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パドマの箱庭  作者: 菌床
二章:忘れ得ぬ温もりよ
41/50

38:十二歳の隠忍

本日(5/19)は二話(閑話+この話)投稿しております。


 私は泥の中に立つ。


視界を鮮明にするような灯りは無いのにその空間は何処までも真っ暗だと認識し、己の腹部に至る程の冷たい泥沼が下身体をぎゅうと圧迫してはだんだんと、「私」を織りなす何かが散り散りに砕けてゆく心地を覚えた。


本能的に両掌で泥の表面を押し返し身体を持ち上げようとしても当然抜け出せず、白かった手にべったりと泥が付き汚れるばかり。ならばと重い泥を何とか蹴り上げ足場を探そうと動かすのに、結局足裏は更に深く場所を捉えては身体が傾ぐ。


泥濘が私の足掻きを嘲笑うように抱き締め、纏わり、じわりじわりと身体の芯から熱が奪われてゆく。


(助けて)


此処には誰も居ないのに、私は誰に助けを求めるというのか。


(助けて)


果てなく続く暗闇からの返事は無い。

私の口は開いているのに声は出ず、世界は無音のまま。


口角が裂けんばかりに叫んでいると思うのは私の錯覚なのだろうか?

先程から恐怖と寒さで、涙が止まらないのに。

この感覚すら、まやかしだというのか。


でも、「ああ、だからだろう」と納得する自分も在る。


もう身体の殆どは冷たい泥の中なのに、私はまだ意識がある。

口の中に流れ込み、歯茎を、舌を、喉を臓腑を、おぞましい感覚が塞ぎ埋める。

最早身動き一つ取れず四方八方から圧し潰されるのに、その痛みよりも「私」が泥に飲み込まれる厭わしさから意識だけでも解放されたくて堪らない。


()()が鼻から漏れ溢れ瞼の上から眼球を強く圧し潰す感触は確かにあるのに、私はまだ深く無音の泥濘の中で生き続けていた。


(助けて)


何故、私はまだ生きている?

何故、私はまだ生きようとするの?



やがて身体の感覚も消えゆく中で何かが、僅かに泥から生えた私の指先を握る。


手だ。

誰かの手だ。


それは、誰の手?




「―――リーシャ、リーシャ」

「……」


夢から覚め、視界の眩さに顔を顰めた私を呼ぶ声は聞き慣れたものだ。

ゆっくりと顔をそちらへ向ければ、美しいベゴニアのような赤い瞳。


あの夜に見えた冬の夜空を照らす赤が意識を過る。


だが、心配そうに見つめる彼の瞳はそれとはまったく違う。

見れば見る程安心して、思わず魅入ってしまう。


「僕が分かるかい?」


何を馬鹿な事を。

どんなに時間が経ったって、忘れる訳ないじゃないか。


「…ぉ」


呼び掛けようと発した自分の声の弱さに驚くよりも早く、痛みと喉が(つか)える感触にけほりと脊髄反射で咳が零れ落ちた。

恐らく水分を取っていなかったからだろう。

私の口元に、慌ててアロイーズが吸い飲みを口に当ててくれる。

飲みやすいように起こそうとする身体を温かい掌が支え、介助もしてくれた。


張り付くような乾いた口の中が、漸くだと言わんばかりに水分を喜び潤っていくのが良く分かる。

喉を滑り落ちてゆく瞬間は少し痛むが受け入れなくてはならない。

こくり、こくりと恐る恐る嚥下すればアロイーズが見るからにほっとした表情を浮かべるのが視界の端に映った。


「ん、…ありがと」


擡げていた頭を再び枕に戻し、改めて彼を見上げる。

吸い飲みを傍らのテーブルに戻すもアロイーズの視線は私に注がれたままだ。


その鬘をどうか取って欲しいのだが、現状、無理なのだろうな。

正直、今はあまりその色を見たくない。


「食事も摂れるよ?」

「それより情報が欲しい、入っている?」


そう切り出せばアロイーズは言葉を詰まらせる。

別に、彼が平静を保つ必要があるのは分かっているのだから、そんな顔をする必要も無いのだけれどな。


内心で思えども口にはせず、代わりに視線を逸らせば明らかに彼の空気が弛緩するのが分かった。

まるで自分が腫物になったような気分だ。


そりゃそうか。

現状を把握せずにあんな我儘を言ったのだし。

護衛さん達にも迷惑を掛けてしまったな。

これからの道中はもっといつも以上に気を付けなければ。


「…ヴュルテンベルク辺境伯領までは、どのくらい?」

「まだ、まだ先だよ」

「そっか…ごめんね、昏睡していた人間が一緒だと大変だったでしょ」

「大丈夫だよ、そんなの気にしないで」


そんな私の虚勢を察したのか、アロイーズの指先が私の額を撫で摩る。

温かく、少し硬い感触はギレムお兄様を彷彿とさせる。


嬉しくも切ないその仕草に胸が引き絞られた。


「どれくらい私は意識が無かったの?」

「一晩くらいだよ」


震えそうになる唇を誤魔化すように言葉を紡げば、彼は指先を引き、答える。


だからそんな悲しそうな顔をしないで欲しい。

私は、アロイーズが思っている程、子どもじゃないんだよ。


でもそうか、意識が無かったのは一晩か。

なら、まだ、心の準備が出来る。


「ん、分かった…アロは休んだ?顔色悪い」

「リーシャと一緒に休むよ」


流石にこの年頃で同じベッドには、と思ったがまぁアロイーズなら別に良いか。

とも思ったが、流石に二人部屋に宛がわれたのだろう。


急使として駆けて来てからまともに休んでいない彼には、私以上に充分な休息を取ってもらいたい。

あんな、光景を見たのだから辛いのはアロイーズだって同じだ。

私だけじゃない。


少しだけ、泣きそうになったアロイーズが唇を噛む。


ほら、やっぱり。

アロイーズだって感情を零すのを我慢している。

だから私も、まだ、耐えられる。


駆けてきてくれたのがアロイーズで良かった。

キミとなら、寄り添える。


私は話題を変えるつもりで、少し努めて明るい声を出す。


「やっぱり食事が欲しいな、貰える?」

「うん、頼んでくるよ」

「護衛さん達は?」

「一人は仮眠中、もう一人は買い出し」


護衛さん達の姿が見えないと思ったら、別々に行動しているのか。


一晩駆けたとしてもこの時期の移動だ。

あまりストラス領から離れていないと思うのだが、そんな場所に宿の中とは言え護衛対象を一人で残して大丈夫なのだろうか。


「じゃあアロが部屋の外に出るのは良くないんじゃ」

「大丈夫。ここはヴュルテンベルク辺境伯家の臣下の遠縁にあたる家が営む宿だから、僕の方が融通が利くんだ」


そう考える私に安心させるようにアロイーズが穏やかに語る。

私に語るよりも、自分自身に語り掛けているように聞こえた。


不安なのだろう。

予定とは違う動きをする事になっているのは、目に見えている。

ただでさえ、護衛対象が二人に増えたのに兵の増員は叶わないのだ。

まだヴュルテンベルク辺境伯領までは遠いというし、追手が来るかもしれない現状を危惧しない方が可笑しいだろう。


何だか笑えてくるね。

ストラス領からの帰り道なのに、こんな心が不安定になるだなんて。

アロイーズには、ただ、久し振りの再会を喜んで、私が生きている事に安心して戻ってもらうだけで良かったのにな。


「そうなんだ…安心出来るね、アロ」


どうして上手く行かないのだろう。

どうしてこんな事になったのだろう。

不思議だね、アロイーズ。


私達の知った『未来』は本当に訪れるのかな?


寧ろその『未来』が一番、誰にも穏やかな道だったのかな。


「リーシャ」

「ん?」


「ストラス家は、ストラス領は、僕らの憩いだよ」


後悔に塗れた自虐が伝わってしまったのだろうか、アロイーズが真面目な顔をしてそんな事を私に告げた。

ぶわりと、脳裏を駆け巡るのは家族の姿と、長閑な日常。


ああ、漏れ出しそう。


布団の中で爪が食い込む程、掌を握り締めた。

意識を、痛みに集中させる。


塞がねば。

蓋をしなければ、深く、深く沈みこませねば。


今はダメだ、溢れ出させてはダメだ。


「ありがと、嬉しい」


静かに、何とか頷き、零した会話の続きは震えていなかっただろうか。

声の温度は失われていなかっただろうか。

微笑みは添えられていただろうか。


ねぇアロイーズ。

キミに感謝する気持ちも、大事にしたい想いも何一つ変わらないよ。


だからそんな泣きそうな顔をしないで。


「……休むかい?」


そう問い掛け、私の目元を撫でるアロイーズの指先が震えていた。


「ん、食事出来たら起こしてくれる?」

「いいよ、ちゃんと起きてね」

「寝起きはアロより良いよ」


軽口を零せばやっと少しだけ彼は困ったように眉を下げるが、その口角は緩んだ。


退室する彼の背中を見送ってから、私は布団の中で胸元の御守り袋を握り締めた。

硬い感触が、確かに在る事が今は何よりも安堵させる。


(レム兄様のイヤーカフ、アロか護衛さんが拾ってくれていると良いのだけれど)


私がエタンに抑えられた時に落としてしまったのだ。

ギレムお兄様との会話をあの時聞いていた彼等なら、きっとそうしてくれていると願いながら私は再び瞼を閉じた。


いつしか意識は再び泥の中に落ちるように途切れた。



ふと揺すられ、起こされ振り仰ぐ。

一瞬、視界に入った色に声を失った。


「………アロ」

「食事を持ってきたよ」


ああ、見間違うところだった。

だから早くその鬘を取り外して欲しいのだけれど。


歪みそうになる顔を手で覆って隠し、身体を起こす。

いつの間にか部屋の中には私を叱咤した護衛さんが戻って来ていた。


「ありがとう。

 ところでアロ、レム兄様の耳飾り拾っている?」

「勿論だよ、…はい」


懐からアロイーズが見慣れた小さな耳飾りを取り出し、私に渡してくれた。

ころりと、僅かな温もりを持った銀色に縁どられた藍玉は変わらず柔らかい色合いでそこに在った。


「良かった…本当に、ありがとう」


私はすぐにそれを首から下げた御守り袋に入れる。

今度こそ身から一時たりとも離さない。

何があろうとも。


ベッドの上で食事が出来るように卓も借りてきてくれたようだが、私はテーブルへ移動して食事を摂らせてもらった。

その際に、迷惑を掛けた護衛さんにも謝罪と御礼を伝えた。

フィルマンさんという護衛さんは緩く頭を振って、必要ないと零してはいたものの、少しだけ空気が和らいだのが分かった。

そりゃ他家のご令嬢を殴って昏睡させたのだ、気まずかっただろうに。


もう一人の護衛さんはエンゾさんと言うらしい。

今はまだ仮眠中らしく、後程酒場へ向かう前に挨拶をさせてもらえるようだ。


何故酒場?と思ったが、どうやらピピさんと合流する予定らしい。

更に驚いたのが今年はピピさんがストラス領の街へ滞在していたという話だ。


「ピピさんが居たの、全く知らなかった」

「主に別荘の警備に回していたからね」


だとしてもピピさんを知るストラス家の護衛は結構いるのだ。

その眼にも触れていないとは、流石だな。

というか我が領の護衛の力量が問題なのだろうか。

うん、そこは今考えたくないな。


それに私も、事故を危惧して今年は殆ど邸の外に出なかった。

偶に定例となっている巡視をするルートも決まっていたし、周囲を警備する護衛も多かったから逆に目立って接触は控えたのかもしれない。


「この後はピピさんも一緒にヴュルテンベルク辺境伯領へ向かうの?」

「出来ればそうしたいところ。合流してから打診する形かな」


きっと私の護衛が居ないのもあるのだろう。

どうにか人員を増やしたいアロイーズの気持ちも良く分かる。

それにまだ子どもとは言え、若い貴族女子を一人、男所帯に入れて移動するのも気まずいのかもしれない。


その点は安心して欲しい。

元よりマノンが付き添わない旅程だったのだ。

私も自分の事は大体自分で出来るくらいの躾は出来ておりますよ。


それを見せつける為にも、食事もエンゾさんとの挨拶も済ませて一息吐いてからフィルマンさんが買って来てくれた男子用の旅装に一人で着替えて見せた。


髪をさっと自前で結い上げて帽子に押し込み、魔法使い用のローブまで着込めば随分顔も体形も隠れるので最早誰だか分からん仕様になった。

物凄い厳重な変装である。

寧ろアロイーズの方を隠すべきなのでは。


そんな事を私が零せばアロイーズは苦笑し、フィルマンさんは噴き出していた。

少しばかり部屋の空気にゆとりが出来た頃に丁度外からエンゾさんが戻って来た。


「ああ~何でこんなに早いんですかぁ!

 私まだ全くこの先の旅程手配終わってませんよぉ!」


明るい声色は何だか場違いでありながらも懐かしい。

ピピさんが被っていたぶ厚い毛皮の帽子を脱ぎながら頭を振り、大股で室内に踏み込んで来ては周囲を見渡して眼を瞬かせた。


「―――…何か予定の変更が?」


すとんと彼女の声音が低くなる。

既にエンゾさんが扉を閉めているのに部屋の温度が下がった心地がした。

張り詰めた空気が一行の合間に奔る。


「私が指示を受けここに着いたのは昨日の昼ですよ」

「その日の夜、ストラス邸が急襲された」

「どういう事ですか?偽情報だったと?」

「賊の所属までを確かめる余裕も無かった」

「…」


ピピさんの掌が握り締められる。

アロイーズの言葉が確かなら、彼女は一年、ストラス領に居たのだ。

ヴュルテンベルク辺境伯家が情報を掴んだのは確かに最近だ。

急使を遣わしてまで急ぎ伝えてくれたとしても、実行までの猶予があると踏んでいたのだろう。

というか、誰だってそう思う。


情報とはそういうものだ。

止められない計画を報せるにしては、ストラス領へ遣わす労力が見合わない。

つまりレオさんも、閣下すらも予見出来なかった事態という事。


もしくは、考えたくは無いが、既に予兆があったのかもしれない。

つまりストラス領に潜伏していた賊達の動きを、潜伏していたピピさんが見逃していた可能性が浮上する。

だからと言って私は彼女にとやかく言う資格など毛頭ない。

何よりストラス領の誰一人、そんな気配を微塵も察知していなかったのだ。


唇を噛み締める彼女をアロイーズが静かに見つめ、頭を振る。


「事は起きてしまった。

 その様子ではピピの耳にもストラスの情報は入っていないな?」

「…はい」

「まだ一晩だ。加え、邸に火を放たれた様子だった。

 降雪があろうとも消火には苦労するだろう」


当然の意見に視線が下がりそうになる。

私は努めて、唾を飲み込むだけの微動に留めた。


「被害状況を確認するのに時間を要することも鑑みて、このままリーシャは僕たちと一緒に予定通りヴュルテンベルク辺境伯領へ避難をする」

「増員は?合流予定は?」

「父上達も領地へ引き戻っている。

 今は社交期で領地に残る貴族も少ないし、このまま少数で駆けるつもりだ」

「リーシャお嬢様の体力を考慮してます?」


此処で、呆れたような眼でアロイーズに意見出来るピピさんは凄い。

先程までの歯痒さに顔を歪めていたのが嘘のようだ。

切り替えが出来るのは、彼女の長所だろう。


「レム兄様の輓馬を借りてきているし、僕と相乗りで行く」

「アロ、私も輓馬に一人で乗れるよ」


レム兄様の愛馬を連れて来ているのなら私が乗りたい。

それに幾ら成人より軽いと言えど、二人で乗るよりも一人で騎乗する方が速度も出るのは明白だ。


「…いつの間に」

「アロの知らぬ間に」

「ではもう一頭の手配をしておきましょう」


ここでエンゾさんが素早く志願し、アロイーズに確認をする。

彼は頷き、フィルマンさんが懐の財布から小分けにした包みを彼に渡す。


「まだストラス領の情報もこの街まで届いておりません。

 今から向かえば私が現場に入り直に調査することが出来る可能性もあります。

 予定通り私はストラス領に戻る方向で?」

「情報を掴んでから合流してくれるか」

「承知いたしました」


ピピさんも打ち合わせを済ませると凛とした表情で頷く。

誰もが、当然のようにストラス家の為に動いてくれているのに私は少し驚く。

きっとアロイーズが望んでいるから、こんなにも協力してくれるのだろう。


「リーシャお嬢様」


ふとピピさんが真っ直ぐに私を見て、柔らかい笑顔を浮かべた。


「貴女が御無事で良かった。ご家族への伝言、賜りますよ?」


当然のようにそう言ってくれるピピさんの姿が眩しい。

私も笑みを浮かべて、頷き返し口を開いた。


「ありがとうピピさん。

 …『早く、迎えに来てくださいね』とどうか、伝えて欲しいです」

「確かにそのお言葉、届けましょう」


そう告げて彼女は踵を返し足早に退室していく。

束の間の滞在だったからか、ピピさんが去った後の部屋はとても静かで、再び訪れた重い空気は冬の夜を痛いほど感じさせるものだった。


「…ありがとう、アロ。色々と手を尽くしてくれて」

「え、いや…当然だよ」

「それが出来るのがアロだよね。ね、明日は何時出立するの?」

「早朝に出ます」


間髪入れずに答えたのは、アロイーズではなくフィルマンさんだ。

私も彼へ視線を寄越ししっかりと了承の意を込め頷き返す。


「分かりました」


折角着替えたのだし、旅装のままで眠ろう。

早朝という事はきっとまだ外は真っ暗な内なのだろうな。

急使程急ぐ旅路ではないし、吹雪いていないと良いのだけれど。

アロイーズ達は見知った道なのだろうか。


でも聞くのは少し憚られて、私は言葉少なにベッドへ入った。

アロイーズも別のベッドで仮眠を取っているのだが、寝入った気配がしない。


「………」


朝は来る。

今日のように、変わらず。


世界は何を失おうと進むのだ。


そんな事を考えている内に出立の時刻となった。

宿の人が用意してくれた食料を積み、見慣れた優しい瞳を覗き込む。

薄暗い中でも分かる黒い円らな瞳がじっと私を見つめ返していた。


「一緒に待とうね」


語り掛け、手袋越しでも分かる優しく温かなその肌を撫でるのが癖になった頃。



ピピさんが報せを持って私達と合流した。



―――ストラス家の家人、使用人含め、邸に居たとされる人は全滅であると。




私は、「そうですか」とだけ、小さく答えるのが精一杯だった。





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