閑話:ストラス邸 玄関ホール・リーシャ私室
急使がストラス邸に訪れた旨を自家の兵から報せられたのは、こじんまりとした夜会会場である子爵家の別荘から帰路に発ってすぐの事だった。
「如何なさいましたか?」
「いや、少しな…悪いが帰宅を急ぐ用事が出来た。
貴殿はどうか安全第一に無理のない速度で参って欲しい」
「はぁ…畏まりました」
この時、ストラス家の車列は行きよりも馬車が一台増えていた。
裕福な子爵家が土産にとあれもこれもと持たせてくれたのだ。
勿論その手配は先方がしてくれていた。
此方からしたら邸まで同行させるのは気が引けたものの、既に準備が整った馬車を見て仕方が無いとストラス家の車列に加わえていたのだ。
だからこそ、その同行者を共に急かすのは申し訳ないだろう。
そう考えて苦笑と共に首を振るストラス伯爵に、子爵家の使用人は何処か覇気のない返事を返すに留めた。
(まぁ、一台だけで冬の夜道を進むのは心細いだろうが)
見たところ子爵家の荷馬車は護衛も伴っていない。
ストラス家と随伴する事を鑑みて、不要な武力を伴わせなかったのだろう。
元より街に近いこの近辺ではそういった事件などほぼ起きた事は無い。
商人や領民でさえ、街の周辺を移動するだけなら護衛を付けない。
ストラス領はそれだけ長閑で、平和だった。
急使の訪問を報せた兵を先に出立させ、己が乗った馬車を邸へ急がせる伯爵を見ていた夫人がそっと口を開く。
「急使とは?何かお調べになっていたのですか?」
「ギラン達がユーデス様の身辺について調べていたからそれかもしれん」
「しかし家に届ける程となると」
「喜ばしい報せでは無さそうだ」
夜間に、それも冬の厳しいストラス領にまで急使を遣わす程の内容だ。
最悪の場合は隣国との開戦も視野に入れた伯爵の表情は優れない。
「吹雪いておらず本当にようございました」
「そうだな、無理をせずに帰宅出来たのは僥倖だった」
天候が悪化するようであれば二人は子爵家に泊まる予定だった。
幸い、今夜は薄く雲が張ってはいるものの降雪も一息吐いた静かな夜。
漏れ零れる月の灯りに照らされる道を馬車が進むのも、そう苦難ではない。
「ギランもギレムもまだ起きているだろう。
寧ろ俺が到着した頃には殆どの手配が終わっていそうだな」
「ふふ、旦那様に似て元よりしっかりした子達でしたが、学院を卒業した後は輪をかけて頼もしくなりましたね」
「そうだな、領主の座を早期に譲りたいが…リーシャが嫁ぐまでは難しいか」
「あの子達は自身でそうと決めたら中々頑固ですからね」
妻はそれなりに双子の相手を聞いてはいるようだが、まだどうなるか分からないとの事で伯爵にまで話を上げてくれていない。
息子の恋愛話なら父親が聞き手になるのが定石じゃないのか。
そう思って拗ねた事がもう随分前に思えた。
「お相手が何時までも待ってくれると思って欲しくないのだが」
「そこも含めてあの子達は分かっておりますよ。
ただそれ以上に二人にとってリーシャが大事だというのは親として喜べば良いのか悲しめば良いのか…素直に女性の心境からすれば複雑の一言ですけれども」
「ふ、そうか…是非せっついてやってくれ」
「リーシャを早く嫁がせる事も視野に入れなければですね」
「ああ嫌だ、寂しくなるな、慶事だというのに」
「ええ全くです」
少しずつ、小さかった子ども達が育ち、それぞれの道を歩いていく。
全員が手元に残りストラス領に留まるのは難しい事だと分かっていたのに、此処最近はふとした瞬間にその考えが夫婦の会話に差し込むのだ。
「早めに引退したら我々も王都に出ても良いが」
「王都は華やかですが、長くストラス領に居た身としてはもっと長閑な場所が良いですわ」
「セプタントの郊外も中々良いと聞くよ」
「ええ、街道にも出やすいですしストラスからも王都からも来やすいですね」
くすくすと笑う夫人は、夫が何時でもそれぞれ大人になった子どもたちが遊びに来れる事を考慮しているのが手に取る様に分かるのか、先程の緊迫した表情から一転し優しい面持ちをしていた。
「それも落ち着いたらやはりストラス領に戻るのでしょうね」
「だろうな、良いか?」
「ええ、勿論です」
そんな話をしている内に馬車は邸の敷地に入ったようで速度を落とした。
玄関前のポーチに馬車を止め、二人は足早に邸の中へ入る。
駆け寄った従者が外套を受け取ろうとする手を止めて、伯爵は状況を尋ねた。
「急使は今何方に?」
「ギラン様と一緒に執務室かと」
「どちらの家からだ?」
「それが」
然程大きな声で話していなかった彼等の会話を遮るのには、十分な物音が閉じられた重厚な玄関扉の外から聞こえて全員が振り返る。
馬の嘶きまで聞こえ、こんな夜分に随分と不躾なと険しい顔をした従者が足早にその扉を押し開こうとした刹那、計ったようにそれが動いた。
明るい玄関から漏れる光に照らされ、佇むのは子爵家から託された使用人だ。
「何事…」
そう問いかけようと口を開いた伯爵の視界の端で、従者がその場に崩れ落ちた。
どさりと床に倒れた彼の周りにじわりと赤い液体が広がっていく。
数拍の間、無言が流れた。
誰よりも早く動き出したのは恥ずべきことに伯爵自身だった。
硬直する護衛の剣を腰から奪い抜き子爵家の使用人へ斬りかかった伯爵の背後で、絹を裂くような叫び声がすぐにくぐもった音で濁された。
玄関に控えていた女性の使用人が騒ぐのを別の人物が封じたのだ。
その、命を奪う事によって。
「襲撃だ!報せろ!!」
剣を奪われた若い護衛が背後で駆ける気配を感じながら、伯爵は護衛と共にどこからともなく次から次へと押し寄せる賊を切り捨てる。
第一に従者を刺した子爵家の使用人はと言えば、その賊の後ろで薄笑いを浮かべていた。
「ほらほら気張れよぉ!伯爵と夫人の首を獲った者には褒賞を出すよぉ!」
ゲラゲラと下品な女の笑い声が玄関ホールに響き渡る。
その方向は、護衛兵たちが主に出入りする通路側だった。
賊と斬り結びながら伯爵の顔が歪む。
夫人は素早く上階に逃げてくれていれば良いのだが、どうやらその願い叶わず彼女が神に乞う美しい声色が聞こえた。
ともすれば爆風が巻き起こり、賊の数人が蹴散らされ壁や床に叩き付けられる。
「これだから寄せ集めは」
憐憫に満ちた静かな男の声はやけに印象的だった。
だがその言葉の後、頼もしく美しい夫人の声は二度と聞こえなかった。
何人目かの賊を切り捨て位置取りを変えた伯爵の視界に、床に伏した彼女の首の無い身体だけが映る。
「貴様らぁあああ!!!!」
激昂した伯爵の元にあの、薄ら笑いを浮かべた男が肉薄する。
振り下ろした筈の剣の重みが消えた。
「見誤ったね、ストラス伯爵閣下」
一閃で両腕を斬り落とされたと気付いた時には、その刃が翻され深く腹部に差し込まれていた。
圧倒的な実力差。
研ぎ澄まされた刃の切れ味も、人を無力化するのに躊躇いの無い冷酷さも、制圧し慣れた動きの一つ一つが遠く及ばない。
そう気付くのが遅かったのだろうか。
身形から此処で対処できる賊だと見誤った。
彼等を率いる、この薄気味悪い目をした男達がどれほどの力量かを推し量る事が出来なかった。
膝を付くや否や頭部を強かに蹴られ床に倒れ込む。
薄ぼんやりとした視界に広がる死屍累々。
(何故)
死の間際になっても伯爵には分からなかった。
何故、ストラス家が襲われたのか。
見るからにただの賊ではない。
子爵家に諮られたのだろうか?
恨みを買うような覚えもないどころか、交流だって今回が殆ど初めてと言って過言ではない程縁遠い家なのに?
何故こんな蛮行を受けねばならないのか?
ぐるぐると詮無く廻る思考に終わりを告げたのは息子の力強い声だった。
『襲撃だ!!全員叩き起きろ!!!!レムはリーシャと共に執務室へ来い!!!』
(ギラン、駄目だすぐに、逃げろ)
「おやまぁ取り零しましたか?詰め所の兵も潰したのでは?」
「ええーやだよ戻るの、どうせ死んでるよ」
「知らぬとも知ろうとも辿る道は同じとは、無情」
執務室へ繋がる伝令管は何も詰め所だけではない。
もしかしたら、玄関での惨状を見た使用人の誰かが別の伝令管からギラン達へ危機を報せてくれたのかもしれない。
どうかその者だけでも無事に逃げ延びて欲しい。
「そうですね、別に結末は変わりません」
そう、黒光りする磨かれた靴だけが見える男が零す。
その爪先が伯爵に向けられる。
「依頼人は悲惨であればある程良いとの願いですから」
(子どもた、ち、だけで、も)
逃げて欲しい。
それが伯爵の最期の願いだった。
だからだろう、斬り落とされたというのにその顔はどこか苦悶ではなく清廉とした祈りを感じさせる面持ちだったのが男には気味が悪く、持ち上げたと思ったらそれをすぐに放り投げた。
「うえ、やだこっちに投げないでよ!」
そう言って女が伯爵の首を蹴飛ばす。
無情に転がった先では、賊が女の死体を嬲っていた。
閉じられた目の前で亡骸に行われている凶悪なそれを目にして、また更に女は辟易した面持ちで大袈裟に肩を落とした。
「オイその粗末なもんさっさとしまえ、燃やすぞ」
「まだ始まったばかりだというのに全く」
「で、どうするのです?執務室へ向かいますか?」
「うーん、計画通り主な出入り口は塞いであるのでしょう?」
「それはまぁ」
「であれば好きにして良いですよ」
事も無げに子爵家従者の装いをした者がそう言うと、残る二人は顔を見合わせた。
「じゃっアタシは楽なお嬢様の自室の方に行こうかなー」
「執務室ではなく?」
「そっちどう考えたって本陣じゃん」
あの警告が陽動であろうとなかろうと少女を殺す方が楽だと見做し、女は軽い足取りで死体の散らばる階段を先に上っていった。
それを見送った男達は示し合わせたように動き出し執務室へと向かった。
一方、アロイーズ達と主の脱出を見送ったマノンとエタンの二人は、取っていた礼を解き揃って顔を上げた。
どちらともなく相手の表情を見つめ、ふと小さく笑みを零す。
「アロイーズ様、随分と御立派になられましたね」
「物語の中の王子様かと見間違う程なのに、我々の意識ではやはり幼い頃があるからかそんな感想を抱いてしまうよなぁ」
「ええ、まるで姉のような心地です」
「マノンは本当、お嬢様たちを含めてそういう目で見ていたからな」
「過分な思いだとは分かっていましたが、ね」
「そういうマノンだから俺は惹かれたんだよ」
エタンの指先が、マノンの首筋から落ちる鎖を辿り、指輪に行きつく。
「リーシャお嬢様に会う時も、一緒に行こうな」
「ふふ、ええ…その道中だけはエタンが私の騎士様になるのね」
微笑み、少し恥ずかしそうに零すマノンを堪らずエタンが抱き締めた。
「ああー…絶対二人きりじゃないのに二人だけで行きたい」
「そうねぇ、絶対にギレム様は一緒でしょうねぇ」
「心強いのだけれど、うん、まだまだ俺らは新婚だから」
「もう一年経っているのにエタンはそればかり」
「初心忘れるべからず、だ」
「調子が良いんだから」
どちらともなく短いキスを交わし、額を合わせる。
まだ邸の中は、襲撃が始まったと思えぬ程静かだった。
「だから安心して、マノン。此処は死んでも通さない」
「弱気ねエタン。通さない上で、死なないで」
「ん」
もう一度相手の温もりを愛おしみ、惜しむように身体を離した。
そうすればお互いは勤め人の顔に変わる。
閉ざされたリーシャの私室は、明りも暖炉も灯っているのにどこか薄暗く肌寒さを感じる。
緊張からだろうか、先程から手汗が冷えて指先が凍える。
自然とそれを拭う為に両手は胸元、リーシャから贈られたエタンと揃いの指輪を下げた場所を何度も拭い押さえていた。
マノンは己を揺らすような心音に耳を傾け立ち尽くす。
(リーシャお嬢様たちは…無事に、逃げ出せたかしら)
段々と物々しい音が近づいてくる。
矢張り、ギレム様の目論んだ通り賊は此方にも分散されたようだ。
扉から離れているのに剣を打ち合う音や人の叫び声が聞こえる。
(エタン…エタン…)
主の自室を守るのはエタンだけではない。
だが人数が多い訳でも無い。
先程のギランの警告を聞き、駆け付けた護衛がどれほどになるのか。
緊急事態発生時の動きについては訓練もしているが、命じられている者以外の殆どが執務室へ向かった可能性が高く応援はそこまで期待出来ないだろう。
どこか冷静に推察するマノンの眼前、扉が乱暴に開く。
入って来たのは愛しい夫ではなく、短い金髪の女と見知らぬ男達。
彼等の背後に、転がる無数の身体が垣間見えた。
(ああ)
マノンはぎゅっと胸元の指輪を強く握る。
(エタン、貴方と共に)
女が口を開くよりも先に。
マノンは忍ばせていた懐刀を取り出し自らの首を掻き切った。
侍女は主の最も近くに侍る使用人である。
故に、敵に捕まれば拷問により主の情報が抜き取られる恐れがあった。
それを重々承知していたマノンの覚悟は、主を逃がした時から決まっていた。
マノンが首を切れば主は逃げたのかと思われるだろう。
だがその逃げおおせた先は分からずじまいだ。
それ以上の情報を敵に渡すつもりは、毛頭ない。
(せめて、リーシャお嬢様は…)
血飛沫を上げ、音を立て倒れ込んだマノンの痙攣する身体を、躊躇いなく室内へ踏み込んだ女が冷めた目で見下ろしていた。
「あーあーあー、決意硬いなぁもう」
見るからに標的の自室にこれ以上の人気は無い。
が、念の為と破落戸たちに部屋の中を物色させる間、女は美しいソファーに腰を下ろしては長い足を優雅に組んだ。
「んだよ、おめーの方が早かったか」
「テメェわざと遅れて来たろ」
「この通りの図体だからなぁ、階段が厳しくて」
「蹴落とすぞ」
のっそりと後から室内に入って来た大柄な男が黄ばんだ歯をむき出しにして笑う。
「んでオジョウサマは?」
「ハズレー、執務室じゃね?」
「おうおう、そうかそうか」
ソファーに腰掛け短い髪を指先で弄る女へ、男は適当な相槌を返しながら質素な物書き机の周辺を調べ始める。
「んなところに入れる程お嬢様は小さいの」
「俺が見たところはそうじゃないけどな」
諜報も兼ねていた彼だけがストラス一家全員の顔を知っている。
この無害そうで平凡な顔立ちは確かに領民に紛れていても眼に留まらないが、その身体の大きさは目立つのにどうやって諜報など出来るのか未だに女は疑問に思う。
それこそ、彼は身体の大きさまで自由自在に変化させられるのだろうか。
「ん、おお、いいねいいね!」
似つかわしくない弾んだ声に女が顔を上げると、男は可愛らしい文箱の中からいくつかの手紙を懐に入れているところだった。
「うえ、悪趣味」
「空振りして挽回を考えないお前さんには分からんだろうなぁ」
「アタシは才能が全てを上回っているから」
そう零すと立ち上がり、破落戸からの報告も受けずに女は部屋を出て行った。
見送った男は顎を撫で摩り苦笑を零す。
「にしてもこれを目零すのは、懲罰案件だと思うがな」
彼の呟きは、暖炉の中で爆ぜる赤い薪の音に搔き消された。




