第三章 トビラノ向こう
午前七時四十八分。
扉の向こうでは、まだ誰かが三回ずつ、叩き続けていた
コン。コン。コン。
少しの沈黙。
そして、また三回。
コン。コン。コン。
私はベッドの上で、スマートフォンを握りしめていた。
画面には、白い文字で「siesta」と表示されている。
その下に浮かんだ文章が、頭から離れなかった。
『次は、あなたの番です。』
「……なんで開けてくれないの?」
少女の声がした顔を上げる。
扉の前に、少女が立っていた。
音も立てずにはいってきていた
中学生くらいの年齢に見えた。肩まで伸びた黒髪。汚れた白い服。裸足の足には、細かな埃がこびりついている。
どこかで見たような気がした。けれど、思い出せない。
「あなた……誰?」
少女は答えなかった。
私の顔を見ている。
いや、顔というより、目の奥を確かめているようだった。
そして、少女は私の手に触れる。
私は恐怖で声も出ない。
「立てる?」
「え?」
「歩ける?」
試しに膝を曲げる。動いた。
さっきまで、まともに動かせなかったはずの足。
ベッドの縁に手をつき、床に足を下ろす。
冷たい。
足の裏に床の感触があった。
ゆっくりと立ち上がる。
膝は震えていたが、倒れなかった。
「……歩ける」
地に足をついた瞬間
身体の奥に残っていた重たいものが、すっと抜けていくような感覚があった。
「うん」
少女は小さく頷いた。
「これで、歩けるね」
「あなたが何かしたの?」
「ううん。私は触っただけ」
「……どうして、私を助けるの?」
尋ねると、少女は不思議そうに首を傾げた。
「助ける?」
「だって、歩けるようになったから」
「そうなんだ」
少女は、それ以上何も言わなかった。
まるで、自分が何をしたのか、本当に分かっていないみたいだった。
扉の向こうから、また音がした。
コン。コン。コン。
その音は少女がはいって来たであろう
病室の扉からだった。
「行こう」
私は少女にひかれるまま
扉の前まで来た。
少女が扉に手をかける。
「待って。向こうに何がいるの?」
「分からない」
「分からないのに開けるの?」
「開けないと、帰れないから」
「どこに帰るの?」
少女は答えなかった。
少女は扉を開けた。
向こうには、廊下があった。
ただし、病院の廊下ではなかった。
古びた学校の廊下だった。
暗い茶色の床板。剥がれかけた壁紙。天井には蛍光灯が並んでいるが、点灯しているものはほとんどない。
私は敷居をまたぐ前に、背後を振り返った。
白いベッド。点滴のスタンド。
カーテン。
そこには、さっきまでいた部屋があった。
私は一歩、廊下に出た。
もう一度振り返る。
病室は消えていた。
扉もない。
そこにあったのは、古びた壁紙だけだった。
壁紙の一部が剥がれ、その下から灰色のコンクリートが覗いている。
私は壁に触れた。ざらりとした感触。
指先に、白い粉がついた。
本物の壁だった。
「嘘……」
「行こう」
少女は何事もなかったように歩き始めた。
「待ってよ。今、見たでしょ?」
「見たよ」
「部屋が消えたんだよ?」
「うん」
「どうしてそんなに平気なの?」
少女は少しだけ考えた。
「だって、ここはそういう場所だから」
「そういう場所って何?」
「……まだ、知らなくていいよ」
少女は私の手を取った。
その手は、冷たかった。
私は引かれるまま、廊下を歩き始めた。
床が軋む。
ギシ。ギシ。ギシ。
私たちの足音だけが、長い廊下に響いていた。
病室では、機械の電子音が絶えず聞こえていた。
ここには何もない。
時計も、空調の音も、人の気配も。
静かすぎる。
耳を澄ますと、自分の呼吸が聞こえた。
その呼吸に、もう一つの呼吸が重なった。
すう。はあ。すう。はあ。
私は足を止めた。少女も止まった。
呼吸音も、止まった。
「……今、何か聞こえなかった?」
「聞こえたよ」
「何の音?」
「分からない」
少女は前を向いたまま答えた。
私は廊下の両側を見た。
閉じた教室。閉じた扉。
それ以外、何もいない。
それなのに、誰かに見られているような感覚だけが消えなかった。
「ねえ。ここ、学校なの?」
「うん」
「どこの学校?」
「知らない」
「知らないって……」
「名前がないから」
少女は、当たり前のことを説明するように言った。
歩いて行くと
白い壁に掲示板がある。
私はそこに目を向けた。
掲示板の前で立ち止まった。
古いポスター。色褪せた紙。
画鋲の周りには、赤茶色の染みが広がっている。
その一枚に、目が止まった。
『九月二十六日 文化祭準備について』
紙の端は破れ、文字の一部が黒く汚れていた。
その下には手書きの予定表が貼られている。
日付の欄には、いくつもの数字が並んでいた。
二〇二三年。
「……これ、二〇二三年って書いてある」
少女が振り返った。
「うん」
「何で?」
「さあ」
興味がないのか、それとも知っていて答えないのか。
少女の表情からは分からなかった。
私はポスターに顔を近づけた。
紙の表面には、何かを削ったような跡があった。
文字の上を、鋭いもので何度も引っ掻いた跡。
日付の下にも、細い傷がいくつも走っている。
「触らないほうがいいよ」
少女が言った。
「どうして?」
「それ、古いから」
理由になっていなかった。私は指を離した。
ポスターの下には、別の紙が重ねて貼られていた。
端が剥がれかけている。
私はそっとめくった。古い新聞記事が現れた。
見出しは削り取られていた。
本文も、ところどころ黒く塗りつぶされている。
それでも、一つの文章だけは読めた。
『……市内の建物で複数名が行方不明となり……』
その下に、小さな文字で日付が記されていた。
二〇二三年九月二十六日。
心臓が嫌な音を立てた。
あの掲示板のスレッドと同じ日付だった。
私はスマートフォンを取り出した。
画面は暗かったが、電源ボタンを押すとすぐに点灯した。
通知はない。
掲示板のアプリを開く。
【実話】今、壁の中から俺の声がする
あのスレッドが表示された。
画面をスクロールする。
『壁が開いた。いや。壁じゃない。こっちが開いた。助けて。』
指が止まった。新聞記事。
ポスター。掲示板。
それぞれ別の場所に残されたものなのに、同じ日付がついている。
私は周囲を見回した。
「この学校で、何があったの?何か知ってるの?」
私は少女に質問をし、内容が終わる前に
少女は誤魔化すように言葉を発した。
「それ、見ないほうがいいよ」
「どうして?」
「見てると、思い出すから」
「何を?」
少女は、私の顔を見た。
「あなたが忘れたこと」
背筋が冷たくなった。
「……私のこと、知ってるの?」
「全部は知らないよ」
「じゃあ、何を知ってるの?」
少女は答えなかった。
代わりに、私の手を取った。
「行こう」
私はもう一度、ポスターを見た。
『九月二十六日 文化祭準備について』
ただの日付。
ただの文化祭準備の連絡。
なのに、目を離すと、その文字だけが頭の中に残った。
カッ。
乾いた音がした。私は顔を上げ後ろを振り向いた。
後ろの教室の扉からだった。
カッ。カッ。カッ。
何かが扉をひっかく。
一定の間隔で、三回ずつ。
私は少女を見た。
少女の顔から、表情が消えていた。
「……誰かいるの?」
返事はなかった。
音だけが続いている。
カッ。カッ。カッ。
それは徐々に早くなっていった。
「行こう」
少女が私の手を引いた。
「でも、今の音……」
「行こう」
今度は、はっきりとした声だった。
私は逆らわず、歩き始めた。
そのとき。
ガリッ。バタンッ。
音は止まり扉が開いた音がした。
私は思わず振り返った。
瞬きをすると私はなぜだか、さっきの教室の扉の前に居た。
暗い室内が見える。誰もいない。
それなのに、白いチョークが動いていた。
見えない手に握られているように、黒板の表面を滑っている。
文字が書かれていく。
次に瞬きをすると教室内に居た。
私は教室の一番後ろの中心に立っている。
さっき黒板に書いていた文字が分かった。
『先生は、まだ来ない』
私は息を止めた。先生。
その言葉を見た瞬間、喉の奥が締めつけられた。
何かを思い出しかけた。
白い紙。机の上に並んだ書類。誰かの声。
けれど、何も浮かばなかった。
「見ないで」
少女が教室の中に入り私の腕をつかんだ。
だが、少女は何かの力により教室の外。廊下へと投げ出された。
そして私の腕に無数の手だけの奇妙なモノの指が、痛いほど食い込んでいた。
私の後ろは壁なはず。
なのに、教室の椅子が私を目掛けて後ろから勢いよく迫り私を座らせた。
ギィィィ。ガタンッ。
私は椅子の背もたれに腰を強打した。
「イタッ!」
思わず声が出た。
一つ。ギィ。
二つ。ギィ。
三つ。ギィ。
一つ。ギィ。
二つ。ギィ。
三つ。ギィ。
徐々に前の黒板へ近づく。
「嫌だ!やめて!」
私は声を荒げ恐怖で目をつむる。
椅子の脚が床を擦る音が耳に突き刺さる。
音は止まった。
私は恐る恐る目を開けた。
椅子は教卓の前。
黒板に、もう一行が書き加えられた。
『先生、どこにいるの?』
そこで記憶が途切れた。




