閑話:ストラス邸 執務室
「――急使?何処からだ」
冬の夜、暖められた家族用のお茶会室から飛び出し、待ち受けた使用人から羽織を受け取りながら執務室へと向うギランは、後を追うベルトランを振り返りもせずに尋ねた。
折角兄妹水入らずの団欒をしていたというのに。
そう零したい内心を押し込む代わりにギランが白い息を漏らし上着を羽織るのとほぼ同時に、ベルトランが耳打ちしてきた名前に思わず目を丸くして振り返った。
「本物か?」
「我々が見間違うとでも?」
普段の執務補佐であればニヒルな笑みの一つでも表情に乗せたのであろうが、今の彼はそんな余裕すらどこかに殴り捨ててどこか緊迫した面持ちでそんな事を零す。
だからこそ、ギランは努めて密やかに詰まった息を整えつつ少し強張った顔を緩めたのだ。
「愚問だった」
そうして俄かに立ち止まった遅れを取り戻さんとほぼ駆け足で執務室へ急ぐ。
流石普段から鍛えているギランだ、本気で駆けるよりは遅くとも迷いなく進むその足はかなり速い。
ベルトランも家令も全力で追うのだがどうしても置いて行かれてしまう。
「ギラン様!流石にお一人はお止めください!」
「分かった分かった」
返事だけはすぐに返す。
本当、そういうところは小さい頃から変わらないとベルトランが腹を立てるのも束の間で、扉の前で待っていた侍従が緊張した面持ちをして、主が通りやすいタイミングで扉を開く。
「待たせた」
「いえ、流石お早い」
見慣れた執務室のソファーに座らず、執務室で待っていたのは三人の男だ。
全員が旅装のままで簡単に雪を払った程度でしかない。
如何に急いで通されたのかは、まだ絨毯に残る染みで良く分かる。
殊更に冷える夜の静寂を駆けてくるのは、ストラス領に慣れたギランであっても一苦労であり、だからこそその大変さも良く知っている。
すでに暖炉へ火は入れてあるもののそれに当たりたいのを我慢し、かと言って震えもせずこの寒い執務室で待っていたのかと思うと頭が下がる。
「此方で聞こう、冷えるだろうアロ」
「お心遣いありがとうございます」
執務机で聞くのが領主代理としては正しい姿だろうが今は些事である。
三人が温まれるように暖炉を顎で示し、当たらせる。
ギランはマントルピースに腕を掛け久し振りの顔を良く眺め、口元を緩めた。
それを嬉しそうに受け止め顔を緩ませるのはまだあどけなさが残るアロイーズだ。
何処に居ても視線を奪う、美しいシャルトル―ズ色の髪は何処か馴染みある茶色の鬘を被り誤魔化しているようだが、整った面立ちまでは隠せていない。
「そういう髪色も似合うな。ちょっと見ない間に男前になって」
「ラン兄様達と似ている色味だから選びました」
「おう、良い心掛けだ」
夜会で顔を見たとは言え、言葉を交わすのは数年振りである。
思わず懐かしさに駆られ気楽な会話をついつい挟んでしまったが、アロイーズはヴュルテンベルク辺境伯家からの急使としてストラス邸を訪れたのだ。
意識を整えたギランの空気を察したのかアロイーズも面持ちを切り替えると、その懐から書状を取り出し届けるべき相手へと差し向ける。
無言でギランは受け取ると、封を確認しすぐにその場で開き目を通した。
その姿を控えたベルトランと家令が口を閉ざし、緊迫した面持ちで見つめている。
一体どんな言葉が領主代理から零れるのかを構えるような空気が部屋を満たす。
「…これはいつの情報だ、出処は」
「三日前です。王都からストラス領へ向かうレオから接触がありました」
「アロが来た訳は」
「リーシャと約束をしたからです」
矢継ぎ早に書状を見つめたまま零したギランはやっと顔を上げると、対面するアロイーズの明るい赤の瞳をじっと見据える。
暖炉の火を浴びて、その赤は燃え盛るように強い何かを湛えていた。
本当に、少し見ない間に成長をしてしまった。
大人顔負けの凛とした表情は、長閑な日々をストラスで送っていた子ども時代を遠くに感じさせるものだった。
「どんな」
「それはラン兄様と謂えど僕からはお話できません」
「そこでリーシャを盾にするのがアロだよなぁ」
「ラン兄様レム兄様にだけですよ」
そんな事を零すのはアロイーズも幼少期を追想しているからだろうか。
この邸の中でしか許されない関係性を、どこか甘えた視線を受けてギランは堪らず口元を緩め視線を外した。
故に、受け取った書状をベルトランへ回す動きは思い出を偲ぶように緩慢だ。
背後で報せを読んだ男達が息を呑む空気がそんな緩みを霧散させる。
ギランはゆっくりと目を閉じ、意識して呼吸をした。
その頭の中では届けられた情報から受けた衝撃は既に落ち着き、これからどうするべきかを速やかに、そして忙しなく考え始めていた。
「アロはどう見る」
「血の繋がりはあれど、一枚岩ではないのはどこの家も同じ事かと」
「あの家長が御せぬとも俺には思えぬのだが」
「だからこそ危惧すべきという考えを私は致しました」
「そうか」
(父上を待ちたいところだがここが分水嶺か)
両親は珍しく今夜は領内に滞在している貴族家の夜会に招待され不在だ。
泊りにはならない予定だが、天候によっては帰って来れない事も視野に入れギランもギレムもこの夜を過ごしていた。
ただ、既に急使が訪れた旨を邸の者が父の元へ届けに行っている筈なので、悪天候であろうと父だけでも必ず戻ってくる可能性の方が高い。
それを踏まえギランは決断を下す。
「アロイーズ殿」
「はい」
領主代理として名を呼べば神妙な面持ちのアロイーズが短く返事をする。
片耳に着けていたリーシャからの贈り物を外し、差し出すギランの眼差しを受けてもその硬さを伴った気丈な瞳はなお曇る事はない。
「まずは貴殿がその身を挺して報せを届けてくれた事に、最大級の感謝を」
「我らが受けた貴家への報恩です」
「例えそうであっても、貴殿の存在が何よりも我々には信に足る」
「…は」
掌の上に転がる、カメリヤ色のガラスが嵌った小さな耳飾りが重さを増す。
錯覚ではない。
アロイーズの掌にギランがしっかりと手を重ねたのだ。
「懸命に駆けたその御身に鞭打つ行為だとは分かっているが、どうか休む前にリーシャへアロイーズ殿から告げて欲しい」
小さかった掌が今ではもうギランと遜色のない程の大きさに育った。
だがそれでも、彼の手はどこか縋る様にぐっとギランの掌を握り返す。
ゆらりと、ベゴニア色の瞳が揺れる。
「必ず、ギラン殿からの口からも改めて彼女へお話をするのを、待っております」
「ああ、必ず」
そうとだけ告げるとアロイーズは礼を取り、足早に家令の案内に従いリーシャの控えている部屋へ向かうために執務室を去って行った。
彼の後を護衛達が追い退室した部屋は一気に気温が下がった心地だ。
長い息を吐き出したギランの掌が無意識に額を押さえていた。
「ギラン様」
「言うな、…きっとレムならリーシャと一緒に向かうだろう。
故に今は俺がすべき事を成すだけだ。侍従に護衛長を呼び起こすよう伝えろ」
「はっ」
面を下げたままでは領主代理としての威厳もあったものではない。
心の悲鳴を押し殺し、ギランは厳しい顔つきのままベルトランにそう命じると素早く執務机に向かい、領内と邸の警備配置図を引っ張り出してテーブルに広げた。
(レムとエタンが同行するならばヴュルテンベルク辺境伯領までは問題なかろう。
新婚なのに悪いが、マノンは後続で向かってもらうようにするしかあるまい)
この冬の雪深い時期に移動するとなればもっと綿密に準備をするのが当たり前だ。
しかしそれを待っていられない現状を、きっとリーシャも分かってくれる。
辛い思いは極力排除してやりたいのが兄心だが、今回ばかりは我慢をしてもらわねばならない。
(まず何よりも、リーシャの身の安全を確保しなければ)
配置図を睨むギランの傍らにベルトランが領の食料や武具備蓄を記した資料をどんどん積み上げていく。
それを片手に取り閲覧しながらギランは筆を走らせる。
書き込みが時折止まるのは、仕方が無い事だろう。
(リーシャ)
本来はギランの口からヴュルテンベルク辺境伯領への退避についてを語り、不安になるであろう妹の気持ちを宥めてやるべきなのだ。
何よりも、一緒についていきその身を守りたい。
しかしギランには領主代理として、次期ストラス領主としての責務がある。
相手の出方次第にもなるが今はこの地を離れる判断は出来ない。
狙いがストラス家全体であればまた判断は違ったのかもしれないが、今最も危険なのは、ネウストラ公爵家の暗殺対象とされたリーシャだけだ。
(ユーデス様が忙殺されていたのはこの情報から遠ざける為か?)
ふとそんな事をギランは考え、眉間に皺を作る。
同じことをベルトランも思ったのか思考を読んだかのように彼も口を開き、そんな事を控えめな声で呟いた。
「ユーデス様が王宮から邸へ戻れないようにしていたのはこの為でしょうか?」
「俺もそれを今考えていた」
「公爵閣下の指示では無い、とグウェンダル様は判じたのでは」
「接触が見られないだけでかの御方なら手を回す事も、監視も容易いだろうよ」
商売に情報収集は付き物だとは言え、流石ネウストラ公爵家というか、特に公爵閣下の情報網は少しばかり王都に滞在したギランも知るところである。
末端においても情報統制が厳しく、その糸口を掴む事すら如何に困難であるかも思い知らされた相手。
「王都で嫌と言う程分からされた」
「それは…相手は海千山千ですからね」
「だがそこから情報を抜いて来るのは流石レオというか」
「やはりヴュルテンベルク辺境伯領の人間ですな。
それにギラン様ギレム様が王都を離れたのもありますでしょう」
「だとしても、だろうよ」
レオは表向きはヴュルテンベルク辺境伯家お抱えの画家だが、実際は諜報員だ。
そんな彼が掴んだ情報ならばギランも納得するに足る。
しかし、まだ何か腑に落ちない点があるのも確かなのだ。
「それにしても何故この機に動く?」
「…リーシャお嬢様が十三歳になれば表舞台に上がるから、でしょうか」
「かと言っても活動はほぼ領内だろう、危惧する程でも無い」
緩く頭を振ってみせればベルトランも口を閉ざし、再び考え込む。
「ではこの情報は嘘だと?」
「いや、寧ろリーシャを外に誘い出す為のものでは無いかと」
「それを掴ませる相手が相手ですよ?」
そう、旧来からの禍根を抱くヴュルテンベルク辺境伯家の者に掴ませるのが可笑しな話であるとギランは思うのだ。
どの家よりもネウストラ公爵家に警戒をする家に何故。
「リーシャの暗殺をヴュルテンベルク辺境伯家に擦り付けるつもり、だとか」
「…我がストラス家とヴュルテンベルク辺境伯家の誼は、既に知られているという前提での話であればやはりその線が濃厚であろうな」
「それなのに託すのですか」
「かと言って公爵家の賊に我がストラス家が敵うとは思えん」
結局疑いに疑いを重ね、リーシャを邸で匿ったとしても賊から守り切れるとは思えない。
であれば、留める理由の無いアロイーズを始めヴュルテンベルク辺境伯家の力を借りる方法は、リーシャを託すしかないとギランは判断をしたのだ。
「レオが得た三日前の情報を知り、かつ届けられる位置に辺境伯家が居た。
恐らく王都の社交期に合わせて移動をしていたのだろう。
…寧ろその道程を公爵家に知られているかもしれないと閣下は危惧する筈」
「下がるも進むも、難しいところでしょうね」
情報漏洩を疑うのであれば速やかに領地へ戻り守りを固めたいと考えるだろう。
だがここで急遽予定を変え、王都の社交に出ないのもあからさまだ。
如何にも何か起きましたと公言するような動きになる。
同時にリーシャの暗殺事件が起きたのなら、余計疑いの目が差し向けられるだろう。
「と、考えればこの時期を選んだのも納得は出来るか」
「リーシャお嬢様を狙いと見せかけ、本命はヴュルテンベルク辺境伯家ですか」
「最終目標に至らずとも利があるように見えてしまうのが、な」
融資の担保として結ばれた婚約であったが、思いの外リーシャもユーデス様も相性が良く、恐らく約束の金額を返納した後もその関係は続く。
これは公爵閣下であろうと予想が外れたのかもしれない。
だが万が一、リーシャが暗殺をされればユーデス様の婚約者の席が空く。
そうすれば新たな高位令嬢を据えることが出来る。
王都でギランとギレムが調べている間も曾祖母様が特段動かなかったのが、この計画に由来するものであるとすればその点も納得してしまう。
(人の妹を何だと思っているのだ!)
冷静に分析をしながら、心は憤懣で煮え滾る。
貴族の薄汚さなど知らぬ年端でもあるまいに、それでも怒りに燃えてしまう。
「お待たせいたしました」
性急なノックの後に執務室へ駆け込んで来たのは護衛長とその補佐三人。
侍従には護衛長を、と声を掛けたのだが緊急性を鑑みて他にも声を掛けた様子だ。
流石の判断であるがそれは領主が戻って来てからでも良かったのにな、とギランは少しだけ苦笑を零す。
「夜分に済まないな、他の者もありがとう」
「いえ、…外で控えさせましょうか」
「そうだな」
来てもらって悪いが護衛長以外は廊下で待機を指示する。
戻って来たばかりの侍従には悪いが、副官たちが寒くないように防寒具を取りに行ってもらうしかあるまい。
ベルトランの隣に腰掛けた護衛長と言うと、卓上に広げられた資料へ目を落としては元より険しい顔を更に尖らせていた。
「…敵は?」
「ネウストラ公爵家がリーシャの暗殺を企てているとの報せが急使により届いた」
「っ!何て非道な…!!」
「故に今夜中にリーシャを潜めヴュルテンベルク辺境伯領へ発たせる」
「ぐぅ…我らが、至らぬが故に…!」
己の力量不足を思い知らされるのか、護衛長が堅く拳を握る。
ヴュルテンベルク辺境伯領の兵と打ち合った事があるからこそ、その実力差を良く知り認めるのも彼である。
「力が及ばないと痛感するのは俺も同じだ。
だからこそ今出来る限りをすべきだろう、違うか?」
「はっ」
「せめて領内の安全は確保してやりたいし、後発隊も組むつもりだ。
護衛長、意見を」
そう短く告げて書き記した指示書を護衛長に差し出す。
打ち合わせをしつつ、リーシャやアロイーズが安全に脱出できる道筋を定めていく中でふとベルトランが口を開く。
「辺境伯閣下は公爵家の狙いを分かっていて何故急使を寄越したのでしょう」
「…アロかオーリが言い張ったのだろうなぁ」
何となく、ギランにはそう思えた。
リーシャと密かに約束していた事があるようだし、あの三人は驚くほどに互いを大事に想い信頼をしている様子なのは傍から見ていても分かる。
「それにネウストラ公爵家がヴュルテンベルク辺境伯家に罪を擦り付けるつもりならば、例え因縁の嫡子が単独で動く好機であろうと手を出せまい」
「アロイーズ様に危害を加えれば、それこそ全面戦争ですからね」
「そういう意味でアロは盾になるつもりなのだろう」
ギランやギレムに対しての最強の盾はリーシャだと分かって躊躇いなく突き出すものの、こうした状況判断が出来るのは流石アロイーズというか、賢い。
頼れる存在に成長したものだと僅かに口元を緩めるのも一瞬。
邸に張り巡らされた伝令管から、三回、金物音が執務室へ響き渡る。
それは緊急事態――急襲――を報せる鐘の代わりであった。




