52:十六歳の旱星
ふと意識が浮上して重い瞼を押し開く。
ぼんやりと滲んだ視界でも分かるのは、誰かが一緒に眠っている事だ。
薄暗いのは帳が降りているからだろうか。
漸く目が慣れてきて、久々に間近でアロイーズの寝顔を見つめる。
寝ていても綺麗な顔は綺麗なままなのだな、なんて気の抜けた事を考える。
薄っすらと生えた金色の髭。
幼い頃は朝起きても無かったのに。
アロも立派な男になってしまったな、知ってるけど。
「ん……ぉき、た?」
視線を五月蠅くし過ぎたのか、アロイーズが身動ぎをする。
が、まだ眠気が強いのだろう眉間を険しくさせて眼を開けたくないと、ぐずる子供のような顔をしているのが何とも可笑しい。
寝起きが悪いのは昔と変わらない。
「起こしてごめんねアロ、ありがと休ませてくれて」
「ん…んん」
「まだ寝てなよ、夜も明けてない」
ぽんぽんと寝かしつけるようにその胸を上掛け越しに叩いてやる。
仰向けになって腕で目元を遮ったままの彼の口が緩慢に動く。
「や、めて………ねちゃ、う……」
「寝てて良いんだって」
「ん゛ー………」
ごろんと身体を回転させ今度は枕を抱えて顔を埋める。
垣間見えた顔はまだまだ険しい顔つきだった。
静かに上下する肩を数度撫で、私は帳を少しだけ開く。
細く絞ったランプが生み出す仄かな灯りがベッドへ差し込む。
「……シャ、はな、し……」
「ん?ああ、私が寝落ちした後オーリ達と話した内容ね。
起きてからでも大丈夫だよ」
「や、だ……いま、する」
ヤダじゃないよ、キミが眠たいんだろ。
アロイーズまで童心に帰っているのか。
「……ふたり、に、……話した…」
「うん、私達が巻き戻って人生繰り返してるかもって話ね」
「せいじょに、き…く」
「せいじょ?ああ『聖女』か、ミレイユ嬢?
そう素直に教えてくれるかなぁ」
「……おと、す…」
「は?落とす?ええ?口説き落とすって事?アロが?」
「ん……」
人が寝ている間にけったいな計画を立てたものだ。
まぁとっちめて拷問掛けるとか言わないだけでも穏便な方か。
オリアーヌとかそんな事言い出しそうだもんなぁ。
「ミレイユ嬢に近づくの渋っていたのに…ありがと、アロ」
「ん」
「粘着されたら消すよ、安心してね」
「ぴぴと、おなじこと…い、う」
「キミが愛されてる証拠だよ」
そっと彼の柔らかいシャルトル―ズ色の髪を撫で、今度こそ本当にベッドを出た。
カーテンを捲ればやはりまだ夜だ。
でも夜明けも近い、深い夜闇よりも少し明るい空をしていた。
私はカタリとわざと音を立てて窓から出て壁面を伝い自室へと戻る。
辺境伯領の自室は使用人用の建屋で、周辺に木もあったから出入りは容易だったがタウンハウスは本館に部屋をもらっているので中々やりづらい。
明るくなる前に起きれたのは僥倖だろう。
(あ、でも私の部屋の窓、開錠してあったっけ)
まぁダメだったら何食わぬ顔で裏口から入ろうと思うも、道中の窓に映った自分の顔がどろどろになっていた事に気付いてちょっと考え込んでしまった。
アロイーズが起きなくて良かった。
いや、起きなかったのはこのお化けみたいな顔を見たくなくてでは無いのかと邪推してしまう程、化粧が剥げ落ち泣き腫らして腫れた顔は酷かった。
こんな顔を他人様に晒してしまうのは二度目だ。
あれも吃驚したよなぁと昔を思い出していたら自室付近の壁面に到着する。
(どうか窓の鍵が開いていますように!)
過去の自分へ祈る。
が、正直開けておいた記憶はない。
私はそんな不用心な人間ではないのだ。
(…おや?)
窓を覗き込むと、カーテンも降ろされていない窓の中に背中が見えた。
ベッドに座り込み項垂れ、哀愁漂う見慣れた背中だ。
(なんだ?アロに追い返されでもしたのか?)
まぁ話の内容が大っぴらに出来るものでも無いから仕方ない。
これが他の従僕であれば今回の件も別に気にしないのだろうけれど、私達二人は特にアロイーズと仲の良い従者だと自負している手前、寂しさが一入なのだろう。
だからと言ってオスカーを巻き込むつもりは毛頭ないが。
(兎に角、お前は寝ないで起きていてくれオスカー!)
新たな祈りを胸にコツコツと窓を叩く。
ハッと息を呑み彼が振り返り、眼を見張り硬直した。
私はそれを気にせずひらひらと手を振ってみせ、その後ハンドサインで鍵を指し示せば、我に返った彼が慌てて鍵を外す。
「いやぁ助かった、ありがとなオスカー。驚かせてすまんね」
「…幽霊かと思った」
何処かでそんなやり取りしたような気がするな。
「見苦しくて悪かったな、すぐに整えるよ。
ああ、アロ様はまだ寝ているからご挨拶はいつも通りの時間で…?」
オスカーが徐に私の頬に手を伸ばし、泣いて、筋になった跡を指で拭う。
薄闇の中なのに、苦しそうに彼の瞳が歪んでいるのが見えた。
「……」
「オスカー?お前も寝てないだろ?」
無言の彼の頬に手を差し出せば、自ら引き寄せられるように顔を預けて来た。
やっぱり寂しかったようだ。
素直に撫でられる猫のように、何度も私の手に彼が顔を擦り付ける。
「ちょっと寝ておいで。それとも此処で寝るか?」
「…ここで、寝る」
「ん、私は走ってくるから。後で起こす」
「ん」
聞き分けが良い子どものようにこくりと頷き、静かにベッドへ横になった。
なんだ誰も彼も幼児退行していやがりますな。
眠いからなのかな、そういうものか。
私はそんな彼を横目にシャワーを浴び、身支度を整え日課のランニング中、昨日動かせなかった思考を巡らせた。
(ミレイユ嬢がもし、繰り返しをする力を持っているとして、彼女の目的は?
何を得たいとやり直しを求めているのだろう)
昔読んだ『逆巻きの聖者』という話を思い出す。
彼は、災害に見舞われて苦しむ人々や、大きな損失を出して傾いてしまった商家、果ては魔物に姫が攫われるのを救うために計四度、過去へとその身を戻していた。
彼の肉体はそのままに、だ。
時間を聖者だけが遡り、過去改変を繰り返して『未来』を変えていく物語。
だから厳密に言うとミレイユ嬢の力は、その聖者と同じでは無いのかもしれない。
(でもミレイユ嬢が過去に戻った事により変えられたのが今なら、分からない)
彼女の力により何処までの時間が戻されているのか。
下手したら、国の興りまで戻されているのかもしれない。
しかしそれを確かめる術は無い。
私達は誰しも、今が一度きりの人生だと信じているからだ。
「………」
アロイーズの言葉が脳裏を過る。
その一度きりの人生を良きものにしようと、彼だって苦悩して、心を尽くして私を助けに来てくれたのだ。
なのに私ときたら、弱気になってあんな言葉を。
言うべきではなかった。
口に出してはいけない思いだ。
(謝らないとなぁ)
こういうものは早々にしてしまうのが心には良い。
朝起きて、元気な顔を見たらすぐに伝えようと心に決める。
(ミレイユ嬢の目的もそうだが、それにしても何故アロイーズやユーデス様が『前回』の記憶を持っているのだろうな)
幼い私は「まるで乙女ゲームの攻略対象のようだ」なんて思ったが。
でもそうしたら私が記憶を有しているのは謎である。
それこそガチもんの前世持ちだからだろうか?はっはーまさかね。
(…いや、でも)
強ち、間違ってもいないのかもしれない。
(ミレイユ嬢は、複数ある候補の中から『今回』はユーデス様を選んだような口振りをしていた)
もし候補者としてアロイーズが入っているのであれば、二人が記憶を有している共通点はそこになるのではないだろうか。
(……目的は、攻略?)
様々な恋物語を楽しむ為に。
そんな事の為に、私の宝物は喪われたというのか。
ぶわりと怒りが沸き上がり総毛が逆立つ。
連れていた番犬達が、皆私から距離を取る様に逃げ尻尾を隠した。
赦しを請うような切なげな泣き声を聞き、我に返る。
(いけない、この考えはいけない…流石に、バカみたいな話だ)
頭を振り考えを散らそうにも、中々霧散しなかった。
他の候補者になりそうな人間といえば、やはり王子、聖職者、騎士、敵国の人間。
そんな事を徒に考え出してしまう。
(思い当たる者が多いのは偶然だ、いつの時代にだってそんなのは居る)
普段よりスピードを上げて息が上がる程の走り込みをしたからか、流石の犬達も疲弊している姿を見て申し訳無さが募った。
今日は走り込みではなく訓練場にでも行けば良かったな。
後悔先に立たずとは正にこの事であろう。
どうにか平常心を装い、従僕服に身を包みアロイーズの下へ挨拶に向かえば彼は何事も無かったようにいつも通りに私へ笑顔を向けてくれた。
既に起き、ベッドの上で寛いで待つ姿は日常を私に取り戻してくれる。
密やかに安堵し、緩む心を引き締めて重厚なカーテンをいつもの様に開ければ夏の空が広がっていた。
「お早う、シャラム」
「お早うございますアロイーズ様」
「オスカーは?」
「間も無く」
アロイーズの着替えを手伝いながらそんな会話を交わす。
彼の身支度が整う頃、私は改めて背筋を伸ばし粛々と頭を下げた。
「何それ」
「御耳障りの悪い言葉をお伝えし、申し訳ございませんでした」
近づくアロイーズの靴音は毛足の長い絨毯に吸い込まれる。
それでも下げた視線、床に彼の磨かれた爪先が映り込んだ。
「それが、キミが愛している男に見せる態度?」
挑発的な言葉に思わず笑いそうになる。
零れそうになる笑い声を飲み込み、ゆっくりと時間をかけて顔を上げればやはり彼は不敵な笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
「ごめんねアロ、愛してるよ」
「いいよ、キミだから謝意は受け入れてあげる」
「流石敬愛する我が主」
「くっ」
くつくつと笑うアロイーズを居室へ通せば、むっつりと如何にも不服ですと顔に張り付けた男が完璧なテーブルセットの脇に佇んでいた。
「ふふ、お早うオスカー」
「…お早うございます」
「違うだろうオスカー、そこは『お早うございます、敬愛する我が主』だろう?」
「弁えろシャラム」
「はいはい」
「返事は一回」
「はーい」
「この…」
「ふふふ」
椅子に座ってもまだアロイーズはご機嫌で笑っている。
あんまり仲間外ればかりするのも可愛そうだ、今日はちょっと優しくしてやろう。
そう考えたのはアロイーズも同じだったようで、学院へ向かう馬車の中で二人してオスカーの良い所を挙げ連ねて褒め倒してやったのに、余計拗ねるとか本当になんだろうな。
天邪鬼さんめ。
ただ可愛いだけである。
夏休みはもっと構ってやるから安心しろ。
特段アロイーズから指示もされなかったので、休暇に入る僅かな間も私は聖女ミレイユ嬢の動向観察を続けていた。
相変わらず何度か一人になる事はあったが彼女は誰と遭遇する訳でも無かった。
ただベンチで一人腰掛けながら何かを思案するように空を見上げて、難しい顔をしたり、時折幸せそうに笑みを浮かべたりと忙しなかったが。
傍から見たら奇怪な様子も、何故か絵になるのが美少女である。
(何を考えているのやら…先日みたいに口に出してくれたら手間も掛からないのだけど、流石にそうはいかないかぁ)
私の記憶には『ストーリー』を日記帳などに纏めていたりする転生ヒロインの話もあるが、彼女は一人きりになっていてもその様な本を開いている事はない。
書き留める派ではないのか、或いは自宅に置いて持ち出していないのか。
いっそ、仮に何度も繰り返しているのなら流れが頭に入っているのかもしれない。
(覚えているのが自身の周囲の事、そして学院や王都で出会う貴公子達の事だけであれば確かにわざわざメモを取る程では無いだろうよ)
改めて彼女の生い立ち、自領での行動履歴の調査をしておくべきだろう。
正直、『前回』のシャレット伯爵領の動向について覚えている事は全くない。
今だって数年前から防衛線強化の方向へ舵を切った事くらいしか知らない。
(シャレット家の動きが今後の『未来』への布石となっているのか?)
元より我が国の防衛線として重きが置かれているのは、より隣国と近く幾度となく実際に戦線となったヴュルテンベルク辺境伯家の任された南東地域である。
歴史を紐解けばかなり昔に東からの侵入もあったそうだが、かと言って今目立った変化は見受けられないのだから態々東方に力を注ぐ必要もない。寧ろそこを薄くしているのは、敵国が侵略せんと迂回する動きを見せれば東に回っている間にヴュルテンベルク辺境伯が防衛線を築くといった対応が出来るようにしているのであって、我々が当たり前のように訓練されているのも事実。
王家としてはあまり強力な武力を保持した家を増やしたくないのだろう。
(にも関わらず奏上が叶ったのはアンヴァリッド公爵家の後ろ押しあっての事)
隣国もロテュス教信者は多い。
守護の要として『聖女』を置くのは成程、理に適っているとも思う。
(…シャレット家がより武力を求めるならアンヴァリッド公爵家あるいはヴュルテンベルク辺境伯家との縁を結ぶことを願うのは分かる。
だがネウストラ公爵家と繋がる利は?
貴家の魅力が財力だけではないと言え、やはり違和感が拭えないのだよなぁ)
それに、宗教色の強いアンヴァリッド公爵家にとって『聖女』は謙り慮る程の価値がある存在ではあろうが、ネウストラ公爵家にとってはそうではない。
ミレイユ嬢も一介の伯爵令嬢に過ぎない。家格が見合わない。
(嫁ぐための実績が必要…それが、東の防衛線にあるとすれば『未来』は乱世?
『救国の聖女』なんてお約束肩書ナンバーワンだろ)
おいおい、ぞっとしないのだが。
この妄想はアロイーズに話すべきだろうか。
そうなると彼が『攻略対象』かもしれない話もしなければならなくなるか。
(…いや、ユーデス様が彼女に惹かれる様子が見えれば、或いは)
現状から推測される今後の課題とその解決方法としての範疇だろう。
嫌な話だが、曾祖母様の件もある。
ところでそのユーデス様だが、あれからパタリと姿を見なくなった。
小耳に挟んだ情報では急遽前倒しで学院を休み、御領地へ向かったそうだ。
相変わらず忙しい御人である。
特段、西に関する大きな変化は世間の噂に上がっていない。
今年も賑わっているといった暢気な話ばかりだ。
取り仕切る側として何か喫緊の課題があったのかもしれないが。
(もうすぐ夏季休暇が始まる。
そうすれば領地から増員もあるんだ、調査も進むだろう)
そう、ピピさんからの返信にあった通り曾祖母様周辺を調査する為、また嫡男達を護る為にタウンハウスへの警護増員がこの夏に行われる。
あからさまな人員補強は悪目立ちもするので、アロ達が避暑地から戻るのに合わせてそのまましれっと王都入りする予定なのである。
何処となくキナ臭さが残る学院での日常は呆気ない程何もなく終わった。
夏季休暇に入るとすぐに我々ヴュルテンベルク辺境伯家の者は、王都の水源とされる湖周辺の寂れた別荘地へと避暑の為に足を延ばした。
西領が別荘地として開発されるまでは賑わっていたそうだが、今は面影だけだ。
道中も人の訪れが遠退いた古い街や別荘が点在していた。
私がピピさんが普段から利用するものを山道と称するのなら湖に向かう道は「普通の街道」だ。
喩えあちらこちらを虫が飛び交い屡々小動物が飛び出して来ようと、街道である。
当時はそれなりに整備をされていたのであろう、時折残る石畳がいっそ急こう配な足元を悪くしているのだがそれでも私にとっては普通の街道である。
この様に辛うじて残されている街道は、王都周辺に比べればそれは古く草臥れているので大きくがたがたと馬車を揺らし、オリアーヌ達は大丈夫かと内心心配したものだ。
案の定、オリアーヌまで馬車酔いをしていた。
「だから馬で行きましょうと何度も…」
軍馬で避暑地に向かう御令嬢が居るか。
御自身の立場とその美貌をもう少しオリアーヌは自覚すべきだと思う。
先発で目的地に使用人が入り、手入れをしてある貸別荘に到着するや否や女性陣は休息を取るべく庭ではなく主の部屋に向かったのだから相当堪えたのだろう。
まぁゆっくりし給え、予定はそれを見越して立ててある。
「風が気持ちいいな」
自然や森は良い。
育ちのせいだろうが、水辺であれば一際私は元気になれる。
元気な私をやや疲労を滲ませたオスカーが呆れたように見ていた。
「悪いが我らの主様もけろっとしているぞ、見ろよあの生き生きとしたお姿を」
「…」
「主様が嬉しそうで何よりだ」
「…場所の選定は、お前だったか」
「良い場所じゃないか、自然豊かで」
何が不満なのだ。
単騎で来れば悪路でもないぞ、王都にも近いし。
「見晴らしがよく、景色も一等美しい場所もあるんだ」
何度か下見に来た際に見つけた場所だ。
そこには是非二人を連れて行きたい。
「道はあるんだろうな?」
「はっはっはっはっはっは」
ある訳無いだろう。
安心しろ、私とアロが一緒なら生存帰還率は100%だよ。
領地での軍訓練を積んでいる者にとってはこんなものピクニックにも入らない。
一晩寝て回復をすれば流石というかやはりと言うか、オリアーヌも私と同じ自然好きな御令嬢なので、昨日の姿は幻だったのかと思う程意気軒昂と連れて来ていた馬で遠乗りをしたり舟遊びをしたりと忙しい。
休みなのに休んでいないとはどういう事なのだろう。
イネスが遠い目ををしていた。キミは箱入りだからねぇ。
領地で随行したのも穏やかなピクニック程度だ、仕方なし。
元より、ヴュルテンベルク辺境伯家の双子は揃って外遊びが好きだ。
これぞ前世風に言うのなら三つ子の魂百まで。
はしゃいで幼げに笑う二人を見ていると本当に私は心から癒された。
最高。とても可愛い。
なので粛々と二人を乗せたボートの漕ぎ手としてガシガシ頑張った。
二人が私と三人きりで乗りたい口実がこれであっても文句は言わない。
ただお陰で私の腕はパンパンである。
絶対アロの方がスピード出るよ、腕力凄いもん。
それでも彼は漕がない。主様だからである。
他には読書をしたり、持ち込んだ画材で遊んだりと、どこか私にとっては懐かしい光景ばかりが流れる穏やかなで素敵な時間が貸別荘滞在中は涼やかに流れていく。
一人を除いて。
なんと大変珍しい事にオスカーが体調を崩した。
体調管理も従僕の仕事だと口煩いお母ちゃんが夏風邪を引いたようだ。
貸別荘に到着したその日の夕方からなんだか赤い顔をしていると思い、熱中症を疑ったのだが、翌日から咳や鼻水が出るようになり、まぁ当然のようにお籠りになりました。
随行していたデボラが鼻息荒く彼の看病を申し出たが丁重にお断りをした。
「風邪の時には汗を搔かなきゃ!」
「気力も大事にしてやってくれ」
やめてあげてさしあげろ。
病み上がりでまた来た道を戻らなければならないんだぞ、アレは。
ちょっと、流石に可哀そうすぎるだろ。
そういう経緯もあり、オスカーが使用している部屋の鍵は私が所持している。
先程随行していた医者の見立てでは少し発熱が長引いているそうだ。
ここのところの疲れも出たのだろうと年嵩の彼は言っていた。
確かに王都への随行員は領地とは比べ物にならないほど人員が少ないので、当然のように一人が担当する仕事量は増えたのだが、逆に夜警に入る回数は領地よりも少なくなっている。
タウンハウス内にも執事職の者は居るので補佐もある。
現に我々二人して休みの場合は彼等が主様の身の回りを整えている。
ま、慣れない環境で気疲れもしているだろう。
それにしたってこの避暑は我々にとっても良い気分転換になる。
病床で味わうなど実に勿体ない事だ。
「オスカー、入るぞ」
つらつらとそんな事を考えながら、ノックはすれども中からの返答を待たずに鍵を回し室内に踏み入れば、もぞりとベッドの上の塊が蠢く。
窓の外は夏の強い日差しが木漏れ日を経て柔らかく揺らめく。
午後の微睡みには心地良い風も吹いていた。
「寒いか?大丈夫なら窓開けるぞ」
「…」
上掛けを頭まですっぽり被っていた彼の黒く濡れた瞳が私を見上げる。
そっとその髪を撫で、汗ばんだ額に張り付いた毛先を剥がしてやる。
「開けたくないか?少しだけ空気入れ替えよう」
「…ん」
窓くらい開けておけばいいのに。
風はタウンハウスよりも清涼なものが入ってくるのだ。
そんなにデボラが怖いのか。
まぁこの部屋1階だしな。
私が居るうちに換気をしておくべきだろうと窓を開け放つ。
清々しい空気を胸いっぱいに吸って振り返れば、幼子のように私の一挙一動を追い掛けていた彼の眼と視線がぶつかる。
「ホラ、良い風だろ」
「ん」
もう語彙力すらないのか。
「腹は減ってるか?少し持ってきたが」
「…ん」
ベッド脇に小さな丸椅子を引き寄せ私はそこに腰掛ける。
ほんのりと湯気が上がる温かい食事を、上体を起こした彼の膝の上に盆ごと乗せるがまだ覚醒しきっていないのかぼんやりとそれを見下ろしているばかりで動こうとしない。
「どした、やっぱり気分じゃない?」
そっと指先で何度か彼の額を撫で、顔に落ちた髪を耳に掛ける。
オスカーはされるがまま心地良さそうに目を瞑り、その身を私に預ける。
いや、食事をしろ。
「温かいうちに食べな、折角作ったんだから」
「…シャラムが?」
料理長に決まってんだろ。
だがこういう時は嘘も方便である。
「そうそう、だから食べさせてもやろう」
明らかな喜びを燈すオスカーの瞳に罪悪感が募り、思わず匙を持ち上げ薄く開いた口の中へ放り投げる。
素直に彼はそれを咀嚼し、ふらりと視線を落とした。
熱で赤らんだ頬がまるで照れているように見えて此方の良心の居心地が悪い。
「おいしい…嬉しい、シャラム」
「ははははは」
普段だったら私の誤魔化すような笑みを胡乱な眼で見返してくるくらいはするのに、今はそんな思考も至らないのか、オスカーは花を飛ばす様に何度も口を開き給餌を喜んで受け入れた。
処方箋も飲ませば大人しいものだ。
うつらうつらしながらも私に身体を拭われ、なんとか自分で着替えようとするもボタンを掛け違う姿は本当にただの大きな子どものようで思わず手を伸ばして直してやる。
「シャラム…」
「ん、眠いな、よく頑張った」
私の肩へ頭を寄せ寄りかかる重み。
彼の身体はまだ随分と熱かった。
しなやかな背中をぽんぽんと撫で摩り、あやす様にベッドへ横たえる。
とろとろと眠りに落ちそうな目元をそっと何度も掌で撫でれば、俄かに彼の唇が動く。
「…ここに、いて」
触れたままの掌を熱い雫が伝う。
「ここに…、俺の、傍に」
熱に魘されている彼は、微睡みの中で涙して懇願する。
きめ細かな肌をすっと雫が筋を残して滑り落ちて行った。
「…傍に……、離れて…行かないで」
睦言のような譫言が白いレースカーテンが翻る音に掻き消される。
睫毛に付いた涙を指先で拭い、頬を撫でてやれば閉じられた瞼から次第に苦悶は消えていき、穏やかな寝息が聞こえて来た。
穏かに眠る彼を飽きもせずずっと撫でていた。
いつしかこの部屋は、あの頃のような夏の匂いが色濃く満ちていた。




