61:十六歳の咆哮
私が追いかける事件について徐々に調査が進む一方、アロイーズと共に学院で調べている件はほぼ膠着状態に陥っていた。
無理もない、彼女は今まさに時の人。
麗しきアンヴァリッド公爵家からのお声を頂きながらも返答は相変わらず濁しており、その一方で本人は学園で他の公爵家嫡男と睦まじく穏やかな恋模様を繰り広げているのだ。
加えイザイエ様とユーデス様の仲は冷え込んでいると来た。
ミレイユ嬢の取り合いはその代理試合でもあるのでは?と、恋物語のようだと浮つく令嬢達ではなく冷静に観察する子息達は囁き合う。その中には彼女へ片思いしていた男達の嫉妬も含まれているのだから、まぁ何と言うか、確かに絵に描いたような展開だなとは傍から見ていても思うが。
そこに我らが主であるヴュルテンベルク辺境伯家のアロイーズ様も加えて見ろ。
三つ巴というか地獄絵図じゃないか?
今度は公爵家と長年の確執を持つ家の子息が参戦するだなんてさぁ。
私だったら絶対に近づきたくない魔の三角地帯だよ。
その可能性があるにも関わらず暢気に笑ってるミレイユ嬢の胆力は本当に凄い。
「でもある意味さぁ、一度や二度の接触であれば誤魔化せる気もするんだよね」
馬車の中でそう零すのはアロイーズ様だ。
先日のミレイユ嬢との接触で警戒されてから、中々一対一の時間が取れない。
喩え持てたとしても短時間だ。
どうしたって話の確信に触れる話題には行きづらい。
だったらいっそ、彼女とユーデス様の接触が大々的に行われているこの機を利用して、元よりシャレット家との縁を噂されていたアロイーズ様も表立って動いてみようという考えである。
彼が人の目を気にしていたのは自身とミレイユ嬢の噂を恐れたからだ。
しかし今はユーデス様との縁が濃厚になっている。
多少アロイーズ様が接触をしたとしても、有耶無耶に出来るのではという魂胆だ。
「その中で確証を得られると仰るので?」
「今の彼女、大分浮ついているとは思うんだよね」
この謀略の発案者は私である。
ただ、オスカーがあまり乗り気ではない。
無理もないだろう、彼はアロイーズ様信者だ。
一瞬であっても我が主に妙な噂が立つのを嫌悪するのは当然。
まぁ従者の鏡らしい視点であるし、そうあるべきなのは私も分かっているが。
「叶うならば唐突な方がより良いでしょう。
彼女がアロイーズ様を避けている今なら、ユーデス様の登場確率も上がります」
「なんだその統計は」
胡乱な眼を向ける人は無視して、小首を傾げる主へ言葉を続ける。
「女神の福音の効果でしょうかね?
恐らく彼女が望んだままに、望んだ人が、望んだ機に現れる」
「…彼女がイザイエ様との接触も避けられているのも、それだと?」
「恐らく」
アンヴァリッド公爵家はシャレット家のタウンハウスにせっせと訪問を繰り返しているのは調べがついている。
使者だけの場合はミレイユ嬢も顔を出す事があるそうだが、イザイエ様が御一緒の場合はとんと都合が合わずに接触出来ずじまいだという。
あの、先方からの外せない招待、一度限りの接触。
ミレイユ嬢は何かを確かめ、そして把握したからこそ彼を避けている。
いや、恐れているのだ。
ミレイユ嬢がイザイエ様に怯えているのは、一見清廉潔白に見える麗しき貴公子の性格が実は悪魔的だからなのだろうか。
それこそ聖女らしいエピソードではあるが。
(彼は実際、悪魔付きの聖職者だとか?はっはー、要素てんこ盛りじゃん。
それこそ聖女パワーだか愛の力で打ち払うんでしょ?知ってる知ってる)
「…確かにミレイユ嬢はイザイエ様に怯えているような素振りもあった。
でも彼女とイザイエ様が顔を合わせたのは一度きりな筈では?」
「アロ様との対話でも一度きり、何か不都合があっての現状だぞ?」
「そんな上手く行くもんだろうか…」
「いざとなりゃ呼べば来るよ」
「それはダメだ」
その後オスカーはむっつりと黙り込んでしまう。
だからそれはいざという時であって!
私はミレイユ嬢の聖女パワーを信じているのだ!!
正直言って私がユーデス様と接触する必要はないだろう。
「つまりはミレイユ嬢が心細さを感じて助けを求めるような場を持て、と」
「そうです。少なからずアロイーズ様はイザイエ様よりは怯えられて居ない。
寧ろこれ以上一対一を執拗に狙う方が返って恐怖心を抱かせるでしょう」
「オスカーも居るけど」
「彼女お気に入りのオスカーを上手く使いたいところですが、それこそ令嬢と対一で遭遇させるなど土台無理がある話ですし…何より私が嫌ですねぇ」
「…」
「良かったねぇオスカー」
「は」
それはミレイユ嬢の前に生贄として出されない事だよな。
幸せそうな顔して笑いやがって。
さっきまでの仏頂面は何処に行ったんだ。
「もしシャラムの予測が正しいなら、それこそ一撃で仕留められるよ」
「こっわ、その言い回しこっわ」
「ただ…隣でそれをユーデス様も聞くって事だよね?」
アロイーズ様の懸念は相席するユーデス様のようだ。
確かに、彼も私達と同じ『記憶』を有している可能性がある人物である。
かと言って私達のように情報を擦り合わせる人も居なければ、繰り返している可能性について思考が至るとは到底思えない。
聡い人だし、万が一それがあったとしても相手はミレイユ嬢だ。
今のユーデス様が唯一会話する学生である。
そしてもしかしたら心を寄せ始めているかもしれない、令嬢だ。
「かの方は冷静ですし、どれだけの忍耐力がある方は想像以上かと」
「………」
アロイーズがじっと私を見つめ返す。
暫くして、そっと目を外して嘆息を零した。
「確かにね、彼はずっと堪えて来た忍耐の御方だ。
分かった、シャラムの案で行こう」
「は」
こうして私はせっせと学院に着くや否やミレイユ嬢周辺のスケジュールを把握し、可能な限り早い段階で且つ唐突に誘いを掛けられるギリギリの機を窺った。
勿論ユーデス様の学院スケジュールも把握済みだ。
この辺りは先日の件もあってか、従僕が快く提供してくれた。
お前そんなんで公爵家の従僕が良く務まるよなぁ。
普通ダメだろう、主様の情報をそんなホイホイ部外者に与えては。
「いやぁ、シャラムが声を掛けてくれた日から、少しだけ主様が穏やかになった気がするんだよ」
「近しい人よりも離れた人の方が案外良かったのかもなぁ」
とか口で言いつつも内心は相手にダメ出しをしまくっている。
ホントにもう!ちゃんと従者が主を支えなくちゃダメだろう!!
お前も悪いヤツじゃないんだからさ!怯まずに行け!
確かにやや貫禄備わってきたけど、優しい人なんだぞ!
「かもな…ミレイユ嬢とも対話をするようになったし、安心した」
「やっぱ人間ってのは人と対話して生きる生き物なんだよ」
「だよな、他愛ない話でも聞いてはくれていたけどさ、なんつーか、もう少し周りを見るようになってくれたというか」
「お前達の心配りが届いたんだな」
「よせやい、照れるだろうが」
嬉しそうに笑う従僕が幸せそうなので、まぁ良いが。
彼の周りに少しでもそういう笑顔が溢れるのならそう悪い展開ではない。
今猶イザイエ様に苦しめられようと、何処か息抜き出来る場があるのは良い事だ。
それが偶々今まではストラス領であっただけ。
心を添えた先が私であっただけ。
(私達が知る『記憶』は結局、私のものだけが正しかった)
私は馬車事故には遭わなかったが、正しく彼のトラウマとなった。
でもそれは、今後の未来で変えていける、乗り越えていけるものだ。
そうであって欲しいよ、ユーデス様。
貴方も幸せになって欲しい。
今でもそれだけは願ったって、良いと思うのは強欲だろうか。
まぁこうして着々と準備を進めてゆき、愈々決行日まで数日前となったある夜。
私は『ジャンノ』の恰好で酒場に来ていた。
ドニやケヴィンとよく合う酒場ではない、別の場所だ。
此処ではどちらかと言えばカウンターでの一人酒が多い。
時折渋いマスターと話しをする程度の、まったりゆっくりした時間を過ごす。
ふと扉が開き、人が入って来る。
「マスター、俺にも彼と同じものを」
「畏まりました」
そこまで混み合っている店内ではない。
まぁ確かにテーブル席はほぼ埋まってはいるが、カウンターは疎らだ。
隣に座った男を横目で見る。
私の怪訝な視線を受けた彼は愛想の良い笑顔を浮かべてみせた。
「一人酒の気分だったか?」
「いや、別に」
「じゃあ少しだけ、まぁこういう縁も悪かねぇだろ」
「相手が男ってだけで気分は下がるがなぁ」
「アンタ女に不自由してなさそうだしな」
「自由にしてくれるような尻してねぇんだわ、嫁が」
「くっく、成程ねぇ」
彼はマスターからグラスを受け取ると一気に半分以上を飲み干す。
度数がそこそこある酒だが、いける口なのか。
ケヴィンの時もそういえば結構飲むが、あそこの酒は薄い。
「アンタこそ女が放っておかない顔してんだろ、何だ?やけ酒か?」
「んー?まぁそこそこにはなぁ…やけ酒と言えばやけ酒だが」
「勿体ぶりやがって、ツマミでも出せって?」
「気前良いなぁ」
「ったく、集られる側じゃねーんだが」
そう私は零しながら乾き物を幾つかマスターに注文する。
隣の男も太々しくメニューを覗き込み、あれもこれもと言い出すのだから調子が良いものである。
舌打ちする私を楽しそうに眺め、彼はまた一気にグラスを仰ぐ。
「アンタは」
「酒代がツマミに化けた」
「かかっ、いいねぇ、じゃあ俺がそっち出すぞ」
「そりゃどーも」
折角なのでマスターに秘蔵の酒を頼んだ。
はっはーツマミ代よりも高くついただろうが知らん。
私の前に出される琥珀色の気品に、隣の男がアボカド色の瞳を丸くする。
「何だそれ」
「常連だけが頼めるお高級なお酒」
「てっめ…ふざけんなよ…」
「いやぁこれが飲めるなんて、今日はツいてる」
思わず外面を外して味わう。
と、言っても無表情だが。
でもそれが思いの外美味そうに見えたのか、男の視線が物欲しそうに此方をじっと見ていた。
「お前も頼めば?」
「お前の金?」
「自腹でに決まってんだろ」
「っはー…やられた、マスター、俺にも」
「まいど」
私が姑息なのは今に始まった事じゃない。
そんなの、ケヴィンの時に嫌という程知っている筈なのだが。
(わざと知らぬ振りで乗らされているのか?
それとも私がどの酒場でも同じ振る舞いをするかを確認している?)
「…うっま」
「夢に見るぞ、この味は」
「やけ酒で飲む代物じゃねぇだろ」
「知るかよ」
そっちは自棄だろうが私は普通に楽しみに来ただけである。
酒に合うツマミを男へ引き寄せれば、ちまちまと食べながらこれまたちまちまと酒を飲んでと、少しでも幸福を伸ばそうとしている姿が庶民過ぎてちょっと笑える。
「兄ちゃんよくこの店くんのか」
「ぼちぼち?なぁマスター」
「そうですね、まぁ長いですか」
「ふーん…どれくらい?」
「二、三年くらいじゃないか」
いつも通りにナッツの殻を割り、実を口に放り込む。
ツマミのラインナップもあの酒場で良く頼むものを選んだ。
少し違うのは、この店だからこそ美味いチーズくらいか。
私の動向に違和感はない、筈。
「何、気に入った?」
「おう」
くるりとグラスの中で量を減らした琥珀を、大事そうに眺めて笑う横顔はどこかあどけない。
酒が入っているせいなのか、観察している中で一番人間らしい顔をしている。
いや、ケヴィンの時も相当毎回楽しそうだが。
「賑わう酒場も良いが、こういう店も落ち着くな」
「気分ってあるよな」
「やけ酒したいときも同じくな」
「今日は湿っぽくやりてぇってのか?」
鼻で笑う私の横顔に視線が刺さる。
ちろりと此方が目を向ければ、彼は顔を背けた。
「まぁそんなところだ」
「それで声を掛けるのがこの俺とは…アンタ相当凹んでんのか」
「なんだそれ、自虐か?」
「誰が見たって綺麗なオネエチャンには見えないだろ」
「そりゃな」
彼はまた喉を震わせ、低く笑う。
緩んだ気持ちからかまた一口酒を含み、味わうようにゆっくりと嚥下した。
こうしていると普通の男だ。
ケヴィンでも、商会の男でも無い。
ただ王都の一画でやけ酒を楽しむ、一人の男。
「やけ酒の理由は聞かねーの」
「待ってました、教えてくれんの?」
「おい」
茶化す私の返答に彼が肩を揺らして笑う。
なんだろう、この違和感。
やたら、相手が無防備な印象を受ける。
「どんな女に振られた?」
「しかも振られ前提かよ」
「それか捨てた女に今更未練持ったとか?」
「ありえますねぇ」
マスターも面白がって話に加わる。
この人は何気に愉快犯である。
「マスターもかよ」
「これは失敬、心の声が」
「話したくて絡んで来たのはアンタだろ、この際言っちまえよ」
「そうですそうです」
「ははっ何だこの店」
くつくつと笑い乍ら彼が身体を折り曲げる。
本当に愉快そうに笑い、顔をカウンターに預ける姿をツマミに酒を飲む。
悪い気分じゃない。
だが相手は敵国の間者だ。
ともすれば、私の家族を殺した男。
「…夢見が悪いんだ、ここんところ」
「女の恨みで?」
「生霊ですかぁ」
「生霊…どうなんかな、そこんところはハッキリしねぇが」
ぼんやりと、カウンターの僅かな高さの壁を見つめるその目元は、酒が回ったからなのか薄暗い照明の中でも赤いのが良く分かる。
その血色の良さと濁った色濃い隈の落差が凄い。
「なぁアンタ、家族は?」
「は?…嫁と俺だけだが」
一瞬、思考が飛んだのは意識が其方に向いていたからだ。
私の事を聞かれた訳じゃない。
今、この男の前に居るのは、うだつの上がらない男の『ジャンノ』だ。
「両親は」
「どっちも疎遠でな」
「それでも所帯持つって事はやっぱ『家族』って、いいもんか」
「そりゃ人それぞれだろ」
また一つ私がナッツを割る音がやたら大きく聞こえた。
この問答は、一体何を探られているのだ。
マスターに水を頼めば、相手がつまらなさそうに唇を尖らす。
「もう飲まねぇの」
「懐の事情だよ」
「奢ってやるって言ってんだろ」
受け取った水を男の方へ押し出す。
お前はそんな強い訳じゃないんだから、ウザ絡みをするな。
ケヴィンの時だってチェイサーを私が頼んでやってるだろう。
全く世話が焼ける。
そんな思いを込めて溜息を零せば、隣から小さな笑い声がした。
「一度で良いからサシで飲みたいと思ってた」
「んぁ?」
「いや、ありがとな」
「財布に逃げられない為の俺なりの処世術だ」
上体を起こした男が水を煽る。
その横で静かに私も水を口に含みながら、先程の言葉を振り返る。
コイツ、『ジャンノ』と飲みたくて此処に来たのか。
だとしたらケヴィンのままで来れば一番話は早いじゃないか。
何故わざわざ素顔で出てくる必要があるんだ。
「マスター、最初のやつ」
「もう飲まねぇの?」
彼の言葉をそのまま返せばまた愉快そうに笑う。
「うるせぇ、お前ほんと」
「あっち頼めよ、夢見が悪いんだろ」
「はっ」
私はもう一杯秘蔵の酒をマスターに頼み、彼が頼んだ分を自分の手元に留めた。
「アンタ男相手にもそんな事すんの」
「言い方が気持ち悪ぃのでコレ飲んだら帰るわ」
「別にそんな意味含んでねぇよ馬鹿」
秘蔵の酒が入ったグラスを空けた私は新しい酒に舌鼓を打つ。
うーん、度数高い。水貰っておいて正解だった。
片や彼の手元には二杯目の秘蔵酒が手渡された。
彼はとろりと揺れる色を眺めながら、またちびちびと飲み始めた。
「アンタが憧れる家族ってのは、どんな?」
私の問い掛けに、目線を寄越した彼の表情が揺れる。
まるで迷子の子どものような顔だ。
何故という戸惑いと、不安が入り混じったようなそれ。
私の大事な人も昔そんな顔を良くした。
「…わかんね、俺も疎遠だったからな」
「だが描くもんがあるから『憧れ』なんだろ」
「………」
ごつりと彼が額でカウンターを打つ。
さっきから寝たり起きたりと忙しいヤツだ。
だがこれがこの男の素の姿ならば、何か情報が入るかもしれない。
少なくとも家族と疎遠ではあるのは事実だろう。
ウチは違うが、他国で間諜に採用される人間はそういうのが多いらしい。
戦争孤児だったり口減らしの子だったり。
それこそオスカーが語っていた内容だ。
「嫁、なんだろうか…その女の姿が、ぼんやりとはあって」
それは彼の憧憬についてだろうか、悪い夢見の方だろうか。
「なんか、ほっとすんだ、その姿を見ると」
「惚気じゃねーか」
「逢った事のねぇ女だぞ」
「想像上の嫁?うわ…それは…」
「ちょっと…」
「お前とマスターは親戚か?グルか?」
「とんでもねぇ言いがかりだ」
そりゃマスターとは気が合う仲間だからこそカウンター一人酒も楽しくやれているし、長年ちょこちょこと通う店にもなったのだが。
何処となく嬉しそうに笑うマスターが拭いていたグラスを置く。
「私が引退した後は店を頼みますね」
「カミさんと要相談だな」
「尻に敷かれていんのに?」
「るせぇ」
笑い乍ら彼がまた一口酒を煽る。
「どうなんだろな、憧れ、か…想像出来ないのにな」
「まずは現実の女を見ろ、話はそれからだ」
「真っ当な事言いやがって」
彼自身、そんな夢の中の女に拘っているのが可笑しいと気付いているのだろう。
だがどうしたって拭えないからこそ、戸惑い、何度も夢に見る。
(寝不足の理由がそれだとか、無いよなぁ流石に)
「…もしかしたら」
「あぁ?」
「真っ当に、生きていれば…或いは得られたのかも、しれねぇなぁ」
まだ酒はグラスに半分以上残っている。
なのにコイツは満足げに、とろとろと瞬きをしていた。
なんと勿体ない事だろう。
「真っ当に生きる、ねぇ…そうできる人間なんかいねぇだろ」
「ですねぇ」
「別にお前だけが汚れてるとか思わない方が良いぜ。
生きてりゃ誰だって何らかの恨みも嘘も重ねるんだからさ」
「意外と信心深いんですね、この人」
「な、見かけはボロ臭い優男なんだけどな」
「貴方が言えた口で?」
私が喉を震わせて笑えば、マスターも豊かな口ひげを揺らす。
隣の男はずっと黙っていた。
「そういうときゃさっさと所帯持って、子どもでも授かれ。
赤ん坊の無垢な瞳ばかりみてりゃ気も紛れる」
「…俺が、か?」
「無垢な瞳程汚れなんか気にせず見てくれるぞ」
「………普通、汚したく、ないと…思うだろ」
「お前マジで他の家族と接した事ねーんだな」
私だって数える程しか他所の子の赤ん坊に接した事は無い。
でも可愛かった、ただ只管に愛されるために産まれて来た命。
何でも分け隔てなく見つめてくる大きなその瞳が愛おしかった。
「んな事考えられねぇくらいに世話で忙しくなる。
でもふとした時にな、じっと見つめられるとこれがまた、幸せなんだ」
「…お前んとこは?」
「それこそ神様の思し召し待ちだな」
まぁゆくゆくは欲しいな。
オスカーに似た赤ちゃんとか絶対可愛いだろうな。
考えるだけで幸せな気持ちになる。
「赤ん坊…か………アイツも」
そう零したのが最後だった。
静かな寝息が聞こえてきて私もマスターも肩を落とす。
「どうすんのコレ」
「道端に転がしておきますかぁ」
「かー…面倒なのに絡まれた」
「はは」
笑みを零しながらマスターが私に温かい紅茶を一杯、サービスしてくれる。
酔い覚ましにも、時間潰しにも丁度良い。
私は帰る予定時間を大幅に伸ばす事となったが、この機会を、いや普通にこのまま捨て置くのはなんだか忍びなくて暫くマスターと他愛もない話を続けた。
それでもコイツは起きないのだから、いい加減にしろと頭を叩く。
「ん」
「起きろ、んで財布だせ」
「んー…」
ごそごそと雑に出された財布から今日の勘定分を全額出した。
ちゃっかり私のツマミ代も全て持たせた。
これくらいはしてもらっても良かろう、うん。
まだ覚束ない足取りの男の二の腕を掴み立たせ、どうにか店を出る。
外の夜風は随分と冷たさを帯びていた。
「さみぃ」
「くっつくな、離れろ」
「冷てぇなぁダチだろ」
「良い歳した男同士のな」
「くっく…はぁ…何でだろうなぁ……今夜は殊更に、怖ぇわ」
何が、と問い掛ける前に彼の頬を一筋の涙が伝う。
その後も続いてポロポロと止めどなく流れるそれに呆気にとられた。
コイツ情緒マジでイってないか?
休養中かもしれないって推測が当たっていたのだろうか。
「知ってっかぁ?遠い国ではな、呪いは何処までも追ってくるって言われてんだ」
「…は?」
「俺はそれが怖ぇ…いつ奴らのように殺されるのか」
「…」
立ち止まる私に構わず、彼はのそり、ゆらりと歩みを進める。
いつの間にか開いていた距離を詰めるようにその背中を追い、角を曲がった刹那。
「っ!!」
思いきり胸倉を掴まれ投げ飛ばされる。
路地裏の荷にぶつかれば物音がしてしまう。
私は咄嗟に身体を捻りながら体制を立て直し、それを避けるようにして勢いを殺す。
「ナリの割に身軽じゃねぇか」
「…」
建物の影になった路地は光が差し込まない。
相手の薄ぼんやりとした輪郭しか分からない。
「初めて逢った時から分かってたんだよ、『俺の悪夢』」
逃走か捕縛に踏み込むか、どちらを取るべきか。
ただ、私が誰であるかを既に男が知っているとなれば選ぶものは自ずと決まる。
「まさか俺がお前の妄想嫁?やめろよ気色悪ぃ」
「そっちじゃねーよ」
「悪夢に縋って泣いた男が偉そうに」
「はっそりゃあな…俺も意外だ」
土を踏みしめる音が相手の苦笑を掻き消す。
そもそも最初から私を誰か分かっていたのなら今まで何故野放しにしていたのだ。
何度も酒場で馬鹿笑いをして、大声を上げ、騒いで。
私は常に先に帰った側の人間だ。
後を付けて消す事など容易かっただろうに。
「ただ、アンタを生かして連れて来いって上がお求めでね」
それは私が内心で抱いていた疑問への答えだろうか。
嫌な流れだ、思考が誘導されている証拠だ。
「清廉潔白な悪魔貴公子様が?」
「ハッやっぱそこまで辿り着いてんのか…。
あのババア周りが騒がしいとは思ったが化けの皮の下まで覗いてたか」
「何故そこまで執拗に痛めつける」
違う、聞くべき事はそうじゃない。
でも思わず口から出てしまった。
惨劇の最中で死んだとされた婚約者を表舞台に上げようとするその意図。
生かして、というのはその為だろう。
改めて彼の前で私を殺すのだろうか。
容易に私の脳裏に浮かぶ悲劇に、怒りで、吐き気がした。
薄闇の中、相手は頭を振る仕草を見せた。
「知るかよ、んな事」
「じゃあ何でアンタは協力してるんだ」
「そりゃ『御国の為』だろ」
公園で日がな煙草吹かして時間潰してるようなヤツが何を言うか。
東に赴けど工作の跡も無し、曾祖母様に仕込んでいる麻薬くらいしかそれらしい動きなんぞ今はしていないのを此方は知っているんだぞ。
「…何てな、今じゃもう分からんさ。
ただあの悪魔が想像を超える醜悪さだったという訳だ」
「成程?道理で、一家惨殺なんて手管を思いつく」
私が激情を抑え込むように吐き捨てて告げた言葉に、薄闇の中でもはっきりと分かる様な笑みを男が浮かべて見せた。
まるで、お前の逆鱗は其処かと言いたげな顔に思わず暗器を抜く。
「だろうよ!お前一人を殺せばいいにも関わらず!
態々手勢を切ってまで、遠路遥々北方の家を潰すだなんて大層だよなぁ!!」
「っ!!!」
艶消しされた刃が空を切る。
突き出した初撃は当然のように交わされ手元を蹴られそうになるが、それを拳で払い除け、その勢いのままに返し刃を振りかざした。
チッと男の顔を掠めた音と僅かな血が舞う。
反撃の拳を避けながら私は忙しなく神の名に乞う。
「ッがぼっ」
水音の中に間抜けな呻きが掻き消える。
窒息させるまで至らなくていい、それを解く寸前に足払いを掛け体制を崩す。
どうと倒れた男の胸元を踏みつけ睥睨すれば、咳き込むヤツの振動がもろに身体に響いて来た。
「っくそ…魔法使えんのかよ」
「悪夢の中では使っていなかったか?」
「ハッ!おめぇのお兄様だけかとおも…ぐぅ!!」
みしりと軋んだ音が足裏から響く。
「お前、あの夜に居たのか」
「いねぇ!俺は居なかった!!!」
それでもギリギリと掛ける力を増していく。
止まらない。
この男、やっぱり襲撃犯と繋がっている。
私の家族を。
私の宝物を。
壊した奴等。
「嘘じゃねぇ!!!これはっ!本当だ!!!」
震えた指先で男は懐から何かを取り出そうとする。
暗器の切っ先でそれを制し、そのまま刃で器用にそれを取り出す。
出て来たのは古びた紙だ。
何処か見覚えのある、便箋。
当時、アロやオリアーヌが使っていた便箋だ。
何故この男が。
「っ!!」
当惑した一瞬の隙を突き、男が私の足元から転がり出る。
そのまま彼も暗器を抜き出し振りかぶって来た。
咄嗟に刃で受けるものの力の差があり過ぎた。
そのまま受けきれなかった衝撃は横っ腹にもろに入り、身体が吹き飛ぶ。
強かにぶつけた身体が遅れて熱を持つ。
すかさず追撃で顔を殴られ、脳が揺れる。
コイツ、殴り慣れた拳をしてやがる。
くらりと身体を崩す振りをしてそのまま側転で場を逃げるが、それすら相手は分かっていたのか追撃の手、というか足を止めずに此方を蹴り転がして来た。
私は両足が地に着いたタイミングで爪先に力を籠め、追い掛けてくる相手へと体当たりをする。
狭い路地が今は味方してくれた。
咄嗟に堪えようと男が掴んだ木箱が勢いに負けて音を立てて散らばる。
何してくれてんだ馬鹿野郎。
クソッ人が来る前に撤退すべきか?正直この状況から捕縛できる気がしない。
「は、はは…やっぱ殺しておくべきだったんだよ」
「…」
「馬鹿げてるよな、たかが嫌がらせの為にさ…ほんと、くだらねぇ」
「助長させたのはお前だろ」
「ああそうだな、ああ、そうだった」
ゆらりと立ち上がり唾を吐き捨て、男は嗤う。
「ヤツはお前だけを殺せと命じた、だがそれに否を唱えたのは俺だ。
俺がならいっそ家族全員を殺した方が悲劇的だと唆した!!」
私の中から熱が消えていく。
いや違う、魔力が吸い出されたのだ。
ぐんと勝手に足元の深淵が伸び、男を拘束し目にも留まらぬ速さで私の元に近づく。
ふっとその影が消えた僅かな浮遊感。
明るい熟れた緑色の瞳が、驚きで見開かれていた。
私は反射的に刃を肋骨の隙間を縫うように深く、深く、穿つ。
途端、勢いが堰き止められ浮力が消えた男の重みが両手に圧し掛かる。
眼前で更に見開かれる瞳の中には、仄暗い湖の底のような私の瞳があった。
「ご、ばっ」
恨み言を口に出来ない男の代わりに、気泡交じりの大量の吐血が私に掛かる。
生暖かく錆びた匂い。
ああ、あんなにも嫌悪した臭気なのに。
今は心を昂らせる。
ずるりと、抜き出す時は簡単に抜けるから何時も不思議に思う。
命を奪う前と、命を奪った後の躊躇いの差なのだろうか。
血まみれの刃を今度は男の首筋に当て、一閃。
今度こそ全身から力が抜けた男の身体を肩で押し返し、捨てる。
どくどくと流れ広がる血溜まりを見下ろしながら、顔に掛かった血を袖で拭う。
立ち止まっていたのは数秒だろう。
私は直ぐに男の身体から身元の分かる物や刺青を剥ぎ取り、財布の中身を全部奪う。
物取りに襲われた者らしく、数か所を殴り、打撲痕を付けた。
いっその事と、片足を踏み砕いた。
多分、その時の私は嗤えていただろう。
そう、この時ばかりは、感情が戻ったとハッキリ分かった。
だって感じた事の無い高揚感。
解放感。
私、自分で、皆の仇を取れたよ。
お父様、お母様。
ギランお兄様、ギレムお兄様。
マノン、エタン、邸の皆。
わたしが殺したよ。




