↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
パドマの箱庭  作者: 菌床
三章:我らが女神の望み
62/95

53:十六歳の心残り


 その日、晩夏の夢を見た。


ヴュルテンベルク辺境伯領地で過ごす日々は、様々な意味で充実はしていた。

新しく触れる事の多さと来たら幼少期に勝るのではないかと思う程だ。


お陰で、目まぐるしく一日が過ぎていく。

思案に耽る時間も出来ない程、精神の代わりに体力と気力を擦り減らしたいと願ったのは誰でも無く私自身だという事を、恐らくピピさんもレオさんも、まさかのフィルマンさんまでも察していたのだろう。

だってそれを体現するかのように、陽が昇る前からの走り込みや基礎体力訓練、身体の可動域を広げるための念入りな柔軟や妙な癖を残さないために徹底的で厳しい指導が晩まで続けられた。


休憩時間は表向きの仕事を覚える時間だ。

表情筋が動かない妙な私を年下の従僕見習いたちは最初は遠巻きにしていたが、ただの無表情なおしゃべり小僧だと分かれば気楽に言葉を交わし、共に先輩の指導の下で研鑽を積んだ。


その頃アロイーズの周りを固めていた従僕は殆ど彼より年上だった。

中でも最年少で、それこそ去年に見習いを卒業したばかりだったのがオスカーだ。

十五歳の彼は今と変わらず、当時としては大人っぽかった。

私もまだ背が伸びきっておらず身長差があったからかもしれないが、並ぶと今よりも見下ろされる感覚があったのをよく覚えている。


アロイーズから直接指導を任された事もあり彼の指導は厳しい。

厳しいというか、細かいというか、口煩いというか。

他の先輩と違い、手を挙げたり怒鳴り散らす事は、まぁ最初は無かった。

慣れて来たらちょくちょくお叱り声のボリュームが上がったが。

まぁ私には屁でも無いので変わらず聞き流していた。

…そのせいじゃないよな?違うよな、オスカー?


でもオスカーが他の従僕よりもアロイーズを尊敬、信仰に近いような想いを抱いている事は良く分かった。

形は何であれ、アロを大切にしてくれている事が嬉しかった。

大事な人が愛されている姿は心を温かくしてくれる。

ヴュルテンベルク辺境伯領の城はあちらこちらにそんな気配があって居心地が良い。


『アロイーズに随行し、王都で事件の真実を探る』。

明確にした目標が今猶私を支えている。


ユーデス様が本当に何も知らなかったのかは、主犯を見つけ目的を掴む事で明らかになろう。

だからと言って何が変わる訳でもない。

ただ、私の中で気持ちの整理がしたかったのだ。


大好きだったから。

愛していたから。

信じたい、から。


身勝手だと自分でも思う。

磨きを掛けて表情を凍てつかせた彼の傍で支えられない事を、自らの罪だと自惚れる程に。

苦しんでいるのではユーデス様なのに、まるで自分が苦しんでいるかのように思い込んだ。

でもそうしないと、怖くて、堪らなくて、己の形も保てなかった。

倒れて罅割れた心から流れる何かが私を押し流してしまう。


何もかもを人のせいにしてしまいそうになる。

いっそ、そう振る舞えたらどんなに楽だったのだろう。


でもそんな自分を、大好きなアロイーズやオリアーヌ、力を貸してくれるピピさんやレオさん、親身になってくれるフィルマンなどに見せるのを私が嫌がった。

要は見栄を張ったのだ。


変わりたくなかった、歪みたくなかった。

怨嗟に沈んで溺れてしまいたくなかった。


そんな自分を愛してもらえる気がしなかった。

今まで、ずっと幸福な空間で生きてきたからこそ、余計にそれが恐ろしかった。


幸い、外見は大きく変わったものの内面の怯えは気付かれずに過ごせた。

過ごせると思っていた。



「――……」


ある日、いつも通りピピさんに呼ばれて着いて行った先は処刑場だった。

殺風景ながらも堅牢さだけは喪わず聳える、高い石造りの壁。

砂を整えたのであろう、真新しい色の土が広がるものの、足元からは血の匂いがする。

切り取られたような空の青さ、降り注ぐ陽射しが肌を焼く。

暑さとは違う意味で私の背中を汗が伝った。


連れて来られた男の姿形は牢に繋がれていたと一目で分かった程。

伸びきった髭に、脂ぎった赤毛の髪。

合間から見える翡翠のような眼玉がギラギラと私を見ていた。


「この男は城下にて再三の婦女暴行、そして殺人を犯した」


ピピさんが温度の無い声音で告げる。

既にこの男の判決は下っていたようだ。

そこは、素直にまだ良かったと内心安堵する。

誰かを裁く責など今は背負いたくない。


「判決は死罪、という事で」


死罪の場合は絞首が主だ。

だがその設備は処刑場の室内である。

私が立つ、広い開けた場所が用いられる理由は、一つ。


「……こんな、ガキが…俺の首を落とすのか」


ささくれ立った唇を男が震わせ紡ぐ声。

怨嗟の臭気が風にのって私に届く。

だがその声を聞いたのは私だけだったようで、周囲の大人達は誰一人耳を傾ける様子もなく麻袋や錆びた大きな鋸を手に持ったまま何かを話していた。


私だけに恨み言が聞こえる。


「袋は…?その情けすら、俺にゃねぇのか…?」


「このガキの処女のために殺されるのか?ふざけんじゃねぇよ」


「たかが女の一人や二人だろ…なんで俺が、こんな」


処刑人に器具へと押さえつけられた男の垢塗れの首。

ぶつぶつとした毛穴から生える堅そうな髪がまるで豚の肌のようだ。

少し弛んだ皮の下に、浮き上がった骨。


「やめろ!いでぇ!いでぇっつってんだろぉがぁ!!がぁっ!グッぁ!」


レオさんに手渡された鋸を当て力を込めれば、ぶつりと鈍い刃が肌に食い込む。

ぷっくりと赤い血か盛り上がり、耐えきれずに男の首を滴り落ちていく。


「いでぇ!やめろ、やめてくれよ、死にたくない!!死にたっく、ない!!」


男が号泣しながら上げる声が石壁にぶつかり、木霊するように私の背中を貫く。


目で、耳で、指先で、肌で、総毛で、男を殺す瞬間を私は浴びる。

牽いては圧す歯切れの悪い鋸が骨を砕き、筋を壊し、皮を引き摺り、血飛沫を飛ばす。

その一瞬たりとも私は視線を首から外さなかった。

段々と力無く傾ぐ身体を執拗に追い掛けるように、只管鋸を牽いていた。


やがてがくりと抵抗が無くなり、やっと首が断ち終えた事に気付く。


「よくやった」


気が付けば傍らにレオさんが立っていて、私の肩を軽く叩く。

その振動が緊張の糸を切ったのか、私は思いきりその場で吐いた。

摩られ、労わられ、全てを吐き出してしまえと促される。

もう吐き出すものもなくて胃液ばかりになろうとも、レオさんは止めなかった。


帰りの馬車の中で膝を抱えて黙り込む私にレオさんが告げる。


「兵士は誰もが通る道とは言え、しんどいだろう。

 当然、中にはこれ以上の訓練を続けられなくなる者も居る」


ぼんやりと外は優しい赤色。

夕暮れの空、ベゴニア色だ。


「心的外傷には人の温もりが一番だ、慰安の者を寄越す…希望の者は居るか?」

「……お兄様達が、良い」


膝に顔を埋め思わずそんな弱音を零した。

こんな冗談、今まで言った事無かったのに。

レオさんも、同乗するピピさんも困った気配がする。


「…オーリも、アロも、乗り越えたんですか?」

「八歳…の頃か?」

「確かそんなくらいですね」


知らなかった。

そんな小さい時に、二人はこんな訓練をしていたのか。

オーリはきっと夫人に慰められたのだろう。

アロは、どうだろうな。

私が『記憶』を思い出すよりも前、お兄様達が毎夜二人して抱き締めて添い寝してくれた日々をふと思い出しては温もりが恋しくなる。


ああ、こんなところで泣くな。

せめて自室まで我慢しなければ。


「シャラム」

「…」

「お前が選んだ道で、お前自身が生き延びる為には、今日のは必要な訓練だ」


肯定の意を示して私が少し頭を動かす。

選んだのは私自身だ、大丈夫、乗り越えて見せる。


そう言葉にして二人に伝えられたらもっと良かったのだろうけれど、私の口は思うように動かず、城に着けば一目散に自分の部屋へ向かい、籠った。

やっと安心出来る空間に辿り着けたのだという安堵感。

そうして今更がたがたと大袈裟な手の震えが起き、カチカチと歯を鳴らす身体を抱き締めた。

ベッドの上で蹲って、獣の呻き声のような弱音を上げながら一人で泣いた。


人を殺した。

罪人だからと言って私の責が軽くなる訳じゃない。

寧ろ、己の訓練のためにその命を徒に苦しめた。


肌に食い込む刃の感触、肉を断つ音、骨が歪に罅割れ砕ける鈍い音。

鼻を突く臭気、血と死の匂い。

充満する怨嗟と恐怖に気が狂いそうになった。


恐い。

恐い。

日常が壊れていく。

平穏が、穏やかな時間が歪んでいく。

まるで今此処で世界が足元から崩れてしまうかの如く。

明日から生きる自分は、果たして正気の自分であれるのだろうか。


落ちた首、生気のない翡翠が私を見ていた。


恐い。

怖いよ。

もう誰でも良い、大丈夫だと抱き締めて欲しい。

温もりが恋しい。



「おい、シャラム、居るか」


突如叩かれた扉の音に被せるように声がして思わず跳ね起きる。

ばくばくと驚嘆で心臓が脈打ち、拍動が鼓膜を支配したまま動けずにいた。


(…オスカー?何か、約束をしていたっけ…いや、思い出せないな)


兎も角取り繕わなければ。

泣き腫らしたままの顔は見せられたもんじゃないし、普段の化粧も剥げ落ちている。

強引に袖で涙を鼻水を拭きながら、ベッドから立ち上がり少しだけ扉に近づき口を開く。


「寝てた、どした」


思いの外掠れた声が出た。

でもその不鮮明さは丁度寝起きっぽくも聞こえるだろう。


「お前飯食ってないって聞いたから、差し入れ」


誰から?まさかレオさんから?

オスカーは厳しくも優しいのは知っている。

でもわざわざ、私の部屋にまで来て差し入れてくれるのは初めてだ。


(…まさか、私の慰め担当まで、オスカーがやらされるの?)


不憫な。

教育担当でさえ大変なのにそんな事まで任されてしまうなんて。

慰められる私が思うのも妙だが、彼に同情してしまった。


(って事はオスカーには私の性別の事、話してあるのか)


初対面の時には男装していたし、普段も男の後輩として扱われていると思う。

いつの間に話したのだろう。

寧ろ、この為だけにさっき話されたとかじゃないだろうな。


(えええ…そしたらいよいよ気の毒なんだが…)


彼は顔も良い。

涼やかでありながらどこか色気がある綺麗な面立ちだ。

基本的に仏頂面で女性には塩対応なのだが、それが良いとはしゃぐ女性も多い。

つまりわざわざ私なんかを相手にしなくとも機会は充分に得られるし、いっそだからと任されたのなら気乗りしない声音なのも頷ける。


(まぁ違ったとしても、お帰り頂けば結果は同じだ)


そう思考を区切り、私は再び口を開く。


「……………おう、ありがとな。

 優しい先輩の心遣いに思わず言葉を失ってしまったよ」


感謝の気持ちは素直に告げた。

建前だとしてもわざわざ律儀に私の部屋まで持ってきてくれたのが嬉しい。

気乗りしない声音なのにどこか心配が滲んでいるのも、彼らしい。

面と向かって言わない代わりに、普段通りの軽口も添えて返し、更に言葉を続けた。


「何か風邪気味みたいでさ、ダルいんだわ。

 移すと悪いから扉の脇に置いておいてくれる?」

「風邪引くような体してないだろ」


おいおいいつも通りだな。

流石に初対面ではこんなやり取りはしなかったが、私が従僕見習いとして顔を合わせるようになったら数日でこんな軽口が叩けるくらいには仲良くなった。

というかオスカーが言い返すのは私相手くらいだ。

余程私におちょくられるのが癪に障るのだろう。


だが私は口では負けていない。

キミは本当に学習しないなオスカー。


「オスカーの方がか弱そうだもんな」

「言ってろ、バカ」


怒るかと思ったが扉の向こうで笑っている気配がした。

おや、ご機嫌なようだ。


「じゃ、此処置いておくからな」

「ありがとな、オスカーの優しさが沁みるぜ」


実にいい流れである、素晴らしいよオスカー!

そのまま立ち去っておくれ。


矢張りレオさんも流石に人の子であったようだ。

教育係として苦労している彼を更に酷使しようだなんて、そんな、悪魔みたいな所業をわざわざ選ぶ必要もないのだよ。


(ん?でもそうしたら一体誰が来るんだろう…)


ぼんやりとそんな事を考えながら扉の鍵を外し、そっと押し開ける。

扉のすぐ脇に木箱が置かれているのがすぐ目に入り、その視界に靴先を見つけ顔を上げた。


「オ」


初歩的な罠に掛かった事を悔やめばいいのか、此方を見下ろす彼の真剣な眼に言葉が詰まったのに驚けば良いのか混乱している隙に部屋に押し戻された。

器用にも彼は箱も、その身体もするりと扉の隙間へ滑り込ませる。


(人の部屋に押し入り慣れてるのかコイツ…あ、ヤバ、顔)


余りにも見事な手際に唖然としていたがすぐに顔を隠そうと襟を引っ張る。

が、どう考えたって様子は可笑しいし顔も隠せていない。

ただただ挙動不審な私をオスカーがねめつけていた。


「人気を察するのは俺の方が上だな」


少し偉そうにそんな事をオスカーがぼやく。

キミは本当、迂闊なのだよな。

なんでそうやって弄られるような事を云うかなぁ。


「いや、病人相手に競われても言葉に困るというか」

「お前はほんと」


当然のように私が言い返せば彼はそれ以上の言葉が出ない様子だ。

何気ない、いつものやり取りに少しだけ気が緩む。

遠退いた日常は思ったよりも傍にあったようだ。


私はしゃがみ込んでオスカーの足元に置かれたままの箱へ手を伸ばす。


「御礼を言うのに扉越しは悪いと思ったけどさ。

 でも本当に風邪で、移したらそれこそもっと悪いじゃん?」


無言で居るのは気まずくて口が自然と言い訳を募らせる。

手元では箱を開き、中を改めていた。

軽食に布、水、そして薬。

うーん、やっぱりキミだったかぁオスカー。


「風邪引いた人間が泣くのかよ」

「泣く?はは、違う、違うって。

 ホラ熱っぽくて、鼻水も出るから目が潤んでるだけだよ」


ああ、ちょっと見ただけでも分かったのか。

流石の観察力も今はちょっと目敏いよ。


オスカー、キミは優しいのだから早くお逃げ。

悪い大人に使われてしまう前に。

私なんかの苦しみを、キミが背負わなくて良いんだよ。


「あー、助かる、食欲マジでないから。

 布も浸して頭冷やすのに良さそうだな…おい結構上等な生地じゃん」


ホラお姉さんが時間稼ぎをしてあげよう。

実際はオスカーの方が年上だが、前世を含めば余裕で私の方が年長さんだ。

そうやって内心で冗談と虚勢を張っていないと堪らなかった。


優しい人だと分かっているからこそ、気づかわしそうに見下ろす視線に。

所在無さげに握り締められた拳に。


縋ってしまいそうだった。


なのに、彼は脱力し切ってずるずるとしゃがみ込む。

背中を扉に預け、いよいよ床に座り込んでしまう程に。


下がった視線。

私を斜め横から覗き込む彼の顔。


初めて近づいた距離だからか、初めて覗き込まれたからか、少し緊張した。


彼の長い足の間に挟まれたと謂えども何時でも逃げられるのに、私は何かを期待するかのようにその場から動かずにいた。


「まどろっこしい」


そう零しながらオスカーが徐に指先を私へ伸ばす。

逃げずにいれば、目元をなぞるかさついた感触。

くらりと眩暈がした。

懐かしさが、私の意識を浚う。


「レオさんに聞いてるんだろ?」

「…」


先程までの達者な口周りは仕事を放棄した。

沈黙し、目線を下げる。


レオさんに心的外傷を軽減させるために人を遣るとは聞いていた。

でもその相手がオスカーだとは努々考えていなかった。

いや、誰が来るとも想像出来ていなかったし、追い返しただろう。


分かっていたから。

私がどれほど温もりに、人に抱き締められ触れられる事に飢えているのか。


それが私の、当たり前の日常。

宝物との思い出。

優しい記憶。


揺り戻された感情がどう行きつくのか、分からなかった。

私が今取り戻して身を置かねばいけない日常はそれじゃない。


追い縋って弱い自分を曝け出せたら、戻れなくなりそうで、怖くて。


思案に沈む私の睫毛をさわさわとオスカーの指が撫で遊ぶ。

それだけの接触。

それだけで私じゃない誰かが触れてくれている安心感を得る。


(…足りない)


そう、私が感じたのを察したように彼の掌が頬を包む。

いけないと分かっていながら、その感触に顔から力が抜けてゆく。

漸く緩やかに撫でられれば、だんだんと預ける力の方が大きくなっていった。


彼らしく優しい触れ方だった。

指先で私の顔のパーツ、一つ一つを丁寧になぞっていく。

まるで私の形を慈しむような撫で摩り方に、懐かしさで胸がきゅうと苦しくなった。

どれくらい、こんな触れられ方をされていないだろう。

まだ一年も経っていないのにもう遥か昔に思えた。


鼻先を親指で擽るの、ラン兄様がよくしてくれた撫で方。


「…オスカーの撫で技、すごい」

「技…」


思わず大切な人を思い出してしまうくらい、慈しみに溢れた触れ方だ。

それをポッと出の女相手にしてのけるのだからその通りだろうよ。

場数慣れしてるのかと思うが、噂では確かオスカーはまだな筈。

噂とは所詮噂かもしれない。


「それとも久し振りに撫でられたからかな、安心してしまう…」


少し気持ちが緩んで、そんな事を零せば間髪入れずに聞き返される。


「誰に」

「ん?」

「誰に撫でられてたの」

「家族」


だから私も間髪入れずに隠さず答えた。

疚しい気持ちの無い、優しい触れ合いを思い出させてくれただけで幸せだった。

それが、例え人は違えども誰かから与えられる幸福感。

安心した。


「…安心するなら、これだけでもいいんじゃないか?」


本当にオスカーは私の心でも読めるのだろうか。

安心した様子をきっちりと把握して、そんな事を提案してくれる。

私を見つめる黒い瞳は今猶穏やかで何処か労わりも滲む。


黙っていれば、彼の指はそっと私の額を生え際からなぞり、短い髪を耳に掛ける。

何度も髪を梳いて地肌を滑る指の感触。

掌全体で、頭の形をそっと辿るように撫で続けられるのは大好きだ。

気持ちいい。


「…いい?」

「いいよ」


閉じていた瞳を開いてオスカーの瞳を見つめれば、彼は真顔で受け入れた。

そこで変な笑顔を見せられるよりも彼らしくて、何だか心が擽ったい。

誤魔化す様に私は立ち上がり、座ったままの彼を見下ろす。


「ありがとう、オスカー」


心からの感謝を込めて名を呼べば、彼が僅かに顔を曇らせた。

そんなに私が感謝するのが意外だろうか。

普段からもっと言葉にしてやらなければダメだな。

伸ばされた手を取り、その身体を引き上げながらそんな事を考えた。


「ん、少し元気出た。

 オスカーも差し入れ食べるだろ?」

「食べる」


そうして二人して小さなテーブルで食事を摂る。

用意してくれていた軽食は減退した食欲も刺激してくれたが、やはり胃が受け付けない。

水分だけでもちゃんと摂れとオスカーが薬を割った少し甘い水を寄越す。

分かってやってるんだよね?だよね?

まぁちゃんと飲みますけどそうはならないと思いますよ。

でもオスカーもオスカーでちゃんと男用であろう薬を飲むのだから私は変に緊張してしまった。

彼より精神的にはお姉さんなのに。

寧ろ十五歳と?いや、犯罪だろそれ。


そんな内心の緊張も、他愛もない話をしていたらすっかり忘れた。

寝仕度をして同じベッドに入り横になる。


さっきよりも近い位置に、オスカーが居た。

灯りを絞った薄闇の中でも彼が横寝で此方をじっとみているのが分かり、私はそれを気にしないふりをして仰向けで話を続けた。


「添い寝も久し振りだぁ」

「それも『家族』?」


思わずオスカーを見た。

声音が、あまりにも拗ねているようで驚いた。


(いや…それしか考えられないでしょうよって…あれ、オスカーって私の事をどこまで聞いているのか、聞くべきなのだろうか)


とりあえず性別は聞いているだろう、うん。

でも、何故王都への随行を願っているかは聞いているのだろうか。


「…」

「何」

「…ううん、オスカーは独り立ち早そうだなーって」


黙って考え込んでしまっていた私に彼が怪訝な声を掛けるもんだから言い訳をする。

まぁ事実キミは家族の添い寝をすぐ断ってそうな雰囲気だよね。

目に浮かぶなー、小さい頃も綺麗な顔してて可愛かったろうに。


そう零しながらもぞもぞと私は体勢を変え、上掛けから出していた彼の二の腕を一定のリズムでぽんぽんと軽く何度も叩いた。

気分はオスカーのお母さんだ。


「何?」

「寝かしつけ」

「…」


何が不満なのか胡乱な視線が注がれる。


「どんなに大きくなろうともねー、人は誰かの子どもだよー」

「そりゃあな」

「大人だってねー、やっぱねー、こうするとねー、安心するんだよー」

「…そうか」


良く分からん、とでも言いたげな素っ気ない返事。

ちょっと笑いそうになった。


「寝かしつけのコツはねぇ、心拍を意識するんだよ」

「ほぉ」

「多分」

「ふ、眉唾」


結局笑みを浮かべたのはオスカーの方だ。

寝かし付けの心地良さを理解し始めたのか大人しくされるが儘である。


(寝かし付けって、される側だけでなくする方も眠くなるんだなぁ)


そんな事を考えていれば、徐にオスカーが私の頬を撫でる。

大きな掌、細いのにしっかりとした指。

温かくて心地いい。

思わず私も目を閉じてしまう。


柔らかく何度も生え際や目元を撫でる。

オスカーはその辺りを撫でるのがお気に入りなのだろうか。

気持ちいいから良いけど。


ああ、眠くなってきたかもと思った矢先だった。

輪郭や頭を撫でてくれていた彼の指先が徐に首筋をなぞり鎖骨の窪みを押す。

やわやわと、その辺りを弄られて少し息を呑んだ。

された事のない触り方。


明確に目の前の人は家族じゃないんだと気付く。


暫くしてオスカーの手は鎖骨を辿り、私の肩を掌で撫でた。

思わず肩の力が抜ける。


「…お前はこっちの方が、安心出来るだろ?」

「うん」


そう掠れた小さな彼の呟きを肯定すれば、肩を中心に、時折頭から、耳から、首を辿って、私の形を確かにするように撫でてくれる。

身体からどんどんと強張りが溶けていく。

いつの間にかオスカーを寝かし付けていた腕は力無く二人の間に落ちていた。

その腕を彼の温かい掌が滑る。


曲げる事で撓んだ肉の感触を楽しんでいるのだろうか。

彼はそこを重点的に掌全体で揉み込み、思い出したように摩る。


(今眠ったら、小動物にムニムニされてる夢見そう)


とろとろと眠気が近寄って来たのにまた遠ざかる。

指先を、手の甲を乾いた彼の指先が滑る度にぞわりと背筋が震えた。

それを堪えるように指先を握り締める。


(いや、このまま眠ればオスカーは無理強いはしない)


優しい彼の事だし、何より私相手に興奮するとか思えない。

現に今だって私が女なのを確かめるような触れ方だった。

まだ半信半疑なのだろうよ。

そのままどうか有耶無耶にしてくれ。


今は私以外の温もりが傍にあるだけで安心出来る。

それ以上を私も求めないから。

だから、何事も無かったように朝起きて挨拶を交わして。

何気ない日常を取り戻す力を蓄えさせて。


(―――…?)


ふと、気配が変わる事が如実に分かった。

色気のある空気なんかじゃない。


これは、先程まで、私の部屋を満たしていたものだ。

恐怖、絶望、そして渇望。


「…オスカー」


その空気を発する人の名前を呼べば、ゴクリと唾を嚥下する音が聞こえた。

ああ、もしかしてキミは乗り越えられなかった類の人か。

無理もない、優しいもの。


そして何処か弱いから、可愛いのだ。


「ごめん、…眠れるまで撫でて」


私は目を瞑ったまま、手探りでオスカーの手に触れて握る。

ああ、先程は気付かなかった。

重ねると、こんなに大きさも硬さも、厚みも違うんだね。


指を絡めれば、彼の掌も冷や汗で濡れ、指先は冷え切っていた。


何だか泣きたくなってきた。

二人して、同じ苦しみに喘ぎながら傷を舐め合うように同じベッドで手を繋ぐ。

互いの手の冷たさの奥に感じる温かみは確かにそこに在って。

何より、彼を象る重みが、無性に何かを掻き立てる。


「…シャラム」


泣き出しそうな声で彼が私を呼ぶ。


「抱き締めてもいいか」


「うん」


私もそうしたかった。

だからまだ何処か躊躇っていたオスカーを私から抱き締めた。


顔を埋めた首筋からは知らない人の肌の匂い。

でも嫌いじゃない。

冷や汗で濡れた脇も熱い背中も心地良かった。

胸から腹までぴったりとくっつけて身体を預ける、安堵。


ああ。


オスカーから足も絡め、私に触れる肌を増やす。

温かい、布越しでも分かる硬さ、私と違う身体。

鼓動。

生きている。


ゆるゆると私が彼の背中を撫でれば、彼も私の背や腕を撫でる。

心地良さに思わず深く、沈み込む様な安堵の溜息が出た。

頭ごと抱き込まれ、何度も私の形をなぞるように彼の手が蠢く。


互いに互いを抱き締め撫で、安堵を藻掻くように求めた。

嵐の中で転がる回転草のように上になり下になり。

身体の隙間を許さぬように胸と腹をずっとくっつけたまま、服越しでのまどろっこしさが互いの吐息に篭り始めるのは意外とすぐだった。


もうそこからは済し崩しだ。

私も彼の温もりを求めたし、彼も未だ膿んだままの傷口を癒そうと私を求めた。



(結局、してやられたのは私の方だったんだよね)


未だ学院は夏季休暇が続いている。

私はと言えば、先日のオスカーの埋め合わせという事で二日程休みをもらっていた。

諜報員の仕事も休んで今日は一人騎乗して、先日の湖に来ていた。

のんびりと柔らかな草の上に寝転がりながら流れる夏雲を眺め、ぼんやりと思考を巡らせる。


一人寝だったからと言ってこんな夢を見る事も無かったのだが、恐らくそれは貸別荘でのオスカーの姿を見て太々しい私でもそれなりに思うところがあったのだろう。


(あれは何時頃だっけ…結構最初の方だった気がする)


オスカーが私を慰めるようになったものの、私は以降身体を重ねるつもりは無かった。

だから二度目の訓練終わりは彼を抱き枕にぐーすか安眠を貪って、それで終わった。

だがそれをピピさんに告げたら凄く残念なものを見るような眼をされて、何故か私の方が諭されたのだからちょっと謎である。


「オスカーはねぇ、素質は一等なんだよ。

 だから訓練もやらせたんだけどねぇ…慰安を受け入れなくてそのままでさ」


確かに彼は人との、肌の触れ合うような接触は嫌う素振りがあった。

気のせいかなとも考えていたが、それこそデボラなどに言い寄られて腕を触られた後などは酷く気が立っていたのを覚えている。


「キミと真逆で、温もりが与えられなかった生い立ちなんだよね」


だから温もりの心地良さを知る私をぶつけたのだと。

成程なぁと思いながら、訓練で摩耗した私を癒すための人員がそれってどうなのかとも思ったりはしたが、まぁオスカーの事は嫌いじゃないし撫で技が凄いので良しとした。


そんな話を聞いてしまったからか、三度目の訓練後に求められた時は拒まなかった。


戦えるようになれとは言わない。

でも苦しいものは一つでも、乗り越えて生きていけたなら良い。

この時には私はそれなりにオスカーを大事に思っていたのだろう。

最中に初めてキスをされたのも、確かこの時だった。

彼は何を言うでもなくそのまま続けたというか、私に何も言わせなかった。

そういうのは良くないと思うぞオスカー。

全くキミってヤツは。


ちょっとは反省しろとお怒りも含め、私が摩耗していたのでその後は暫く添い寝だけだ。

でもその時だ、オスカーが自身の生い立ちを語ったのは。


彼の両親は隣国の密偵だったらしい。

両親、と言いながらも二人に婚姻関係は無く赤の他人。

つまりオスカーは本当の両親も知らない。

自分が攫われた赤子なのか、口減らしで売られたのかさえ分からないのだ。


やがて密偵はヴュルテンベルク辺境伯領にて捕まり、幼いオスカーは孤児院に入った。

元々偽家族で愛情を注がれていなかった彼は新しい世界にも馴染めなかった。

そうやってぼんやりと闇を抱えたまま十歳になった頃、アロイーズが孤児院へ慰問に訪れたそうだ。


「アロ様はただ優しく俺に接してくれたし、城で働く道を示してくれた。

 思えば密偵の子として何か教育されているか監視が目的だったのかもしれないが、俺はそれでも、初めて人に必要とされた事が堪らなく嬉しかったんだ」


私を抱き締めたまま、語る彼の声音は優しかった。穏かだった。

それが何故か無性に悲しかった。


「だから今の環境に不満などない、起きる訳がない。

 でも…期待された訓練を乗り越えられなかったのは、少し、耐えた」


呆れられるかもしれない、失望されるかもしれない。

アロイーズに見捨てられるかもしれない。

そう考えるのに他人の温もりが気持ち悪くて仕方が無い。

自分で自分を抱き締めるしか、堪える方法を知らなかった幼いオスカー。


「でもアロ様は従僕として俺を使い続けてくれている。

 だから大丈夫だし、前は向いて生きていけた」


他の兵士たちが同じように心的外傷を抱え、誰かに身を委ねて温もりに癒され立ち上がる姿を数多く目にしてきた事だろう。

なのに自分は、と思わなかった訳も無い。

だけど彼は優しいままで、高潔なままで在り続けた。


「今もオスカーは前を向いているよ」


ふと私がそんな事を呟けば、肩に彼が顔を埋める。


「…そうだな」


もう人の温もりを恐れて一人で立ち続ける彼じゃない。

同じ苦しみに喘ぐ私を支えてくれ、慰めてくれた優しい人。

前を向く彼の隣に、温もりはあるよ。


(それが、偶々、今は私なだけ)


そう何度思った事だろう。

だけどオスカーは今猶私以外の温もりを知らない。


(最初に得た温もりに執着しているだけ)


私のこの考えを口にすれば、彼は余計私に固執するだろう。

どうしたものかと閉じた瞼には真っ青な夏空が焼き付いていた。


あの晩夏からもう三年が経とうとしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。