49:十六歳の過渡
ピピさん宛てに出した報告書の返信は思ったより早く来た。
オリアーヌと出掛けた休日、あれからひと月以上経過しているのにまだ王都周辺に居るのかもしれないと考えると中身を見る前から期待値が上がる。
前世的に言うならバリキャリな彼女は短期であちこちを巡る調査員だ。
主家からの勅命を受けた際、それこそストラス領に潜伏していた時などは別であるらしいが、少なくとも私が彼女にノウハウを教わったのはあちこちを飛び回りながらだった。
と言っても私は平行して従僕見習いの業務もあったため近場ではあった。
それでもこの三年間で辺境伯領から出た回数は両手足でも足りない程。
反してレオさんは画家として滞在を長期にしても違和感が無い為、基本的に領地に居ないのだが、ある日ひょっこり厩で寝てたり師として現れ地獄を見せてくるので心臓に悪い人だ。
両人とも昔のように優しい一方、やはり師としての面も持ち合わせている。
飴と鞭の使い方が異常に上手い。
あと人の驚かせ方。
この返信も、早朝の走り込みで連れ出した犬を小屋に戻し、さぁ次の犬をと少し目を離した隙にランニングを大人しく待っていた犬の首輪に挟まっていた。
恐い、めっちゃ接近されていたのにちっとも気付かなかった。
以前よりずっと人の気配も視野も広がった方だと思っていた自信が折れる。
師匠二人の足元に私は未だ全く及ばないのだと思い知らされる。
そうして日課のランニングセットを終わらせ自室に戻り、椅子に腰掛ける。
手の汗が付かないように手袋を嵌めた上で無地の封筒を音もなく開いた。
取り出した文、そこに記された暗号は普段より少し長い。
(…良かった、通った)
私の報告書に目を通した上で改めて曾祖母様周辺に人員を配置するよう閣下へ進言してみる、と前向きの答えが記された文を見下ろしながら私は一人安堵で胸を撫で下ろす。
勿論、私の集めた情報だけでは確証にはならない。
だからきっとイニャスさんの実家への調査や王都の商会も洗い直す事となろう。
その手間を分かっていても見過ごすには気がかりである、という判断を上がしてくれたのなら端くれとして諜報員冥利に尽きる嬉しい報せである。
ヴュルテンベルク辺境伯家にとって隣国の話題は虎の尾だ。
当時も実行犯が隣国の人間である可能性はを鑑みて調査は行われていたものの、結果は芳しくなく煙に巻かれほぼ凍結案件状態。
此処に来て数年前の事案を掘り起こすのは中々骨の折れる調査だ。
だがそういう策謀こそ、得てしてふとした切欠で紐解かれる事も少なくない。
急ぎ追加で送信した例の従業員についての反応が無いのは、どうしても時差があった情報だからまだ精査出来ていないのかもしれない。
書き添えた一文を見て、ピピさんもレオさんと一度接触を取らないと返しようが無いのだろう。
これについては、私的にも担当者の所感が欲しいので良いが。
文に視線を落としているのに、瞳に映るのは別だ。
「…」
あの日の夕暮れ、介間見た姿から私が感じた印象は几帳面で杓子定規。
所謂インテリ系の出で立ちだった。
背中に定規が入っているかのような真っ直ぐな背筋に、夕方であろうと型崩れ知らずの糊の効いた清潔な服は商会のものだったから線も細い。
普段は杖でも使うのか歩く重心は少し右寄りだが、年季の入った、しかし手入れが行き届いた革鞄を左手に持っていたからその重みのせいかもしれない。そう考える程彼の歩みは自然だ。
真夜中に似た深みのある青髪は長く、結われた毛先が階段を上がる度に跳ねた。
眼鏡をかけていたため瞳の色はハッキリと分からなかったが、成熟したアボカドを割った時のような鮮やかな緑色に見えた。
恐らく陽の下で見ればもっと明るいかもしれない。
歳は思ったより断然若い。
それこそまだ十代かと思う程だった。
大きな商会であれば奉公に上がるのはそれこそ十にも行かない子どもから、ということも間々あるので、年齢の割に実績を持った従業員であったとしても違和感はない。
ただ、イニャスさんの実家規模を考えると引っ掛かりを覚える。
(別の日に改めて視認してから報告するべきだっただろうか…いや、でも、閣下に上奏するのに間に合うならば早いに越したことは無いと私は判断した)
元より、商会の情報を上げるのが遅くなったからそんな余計な事を考えるに至ったのだ。本来であれば第二報として提出し、精査される内容であろう。
(やっぱり、焦っているのかな)
改めて己の掌で胸の中心を撫で摩り、自らを慰め落ち着かせる。
首から下げたお守りがちゃりと小さな音を立てた。
その硬い感触を縁どるようになぞれば、まるで熱を帯びているように指先がじりじり、ぎしぎりと痺れてゆく感覚を覚える。
私の中にだけある思い出、宝物。
このイヤーカフも、いっそ私の中に溶け込んで、取り込めてしまえばいいのに。
そう幾度となく思う。
そうすればもう誰にも奪われる事はない。
失う時はこの命と一緒だ。
カタリと何処からか零れた物音に脊髄反射で顔を上げる。
視線の先では洗面台から落ちたのだろう、顔剃り用の剃刀が横たわっていた。
あれは別にわざわざオスカーの為に買った訳じゃない。
私の化粧乗りを良くするため、産毛を剃るのに使うのだ。
ただ、肌が弱い彼にはあれくらいがちょうどいいだけで。
ぼんやりとそれを見つめながらそんな事を考えていたら、俄かに周囲へ音が戻って来る。
私は立ち上がり、剃刀を拾いつつ洗面台の蛇口を開いた。
ざぁざぁと滑り落ちる水が洗面ボウルに溜まるのを待たず、握り締めて皺だらけになった文書をその中に指先だけで沈める。
じわりと、溶けたインクの帯が水面に滲んでは揺蕩い、消えてゆく。
暫くした後にぐるりと大きく掻き混ぜれば紙がぼろりと形を保てず崩れた。
ある程度の細かさになったのを確認してからシャワー室の排水溝の蓋を外し、それを下水に流し込む。
追随するようにシャワーを浴び、身支度を整えてから私室を出た。
今日も『シャラム』の一日が始まる。
東の空の底が白んで来た。
王都の街並みが少しずつ輪郭を得ていく光景は、きっと両親も、お兄様達も見ていたものかもしれないとこの頃は思うようになった。
私の知らない家族の面影が朝日の中に幻となって、表れては消える。
私以外の誰もがこの王都で、学院で過ごした。
私とは全く違う形で。
それが、きっと、ちょっと寂しいから、こんなに胸が騒ぐのだろう。
(私の王都暮らし、家族に話したらどんな反応をするだろうな)
ねぇお母様。あの夜ベッドで白状した時のように、呆れながらも寄り添って見守ってくれますか。
ねぇ、お父様。昔のように私の思いきりを楽し気に笑い飛ばし、味方でいてくれますか。
ギランお兄様。どうか怒らないで。怒りたいのに、怒れず我慢する顔が浮かぶ。
ギレムお兄様まで渋い顔をして。でもあの優しい手で私を撫でるんだろう。
現では頬を一筋、雫が撫で落ちる。
ああ、髪の乾かしが充分じゃなかったのかもしれない。
それを軽く指先で払い、振り切るように廊下を急いだ。
本日のヴュルテンベルク辺境伯のタウンハウスは普段と少し違い、仄かな緊張の中と浮足立った空気が混じっていた。
流石に表立って何処かしこでも噂話をするような不躾な使用人は居ないが、使用人達の休憩室や家人が立ち入らない場所などではその話題で持ち切りだった。
私も事前から準備手伝い且つ情報収集として行き来し、すわ彼女の狙いが漏れたのかと耳を澄ませていたが、木霊し合う山々のように徐々に広がる会話を聞く中で何故彼等がこれ程までに興味を惹かれるのかやっと合点を得たに至る。
驚く事にどうやらオリアーヌは友人をタウンハウスに招いた事はないそうだ。
十歳の頃から冬季だけとは言え王都で社交をしてきたにも関わらず、だ。
確かに言われてみればヴュルテンベルク辺境伯領にいた時も、年に数回、夫人がお茶会を開く事はあってもオリアーヌが主催したものは記憶にない。
王都に来てからも、彼女が『お茶会の予定があるわ』と口にすれど、美しく着飾り出掛けて行く姿を見送るばかりだったのを私は一人思い起こす。
かといってオリアーヌに知人友人が少ない訳ではない。
私とほぼ同時期に行儀見習いで城に勤め始めたフラヴィ嬢やイネス嬢は、改めて王都における主人の顔の広さや交友関係を頭に入れるべく日々情報交換をしているくらいだ。
辺境伯領で折角覚えた膨大な人物情報が抜け落ちそうだと先日零していた。
元々領地では城へ訪問する大人、それに連れ添われ来る子どもは勿論、長く続く名家として当然のように縁者も多いので覚える情報はかなりの量になるのだが、相応に従者の人数も居るので分担をすることも叶う。
私もよく人物照会システムオスカーを城でも利用している。
オスカーって頭良いよなー、特に人相照会精度が高い。
この前の外出中も雑踏の中で屡々、あれはどこ家の誰では?とぼやいていた。
私はその機能が本当に欲しいよ、切実に。
まぁ兎も角、流石というかやはりというか、南方、特に南東周辺の守護者兼重鎮である一家が住まう辺境伯家の城は「辺境」の名を冠していようとも大変人の出入りが多いのだ。
年間では来客が無い日の方が少ないのではなかろうか。
そう考えるとストラス邸がどれだけ静かだったのか良く分かる。
でもそれが逆に、双子には落ち着けて良かったのだろう。
私のそんな推察を肯定するかのように伯爵夫妻抜きのタウンハウスは人の訪れが殆ど無く、穏やかで静かな日常を訥々と紡いでいた。
そんな最中、本日の御友人招待である。
将に青天の霹靂と呼ぶに相応しいのだろう。
まぁこれも学院での交遊による御嫡女様の成長だと喜ぶ者が表向きは多いようだが、まさか嫡男を狙った女狐に姫様が利用されているのではと危ぶむ声も聞こえてくるのは、流石王都在住の使用人が多いタウンハウスだからだろう。
ははははは、私のオーリがそんな女狐にやられる腹かいな。
逆だよ。
オーリが御令嬢を誘き出す、いや、誘い出し、うーん、騙し…。
あれどう言い繕うにも悪役令嬢の行動みたいな言葉しか思い浮かばないぞ。
私の語彙力が乏しいばかりに、ごめんねオーリ。
でも彼女の行動は、そう、あれだ一肌脱いだようなものだ。
先日、買い物に街へ降りる馬車の中で私の報告を聞いてからのオリアーヌの行動は大変素早かった、というのはベルナデッドさんの言である。
当日中に計画を仕立てて翌日には学院内でもゾエ様の趣味嗜好などを調査。
いやその辺りは私に聞いてくれれば良かったのに。
でも先を見越して、オリアーヌ周辺の侍女にもゾエ様についてちゃんと把握してもらいたかったのだろうなという気持ちも分からんでもない。
平行して家令に命じていた資料に目を通した中で彼女の慧眼に留まったのは、長年ボワモルティエ家が力を入れて出資している馬の生産、育成牧場だった。
昔からオリアーヌは乗馬が趣味だ。
実際に見てみたいという気持ちも多大にあったのだろう。
彼女の深い馬に関する教養や嘘偽りない言葉に、突拍子もなく声を掛けられたゾエ様が構えていたのも僅かな時間だったそうだ。
前置きなく突撃したのかぁという、やや淑女としては趣に欠けるやりとりに遠い目をしながらも、なんだかそれが如何にもオリアーヌらしいと思えて密かに心がほっこりした。
何年経てどもオリアーヌは可愛い。
外見はどんどん傾国の美女として威厳も備えて来ているけれどな!
確かに家が牧場へ出資していると謂えども家業ではない。
詳しく聞けば、どうやらゾエ様の御姉様が馬好きだという。
動物にも人にも分け隔てなく優しく穏やかな御姉様が大好きなゾエ様も、小さい頃から牧場には良く出入りしているので牧場主にも経営者にも顔が利くとのことで、まずはオリアーヌが招待を受ける形となった。
その時にはゾエ様の御姉様であるファタリテ様もご一緒だったそうだ。
ファタリテ様は長いペチュニア色の真っ直ぐな髪を持ち、時を経て色褪せたような落ち着かせる青い瞳をした素敵な大人の女性だという。
身体の線も細く、月灯りの下で揺れるマルグリッドを思わせる清楚ながら静謐さも秘めた出で立ちなのだが、乗馬する姿は狩りの女神を思わせるような凛々しさを伴うらしい。
何ともかっこいい女性だ、私も是非お会いしてみたい。
当代のボワモルティエ侯爵家の嫡子はこの姉妹のみだ。
なので御姉様のところに入り婿を取り爵位を継承するのが順当なのだが、今年で二十四歳となる今でもその当人が当分結婚する気が無いときた。
美しい上に妹君と同じく聡明なので、貴族としての結婚適齢期を過ぎようとすぐに相手は見つかるだろうとベルナデッドさんも語っていたのだが、その表情は勿体ないという気持ちが隠しきれていなかった。
美しい女性三人が広々とした草原や森に馬を颯爽と走らせ憩うという、中々王都淑女には見られない交友ばかりを重ねること屡々、必然とオリアーヌと仲良くなったのは歳の近いゾエ様だ。
そもそもゾエ様に近づくのが目的だったもんな。
私だったら確実に本末転倒になりそうだ。三人でずっと遊んでいそう。
まぁあれよあれよと話しは纏まり、ついにゾエ様が辺境伯のタウンハウスに居る馬を見に来ることとなった。
今は厩の案内や散策を終え、景観の美しい庭の中にあるガゼボでお茶の最中だ。
本日、ゾエ様は学院の時とはまた違った、上品で気品もあるヴェールドーのコットンドレスをお召しになっているのだが、それがとても良くお似合いである。
オベルジール色の髪には白いリボンがあしらわれており涼し気だ。
あの御姿をイニャスさんが見れば閃きを得そうだと思うのだがなぁ。
「シャラム」
新たな茶器類を乗せたワゴンを押して近づく私へそっとイネスが声を掛けた。
いや近いって、そんな近くづく必要ある?という程彼女は私に身を寄せるのだが、私は顔に出さないし身体も敢えて引かない。
「恙無くお過ごしのようだが何かご入用かい」
「ううん、…もうお近くに?」
「予定はもう少し先では?」
だから私も今頃茶器を運び込み、準備をするつもりなのだが。
何食わぬ顔で彼女達が使用している場所の傍にワゴンを止め、ちらりとガゼボへと視線を投げればオリアーヌの顔が少し困惑をしている様子が見受けられた。
すぐさまイネスへ視線を向け、数秒後には手元に戻す。
「何があったの」
「いえ…厩で、どうやら目に適った子が居たみたいで」
この場合、イネスが指し示すのは人間ではなく馬であろう。
そうであってくれよと願う。
「アロイーズ様の管理している範疇だからと濁してはいるものの」
「分かったよ、任せて」
そう告げるや否や私は手を動かすスピードを上げ、素早く準備を終える。
誰もこのワゴンに触れるな、触れさせるなとイネスに厳命してから踵を返し、足早に邸の中へと戻り目的の部屋の扉をノックして開く。
「失礼いたします」
「返答を待て、バカ者」
「恐縮で御座いますがアロイーズ様、前倒しでお時間を頂戴出来ますか?」
「構わないよ」
一人掛けのゆったりしたソファーに優雅に腰掛けていたアロイーズが二つ返事で頷き、読んでいた本を閉じて傍らのオスカーへ差し出す。
仰々しくそれを彼は受け取り、立ち上がった主の身嗜みを整える。
私は扉前で頭を下げ、主が近づき、横を通り過ぎるのを見計らって顔を上げると、すぐさま足早にその背に近づいて耳打ちをする。
背後ではオスカーが部屋を施錠し、歩き出す音がした。
「ゾエ様が厩でお目に止めた馬が居るようです」
「御令嬢が揃って、ガゼボでする話にはとても聞こえないね」
「どれかは定かではありませんが、アロイーズ様の管理下と御断りの方向でオリアーヌ様はお話を進めていらっしゃるとイネスから聞いております」
「まぁ事実そうだしねぇ…オーリは変なところでめんどくさがり屋だから」
厩に入り馬の世話を焼くのは好きだし乗馬も好むが、結局どの馬をどのタイミングで働かせるかなどの采配や融通についての決定権を持つのは面倒臭いらしい。
購入や融通については時折口を挟むようだが。
まぁ此処までしっかり主家の人間が細部まで確認しているヴュルテンベルク辺境伯家が珍しいのもある。
大概は、信頼する担当者に一任する業務であろう。
だが移動の脚、ともすれば逃走時などに有効な馬の管理を日頃から怠らない姿勢は流石ヴュルテンベルク辺境伯家の一言である。
「大体欲しがる馬の目星はつく。オーリが渋っているのは僕を立てる為だろう。
馬の融通一つ、それで信頼が買えるのであれば安いものだよ」
貫禄を纏わせながら歩く主の言葉に合流したオスカーと共に短く返答する。
我々内での方針を定めた後、芸術品と見間違う程の美しい男は客人のおわすガゼボへ颯爽と向かった。
その供をするのはオスカーだけだ。
私はワゴンの前で警戒するイネスへアイコンタクトを送り、すぐさま彼女にはオリアーヌの下へ戻る様に指示を出す。
イネスが警備してくれていたものの改めて異変が無いかを確認してから、主様へ供すお茶の準備を進めて行けば香り高い湯気が鼻孔を擽る。
茶菓子は、オリアーヌとの茶会を意識して小ぶりのカヌレを用意した。
我が主はカヌレが好きだ。
ラム酒がしっかり香るものが一番だが、紅茶葉を混ぜ込んだものやピスタチオ味などにもよく手を伸ばす。
もっと女性向けに見栄えよく可愛らしい色味や味を揃えるべきなのだろうが、既にそれはオリアーヌが供した別の菓子で充分であろうし、然程の品数が入る程お腹に余裕もないだろう。
でも私は気が利くので、パート・ド・フリュイも添えておく。
アロの食べるカヌレはラム酒キツイからね、苦手だったらこっちをおつまみー。
どうやら我が主は恙無く素知らぬ顔で合流出来たようだ。
私が準備を終えてサーブの為にガゼボへと近づいた時には穏やかな笑い声が上がっており、どうやら話題はヴュルテンベルク辺境伯家の厩から、オリアーヌとの遠乗りの話に切り替えたようだった。
「オリアーヌは大概飛ばすでしょう?ゾエ様を驚かせてしまったのでは?」
「ええ、ええそれはもう。この若さで大勒頭絡を使いこなされる事に」
「ははは、気になったのはそちらですか?」
「姉も馬に乗ると人が変わったようにお転婆になるので、目にも留まらぬ速さの襲歩には慣れているのです」
「では二人を窘めるのがゾエ嬢でしたか」
「どういう意味かしらアロ」
「そんな光景しか浮かばないよオーリ」
「ふふ、どうでしょう。私もはしゃいでしまったと思うわ」
おや良い雰囲気である。
御姉様の話題も混ぜているから自然とゾエ嬢のお名前で呼ぶ機会もあるが、何よりオリアーヌが自然とゾエ様と呼ぶからアロイーズも口に出し易かったのかもしれないな。
二人が揃ってこうして誰かと仲良くしている姿を見るのは久し振りだ。
接待とは違う、交遊らしい交遊目的且つ二人の共通友人と言えばタウンハウスに遊びに来るのはオーリの婚約者のリュカ様くらいであろう。
いや、オリアーヌにとっては友人枠ではない筈なのだが。
というか婚約者来てるのに兄も一緒に過ごすってそれで良いのかオーリ。
本当にリュカ様のところに嫁ぐつもりがあるのかないのか、不安になるぜ。
(…ん?)
ほんわかとした安らぎと心配が同居するという不思議な内心を愉しみつつ、アロイーズへとサーブしている間、あからさまな視線が私に注がれていた。
主への給仕を終えた後、少し離れてから表情筋を笑みの形に動かす。
「………………」
私の一挙一動をぽかんと見上げるゾエ様は作り笑いに反応をしない。
寧ろ、その様子に主人達が小首を傾げた。
「ゾエ様?」
「何か御気に障りましたか?」
「…ぁ、いえ、ちょっと珍しい瞳の、色だと思いまして」
そうかな。
青系の瞳は結構ごろごろそこらへんに居ると思うが。
ファタリテ様も青系の瞳をされている筈だ。
「ファタリテ姉様も青系の瞳ですが系統が少し違うかしら?」
「そうなんだね」
オリアーヌが助け舟を出す様に私の顔を見て微笑む。
うふふもっと見てもいいよ、オーリなら許す。
オーリの薄い、勿忘草を想起させる静かな水色も綺麗で大好きだ。
「あの老いた輓馬も青い瞳でした」
喉を湿らせたゾエ嬢の言葉に笑みが崩れそうになる。
アロイーズは、ただ黙って視線を落とすゾエ様を見つめていた。
「…それがゾエ様の御気に召された理由でしたのね」
ぽつりと零したオリアーヌの言葉は少し疲れていた。
恐らく、アロイーズが来るまでどうにかゾエ様が欲しがる理由を聞き出して代案を提案できればと尽くしてくれていたのだろう。
しかしそれは叶わず、結局アロイーズに判断を求め箱を開けばこれだ。
確かに青い目の馬は珍しい。
だが居ない訳ではない。
それこそ、王都周辺で飼育されている斑模様の馬などはガラスのような美しい青い目を持つ個体が生まれる事もあると私でも耳に入れる程に。
「……………」
ゾエ様は黙ってしまった。
俯いて、その表情は窺えない。
だが彼女付きの侍女の痛切な面持ちで、単なる興味本位ではない事は察せた。
「…ゾエ嬢、タウンハウスの馬の管理は僕が責任者です」
そよと優しい風がガゼボの中をひと撫でした後、静かに主人が口を開く。
「はい…オリアーヌ様からお伺いしております」
「何もオリアーヌは貴女に意地悪をして話を濁していた訳ではありませんよ。僕の許可を得る為には相応の理由を伝えねばと思った事だけは、どうかご了承願いたい」
「勿論です、オリアーヌ様との縁は昨今ですがその様に思う事など努々ありません」
「良かった。双子の兄として、嬉しく思います」
微笑むアロイーズの神々しさは物凄い。
アッ、こんなしんみりした空気の中で暢気にゾエ様の侍女が打たれた!
それこそ私が接触していた謎適性がある子である。
キミとは仲良くなれそうだ、是非辺境伯領にも供してくれよな。
「それに、ご慧眼の通りかの馬は随分高齢です。
暫く前に無理をさせてしまったのでね、もう走らせる事はさせていません」
「ですからもっとゾエ様と長く寄り添える子をと身勝手に考えていたのです」
「オリアーヌ様…本当に、貴女は御心までもが燦然とお美しい。
なのに私は…身勝手なのは、私です」
「ゾエ様こそ理性と知性を備えた女性を私は存じませんわ」
オリアーヌがそっと彼女の傍らに移動し、手を握る。
ミモザ色に似たゾエ様の瞳は明らかに潤んでおり、今にも雫が零れそうになるのを懸命に瞬きで散らして堪えていた。
「我々の答えは以上の理由からですが、ゾエ様の御気持ちは?」
「―――………それでも、叶うならば…」
「ゾエお嬢様…」
見兼ねて、筆頭侍女と思われる人が主の肩をそっと抑える、ではなく撫でた。
まるで慰めるような仕草。
それでもゾエ様は頭を振り、また再び俯いて黙ってしまった。
「…」
私はそっとアロに目配せをして離れる許可を頂き、その筆頭侍女をガゼボから少し離れた場所へご案内をさせて頂く。
「ご迷惑をお掛けいたしまして申し訳ございません」
「いえ、此方もゾエお嬢様へ心を尽くしたいばかりに…いっそ辛い思いを抱かせてしまい恐縮で御座います」
私も深々と頭を下げ、ゆっくりと顔を上げる。
遅れて身体を起こした筆頭侍女が私の顔を見つめ、僅かに目を細める。
「確かに、貴方の眼はこの辺りでは見ない青色ですね」
「そうで御座いますか?」
「ええ、我々の主人、そして姉姫様にとっても思い出深い色味です」
「…」
ざわりと一際大きく風に煽られ、木々が揺れる。
「ゾエ様があの老輓馬を強くお求めになる理由、ですよね」
「…ええ」
これは、聞いて良い話だろうか。
私一人で。
ああ、風の生温さが嫌だ。
「私が仕えるボワモルティエ伯爵家は御存じの通り嫡子はお嬢様方だけです。
どんな時も遊び相手はお互いでございました。
幼い頃から邸の敷地内でも、それこそ牧場へ見回りに行く先にも必ず二人して手を繋ぎ向かわれる程に仲睦まじくて、実に微笑ましいお姿なのです」
「しかし…以前、…そんな御姉様がゾエ様を伴わず外出なさる事が増えました。
近頃は全く構ってくれないと、ゾエお嬢様がファタリテお嬢様には内緒でこっそり後をつけると、馴染みの牧場へ入って行かれたのです」
「―――そこには御姉様と、ある殿方がいらっしゃいました。
ファタリテお嬢様は、ゾエ様には秘密でその御方とお会いになっていたのです」
「一見恋物語のようですが、実は違うのです。
かの御方は馬に関する見識も深く、御領地の為にと牧場での馬の管理方法や、それこそご実家との事業提携や交配種の研究を視野に入れてずっとファタリテお嬢様と議論を重ねていたようなのです。
だからでしょう、ゾエ様も伴うことをご提案されたのは、かの御方でした」
「加え、その方は物腰柔らかく温かい雰囲気をお持ちになりながらも、非常に聡明で柔軟なお考えをお持ちになった素敵な御方で…すぐにゾエお嬢様の警戒心を解き、」
「いえ、最初から警戒などしておりませんでした。
ただ嫉妬していたのです。
ゾエお嬢様から御姉様を奪った御方にではなく、ファタリテお嬢様に」
「その証拠に、ゾエお嬢様は乗馬訓練に熱が入りました。
教えるのもとても上手なのですよ、その御方。
お陰で短期間でめきめきと御姉様に負けないくらいの技術を身に着けていくゾエお嬢様のお姿は、見ている此方も爽快な程でした」
「そんな、お嬢様が恋い慕った御方が御領地のお話して下さった事があります。
青い目をした輓馬を大事にしているのだ、と」
「自分と同年馬で、瞳の色も似た青色だからより愛着が沸くと仰っていました。
かの御方には年の離れた、それこそゾエ様とほぼ変わらない年頃の妹君様がいらっしゃいましたので、妹君が生まれた事の報告も、妹君がよちよち歩きの頃に愛馬と顔合わせもさせたと微笑ましいお話をお聞かせ下さいました」
「………ただ、非常に残念ながらその御方は、王都を離れ、遠い、…遠い場所へ向かわれてしまいました」
「ここ数年は便りは勿論訪れも、ありません。
丁度その御方はファタリテお嬢様と同年です、あの輓馬もそれくらいでしょう?
加え、珍しい青い瞳を見て……。
開きっぱなしの恋心を徒に掻き混ぜられた想いがしたのでしょうね」
ふぅ、と一息、語り終えたと言わんばかりに彼女が何かを吐き出す。
その吐息は夏の風が浚って、薄めて、澄み渡る空へと連れて行った。
「従者がこのような事を申すのは差し出がましいのでしょうけれども、どうか、ゾエお嬢様の願いを叶えずにいて下さいませんか?」
「何故?」
私は素で聞きなおしてしまった。
ゾエ様は、終わらせ方の分からない初恋に、今猶苦しんでいるのに。
そんな考えが伝わったのか、彼女は穏やかに微笑み返す。
「代わりなど与えて終われるような恋では無いのです。
そして恋心は一つしか抱けぬなど、そんな法はこの世にありません」
強い人だ。
この人も、きっと何かをそうやって飲み込んで、大人になったのだろう。
ゾエ様は多少持ち直したが、この後にアロイーズとの婚約打診など出来る訳もなく、そのままタウンハウスを後にされた。
まだ庭の片付けが行われる中、私は主と共に居室に戻り顛末を話した。
「―――…筆頭侍女の話はどこまでが事実で、何処が偽りかお調べしましょうか」
横で聞いていたオスカーが控えめにアロイーズに声を掛ける。
深く椅子に凭れた主は軽く手を挙げ、それを不要と判断したまま黙り込んでいた。
「……………………分かった、ご苦労様、シャラム」
私は頭を下げるのみに留めた。
暫く無音が部屋を満たしたが、漸く二人とも下がれとの指示があり私は足早に退出して庭の片付けを何食わぬ顔で手伝う事にした。
頭を空っぽにして動いて、誰かの眼がある場所に居続けたかった。
その日の夜、珍しくアロイーズは寝酒を求め、オスカーが運んで行った。
私は夜の街に用も無く出向いた。
酒場で、別人に成りすまし、下らない事を話して過ごした。




