありそうなのに。

惜しんだって、今彼女は寝台の上だ。


「では精霊の姿を見たり、星の煌めきを纏い空を飛んだりは?」


とりあえずミレイユ嬢が僕らに与えたいであろう印象に寄せた質問をする。

そうすれば彼女は見るからに安心した笑顔で明るく話し出す。


「精霊の姿は見た事がありますよ?

 でもこう、ふわふわとした光の珠みたいな形ですが」

「精霊の姿が見えるだけでも凄いね」

「えへへ、そうですか?でも空を飛んだりは出来ませんが」


ちょっとしたおだてにも楽しそうに身体を揺らして笑う。

ので、此処で少し揺さぶりを掛けた。


「そうなのですか…小さい頃から聖典の聖者の話が好きだったので興味があったのですが、やはりそういう御力が現れるのは稀なのですね」


眉尻を下げ明らかに声の勢いを落としてみれば、慌ててミレイユ嬢が言い募る。


「そんな事はありませんよ!聖女には特別な力がありますもの!」

「神に愛されるだけで充分特別ですよ」


自らを遂に『聖女』と称した。

まだ正式任命されてもいないのに、大した胆力だ。

傍らで沈黙を守って来たユーデス様も流石にこれは何か思うところがあるのか、茶器を置いて口を開きかけたがそれを妨げたのはミレイユ嬢だった。


「ほら、私の瞳の虹彩を見て下さい!花の形をしているでしょう?

 これが神様からの御印なんです」


ぐっと彼女が此方に身を乗り出し顔を近づける。

避けずに此方もそっと身体を傾け、その美しい虹彩を覗き込んだ。

確かに近くでも見ても花のように見える不思議な形だ。

ただ、宗教画の花よりは花弁の数がやや少ない印象を受ける。


「確かに美しい華が瞳に咲いているようだ、とても聖女らしい」

「うふふっありがとうございます。

 ユーデス様も良く私の瞳を見ていましたが気になっていました?」

「そうだな」

「もっと近くで見ても良いんですよ?」

「そうか」


やっと口を開いたかと思えばこの会話。

会話?いや、シャラムが報告していた通りだけどこれは会話か?

そして前よりは仲睦まじい雰囲気って、何処がなの?

シャラムのユーデス様判定がガバガバじゃないかな?


「でも意外です、武勇に優れたアロイーズ様が聖典にも明るいなんて」


ミレイユ嬢の声掛けに慌てて他所事を振り払い、笑みを浮かべる。

ダメだ今は此方に集中しなければ。

ただでさえここの所気楽な人間としか話していなかったから、尋問の流れが笑ってしまう程お粗末なのだから。

これじゃあ時期辺境伯の名が泣く。


「こう見えて読書も好きでしてね。

 小さい頃に出会った子ども向けの聖典の話が今も好きで、時折手に取りますよ」

「へぇ、どのお話ですか?」


成程、聖典自体は嗜んでいるのだろうか。

馬の話をした時よりよっぽど積極的な姿勢だ。

流石に聖女として売り出そうとしていたのだ、その辺りの教育は抜かりないのか。


「『逆巻きの聖者』、御存じですか?」


そう僕が話を振ると彼女はその大きな瞳を一際大きく見開いたが、やがてゆっくりと極上の笑みを浮かべて嫋やかに何度も頷く。


「ええ、ええ…勿論知っています!私もあのお話は大好きなんです!」


ああ、だろうね。

何せキミはそれを再現しようと思ってしまう程に。

嫣然と嗤うミレイユ嬢に篭絡されるかのように、僕は瞳を細めた。


途端、ガタリと音を立てユーデス様が立ち上がる。


「――…………まさか、お前が?」

「…ユーデス様?」


ネウストラ公爵子息は氷で出来ている、と言われるだけある。

彼の睥睨する瞳は此方もゾッとする程冷ややかだった。

戦慄く唇、短い呼吸。

何だ、何を興奮しているんだ。


困惑するだけのミレイユ嬢と、困惑しながらも観察していた僕。

似ているが、全く違う立場。

ユーデス様の瞳に映された女と、映らない男。

漂う緊迫した空気に周囲の従者達も静心が無い様子を見せた。


「俺が見たのは未来ではなく、実際に在った過去なのか?」


その言葉に息を呑んだのは僕だけだった。


「…何を、仰っているの?」

「お前が俺からリーシャを奪ったのか!!!!!!」


咆哮のような声を上げたと同時に彼はテーブルに乗り上げ、そのまま卓上の全てを薙ぎ倒す勢いで対面のミレイユを押し倒した。

派手な音が周囲を引き付ける中、ギラリとそれが光を返す。


「ユーデス!!!!」


思わず制止の手を伸ばすが、それより彼の腕が振り落とされるのが早かった。

ユーデス様が握り締めていた銀色のフォークが、ミレイユ嬢の片目を突き刺す。


「いやああああああっ!!!!」


悶絶する彼女が己を護ろうと必死に腕を顔の前で交差させるが、それを物ともせず彼は腕を滅多刺し、怯んだところですかさず彼女の顔を何度も、何度も執拗に刺す。


「ユーデスっ!!何をしている!!!!」

「お前がっ!!お前が俺の最愛を殺したのか!!??

 以前も!!今回も!!!!!

 お前が居る限り彼女は殺され続ける?!!違うか!!答えろ!!!!!!」


僕が羽交い絞めにしても、どこにそんな恐ろしい力があるんだというばかりの剛力で、彼はミレイユ嬢から退かずに肩や耳、あちこちをひしゃげたフォークで突き刺し続けた。

周囲に彼女の肉片や血が、体液が飛び散る。

穏かな学院の庭先で勃発した狂騒に倒れる令嬢や悲鳴、泣き声が響き渡る。


殴ってでも止めたい。

でも、彼は公爵子息だ。

この学院で誰よりも地位ある人間。

諫められる教師など、ましてや同年代など何処にも居ない。

彼の従僕や護衛でさえ主の豹変に震えあがって動きもしないじゃないか。

舌打ちする僕の鼓膜に、弱々しい声が聞こえた。


「だって、だって、そうじゃなきゃ、あなたはそうじゃなきゃ」


それは正しく、激昂する男の耳にも届いたらしい。


「お前まで俺のせいだと言うのか!!!!!!」


「っユーデス!!」


もう見ていられない。

泣き縋りたくなるような心地を拳に込め、全力で振り抜いた。

これには流石のユーデス様も力負けしたのか身体が傾ぐ。

寧ろ吹き飛ばないのが奇妙な程だった。


ゆらりと逸れた顔を戻した彼の顎は打ち砕かれ、ぼたぼたと涙と共に鮮血を滴らせていた。

まるで泣きながら死肉を食い荒らした悪鬼のような様相だ。


「…………」


その姿にまた一段と周囲が冷え込み、怯える中、彼は立ち上がりふらりと幽鬼のような足取りで建物の中へ消えて行った。


「…アロイーズ様」

「………」


そっとオスカーが僕の拳に布を当てた。

僕の拳も、皮が剥がれて赤い血が滴っていた。

満ちていた狂気が痛みをも飲み込んでいたようだった。


今更来た救護の者が呻くミレイユ嬢の手当てをしている。

呆然としていたユーデス様の従僕達もやっと我を得たものの、怖気づいた様子で消えて行った主の後を追うように建物の中へ駆けて行った。

一人、事情を話す為にだろう、残された護衛は今もガタガタ震えたままだ。


「……オスカー、戻るぞ」

「は、い」


僕はオスカーから手渡された布を手に巻きながら、庭園から建物は通らず直線で馬車止まりまで速足で向かった。

足取りは迷いない。

寧ろ真っ直ぐ止めどなく動かしていなければ此方が正気を失いそうだった。


(なんだこれは、これは)


ざわざわと背中を這い上がる怖気が全身を包むのを拒むように腕を振る。

もういっそ走ってしまいたかった。

この不安を、焦燥を、どうにかしてしまいたい。


(ミレイユ嬢は確かに『逆巻きの聖者』と同じ力を持っていて、且つそれを何度か行使しているのは今回の様子から明らかだ)


だがその目的は?


(彼が、そうじゃなきゃいけないとは、どういう意味だ!!)


ユーデス様は必ず婚約者を亡くさなければならないという事か?

ならリーシャはどうしたら彼と婚約せずにいられる?


それでも彼がリーシャに惹かれたなら、やはり彼女は死ぬ運命なのか?


僕が次に託すべき情報はなんだ?ユーデスに近づくな?婚約を結ぶな?愛するな?


(考えろ、正確に情報を残すためにはどれにすべきかを)


無言で馬車に乗り込み逡巡するのは、彼女の事。

今回の事件をどう伝えるべきなのか。


どう包み隠したって、喪失感を抱いたユーデス様に聖女が、ミレイユ嬢が彼に出会うためにリーシャが殺される運命である事が知られてしまう。

彼女はそんな役目を負うために産まれて来た訳じゃない。

ユーデス様だって、そんな運命を担わされる為に何度も。


(待て、聖女が力を行使する切欠は何だ)


意図的に?それとも、彼女の死亡が引き金ならば。


「オスカーッ!!!」

「は」

「厳命する!これより絶対に今から言う事以外を考えるな!!!

いいかっ『リーシャは十二歳で馬車事故で死亡、又は一家惨殺の悲劇に遭う』!」

「っリーシャとはシャラムの」

「そうだ!!それだけを考えろ!!考え続けろ!!!!」


怒号を浴びせながらタウンハウスに着いた馬車を飛び降り彼女の元へと駆ける。


が、屋敷に足を踏み入れた刹那、世界は白く輝いて――――。



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