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パドマの箱庭  作者: 菌床
三章:我らが女神の望み
69/95

閑話:温もりのカタチ

「51:十六歳の悔悟」「53:十六歳の心残り」のオスカー視点です。


「オスカー、ピピにオリアーヌを連れて僕の部屋に来るように伝えろ」

「は」


アロイーズ様の声から緊張が伝わり、弾かれるように部屋を出た。

それでも後ろ髪を引かれるように閉じた扉を振り返り見つめていたが、当然様子の可笑しかったシャラムが顔を出す事もなく、やや躊躇しながらその場を後にする。


俺は言い含まれた通りオリアーヌ様の部屋へ向かい、誰何を受ける。

扉を開いたのはデボラで内心怯むが表には出さず奥へ歩みを進めた。

豪奢な椅子に腰かけた部屋の主は稀人の訪れに瞳の怪訝さを隠さず、口元を扇で隠しているのだから肝が据わっているというか、流石双子だと思う。


「アロイーズ様から伝言を賜りました」

「人払いは」

「念の為」

「分かりました」


ベルナデッドが落ち着いた様子でデボラ達を退室させる。

部屋に残ったのは俺と、オリアーヌ様とベルナデッドだけだ。


「それで?」

「は。

 ピピ殿にオリアーヌ様を連れてアロイーズ様の部屋へ来るように、との事です」

「…ベルナデッド」

「はい」


更にオリアーヌ様の目に剣呑さが滲む。

遠回しに、ピピ殿と一緒でなければオリアーヌ様は来るなと言われているのだ。

それは喜ばしい話がされるようには聞こえない。


「伝言はそれだけ?」

「以上です」


伝言の後に付けるべき言葉を添え忘れた事に今更気づく。

平静を装いながらも俺自身、まだ何処か動転していたのだろう。


(俺は諜報部では無いからピピ殿への連絡網を持たない。

 シャラムが今、ああだから、仕方なくオリアーヌ様を頼っただけだ)


頭の何処かでそんな訳じゃない、と否定する自分が居る。

でもそう心を律しなければ疎外感で潰されそうだった。


「分かったわ、ご苦労様」

「は」


オリアーヌ様の部屋を後にし少し進んだ後、俺は今から何処へ行けば良くのが最善なのか、ふと分からなくなって立ち止まった。

普段であればそのまま主様の居室へ向かう。

だが今は、俺は戻って、入れてもらえるのだろうか。


「………」


恐らくそれは叶わない。

願ったところで、シャラムが断るだろう。

その意思を主様が優先するのが目に見えた。


徐に拳に力が入った。

もどかしい。

領地で過ごす間は、これ程までに短い間隔で襲われる事の無かった孤独感や無力感にやたらと苛まされる。


見えなかった、話でしか聞いて来なかった彼女の過去が、事実在ったのだと思い知らされる度に、すぐ傍に在りながら何も出来ない自分がもどかしい。


抱き締めたい。

慰めたい。

お前は一人じゃないと、過去の男の事なんか忘れてしまえと囁きたい。


覚束ない足取りで向かった先は自室ではなく、シャラムの部屋だった。

その部屋はちゃんと鍵が掛かっていた。

こういうところはしっかりしているのだから、呆れる。


しかし唯一アロイーズ様に随行した従僕仲間だから合鍵は渡されている。

緊急時に立ち入る際に用いるものだ。

今、俺も首から下げている信頼の証。

こんな時に、私情で使うべきものじゃない。

分かっているのに指先はそれを掴み、鍵穴を静かに回した。


(彼女の心は…こんな、簡単に開かない)


罪悪感と自己嫌悪に塗れ乍らゆっくりと暗い部屋に足を踏み入れる。

私物が殆ど置かれていない殺風景な部屋。

使用感を感じさせないのは、自分の部屋とそう変わりない。

だが一度衣装棚を開けば物騒なものが入っている事も知っている。

洗面台に置かれた、真新しい剃刀に目が留まる。

その傍らのコップに差された歯ブラシは一本だけ。

それが無性に彼女の痕跡を感じさせて、胸を締め付ける。


ふらりと整えられたベッドに近づき腰を落とす。


見慣れた部屋。

此処で彼女の帰りを待ったのだって、記憶に新しい。

ただあの時よりも抱く気持ちが、焦りがどうしたって強くて、思わず零れた嘆息を部屋の中に少しでも漏らさぬようにと顔を両手で覆って俯く。


(…泣いて、いないだろうか)


一人思い返すのは、初めて彼女の泣き顔を見た日の事だった。




「無理にとは、言わないのだが」


陽射しの強さが愈々増してきた季節の夕暮れ時、珍しくレオさんから俺に話があると呼び出され打診された話に目を瞬かせる。


頼まれた内容にではない。

ヴュルテンベルク辺境伯領ではよく耳にする話題だ。

ただ、それを持ちかける相手が「俺」である必要はないと思っただけ。


「何故俺なんですか」


良く言えば素直すぎる。

大体の人からは『猫を猫と呼ぶ』と揶揄われる性格だと自覚しつつも、やはり俺の口から零れたのはそんな言葉で。


端的に示した疑問に相手は苦笑でもするかと思ったが、彼は泰然自若と構え、さもありなんと軽く頷くだけだった。

矢張り若くして諜報員を纏めるのもこの落ち着き、いや、人の思考を読み取る技術の高さが抜きんでているからなのだろうなとその時思ったものだ。


先程「無理にとは、」と語っていた時の方が余程人間味のある顔だった。

多分、あの気遣いは俺に向けてのものじゃなかったのだろう。


「お前ももう十五歳になるだろ?どうしてる?」

「どうしてると言われましても…」


そりゃ普通に、自慰で。

流石に言葉を濁した。


「アロイーズ様の側仕えでやってくつもりなら閨事に慣れろ」


知識としてやり方を分かっていれば充分であろうに。

主様の周りは男所帯だ。幸いそういう話には事欠かない。

寧ろ、最近覚えたばかりの奴等が盛りの猿のようで見苦しい程。

その相手をする年頃の侍女たちも味を占めたのか、男女共に色めき立つこの春から夏にかけての季節は、使用人詰め所はどこもかしこも盛り場みたいな状況だ。

俺の隣室もここの所、連日五月蠅くて眠れやしない。


辟易とした気持ちか、果たして反抗的な考えが顔に出ていたのだろうか、相手の男が一つ嘆息を零しては長めの前髪を無造作に手で掻き上げた。


「頭の良いお前なら俺の言いたい事も分かるだろ?」

「快楽も過ぎれば拷問ですからね」

「そう…って違う、なんだその言い回し、誰が教えた」

「別に教えられた訳ではありませんが」


脳裏を横切るのは、最近面通しをしちょくちょく侍従の詰め所に顔を出す様になったヤツの姿だった。

丁度その話をしていたからだろう。


「寧ろ内心で考えていたのなら末恐ろしい…何、そういう趣味か?」

「いえ、違います」


何だその眼は。


「兎も角、快楽に慣れておく重要性が分かっているならまぁいい。

 俺の提案を蹴ったとしても構わないさ。

 だが今後どのように手順を踏んでいくつもりなのかは聞かせてもらうがな」

「…」


正直、どのように経験を積み、快楽耐性を得ていくか具体的には考えていない。

挿入できればどれだって同じだろう。

人間なんてただの肉袋だ。

周りの話を聞いていると少数派だというのは自覚しているので口にしないが、自分で慰める時だって、ただただ自分の感覚に集中して追い掛けるだけで、特定の人物や状況を思い描くという事はしていない。

恐らく回数だって少ない方だ。

何故何度もする?一回で充分だろう。


兵士見習いは俺よりもっと早い。

それこそ、十歳くらいで経験を踏む。

俺のような使用人、特に主人に近い人間は十二歳くらいが主流だ。

つまり俺は大分遅い。


誘われない訳じゃないが、かと言ってしようという気乗りもしない。

育ちのせいか、他人のあの、生温い体温が嫌いだ。

シャツ越しにだって腕を触られただけで悪寒がする、気持ち悪い。


そんな俺にこの話を持ち掛けてきたのは上に急かされでもしたのだろうか。

確かにアロイーズ様の学院入学ももう再来年に差し迫っている。

王都は此処よりもさらに誘惑が多いと聞くし、俺を連れて行くつもりかどうかは分からないが、事前に耐性を持たせておきたい思惑は納得出来た。


(折れ所でもあるか)


まぁあの、無表情ながら喋れば底抜けに明るくてやたら根性のあるアイツなら、多分、俺が相手をしなくても余裕で持ち直すだろうし。

形だけでも此処で話を受けておけばまた暫くは静観してくれるかもしれない。

こういう話題はあんまり、気の乗る話じゃない。


「俺が断ったら次は誰に?」


内心では受けるつもりでも表に出さないのが常識だ。

感情表現の薄い俺の顔立ちは、こういう時に大変役に立つ。

恐らく見事に無関心なのが相手に伝わるだろう。

事実、全く興味が起きないがな。


だが意外にも、本当に意外だが、レオさんがはっきりと逡巡した様子を見せた。

これも相手の策謀の内かと此方が構えてしまう程に。


「…選定中ですか」

「いや」

「まさかレオさん」

「な訳ないだろ」


しかし、あの侍従見習いが、シャラムが女だと把握している城内の男は片手で足りる程しか居ないと聞いているのだが。


「俺じゃあ、多分シャラムが壊れる」


それは体格的な問題でか?

確かにまだ身体は出来上がっていない、主様と同じ十三歳だとも聞いた。

しかしそうなると他に未成年の男が居ないだろう。


「………まさか」


いや、居るでは無いか。

そもそも彼女をこの城に連れて来た御方が。

俺に、『もしかしたら未来の同僚になるかもしれない』とか不確定ばかりを連ねながらも、何処か確信めいた顔をしてシャラムを見ていた人が。


「いや、それは」

「言い出したのは先方だ」

「でも」


アロイーズ様はヴュルテンベルク辺境伯家の大事な御嫡男だ。

相手は既に閉経した者、もしくはその企みが無いと綿密な調査がされ誓約を結んだような人間でなければならない。

喩えシャラムが後者だと言われても、自分は承知出来ない。

彼女の生まれも育ちも経歴も、未だ明かされていないのだ。

突如現れてやたらと嫡男嫡女や幾人かの人と親しいのは知っているが、それだけで飲み込めるような話ではないし、そもそも事情が違う。


「主様が態々御身を晒し、御慰めになる必要などないでしょう」


たかが、人殺しの訓練後の、慰安で。


城の中を歩くどの兵士だって、況や主様だって経験してきた道。

目の前の男だって俺達よりももっと小さい頃にその心的外傷を乗り越える為に、誰かに慰められた経験がきっとある筈だ。

別にヴュルテンベルク辺境伯家特有の行いではない。

何処の貴族家に仕える勇士も、皆同じ苦しみを経て、武器を握り戦うのだ。


俺が、乗り越えられなかった苦しみを。


「この際だからハッキリ言うとな、お前が代(・)案(・)だ」


いつの間にか握り締めていた拳から軋んだ音がする。

それはレオさんが言い放った言葉に自尊心を傷つけられたからではない。


「…何故そこまでして?

 何故それ程までにお気に召しているのですか、あの女を」


戦い、主様を護る事は従僕でも出来る。

人を殺める訓練も無理にしなくとも良い。

我々の護り方は、危険から無事に主様を遠ざける事だ。

眼前の男のような務めや兵士とはまた違う。


だからそれ程の配慮をしてまで十三歳の女に仕込む技術ではないのだ。

女性兵だってもう少し早く体験し、家族などに世話され心を癒していく。

それこそ諜報員を目指す人間ならば十三歳など遅きに失している。


「なら最初から侍女採用をすれば良かった」

「…オスカー、あのなぁ」

「結局抱くならその方がよっぽどいいでしょうに」


可愛がりたいだけなら、男装などさせずにそうすれば良かったのだ。

癒したいのなら素直に慈しめば良いだけだろうに。

それが出来ない人でも、地位でもないのだから。


レオさんもレオさんである。

何故、主様を窘め切れていないのだ。

諫言すべき時はきちんと出来る、信頼された大人だろうに。


「分かったよ、分かった…別の人間を探す」


幾分草臥れた様子でレオさんがぼやき、立ち上がっては部屋を後にしようとするのを咄嗟に俺は腕を掴み引き留めた。


「やりますよ」

「はぁ…確かにお前なら頼まれてくれると思ったから俺も挙げたんだが。

 別に無理強いをしろって訳じゃない」

「『求められたら応えよ、ただ癒しと安らぎを与えるに徹しろ』」

「…努々、忘れるなよ」


こんなところで、盛った猿の言い訳を口にするとは何て滑稽なんだろう。

軽く頭を小突かれて仰け反った頭を戻した時には、既に彼の姿は無かった。

一人残された部屋は夜を迎える静寂さに満ち、徐々に世界を覆う暗さが窓から忍び寄り物の輪郭を曖昧にしてゆく。


(…事情を、話すつもりはないという事か)


余程、シャラムが大事なのだろう。

掌の中で真珠を愛でているのは主様だけでなくレオさんも同じのようだ。

寧ろアロイーズ様の意向を汲み、レオさんはそうしているだけかもしれないが。


(努々、忘れるつもりはない)


あの女への疑義も、何故従僕達の中で俺だけに性別が明かされているのかも。


(信頼されている、そう満足していたのは俺だけだったのか)


輪に近いのにその中に俺は居ない。

入りたいのか、そうじゃないのか分からない。

ただそれを寂しいと思うのはおかしなことなのだろうか。

分からない、知らない。



そんな、憤懣とした思いを抱いたまま夏の盛りを迎えた。

相変わらずあの小柄な従僕見習いは朝から晩まで忙しなく動き回っている。


陽も登らぬ時間から訓練を開始し、主の起床に合わせて従僕見習いの仕事。

日中も主様の武術訓練に付き添ってるかと思えば、ふと目を離した隙にピピ殿に連れ出され姿を消している事も屡々だ。

かと思えば無表情で詰め所に顔を出し他の見習い従僕達と楽しそうに話しては、しっかりと交遊を深めながら仕事を段取りよく着実に覚えていく。

他の見習いよりも年齢が高いからか、俺以外の従僕もシャラムには眼を掛けてよくあれこれ教えている姿も見受けられた。


そこで繰り広げられるやり取りは将に男同士そのもの。

そして年功序列の絶対的縦社会。

時に乱暴な指導をされる事が在ろうとも、けろっとしているものだから根性が据わっているとつくづく思う。

本当に、コイツの性別を疑った事が何度あっただろうか。


数日経たないうちに馴染んだとは思っていたが、数か月で城内全員の名前と顔を一致させ、歴が長い俺よりも情報通になっているのだから恐ろしいものだ。

諜報員を目指す女ってのは何故こうも誰もが末恐ろしい人ばかりなのか。

デボラも恐ろしいが、方向性が違う。


「おーい!シャラムー」

「はい!お師匠!」


特にシャラムが来てから良く見かけるようになったピピ殿は、一見朗らかだが実は怒らせると城内一怖いと噂をされる程、その手腕と底知れなさに周囲の侍従達は委縮する存在なのだが、まぁシャラムは良く懐いている。

この前城壁越え訓練中に、笑顔で蹴落とされたって言ってたのにな。

かすり傷で済むお前も怖い。

あれ、高さ10mくらいないか?


とある正午前、そうやっていつも通りピピ殿に声を掛けられたシャラムがのこのこ出掛けて行った日の事だったと覚えている。


「シャラムはもう出掛けたかい?」

「は」

「そう」


そんな、短い問答をアロイーズ様としたのを覚えている。

あの時は特に気に掛けていなかった。

時折、アロイーズ様はシャラムがどうしているのか、指導の進捗を従僕達に尋ねることがあったからだ。

いつも通りの日常だった。

だから余計に、喰らっただけだと当時は思った事もあった。


夏の日中は長い。

やっと暗くなるのはもう夕餉も終えた随分後の時間だ。

兵士と違い、内々の仕事の俺達だが、流石にこの暑さでは汗も相当掻く。

混み合う前にと手早く浴場に出向いて身体をサッパリさせ、夜風の心地良さに当たりながら少しだけ遠回りをして涼み、自室に戻った時だった。


「…?」


見慣れない箱がベッドの上に置かれていたのだ。

一体何時の間にと、そろり部屋の中を見渡せど人影もその形跡も見当たらない。

部屋の鍵だってかけていた筈だ。


注意深くそれに近づき、匂いを確かめる。

不審な匂いはしない。

寧ろ美味そうな匂いがする?


薄い木張りの蓋を持ち上げれば、まず目に入ったのは油紙に包まれた軽食。

ご丁寧に水を入れた瓶まで添えてある。

他に入っていたのは肌触りのよい下ろし立ての布数枚と薬が数種。

すわ怪我人の見舞い品かと思ったが、蓋裏についていた手紙を開いて思わず深い溜息を吐いた。


『今日訓練を実行した、薬は不要でも必ず飲め』

「言われなくとも飲むが」


面倒を背負いたくないのは此方だって同じだ。

相変わらずアイツの素性は全く知らない儘であるが、もしも妊娠させてみろ。

疑われるのは俺ではなく、態々性別を偽らせてまで彼女を近くに置いていた主様に他ならない。


(フン、女を抱いた事が無いからってバカにしてるのか?

 繋がらなくとも溺れさせる術くらい知ってる)


慰めるからと必ず挿入しなくたって良いのだ。

要は恐怖心を一瞬でも忘却、塗り替えられる程の快楽と安堵を与えれば良い。

伊達に耳年増している訳じゃないのだ。


俺は嘆息を一つ吐き出し、面倒な事をさっさと片付けようと箱を小脇に抱え、シャラムに与えられていた部屋に向かった。

なんだよ、コイツの部屋の方が周囲空き部屋多くて静かだな。

羨ましい。


そんな事を思いながらも俺は一応、念の為、彼女の隣室や向かい部屋の名札を確かめる。

両方とも今日は夜番で戻らないヤツだった。

胸を撫で下ろす。

声がデカかったら困るからな。

あの低く掠れた声の嬌声だなんて此方も聞いていたくはないが。


(そもそももし漏れ聞こえて誰かが察したら、どう取られるんだ)


サッと今更周囲を確認する。

誰も居ない。

好機は今か。

即断即決で俺はシャラムの部屋の扉をノックする。


「おい、シャラム、居るか」


暫くの間があったが、扉越しにシャラムが返答を寄越す。


「寝てた、どした」


くぐもった音だが扉越しだからと気にも留めなかった。


(寝てられるくらいなんだから、これ大丈夫だろ)

「お前飯食ってないって聞いたから、差し入れ」


これは方便だ。

だが、大体の奴は訓練後に食事が取れない。

口にしても戻してしまい、血の混じった胃液を吐き出すまで苦しむ者も居る。

まぁかくいう俺がそうだったが。


だから用意されるのは食欲をそそる匂いのもの、かつ消化の良いものだ。

油紙に包まれていた軽食はそうだった。

当たり前の気遣いだが、何だか癪に障った。


(下し立ての布だって結構上等だった)


誰かの心配りがそこかしこに滲む。

この部屋割りだってそうだ、年下の柔和で穏やかなヤツばかり。

窓の外に高い木が茂っているのもコイツが夜中に出入りしやすいようにだろう。


思い返せば、コイツの周りは優しさに満ちている。

確かにシャラムは良い奴だ。

人当たりも良ければ冗談も面白い、仕事も教え甲斐があるし素直だ。

無愛想な俺よりもずっとコイツを可愛がって育てている従僕や執事も多い。

良く回る口以上に良く働く。

率直に言って、良い後輩だと俺だって思う。


でも、何処か腹が立つ。


そんな感情を渦巻かせてしまう程の間があった。

早く扉を開けろよ、人が来るかもしれないだろうが。

そもそもお前もレオさんから話で聞いてるんじゃないのか。


大丈夫だったらそう言え。


聞けば、俺だってそう報告して終わりに出来る。


「……………おう、ありがとな。

 優しい先輩の心遣いに思わず言葉を失ってしまったよ」


前半は絞り出すように。

後半は早口で、やたら元気に言い募る。


「何か風邪気味みたいでさ、ダルいんだわ。

 移すと悪いから扉の脇に置いておいてくれる?」

「風邪引くような体してないだろ」

「オスカーの方がか弱そうだもんな」

「言ってろ、バカ」


思わず笑ってしまった。

確かに、あの猛烈な訓練に堪え切れる身体はしてない。

お前は凄いよ。


「じゃ、此処置いておくからな」

「ありがとな、オスカーの優しさが沁みるぜ」


その言葉通り箱を扉の脇に置き、その隣に俺も控える。

暫くして、漸く鍵が外される音がした。

薄っすら無防備に開いた扉の合間から見えた顔に息を呑んだ。


滂沱の涙の跡がはっきりと分かる頬。

化粧が落ちた目元はどんよりとした隅がはっきり出ていた。

濡れた、意外にも長い睫毛が鈍く光り、充血しているというのに今にも落ちて来そうなセルリアンブルーの美しさに圧倒される。


「オ」


俺の存在に気付き、思わず名を呼ぼうとした彼女を無言で押し退け、足元の箱を部屋の中へ蹴り込む。

滑る様に自身も部屋の中に入り、狼狽してシャツの襟を必死に立てて顔を隠そうとする女を横目でねめつけた。

渦巻く怒りにも似た激情を宥めるように細心の注意を払い、静かに扉を閉めた。


「人気を察するのは俺の方が上だな」

「……いや、病人相手に競われても言葉に困るというか」

「お前はほんと」


一気に、部屋の中に張り詰めていた空気が緩む。

シャラムはしゃがみ込んで俺の足元の箱に手を伸ばしていた。


「御礼を言うのに扉越しは悪いと思ったけどさ。

 でも本当に風邪で、移したらそれこそもっと悪いじゃん?」

「風邪引いた人間が泣くのかよ」

「泣く?はは、違う、違うって。

 ホラ熱っぽくて、鼻水も出るから目が潤んでるだけだよ」


そう語りながらも彼女は顔を上げない。

時間を稼ぐように、差し入れの品々を手に取り感嘆の声を零すばかり。


「あー、助かる、食欲マジでないから。

 布も浸して頭冷やすのに良さそうだな…おい結構上等な生地じゃん」


それがあんまりにも暢気で、いつも通りで、平然としている様が上手くて。

聞いている此方が可笑しな勘繰りをしているのではと思う程で。

現に、脳内ではいつものあの無表情で声だけ跳ねている、摩訶不思議な状況で周囲を困惑させつつも絆すシャラムの姿がありありと浮かんでいた。


ああ、もう。

お前は本当。


逃げ口を塞ぐように、背で扉を押しながらずるずると俺もしゃがみ込む。

漸く、俺よりも小さいコイツの顔を覗き込んだ頃には完全に床に座っていた。

立てた片膝の間、しゃがんだ彼女の身体が余計小さく見えた。

投げ出した爪先がぶらぶらと、何となく落ち着かず左右に揺れる。


「まどろっこしい」


そう零しながら徐に伸ばした指先で、彼女の目元をなぞる。

気付かなかった。

綺麗な化粧って、本当に分からないもんなんだな。

女の末恐ろしさは底知れない。


「レオさんに聞いてるんだろ?」

「…」


沈黙し、目線を下げる。

涙を纏った睫毛が艶やかで、綺麗だ。

指の側面で濡れたしなやかな感触を楽しむ。

さわさわと、肌に触れるその心地が擽ったい。


彼女は、そんな俺の手を押し退けず、されるが儘だ。

どこかの臓器がきゅうと締め付けられる。


気付けば掌全体でその頬に触れていた。

微かに、シャラムが顔を預ける重み。

緩やかに撫でれば、だんだんとそれが増してくる。


こめかみ、小さくて形のいい耳、赤い目尻。

少しざらついた眉尻と、睫毛より毛の流れがあるからか滑らかな眉。

親指だけで涙の跡がまだ残る頬を何度も優しく擦れば、俺の指の跡に沿って化粧が伸びて薄くなり、より濃く浮き出る隅。

泣きすぎて赤くなった鼻先を擽れば、陥落したように彼女が両目を閉じる。


「オスカーの撫で技、すごい」

「技…」

「それとも久し振りに撫でられたからかな、安心してしまう…」

「誰に」

「ん?」

「誰に撫でられてたの」

「家族」


俺の、知らない家族(・・)。


「…安心するなら、これだけでもいいんじゃないか?」


そっと指先で生え際からなぞり、短い髪を耳に掛けてやる。

その触り心地はあまり良くない。

何度も梳けば、見間違いだと思っていた白髪が幾つも出てきた。

若白髪かよ。

なんだこの女、ほんとに。


内心でぼやいている言葉とは裏腹に手の動きは止めない。

掌全体で、彼女の頭の形をそっと辿るように撫で続ける。

髪越しに伝わる体温は、厭わしくなかった。


「…いい?」

「いいよ」


俺がそう答えれば、やっとシャラムは顔を隠すことなく立ち上がる。


「ありがとう、オスカー」


真顔なのに。

顔も、ぐしゃぐしゃに泣いて、俺に化粧を更に崩されたっていうのに。

あまりに穏やかに掠れた声音で言うから、またきゅうと臓器が軋む。

思わず手を伸ばせば、彼女は手首を掴んで俺を嘘みたいな力強さで立たせた。

矢張りもう少し筋力付けた方が良いだろうか。


「ん、少し元気出た。

 オスカーも差し入れ食べるだろ?」

「食べる」


『求められたら応えよ、ただ癒しと安らぎを与えるに徹しろ』。

俺はただ、その言葉を延々と脳内で呟き続ける。


軽食と謂えどもやはり食は進まないのか一口二口で終わらせてしまったシャラムに、水分だけは取れと避妊薬を水で割って飲ませた。

シロップ割りだと誤魔化したからか俺の方も飲もうとするから困る。

俺も同じ手法で飲んだ薬は、何だか苦かった。


他愛もない話をしてから寝仕度をする。

風呂に行く気力は無いのか、化粧だけ落とした彼女の顔は改めて血色が悪く、灯りの無い場所で見たら幽鬼のように感じられただろう。


当然のように同じベッドに入り横になる。

さっきよりも近い位置に、彼女が居た。

横寝する俺の視線を無視するように彼女は仰向けで目を閉じたまま小声で話す。

女の割に低く掠れた声が、灯りを絞った夜には心地良かった。


「添い寝も久し振りだぁ」

「それも『家族』?」


ぐるりと急に彼女が此方を見る。

薄闇に浮かぶセルリアンブルーは、仄暗い湖の底のようだ。


「…」

「何」

「…ううん、オスカーは独り立ち早そうだなーって」


そう零しながらもぞもぞと体勢を変えたシャラムの手が、上掛けから出していた俺の二の腕を一定のリズムでぽんぽんと軽く何度も叩いてくる。

本気で何がしたいのか良く分からず、少し声に困惑が混じった。


「何?」

「寝かしつけ」

「…」


されるのはお前の方だろう。

何で俺が寝かしつけられなきゃなんないんだ。


「どんなに大きくなろうともねー、人は誰かの子どもだよー」

「そりゃあな」

「大人だってねー、やっぱねー、こうするとねー、安心するんだよー」

「…そうか」


良く分からん。


「寝かしつけのコツはねぇ、心拍を意識するんだよ」

「ほぉ」

「多分」

「ふ、眉唾」


でも確かに、触れ続けられている部分と、規則正しく離れては再び触れる指先が、籠る熱や重みが、厭わしいと思う事は無かった。

奇妙な浮遊感。

深く吸った息に彼女の匂いが混じる。

仄かに、気配を研ぎ澄ませれば隣から滲む熱が分かる。


緊迫感を持って他人の気配を察するのとは全く違う感覚。


そんな意識を追い払うように、俺は目の前の女の頬を撫でる。

柔らかい。

温かい。


先程褒められた通り、どうやら俺は撫でるのが上手いのかすぐにまた彼女は眼を閉じた。

顔立ちのせいだろうか?

目を閉じた彼女は少し微笑んでいるように見える。


「…」


それを壊さぬよう、起こさぬようにそっと何度も生え際や目元を撫でる。

やがてその、水面を揺蕩うような俺の指先は、彼女の輪郭を辿り、鎖骨へと繋がる筋肉を辿る。

指の腹でくぼんだ柔肌と骨の感触を楽しんでいたが、ふと、シャラムが緊張している空気がして自分の目線が下がっていた事に気付く。


そのまま何事も無かったかのように鎖骨を辿り、彼女の肩を掌で撫でた。


「…お前はこっちの方が、安心出来るだろ?」

「うん」


俺の手が肩を中心に、時折頭から、耳から、首を辿って、彼女の形を確かめるように撫でてやれば、身体からどんどんと強張りが溶けていく。

手に取る様に分かるとはまさにこの事か、なんて下らない事を考えながら、半袖から出ている瘡蓋が残る腕に触れる。

俺を寝かしつけていた腕。

もう素直に二人の間で畳まれて、撫でられ待ちをしている。


曲げる事で撓んだ筋肉が薄い肉を押し上げて、柔らかい。

触り心地が良い。

掌全体で揉み込み、思い出したように摩る。


(鍛えてはいるものの、やっぱり柔らかい)


ぞわりと、腹の奥が何かに撫でられた心地を覚えた。


(爪だって小さい)


薄闇のぼんやりと浮かぶ白い指先、その手の甲、腱の流れを辿る。

最早撫でて安心させるというより観察するような動きになっていた。

擽ったいのか、相手の指先がきゅっと握り締められて、また引き寄せられていた視線を慌てて彷徨わせ、少し間を置いてから盗み見るように彼女の顔を見た。


(…眠り、そうか?)


密かに安堵の息を吐く。

自分のように、彼女には陥って欲しくなかった。


(図太そうだし大丈夫だろう)


あの、肌に刃が食い込む瞬間の膜を壊す感覚。

目を背けたい筈なのに頑なに顔は動かず、極度の緊張を解さんと身体は勝手に口呼吸になる。

刃からせり上がって来る、ずぶずぶと、密集した何かを押し開き潰し壊す感触。

これ以上進ませないと阻む骨。

それを断てと命じられた時のあの孤独感。

止めてくれる声は何処にもない。


鼻を突く濃い血の匂い。

どうっと音を立て倒れ、弛緩した身体から漏れ出す中身、筋肉。

生きていた人。

自分も同じ中身が入っている。


錆た鋸で首を落とされた罪人の顔は麻袋で見えない。

だが、死者の眼が自分を見ている心地がしてならなかった。


人を殺した。

自分の手で。

殺した。

血が。

命が。


流れ出て行く。


「…オスカー」


返事の代わりに唾を嚥下する。

その音が、静寂なベッドの中で彼女に聞こえたのではないかと焦る。

一筋の冷や汗が俺の首筋を落ちて行った。


「ごめん、…眠れるまで撫でて」


シャラムの手が俺の手を握る。

ああ、先程は気付かなかった。

重ねると、こんなに大きさも硬さも、厚みも違う。


冷や汗で濡れた俺の掌を労わるように彼女の指が絡む。


その掌も冷や汗で濡れ、指先は冷え切っていた。


喉の奥が引き攣れる。

視界がぼやけて、溢れそうになる何かを必死に飲み込んだ。

繋がれた手の冷たさの奥に感じる温かみ。

何より、彼女を象る重みが、俺の胸を掻き立てた。


「…シャラム」


やっと出た声は、情けなくも、泣き声に聞こえただろう。


「抱き締めてもいいか」


昔の自分が、どんなに苦しくても怖くて手を伸ばせなかったもの。

人肌の温もり。

誰かの重みの、安心感。


知らなかったんだ。

教えてくれる人が居なかったから。

知ろうとしなかったんだ。

溺れるのが恐ろしくて。


ずっと、自分で自分を抱き締めることだけが唯一の慰めだった。


「うん」


それしか知らない俺を、彼女から抱き締めてくれた。

顔を埋められた首筋。

髪の掛かる頬。

肩が当たる脇、腕を感じる背中。

胸から腹までぴったりと、埋められる安堵。


ああ。


俺から足も絡め、出来る限りを彼女に触れさせる。

温かい、柔らかい。

それだけじゃない、硬さやしなやかさ。

鼓動。

生きている。


緩やかに背中を撫でる彼女を真似て自分も彼女の背や腕を撫でる。

深く、沈み込む様な安堵の溜息が首に掛かる。

堪らなくなってシャラムの頭ごと抱き込み、何度も彼女の形をなぞった。


此処にある。

腕の中に。

安らぎを知る人。

惜しみなく与えてくれる人。


互いに互いを抱き締め撫で、安堵を藻掻くように求めた。

身体の隙間を許さぬように胸と腹をずっとくっつけたまま。



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