54:十六歳の岐路
短い夏季休暇が終わろうとしていたそんな最中、主人から呼び出しを受けた。
集められたのは私とオスカーだけだ。
平素の彼の居室に揃う顔ぶれ。
改めて呼び出す程でも無いのだが、こういうのは趣も大事だ。
彼の執務机の前に背筋を伸ばして従僕として並ぶ。
大きな窓の外はまだまだ強い日差しを受けて輝く緑の遠景が揺れていた。
休暇明けの学院での行動指針でも話されるのだろう。
私の推測通りにアロイーズの語り出しは静かに始まった。
「夏季休暇後の方針についてだが、ミレイユ・シャレット嬢から情報を引き出す事を最優先事項とする。
僕からの至上命令と捉えよ」
「「は」」
私とオスカーの短い返答が重なる。
休暇前にアロと話をした私は彼が何故ミレイユ嬢を注視するかを分かっている。
恐らく隣に立つ男の脳内では、東の防衛線の話がちらついている事だろう。
さてその齟齬をどう誤魔化して指示を出すのか。
アロイーズのお手並み拝見とばかりに私は内心高みの見物を決め込む。
「これは僕の今後に関する事案だ、シャラム説明を」
「…は」
おおーい!こっちに振りやがりましたよ!!
横目で此方を窺う視線をひしと感じながら、私は一つ息を丁寧に吸い込む。
「シャレット家が数年前に国境防衛費の増額及び人員増加を奏上したのは知っているな?」
「ああ」
「その奏上を後押ししたのはアンヴァリッド公爵家だ。
シャレット領の士気を高める御旗が、愛し子と噂されるミレイユ嬢だからだ」
「小耳には挟んだ」
話が早い。
「そのアンヴァリッド公爵家とシャレット家が縁付くのが定石だが、その動きは夏の間も見えなかった」
「…」
「一方東では地元民を中心に徴兵が行われており、幾ら王都から指導者を呼ぼうとも軍は未だ民間人に毛の生えた程度だ」
無理もない、たかが数年で兵士が育つ訳もない。
ヴュルテンベルク辺境伯領の者程それを理解している。
「候補にアロイーズ様が挙がると?」
「可能性は否めない」
「我々には我々の護る土地がある」
「王から預かる、な」
広義で考えればどちらも王の土地、国の範囲。
だからこそ緊急時にはヴュルテンベルク辺境伯閣下も動かざるを得ない。
その荷を分け合い担うのが我らが主だ。
より東の防衛線を確固としたいのならば、シャレット家が結ぶべき縁はアロだ。
アンヴァリッド公爵家のイザイエ様でもそれなりに箔は付けど、愛し子の在る当代限りになろう。
愛し子の死後も、軍務に関わる事を望むのなら答えは明白である。
「…態々、アロイーズ様から御声掛けする意味は」
「利用価値と真贋を測る為だ。
夏季休暇前の彼女の動向は私が監視していたのは知っているだろう」
「お前がそう判断したのか」
「私の任務は主様にありのままを報告する事だ」
報告した結果、ミレイユ嬢を陥落させると決めたのはアロイーズだ。
その理由に私も含まれてはいるが。
態々オスカーに告げるまでもない。
私の淡々とした口調に彼は一瞬顔を顰める。
だがアロイーズへ視線を向けた横顔は、いつも通りの冷静さを伴っていた。
「僕が必要だと判断した、不服か」
「滅相も御座いません」
「故に確認事項は僕だけに留める」
「は」
オスカーにも私にも、アロイーズがミレイユ嬢と接触して確認したい事項を伏せる方向で話は進んでいくものの明らかにオスカーは納得していないだろう。
だが強引にアロは話を続ける。
「シャラムは僕とミレイユ嬢が接触できる状況を都度確保せよ」
「は」
「オスカーは僕の隣で、彼女との対話記録をシャラムに共有せよ」
「畏まりました」
粛々と隣の男が頭を下げる。
「シャラム、ミレイユ嬢と対一で接触がしたい」
「ミレイユ嬢は時折従者を伴わず行動されますので可能かと」
「夏季休暇前に僕と接触した時のようにか」
この辺りにくれば茶番だろう。
私も少しだけ肩の力を抜いて口を開く。
「はい。
猶、高確率でネウストラ公爵家御嫡男様と遭遇しております」
オスカーが目を見開いて私を見る。
そうだね、あの二人の逢瀬は誰の目も無い場で行われるから知らないだろうよ。
私も最初見た時は驚いたもの。
「他人の目は当然だが、何より最も見られたく無い相手だ。
避けたいところだが…二人は恋仲なのか」
「ミレイユ嬢からはその気配を感じますが」
「成程ね、…僕よりオスカーの方が適任かもしれないな」
アロイーズが揶揄うようにそんな事を云う。
いやぁ顔の造りも地位もキミの方が断然勝機あるよ、嫌味か。
「…」
「オスカー?」
主様からの呼びかけが今になって聞こえたのか弾かれたように彼がアロを見る。
黒い瞳が動揺に揺れる様は横顔からでも良く分かった。
「申し訳ございません、今何と?」
「僕よりも彼女の好みはキミのような男じゃないかって話。
ユーデス様とオスカーは系統が似てる」
「えぇ?」
思わず疑義の声を漏らしたのは私だ。
オスカーがはっきりと嫌そうな顔を私に向ける。
「似てます?」
「寒色系だろう?」
「色味は、まぁ」
正直顔立ちの整い具合はユーデス様の方が断然高貴でカッコいいと思う。
口にはしないのだからそんなに睨むなよオスカー、怖いって。
「…それがアロイーズ様の望みなら」
「しなくていい、望んでなどいないよ」
「…は」
不承不承といった様子でオルカ―が頭を下げる。
やりたかった、という訳ではないだろう。
正直言ってオスカーの得意な仕事分野ではないと思うぞ。
しかし勿体ないな、ミレイユ嬢可愛いじゃないか。
「だがオスカーを随行させるのは思わぬ利点がありそうだな。
時折目を合わせて彼女に微笑むように」
「お前に微笑まれて嫌な気持ちになる女は居ないだろうよ」
なんせイニャスさんだっていちころだったもんなぁ。
そんな事を思いながら主様からの指示を激励する言葉を添えれば、ほんのりと目尻を赤くしながら照れた様子で薄く彼が微笑みを噛み締め、視線を床に落とした。
なんだその恥じらう乙女みたいな反応、可愛いな。
まぁこういう表情を見せられたらイニャスさんだけでなく女だって母性本能とやらを刺激されるだろうよ。
私は脳内で描く、ミレイユ嬢と向かい合うユーデス様の姿を彼に置き換える。
愛らしい春の気配を思わせる彼女の隣に、静かな夜のようなオスカー。
緩やかに微笑む麗しい少女に男は嬉しそうにはにかむ。
少しだけ、面白くない。
面白くない?
「…」
ダメだ、この想像は私の心に良くない。
考えを散らすように窓の外を見た。
緑色の優しい色合いが風に揺れる様は、微かに波立った気持ちを宥めてくれる。
「ユーデス様からしたらミレイユ嬢との縁は商機ではないが、人の心とはそればかりで推し量れるものとは限らない。
遭遇したらしたで、向こうの動向も観察させてもらうとしよう」
「護衛を増員いたしますか?」
丁度夏季休暇の避暑に際し、兵士も増員をしている。
我が師でもあるフィルマンさんも来ているのだ。
彼なら私も安心してアロイーズを任せる事が出来る。
「要らないよ」
「畏まりました」
無理に言い募らないのは主様の腕前をよくよく分かっているからだ。
帯剣をせずとも、体術だってその体格もあってかなりの腕前だ。
時折今も練習相手になるが、毎回先に息が上がるのは私である。
(まぁ兎に角ミレイユ嬢に接触しなければ話は始まらないのは確かだ。
果たしてどれだけ近づけば、言質や確証が持てるやら)
たかが十六歳の世間知らずなお嬢様だ。
しかし彼女も貴族として教育を受けてきた地位ある者。
あまり学院では貴族らしい振る舞いをしている印象は無いが。
「学院が再開してからについては以上だ、質問は」
「ありません」
オスカーの返答に私も静かに頭を下げ同意を示す。
さて真面目な話もこれでしまいかと徐に顔を上げればアロと目が合った。
(まだ何かあるのか)
休暇中に何か情報が入ったのだろうか。
私のところには、曾祖母様周辺への増員準備が始まった程度しか届いていない。
例の従業員についても未だレオさんの返答待ちである。
「――…本来は春に通告しようと思っていた話だ、シャラム」
「は」
春?入学してすぐの頃か?
私は城下へ降りて忙しなくしていたが、それは個人的な目的が大きかった。
適宜報告も挙げていたが特段アロイーズから加えられた指示は無かった筈。
報告を受けながら、彼は何か別の事を心の裡に抱いていたのだろうか。
全く気付かなかった。
「キミが調査している件の期限を、僕の学院在学中までとする」
「――――……」
それは。
それは、どういう意味なのか。
頭が回らない。
つまりアロイーズが私の手助けをしてくれるのは王都に居る間だけ?
それ以降は一人で調べろという意味?
ずっと彼の善意に甘え、助けられてきた。
それが何時か終わる時が来るなんて考えた事も無かった。
でも確かに、彼の従僕である私が個人的な調査を続けられる程、次代のヴュルテンベルク辺境伯周辺が暇な訳などありはしない。
今が特別なのだ、優遇されているのだ。
そう頭では理解せども喉の奥が緊張で乾き、張り付く。
「…それは、領地に戻れば私を従僕から外すという意味でしょうか」
「そうだ」
絞り出した私の声に向けられたのは冷静な返答。
無理もない。
一通りの従僕業務はこなせるが、元より学院へ随行するのが私の目的だ。
自分が王都で調査しやすいように。
学院で、探れる幅を増やす為に。
他の従僕に比べて志が低いとは思わなくとも、主人としては許容できない心持ちであるのは確かだった。
(未だ糸口らしきものを見つけた程度。
アロが在学中に何処まで詳らかに出来るのかは未知数だ)
手袋がジワリと冷や汗を吸い、体温を奪う。
(寧ろいつまでも自由にさせてもらえると奢っていたのは、私自身)
協力的なピピさんやレオさんだって、元々は閣下から命じられてネウストラ公爵家の動向や王都に潜む隣国の間者に目を光らせているのであって、件については主題ではない。
ただ、それが上手く彼等の調査内容に被る様に私が報告しているだけだ。
偶然看過出来ぬ可能性が浮上したからこそ、今回の兵士や調査員増員が叶った。
もしそうでなければ閣下は兵を動かさなかっただろう。
(いや、期限を設けるのも、その時期もアロは私を慮ってくれているものだ)
本来捨て置けとされるべき心情を大事にしてくれたのは目の前の友人だ。
私が抱くのは感謝であって、どうしてという困惑ではない。
(でもそうか、今後…ヴュルテンベルク辺境伯領に戻ってからの、私の在り方)
従僕を外されるのなら改めて貴家に忠誠を誓い、調査員として生涯を終えるのが妥当だ。
他に行く当てもない。
まだ、ストラス領へ行ける気持ちでもない。
「…嫌味な程冷静だね」
「?」
黙り込んで思考に耽っていた私に、アロイーズが苦笑を零す。
「私の願いを叶えて下さった御恩義に感謝しかありません、嫌味など」
「僕の言葉を聞き、キミは直ぐに納得した。
加え、領地に戻ってからの身の振り方を考えていただろう?」
「未定の未来は人を不安にさせますから」
「確かにね」
不安だからこそ未来を確定させたがるのが人の性だろう。
それがどれだけ先の事かは別として。
「因みにキミが考える、その後の姿は?」
「引き続き諜報員として御家と御領地の為に働ければと」
「ずっと『シャラム』のままで?」
ひたりと私を見据える、ベゴニア色の瞳。
何時もは穏やかで優しい色が私を明確に諫めていた。
「今はまだ誤魔化せるが今後はどうだろうね。
ハッキリ言って、キミは体格が良い訳じゃない」
「…」
アロイーズの言う通りだ。
今はまだ少年とも言い張れる年端だからこそ性別を誤魔化せている。
しかし歳を重ねれば重ねる程、平素から男として群衆に紛れるのには厳しい部分が出てくるであろう事は師匠達からも指摘されていた。
昔より背も伸びた、声も低い、胸も潰せば分からない範囲だ。
だけど、骨格だけは生来のもの。
幾ら体重を増やして筋肉を付けたとしても高が知れている。
「ピピだって普段はありのままで、男装する場合は短期だ」
「私も、『ありのまま』に戻れと?」
ならば何故私の我儘を彼は受け入れたのだろう。
どうせ諫言に耳を貸さないとでも思ったのか。
(違う、あの時の私を奮い立たせたのが、それしかなかったから)
聡い彼の事だ、私が生涯男装を続けられないのは薄々気付いていただろう。
それでも私が願うならばと、こうして力になってくれた。
(なのに私はまだ、烏滸がましくも決意を否定された事に反感を抱いている)
お兄様達の名前を入れた『私』のままでこのまま生きていけると思った。
元より偽りの人生、存在しない人間の人生なのに。
そう思わせてくれたのは、形を優しく慈しんでくれた温もり。
『シャラム』の存在を確かにしてくれた人。
ああ、これはダメだ。
私が固執してどうする。
持つべき感情じゃない。
『シャラム』という名と共に棄てなければいけない。
「『キミ』に戻るのは無茶な話だろう、だから幾つか用意した」
アロイーズが三本の指を立てる。
三つ、学院卒業後に私が採れる『未来』。
「一つ、卒業後に嫁ぐオリアーヌの侍女としてセプタント領へ随行する」
彼女の輿入れに随行するであろう者はベルナデッドさんだ。
デボラは領地を離れるつもりは無い。
他の二人は、地元での良縁を探してはいるものの、得られないのであれば共に北領へ向かう事になるかもしれない。
そうなると侍女として顔を出すのは少し気まずくもあるが。
「表向きは、ですか」
「そうだね」
だが女性の諜報員として仕事は続けられる。
大好きなオリアーヌの力になれる未来だ。
我慢するのは最初だけだろう。
それに、セプタント領はストラス領にも近い。
「これを選ぶなら、来年から内々で侍女仕事をベルナデッドに指導してもらう事となるだろうから早めに意思表示をして欲しい」
卒業までの調査期間とは別に、回答期限も設けられるという訳か。
「これは蛇足だと思うけれども」
悪くない選択肢だなと思っていた私を困ったようにアロが笑う。
前置きは建前だ。
『どうせキミは気付いていないでしょ』とでも言いたげな視線に小首を傾げる。
「セプタント侯爵夫人になったオーリは夫と共に社交に出る事となるよ」
「それはそうでしょう」
顔繫ぎは貴族の妻の重要な仕事の一つだ。
夫婦で出席する場だけではなく、女性だけの茶会なども催し参加する機会も増える。
私はそもそも十歳以降の社交場に顔出しもしていないから認知度も低いので、例え随行者として彼女の傍に居たとしても眼に留まる事は無いだろう。
一人を除いて。
「変装は続けるつもりです」
「どうだかね、入学式の事を忘れた?」
私は口を開きかけたが、素直に閉じた。
以前の私を知っている人とは言え、『シャラム』に目を留める程だ。
女性の恰好をしていたら猶更疑われる可能性は高い。
「今よりも外界、特に貴族社会への露出が増える事は頭に入れておきなさい」
「…は」
何かあればオリアーヌの責となる。
彼女の事だ、私を庇おうとするかもしれない。
しかしその時の彼女はヴュルテンベルク辺境伯家の者としてではなく、セプタント侯爵家に嫁いだ者として判断を強いられる。
家族から離れた土地で戦う事になる彼女に重荷を背負わせたくはない。
「次を説明しても構わないかい?」
「…は」
既に意気消沈している私だ、他の選択肢が来てもそう驚かないぞ。
そう考えていられたのは一瞬だった。
「一つ、僕の妻としてキミを迎える」
「…………………………」
え?バカでは?
アロイーズがおバカになりました?
「…アロ様、流石にそれは……一体何の利益を見越して?」
「我が家が結ばなければならない縁など早々無いだろうに」
ええそうでしょう!家同士の結びつきを重視して結婚を考えなければならない程、ヴュルテンベルク辺境伯家は落ちぶれてもいないでしょうね!
でもだからと言って私は無いだろうよ!
「御身をもっと大事になさってください」
「僕を大事にに思ってくれるキミだからだよ」
そりゃ、同年代で私やオリアーヌ程アロイーズを大切にしている女性は居ない。
ほぼ家族みたいなものだもの。
「従僕ですから当然でしょう」
「まぁそれはおいおいだね、僕も似たようなものだし」
私とアロイーズの間に恋愛感情など育ちようが無い。
何年一緒に悪ふざけをしてきた仲だと思っているんだ。
加え、ヴュルテンベルク辺境伯領に来てからは輪をかけて男同士のような関係が強くなったので、猶更夫婦になろうと言われても冗談にしか聞こえない。
「妻として内政には協力してもらうが社交には暫く出さないよ」
「…」
「領地の内情を良く知り、自分の身もある程度護れるし、いざとなれば戦える。
乗馬も堪能、軍馬も乗りこなす。僕との仲もすこぶる良好で健康な女性。
そんな貴族令嬢が他に居たらキミは僕に勧めるだろう?」
めっちゃ勧めるね!!役満だよ!!!
「何より僕が嫌じゃない、喜んで手中の真珠として領地から出さないよ」
「それではアロイーズ様の立場が」
「言いたい奴は好きに言わせれば良い。
父上も王都の社交には母上を伴わない事の方が多いからね、そういう家系だ」
確かに夫人が領地から出るのは珍しい。
そう考えるとストラス領に夫婦揃っていらしていたのは特例だったし、閣下は領地に残り夫人だけで遊びに来ていたのは相当信頼されていた証なのだろう。
「しかし…」
「まぁ子どもが出来て暫くしたら、顔出しくらいはしてやろうかなとは思うけど」
「これ見よがしに」
「楽しみくらい持ったって良いだろう?
その為に早く足場固めをしようとする意欲を掻き立ててもくれるしね」
現時点でも学院で後光、いや威光を放って確かな地位を築いているだろうに。
まぁそれを改めて社交の場で確固にせねばならないのは分かるが。
「…悪い選択肢じゃないだろう?」
「それは、『私にとっては』でしょう?」
そう言い返せばまた彼は困ったように笑った。
「大事だよ、大切にしたい…そうやって、僕を気遣ってくれる温かいキミを。
本当に血の繋がった家族じゃないのが未だ不思議なくらい」
それは私だって同じだ。
幼い頃からどれだけ思った事だろう。
「妻という肩書に変わるだけだよ」
「その顔で詐欺師みたいな事言う」
「騙そうなんて思っていないよ」
肩を揺らして、彼は柔らかく笑う。
一頻り笑いが収まると言葉を続けるように口を開くが、それは直ぐに閉じられた。
瞳を閉じて美しいシャルトルーズの髪をさらさらと揺らし頭を振る。
「この場合は卒業までに答えてくれれば構わない」
根回しは既に済んでいるという事だろうか。
妻としての心構えや仕事については、領地に戻ってから夫人に教えてもらう時間も猶予も十分あるのだ。
外に出ないのは息苦しくもある一方気楽でもある。
それに傍にアロイーズが居る安心感は大きい。
(…でも、彼の人生は本当にそれで良いのだろうか)
学院や社交場で出会いがあるかもしれない。
私より正しく彼を導き支える人が現れる可能性は充分にある。
オリアーヌの事を面倒臭がりと言っていたが、アロイーズだって婚姻に関する事については充分面倒臭がりだと思う。
(卒業までの間にアロイーズが誰かに恋をする事だってある。
それこそ、もしかしたらミレイユ嬢に本気で恋をするかもしれないし)
生来の気楽さからそんな事を考えたがつまりはこの先は誰も分からないのだ。
返答は先で良いと言われたのを良い事に思案を先延ばしにする。
「二つ目の選択肢についての質問は?要望でも良いよ?」
肩の力を抜いた様子でアロイーズが私に声を掛ける。
少しだけ思案して、私は口を開いた。
「願う事が許されるのならば」
「うん」
「アロイーズ様も御自身の幸せを諦めないで頂きたいです」
彼はベゴニア色の瞳を弛ませ、何かを噛み締めるようにこくりと首を縦に振った。
「…さて、最後の一つだが」
二つ目の提案が衝撃的過ぎて忘れかけていた。
そういえば三つあるんだったと慌てて私は背筋を伸ばす。
「平民として他の領地で暮らしてもらう」
「それは、諜報員としてでしょうか」
「その側面もあるが、『休息地』としての役割の方が大きい」
私とアロイーズがストラス領から遁走する際に泊まった宿こそ『休息地』だ。
主家に近い者にだけ教えられている、忠誠を誓った縁者が営む他領の宿。
諜報員だからと言って全て教えられている訳ではない。
それこそ網羅し記憶しているのは、主家の者と選ばれた護衛だけだ。
恐らくオスカーも全ては知らない。
「どの辺りをお考えでしょう」
「東だね」
成程、今後の戦線を見越して増設という訳だろうか。
まぁ私としては西と言われるよりも断然良い。
叶うならば北の方が嬉しかったが、それは望み過ぎというものだ。
しかし平民か。
諜報で平民の振りをする事は多いしそれこそ気楽だろう。
生活水準は今より下がれど、身一つで投げ出される訳じゃないのだ、野宿し続けるよりはよっぽど人間らしい生活が送れる。
何より他の選択肢と違い貴族社会とは完全に離れる。
アロイーズ達が顔を出すとしても貴族ではなく、お忍びになるだろう。
なんだ、最高じゃないか。
双子と離れて暮らすのは寂しいが、二人の気を揉ませない選択肢だ。
「じゃあそれで」
「話は最後まで聞きなさい」
「は」
即決する私にアロイーズの眼が半目になる。
そんな呆れた顔をしなくたっていいじゃないか!
だってどう考えても一番私が選びそうな未来だとキミも思うだろう?!
私の次の人生は宿屋のおかみだ!
「この場合はオスカーがキミと一緒に暮らす」
そんな事をしたらオスカーが寂しがるじゃないか。
彼はアロイーズに感謝し、仕える事を喜びとしているのだ。
やめてさしあげろ。
「一人でも大丈夫かと思いますが」
「年若い女性が一人で営む宿屋なんて無いだろう」
確かに。
大体は夫婦、家族経営だ。
しかし、かと言って態々まだ若く将来有望な彼を挙げる事は無かろう。
喩え宿屋の経営が落ち着く数年だとしても、それはアロイーズにとっては地盤固めに忙しく大事な時期と重複する期間だ。
「領地に戻ったらオスカーは執事見習いに上げる予定でしょう?」
これだけ忠誠心の篤い男だ。
従僕で留まらず、その頭の回転も余すことなく使って主家に尽くすべきだろう。
オスカー本人の展望は聞いた事はないが、周囲も、それこそアロイーズも当然、彼を更に上役として重用するつもりだと考えていたのだが。
「夫はヴュルテンベルク辺境伯家で執事として働き、妻は他領で宿屋を?
それは考えた事が無かったけれど…どう?」
アロイーズが苦笑しながら声を掛けたのは、ずっと黙っていたオスカーだ。
彼は何も驚いた様子を見せず、寧ろ嫌そうな顔で頭を振る。
「そんな夫婦生活、ありえません」
「だよねぇ」
まぁ私も聞いた事が無い夫婦生活だ。
同じ領地内で、城で働く夫と街で働く妻は居るが。
それでも住まいは同じである。
「いや、そもそも退役兵や負傷兵などは?」
「俺が」
徐にオスカーが強い声を上げる。
思わず見上げた私と目が合った彼は、ぐっと何かを堪えた面持ちをする。
「…俺が、志願した。
その男の隣で、他の男にしろと言い募るのは流石に、腹が立つのだが」
「腹が立つって…お前なぁ」
「俺が執事になる未来は、お前が先の二つ、どちらかを選んだ時のみだ」
何だそりゃ。
お前まで自分の婚姻相手探すの面倒臭がったのか。
「オスカー、私はお前の才能も努力も、主様に注ぐ真摯な姿勢も買っているんだ。
たかが田舎の宿屋で、いつ来るか分からない主人を待ち続けるのには余りにも惜しい程に」
一緒に仕事をしてきたのは数年の私がそう言い切れるくらいに、彼は従者としての仕事に誇りを持ち真面目に尽くして来た。
だから一時に惑わされず正しい選択をして欲しい。
お前の幸せは、きっとアロイーズの傍にあるよ。
私のいない生活をしてきた時間の方が余程長いだろうよ。
それを、思い出して取り戻すだけで良いのに。
「―――…………」
自分で出来ない事を彼に求めている事に気付き、思わず言葉を無くした。
うろと彷徨わせた視線が、自分の足元に止まる。
「僕は少し席を外そう」
私達を見守っていたアロイーズが一つ嘆息を零し寝室へと向かう。
思わず逃げ出さんと、私もその後を追おうとするがそれをオスカーの腕が留める。
「分かっていないようだが、これは俺に与えられた時間じゃない。
シャラム、お前が選ぶためにアロ様が与えて下さった時間だ」
「…」
だから逃げるなと言いたいのだろうか。
一歩離れた身体が、二歩近づく。
「シャラムが俺の事を思って、アロ様の傍に残れと言っているのは分かる」
「なら分かれよ」
折れろよ、オスカーが。
私の願いを叶えてよ。
「断る、死んでも譲らない」
「そんな簡単に死んでもなんて言うな」
「事実だ。だからアロ様の妻にはなるな」
「…やっぱりアロ様には逆らえないのか」
真面目な話をしているっていうのに、何でこう、キミってば。
込み上げてくる笑いがどんどん大きくなって、いつも通りに奇妙な笑い顔を見せないように折り曲げようとする身体をオスカーに押し留められる。
「やめろよ」
「隠す必要はない」
「私が嫌なんだ」
そう告げても彼の両手は私の肩を掴んだままだ。
見下ろす黒檀のような瞳が、笑みの形をとる。
「本気で嫌だったら頭突きするだろう、いつも」
「それは、だって」
ベッドの上で、一人の女と一人の男として接している時で。
今はアロイーズの従僕仲間としてで。
だから口調だって崩さないように気を張っているのに。
「シャラム」
睦言のように、彼が嬉し気に『私』の名前を呼ぶ。
それは、ずるいと思うぞオスカー。
そうされる度に私がどう反応しているのかなんて、重々承知しているだろうに。
取り繕う外側ではなく、無防備な内側で。
「俺がお前を呼ぶのに許されている名前はそれだけだ。
出会った時、既に『シャラム』だった」
そうだ。
オスカーに出会ったのは既に男装し、名を変えた後。
彼は『私』を知らない。
なのに何故、こんなに優しく触れてくれるのだろう。
肩にあった彼の両手が私の頬を包む。
温かい、肌に慣れた温もり。
「だから受け入れられない?」
「…分からない」
何故自分がこんなに頑ななのか。
認めたがらないのか、分からない。
「知られるのが怖いなら話さなくたっていい」
罅割れた心に温もりを注ぎ続けてくれたのは誰でも無い。
目の前の人。
オスカー。
温かくて、優しくて、可愛らしい人。
「『シャラム』の事なら、俺が一番、…愛しているから」
目尻に柔らかい唇が当てられる。
零れそうになるそれを、何度も彼がその身で拭う。
「一緒になりたい、傍に居たい、離れたくない」
「家族になろう」
「それが叶うなら、何も惜しいものなど無い」
抱き締められ、何度も穏やかに頭を撫でられる。
聞こえる彼の鼓動は静かで、優しくて。
まるで寝かし付けられる子どもの様に安心出来た。
「『シャラム』として、俺と一緒に生きてくれ」
『私』はまた、こうして誰かの願いで生きていく。
「愛してる」
その響きの甘美さに幼い頃から抗え無い。
久々に耳朶を震わすその音は、親愛でも、友愛でもない熱を持ち、私の心にじんわりと、ゆっくりと溶け落ちて行った。
即答をその場で出来る筈もなく、何処か余所余所しい空気を残しながら私達は平時通りに仕事をこなし、世界は滞りなく夜を迎えた。
夜番のオスカーと引継ぎをしていた時だ。
真面目に私の引き継ぎ書を読む彼に、恐る恐る私からキスをした。
緊張で、微かに震えていたのに気付かれなかっただろうか。
「……………………」
「……」
「……………………………………………」
「…何か言えよ」
流石に硬直と沈黙が長く居たたまれずに私は口を開けば、彼ははくりと口を動かした途端、目尻から綺麗な涙を零した。
ぎょっとしたのは此方の方だ。
おい情緒大丈夫かオスカー。
「……うれし、い…」
掌で目元を覆う彼の背中を撫で宥める。
本当に、この男はもう。
「夜番代わるか?」
無言で彼が頭を振る。
いやでも、お前それで仕事出来るのか?
そりゃ日中の仕事に比べればやる事なんか殆ど無いようなもんだが。
「いい、お前も早く休め」
「休息が必要そうなのはどう見てもオスカーだがな」
「誰のせいで」
「未来の妻」
なんてな。
ちょっと自分も浮かれているのだろうか。
そんな苦笑を内心で浮かべたが、相手にとってはそうではない様子で。
また硬直したと思ったら手を伸ばして来たので慌てて避けて逃げた。
「じゃ、夜番頑張れよオスカー」
「お前さては!!?こうなると予想して…?!!」
「ははは、どうだか」
反論は聞かない、と態度で示し扉を閉じて背で押さえた。
押し開こうとする力が加わらないのを確認してからそっと胸を撫で下ろす。
(もう一回くらい、キスしたかったけど…うん、これくらいが丁度いい)
自分の唇を、触り心地の良いシルクの手袋で撫でれども物足りない。
だが充足するのはもっと後でも良い。
本当は答えだって、まだまだ待ってくれた筈だ。
それでも逸ったのは私自身。
普段通り、廊下の窓に映る私は無表情だが足は地についていなかっただろう。
人に見られない内にとそそくさと自室へ戻った。
その夜、私の夢の中にもオスカーは出て来なかった。
全く悲しいかな片思いである。




