59:十六歳の止まり木
ほぼ身体は私の思考を要さず、従順にタウンハウスへと戻ってきた。
足が赴くまま向かった部屋をノックするも返答は無い。
(………あ、そっか…今日、オスカーは夜番か…)
人気のない深夜の廊下。
私は誰も見ていないのに、顔を片手で覆って隠した。
暫くそうして立ち尽くした後、やっとトボトボと歩き出す。
私が怒り悔しみ、泣く権利など無い。
だけど一人きりで居たらどうしてもそればかりを考えてしまう気がしていて、ふと足を止めれば見慣れた扉の前まで来ていた。
逡巡していた手が弱々しくノックを打ち、間を置かずに扉を細く開ける。
「…だから返答を待てといつも……シャラム?」
寝室前の扉脇に置かれた椅子から腰を浮かしかけた、間抜けなオスカーの姿を目にした途端、どっと安堵が胸を満たした。
私は片手で、そのままと示して、訝しげな彼の傍へと向かう。
「おかえり」
「…ただいま」
椅子に座り直した彼は、その脇、壁を背に床へ腰を下ろした私に顔だけを向けながらそう告げると、徐に頭を撫でてくれる。
徐々に身体から重たい何かが抜けてゆく。
それに従う様に、私は少し身体を移動させ、座る彼の片腿へ頭を預けた。
仄かに感じる彼の体温。
空いた反対側を埋める様に彼は私の頬を撫でる。
あったかい。
何度も込み上げるものを飲み込み、無頭がる様に顔を押し付ける。
ただ彼は何も言わず私の頭や肩を撫で続けてくれた。
「何に怒っているのか分からなくなる」
ぽつりと零した私の言葉を静寂が包み込む。
「人の不幸を悦ぶ性根の不気味さに、恐怖よりも腹立たしさが先行する。
でもそれは彼を苛めたからなのか理不尽に巻き込まれたからなのか」
「…明確にしなければいけないのか?」
「明確じゃない感情は、不安になる」
「成程な」
優しく耳朶をなぞる指先。
まるで愛玩されているような気分になる。
「俺からの告白の時も同じか?」
「それは…」
「それは?」
オスカーの視線が私に向けられているのがひしと分かる。
それでも、顔を上げる事は出来なかった。
「…躊躇いよりも、オスカーに伝えたく、なった」
「ふ」
ゆったりとした衣擦れの音の後、短いキスが頭に落ちた。
何度も何度も、柔らかな慈雨のようなそれが私に降り注ぐ。
「人と共有する事が如何に甘美か、俺はお前に教えられたよ」
何気ない日常の会話で笑う。
それだけでも満たされていたのに。
弱い部分を晒し合ってぶつけて、慰め撫で合った。
温もりも、鼓動も、恥も悦びも。
「恐らくお前のその蟠りは、『彼』と共有すれば解けるのかもしれない」
「…」
「でもそれをお前は出来ないし、俺がさせない」
そっと腕に頭を抱き込まれ、まるで脳髄に吹き込むように囁かれる。
「どんな怒りも悲しみもシャラムのものなら構わない。
他の男になんて分け与えるな。
俺は何時だって、お前の全てが欲しくて堪らない」
熱を孕んだ嘆息に肩を竦めれば、低く喉で笑う声を誤魔化すように長いキスが未だ上げられない頭にじっとりと落とされ刻まれていく。
後ろを振り向きかけていた意識が、強制的に彼に引き寄せられる。
悪戯な指先が煽る様に首筋を擽ってくるのが悔しい。
容易く彼に翻弄されている自分が腹立たしくて情けなくて。
「…何で今日、夜番なんだよ」
「全く巡り合わせが悪いと俺も思うぞ」
普段とは真逆の立場で私がぼやけば、彼は愉快そうに笑う。
拘束が緩んだタイミングで拗ねて顔を膝の方へ逸らせば、待っていたかのように彼の指先が私の唇を撫で摩る。
軽く舌でそれを追い、柔く吸い付けば頭上から嘆息が落ちた。
「ホント、お前」
「朝までこうしていたい」
「………」
自制の為か、攻撃の手を緩めたオスカーに私が今度は低く喉を震わす。
優しく頭を撫でる温もりに自然と瞼が降りてくる。
「そこで寝るな、ソファー使え」
「やだよぅ」
「…ホント何で今自室じゃないのか」
「ふっふふ」
「覚えてろよ、マジで」
ドスの利いた恨み言を零しながらも私を撫でる手は只管に優しい。
そんなキミが愛しいよ、オスカー。
箱庭を喪って、擦れて汚れた私でも愛してくれる。
醜い私の性根も含めて全部を寄越せと言い張る強欲な貴方になら私は甘えられる。
安心しきって夢を見ずに深い眠りにつける。
貴方の傍らでなら。
一晩明けて思考も感情も幾分か波立ちを抑え、アロへの報告は静かに出来た。
相変わらずオスカーは席を外している。
何処か寂しそうだが、何時もよりややスッキリとした面立ちで退席した彼を見ると、此方が押し付けたものであっても受け入れてくれている事を感じられた。
その安堵が今の私を支えてくれている。
「…グウェンダル様の感じる違和感は、看過出来ないね」
「私もそう思います」
「実際、件の縁を姫が苦々しく思っていた噂は聞いてはいたけど、実際に行動をとれるような力を持ち合わせていなかったし、例え力技を使おうとそれを閣下が見過ごすとも考えられなかった」
「後に王都へ流されたそれらしい理由も、お兄様達とやりとりをしていたグウェンダル様からしたら到底信じられる話でも無かったのでしょうね」
「ユーデス様の様子を実際に確認でき、周囲を俯瞰出来る立場でもあったしね」
「彼にとっては偏見の域でしたが…今調べているものと照らし合わせると」
「その筋を否定しきれないね。
全く…嫌な手口だ。そしてなんて、幼稚な動機だろうか」
アロイーズ様は背凭れに身を預け嫌悪と怒りを露にする。
自らを制するように溜息を零されるも、微かにその唇は震えていた。
何が発端かは未だに不明ではあるが、イザイエ様はユーデス様を嫌悪していると考えればグウェンダル様が見た彼の密やかな喜びの意味は腑に落ちる。
証拠が無いからこそグウェンダル様も明言はしなかった。
偶然、ユーデス様に降りかかった不幸を、はしゃいで今もその平穏を見出し苛める話題として弄繰り回しているだけかもしれない。
どちらにせよ性根は最悪だが。
それでもグウェンダル様は考えてしまったのだろう。
もし、もしも、イザイエ様が意図してユーデス様に苦悩を与えようと画策した結果があの惨事であったとしたのなら、と。
きっとユーデス様を絶望に叩き落す為であったのなら誰でも良かったのだ。
今になって思うのは、私が初めて出会った頃のユーデス様だ。
当時から彼は人の様子を窺うものの媚び諂う訳でも無く、ただじっと何も反応を返さぬように耐え忍ぶような無表情を貫いていた。
あの、彼の動かない表情筋は既にイザイエ様によって苛まされた結果だとしたら。
自分の心をこれ以上壊されないように彼が身に着けていた鎧だとしたら。
考えるだけで憤懣遣る瀬無く、反吐が出そうになる。
とすれば『ユーデス様の婚約者』という傍から見れば大層な存在も、清廉な皮を被った悪魔は然程気にしていなかったかもしれない。
だが、彼が私と想いを通わせた。
大事にしてくれていたのを、きっとイザイエ様は目敏く気付いた。
ユーデス様が急に忙殺されるようになったのはそのせいかもしれない。
もしかしたら彼なりに、自分を追いやって苦しんでみせたのか。
悪魔が私に手を伸ばさないように。
守りの硬い公爵家から出される手紙すら警戒し、余所余所しくして私との婚約関係はあくまでも契約上のものであって興味など無いのだとするような事までして。
この辺りは私の妄想だ。
だが、それだったらユーデス様はあんなに頭が良いのに、バカだ。
心を吐露する手紙で私に助けを求めながら、来るなと制する二律背反。
不器用な人。
仕方が無い、自分を護るのに精いっぱいだったのだから。
他人の護り方なんか知らないよね。
バカな人。
頼れない私なんかを好きになって。
それでも話してくれていたら、何かは変えようとしただろう。
だって私は貴方を幸せにするつもりだったのだ。
私もそれを、しっかりと彼に伝えるべきだった。
お互いに幼い人間の、もどかしい恋。
「その辺りの関係性が何時からかは」
「…聞いておりません」
考え込んでしまった私の意識が呼び戻される。
アロイーズは指先を僅かに揺らし、何かを思い出そうとする。
「王子殿下の傍に上がった頃から落ち着いた方だったと、聞いた気がするけれど、そうなるとかなり昔から彼は」
「かもしれませんね」
「…亡くなった公爵夫人の交遊も確認しておくべきか」
そう主様は独り言ちた。
確かに、イザイエ様が相当以前からユーデス様を壊す事に心血注いでいたとしても、その切欠は一体何なのだろうか。
出産後暫くして儚くなられた公爵夫人。
彼女への執着があったとしても、当時の彼は二歳程度だろう。
赤ん坊のユーデス様の周囲にはもっと人も居た筈だ。
本当に、イザイエ様の闇深さは気味が悪い。
そもそも標的は私だけで良かった筈だ。
でもそれを一家惨殺という規模に広げる事で、より目的や首謀者を曖昧に出来ると考えたのなら知能の無駄遣いだとつくづく思う。
実際、噂とは裏腹に一家を狙ったものだとも当時は疑われた。
しかし今、我々の手元にはイザイエ様とユーデス様の確執に加え、曾祖母様の贈り先にアンヴァリッド公爵家が含まれていたという情報がある。
結びつきを疑うなという方が無理であろう。
グウェンダル様も、二人が幼馴染である事と同時に、イザイエ様が曾祖母様の下へご挨拶に伺う事も屡々あったと零していた。
勘の良い彼の事だろう、私のその質問で何か気付いたのかもしれないが。
そこから先は私達が調べていくのに任せてもらう事にした。
勿論例の一族に関しての情報が入れば彼に、夫人に渡してもらうつもりではある。
「くれぐれもオーリにはまだ教えるな」
「分かりました」
ミレイユ嬢の話ですら激昂してくれたオリアーヌだ。
もしこんな、事件の発端がただの嫌がらせだったなんて聞かされたら周囲を振り切ってイザイエ様を殺しに行くかもしれない。
寧ろ私がこんなに落ち着いていられるのが可笑しいくらいだ。
それはアロイーズも感じるのか、じっと私を見上げてから苦笑を零す。
「やっぱり僕には無理だったんだろうね」
「何がですか」
「さざめくキミの感情を宥め賺すのは」
「夏前はお世話になりましたけど」
「…そういえば、そうか」
私の家族との思い出があるアロやオーリは、私の怒りに共鳴してしまうだろう。
でも今はそうするべきではない。
だから猶更、オスカーは私にとって支えになったのだ。
「愛はあるんだけどなぁ」
「私もだよ、ありがとねアロ」
「ん」
微笑む彼には今もこうして助けられている。
その事実を忘れて欲しくはない。
更に言い募ろうと口を開きかけた時、背後の扉をノックする音が響く。
「お話中申し訳御座いませんアロイーズ様、間も無くお時間です」
「ありがとう…兎に角引き続き、その筋で情報を集めよ」
「は」
私は一礼をした後、立ち上がった彼の身嗜みを整え先導して扉を開く。
廊下で控えていたオスカーがちらりと私に視線を寄越す。
控えめに頷き返せば何事も無かったかのように我々は日常に戻り、馬車止まりに待たせてある通学用の馬車へと歩みを進めていく。
「ところでオスカー、次の休みの希望はあるかい?」
「え?」
急にそんな話題を振られて驚くオスカーだが、私はアロが何を言いたいのか分かってしまい思わず横から口を挟み待ったを掛けた。
「融通を利かせ過ぎです」
「シャラムも一緒に休みたい?」
「そうではな「そうであれば是非」
コイツ被せて来やがった。
ちょっとオスカーは引っ込んでろ。
「何か一緒にしたい事でもあるの?」
嬉しそうに我が主が小首を傾げれば、さらりと美しい髪が動きを追う。
その些細な動きだけであっても大変優美である。
だが内心に抱いているセクハラ事案を思うと私は全く笑えない。
しかしオスカーは動じる事無く嬉しそうに口を開いた。
「夏季休暇で向かった避暑地に行きたいと思います。
結局、シャラムが勧めてくれていた景色を俺は見れていませんから」
この回答に驚かされたのはアロイーズだけでなく、私もだった。
うっ、胸がきゅうとする。
めちゃくちゃ連れて行くわ!!なんだよそれ!可愛いな!!!
「ああそれは良いね、秋口も綺麗だろう」
「はい、ですからアロ様の御心遣いが大変嬉しいです」
王都よりも標高が高いから少し早い紅葉も見れるだろうか。
下見の時は緑一面だったが、木々が色付いているのもそれは美しいだろう。
一人じゃあまり外出もしないオスカーだ。
こういう機会は是非大事にしてやりたい。
それに、今度こそ手作りで何か持って行っても良さそうだ。
うん、そうしよう、楽しみだな。
「僕も行こうかなぁ」
「夏季休暇のやり直しですね」
「お、シャラムは乗り気だ」
身体は流れるように馬車に乗り込みながら、頭の中ではアロイーズの好きな物もお弁当のラインナップに加えていきつつ、主様の遠足に必要な道具もあれこれと並べ、荷の量を考えた。
馬車でも良いが馬でも間に合うな。
うん、大丈夫だ。
ふと顔を上げたら黙りこくったオスカーと目が合った。
その眼が悠然と語る感情を無視して私は向かいのアロイーズとお出掛けの打ち合わせを楽しく続ける。
今日もヴュルテンベルク辺境伯家の主従は大変仲良しである。
良き哉、良き哉。
そんな楽しい予定を考えていて気を抜いたのだろうか。
学院内で手洗い帰りにバッタリとネウストラ公爵家の爺に遭遇した。
いや、待たれていたのを見落としたというべきか。
私は諸事情から学院内の手洗いは常にヴュルテンベルク辺境伯家が抑えている一室に設けられているものを使用している。
出来る限り三人で行動しているが、こればかりは仕方ない。
勿論主様の命で単独行動をする場合もあるが、そういう時にはきちんと周囲の状況や動きに気を配って避けているので、夏前から私を気に掛けていた爺は接触を持てなかった。
(しまったぁ…)
完全に目が合ったが目礼だけをし足早に廊下を進む。
彼はゆったりとした歩みで私の方へ来るが、そのまま躱すつもりで進路を取る。
「もし、ヴュルテンベルク辺境伯家従僕のキミ」
「は」
それでも爺は少し早いタイミングで私に声を掛けた。
相手の表情は穏やかだが何処か緊張している様子が見受けられる。
こういう時は愛想笑いを張り付けるのだが、相手が相手なので私は無表情のままで歩みの速度を落として適度な距離で立ち止まった。
相手も此方の意図を察してか、必要以上に詰めては来ない。
「ウチの若い従僕とも仲良くやってくれているようですね」
「此方こそ良くして頂いています」
社交辞令の範囲でだ。
特段、ネウストラ公爵家の従僕と仲が良い訳ではない。
それは重々彼も承知しているだろうが、脇に置いておく。
「家格を気にしてだろうかね、中々学院では話し相手が居ないようだったが楽しそうにしていますよ」
「それは光栄です」
「嬉しい変わりようには主人以上に閣下が興味をお持ちになる程」
私に声を掛けたのはユーデス様の指示を受けた訳では無い、と暗に示したつもりなのだろうか。
くすんだ赤紫色の瞳を見つめ返す私も警戒を高めた。
何故ネウストラ公爵閣下が他家の、仇敵の従僕なんぞに目を留める。
いっそ、だからこそ接触を訝しんでいるのだろうか。
確かに、近年の状況を探る為に従僕や護衛と接触をしているが、そこから漏れるものなど高が知れている。
ネウストラ公爵家はウチと違い、しっかり政務と業務を分担させている。
偶に、両方をこなす有能な人間、それこそ目の前の爺のような者も居るが。
正直学院にユーデス様が伴っている従僕も護衛も凡庸だ。
大した情報を与えられていないのは直ぐに分かった。
だからこそ他家もそんなに彼等と話す必要性を感じていないのだろう。
何とも世知辛いものではあるが、それが現実だ。
「どうでしょう?今度の休みなどは?」
ヴュルテンベルク辺境伯家の諜報員として考えれば、正面から入れるまたとない絶好の機会ではある。
生きて帰れる気がしないが。
しかし未だ目的が読めない。
寧ろ読ませない為に、性急に話題を振ったのだろう。
場所も場所だ。
教室からは離れており人通りも少ないが、学院の廊下だ。
誰が通るかも分からない。
そんな事を考えて居たからか近づく足音がした。
爺が振り返るのと同時に、離れた角から顔を出したのは見慣れた人。
「何をしている」
厳しい言葉を投げ掛けた先は、私だ。
彼は険しい顔をして足早に私の前に立ち、鋭い目で見下ろす。
ちゃんと背中を相手に向けるではなくやや斜に構え、礼節を重んじているのは矢張り真面目な性格だからだろうか。
「気にするな、立ち話だ」
「従僕とならまだしも、彼と何を」
「私の社交性をお褒め頂いてただけさ」
私の言葉を聞いてもオスカーの表情は晴れない。
軽く彼を宥めるようにその背中を叩く。
「光栄なお心遣いですがこの通りです」
「彼も一緒で構わないですよ」
「それでは顔ぶれが可笑しいでしょう」
従僕二人だけでネウストラ公爵家に出向いて何になる。
せめて執事や、それこそ主様の随行者としてなら話は分かるが。
そう言い返す私に爺が苦笑を浮かべる。
「どうやら私は嫌われてしまったようで」
「不敬と取られたのなら謝罪を致します。
年の離れた先輩との接し方は勉強不足でして」
「この歳になると若い者からは煙たがられてばかりですよ」
「貴家の従僕は教えを素直に受け取る良い方でしょうに」
爺くらいの年頃の兵士だって領地では普通に対話するわ。
ただ貴方は私を知っているからこそ警戒しているだけだ。
というかオスカーが剣呑なんだよ。
せめてもう少し隠せ。
こんな雰囲気だからこそ呼び寄せたのかもしれない。
オスカーが現れた角から次に顔を出した人物に、私はうんざりとした。
「爺、何をしている」
今講義中真っ只中でしょうよ。
貴方こそ何をしているんですかユーデス様。
彼は何時もの従僕と二人の護衛というフルラインナップで登場だ。
普段からこれだけちゃんと人を付けて動いてくれよな。
いや、まぁ実際はそうなのだが、一人になる頻度も多すぎるよ。
「ユーデス坊ちゃま」
「学院ではやめろ」
「これは失礼致しました」
慇懃無礼を体現するように爺が深々と腰を折る。
もう坊ちゃまと呼ばれる歳でも無いと言いたいのだろうか。
ストラス邸では特に気にしていなかったのにな。
思春期真っ只中である。
「禄でも無い事を考えているようだがすぐさま止めよ」
「畏まりました」
「告げよ、『私は人形を与えられ喜ぶような幼子ではありません』と」
「は」
そうユーデス様が言い放てば爺は粛々と私達へ礼をし、護衛の一人とこの場を立ち去って行った。
残った従僕が申し訳なさそうに私を見やるのを軽く頭を振って返す。
横からそれすら咎める視線がしたが、無視だ。
舞台袖に消えた演者の足音さえ聞こえなくなってやっとユーデス様が私達の方に向き直り、美しい瞳を悼むように細めた。
「…済まなかった、驚かせただろう」
「公子からそのようなお言葉を頂く事は、何も」
「そうか」
少しばかり彼は肩の力を緩め、視線を下げる。
何か逡巡した後に再びその唇を震わせた。
「春振りだな、言葉を交わすのは。王都での生活には慣れただろうか?」
「ええ、我が主も健やかにお過ごしです」
「それは何よりだ」
普段の舌は何処へ行ったのだと、護衛達が目を瞬かせたのは直ぐだ。
流石に高位貴族の嫡子であるユーデス様に軽口が叩ける訳も無かろうに。
彼等は一体私を何だと思っているのだろう。
これで終わりかと思うような沈黙が流れるが、まだユーデス様は動かない。
私の瞳を見つめたまま、口を薄く開いたり閉じたりを繰り返す。
「……すまない、やはり、キミが、その瞳が…目が離せなくて」
「ああ、空似の」
そう私が零せば彼はより顔を切なげに歪める。
ああ、そんな顔をしたって私は手を伸ばせないよ。
もう二度と私と貴方の想いは交わらない。
「そう、まるで空を切り取って落ちて来たような色味なんだ」
「そうですか」
私は頷くとすぐに、黙っている隣の男を見上げた。
ビクリと彼が一瞬身体を強張らせる。
黒い瞳が私を縋る様に見つめ返していた。
「あまり言われた事が無いですね、彼もそうは思っていないようですし」
「ああ、それは…そうだろう」
何処となく穏やかな口調で彼は頷き、苦笑すら零した。
その様子に驚いたのは彼の背後に侍る従僕達だ。
「私の気持ちがそうさせたのだから」
「では愈々私の瞳では物足りないでしょう」
軽く頭を振って私から視線を下げて逸らせば、彼は息を呑み、口を閉ざした。
やっと自分の矛盾に気付いたようだ。
人形を不要と言っておきながら赤の他人である私の瞳に魅入っている。
まぁ事実本人ではあるが、どんなに焦がれられようと私は其方にはいかない。
間を開けて視線を再びユーデス様に向ければ、彼は肩を震わせた。
「箱庭から見える空だけが、空では無い事を貴方は御存じの筈でしょう」
「……………」
はくりと、彼は苦しそうに口を動かすが、言葉を飲み込む。
私の箱庭が壊れたように、彼の慈しんだ箱庭も壊れてしまったのだ。
閉ざされた世界で生きる事を許されなくなった子ども達。
それを受け入れたから私は今猶生きていて、恋をして、愛を抱く。
「差し出がましい真似をしました」
「……いや」
頭を下げる私の動きで彼は意識を取り戻したのか、絞り出すような声を零す。
此方の一挙一動を見つめる瞳に、先程のような郷愁は無い。
やっと、彼の瞳に『シャラム』が映った気がした。
「きっと…彼女を信じ続ければ、再び、戻れると…信じていた」
「大人しい小鳥のような方なのですね」
ぼんやりと呟く彼の言葉に思わず皮肉が漏れた。
おいおい、フィルター掛かりすぎだろう。
誰がそんな大人しいヤツに見えるって?
「そう、そうだな、そんな人じゃなかった。
だから言い聞かせておかないといけないと、と…烏滸がましくも思う程で…」
ほとりと、彼の瞳から雫が落ちる。
「結局、私が信じていたのは…自分の選択だっただけだ」
「…」
最後まで私に彼の抱えるものを明かさなかった。
自分一人で抗う事をユーデス様が選んだ。
でもそれを否定されたら、きっと彼はそこで斃れたかもしれない。
だから、それで良かったんだと私は思うよ。
「過言ばかりで恐縮ですが、御自身を信じる事を小鳥は恨むような性格で?」
「…違うな、違う、それだけは確信出来る。
彼女ならきっと…『仕方が無い人』と笑って、」
思わず落とした涙は既に彼は拭い払い、潤ませた瞳で外を見ていた。
夏の盛りは過ぎた木々は何処か柔らかさと寂しさを伴う色を纏っていた。
「であれば良いのではないでしょうか」
「キミは、凄いな」
目元を少しだけ緩めたユーデス様に私は眼を瞬かせる。
「久し振りに思い出以外の彼女を思い描けた…感謝する」
「御心が穏やかであれば幸いです」
「アロイーズ殿の周りにはキミのような人が多いのだろうか」
「どうでしょう?ただ、主様の人格に惹かれた者ばかりですよ」
「そうか、それは素直に…羨ましいな」
吐息だけで笑い、くっと改めて顔を上げた彼の表情は少しだけ明るい。
それが少しだけ誇らしいと思い、視線を向けた先で呆気に取られている従僕達を剣呑な眼で見据えれば、彼等は背筋を伸ばしていた。
そうだぞ、お前達が支えるべき御人だぞ。
何他家の従僕にスケコマされてるのを指咥えて見てるんだ。
危機感を持て、危機感を。
「学院内で逢ったら、またこうして少し話しても?」
「身に余る光栄です」
絶対避けるが。
今はまぁ、然程気にするような眼も無いから良いとして、私がユーデス様を泣かせたところなんぞ他の人が見たら何と噂するか考えるだけで恐ろしいわ。
粛々と頭を下げる私の意図を察したように彼はまた吐息だけで笑う。
「もっと早く話し掛ければ良かったな、もう秋だ」
何時も私を遠目から見ている事ばかりでしたものね。
そんな事しているから爺が出張る事になるんですよ、ユーデス様。
「思いの外、長話をしてしまった。仕事の途中にすまない」
「いえ」
そう零して彼は踵を返し、従僕達を引き連れて元来た角へ消えていく。
その足音を聞きながら私は懐中時計にて時間を確認した。
よし、まだまだ講義が終わるまで時間はあるな。
やがて周囲から完全に人気が消えるのを見計らい、立ち尽くすオスカーの腕を掴んでヴュルテンベルク辺境伯家が抑えている部屋にとんぼ返りをする。
彼と共にそこに入り、鍵を閉める。
未だ呆然としている彼を押しやってソファーに座らせる。
「オスカー」
私が眼前で立ったまま呼び掛ければ彼は大袈裟な程肩を震わせた。
見上げる黒い瞳がじわりと濡れていく。
私はそれを両の親指でなぞり、彼の頭ごと胸に抱き込んだ。
「嫌な想いさせてごめん」
「…自分が、情けない………奪わせないと、言っておきながら実際は、これだ」
「唐突だったもんな」
「怖かった」
ぐっと彼が私の背に腕を回し軋む程の力を入れる。
オスカーの震える肩や背中を何度も撫で摩った。
私はオスカーにユーデス様との関係を、彼に抱いていた気持ちを語った事は無い。
だが彼はアロ達から聞いていたり、私の様子で察するものがあったのだろう。
ユーデス様関連になるとピリつくのを感じておきながら、こうして後手に回ってしまったのは私の不徳の致すところだ。
「オスカーが隣に居てくれたからって私が安心し過ぎた。
あんな話、するつもりも無かったの」
「分かってる、でもお前は…愛情深過ぎる…」
「勝手に箱庭から逃げ出す小鳥なのに?」
ふ、と笑う私の振動を直に感じている彼が更に縋る力を強める。
「広い世界で私はオスカーに出逢って、そこで羽を休めると決めた。
今だって帰ってくるのは貴方の元」
「待つ方を偶にはお前も経験しろ」
「何言ってんの、着いて行くに決まってんでしょ」
「ふ」
今度は彼が低く笑う。
その振動に甘く私の心も震えた。
「だからオスカーは一人にはもう二度となれません、諦めて」
「喜んで諦める」
「潔いなぁ」
「もう一人きりは、要らないよ」
瞳を濡らしたオスカーが徐に顔を上げた。
その表情に愛しさが募る。
「私に都合の良いヤツめ」
「…そうでなくなったら?」
「加えて、欲しがりだ」
その唇にそっと自分のそれを重ねた。
覗き込む瞳が深く私を捉えて離さない。
「追いかけるよ、うざったいくらいに飛び回る」
「可愛いな」
「暢気な事言ってられるのも今の内だけだよ」
そもそも見た目が男な私を可愛いなんて言うのは、オスカーだけだよ。
ほんとお前の審美眼というか好みは良く分からないな。
「可愛いよ、ずっと、ずっと可愛い…いつも堪らない」
「…」
慰めていた筈なのに何故こんな、私が恥ずかしい流れになったのだ。
誤魔化す様に何度も彼の顔に小さなキスを落としていく。
私だって彼をいつも可愛いと思ってるよ。
多分いつまでも思うだろう。
だから今は存分に彼を甘やかして、愛で倒すつもりなのだ。
私の愛しい止まり木。
何時までも、これからも、私は望んで貴方の傍に居る。
それが伝われば良いなと思いながら視線を、唇を交わした。
「あれ?オスカーは?」
「ちょっと」
講義終わりに主の前に立てたのは私だけだ。
それが逆なら、何か調べものをしているのかなとそこまでアロイーズも不審に思う事は無いのだろうけれど。
澄ました顔をしているつもりだが内心の焦りはバレているだろう。
それであってもじっと見返してくる彼の視線に堪える。
「…仕事中でしょ」
「彼に責はありません、私がやりました」
「潔ければ許されると思ったら大間違いだよ、シャラム」
「は」
仕事中は私情を区別するのは当たり前だ。
だがその禁を破った罰は私が受けるべきで、オスカーでは無い。
はぁと盛大な溜息を吐きながらも興味津々と言った瞳をしているのは流石年頃の男というか、我らが主は話が分かると言うか。
「それでオスカーは何処に?」
「控室です」
猶、オスカーを置いて来る判断をしたのは私だ。
ちょっと外に出しちゃいけない顔をしていた。
なんだあの色気は。
そりゃ、初めてあんなんしたら、まぁ呆然とするものだろうけどさ。
私もビビった。
「はぁ…」
「申し訳御座いません」
「詳細は帰ってから聞くよ」
「どっちの」
「経緯に決まってるだろ」
バカな返答を返せばアロイーズも笑ってくれた。
恐らくオスカーの方からもう一つの詳細は得るのかもしれない。
止めろよ、話すなよ、そしたらもうしてやらないからな。
結局オスカーを外に出しても良いか自ら判断をする、と面白がり仰る主様を私が止める事も出来ずに控室に向かう事となり、顔色の戻った筈のオスカーがまた赤面して両手で顔を覆う姿は大変可愛らしかった。




