第二章 はじまる悪夢
医師の説明によると、私は三日前、市内の雑居ビルで倒れているところを発見されたらしい。
発見されたのは、九月二十三日。
身分証はなく、財布すらも持っていなかった。
頭部に傷があり、発見時には意識を失っていたという。
救急搬送されたあと、いくつかの検査を受けたらしいが、命に別状はない。頭部の傷についても、今のところ大きな異常は見つかっていない。
ただ、記憶については別だった。
「何か、思い出せませんか」
ベッドの横に立つ医師が、私の顔をのぞき込んだ。
私は首を横に振った。
自分の名前。家族の顔。
住んでいた場所。
仕事をしていたのかどうかさえ、何も分からない。
自分が何者なのか、まるで見当もつかなかった。
「最後に覚えていることは?」
「……ありません」
「倒れる前のことも?」
「はい」
医師は手元の書類に目を落とした。
「警察にも連絡しています。身元が分かれば、ご家族や知人の方から、何か手がかりが得られるかもしれません」
「警察は、私のことを調べているんですか」
「ええ。発見された場所についても、確認を進めているそうです」
「その場所は、どこなんですか」
すぐには答えなかった。
ほんのわずかな間があり医師は答えた。
「市内の雑居ビルです。詳しいことは、警察から説明があると思います」
「何かあったんですか」
「私からお話しできることはありません」
医師はそう言って、書類を閉じた。
眉間にしわを寄せたまま、何も言わずに病室を出ていった。
扉が閉まる。私はひとりになった。
病室には、時計の秒針の音すらなかった。
ベッドの横では、医療機器が規則的に電子音を鳴らしている。
窓には白いカーテンがかかっていた。
その向こうにあるはずの、外の景色は見えない。
カーテンを開ければ何か分かるかもしれない。
そう思ったが、身体が動かなかった。
理由は分からない。
ただ、窓の向こうを見てはいけないような気がした。
私は視線を戻し、スマートフォンを手に取った。
画面には、さっきまで読んでいた掲示板が表示されている。
三年前のスレッド。
【実話】今、壁の中から俺の声がする
あのスレッドには、まだ分からないことが多すぎた。
なぜ、離れた場所にいる人間たちが同じ声を聞いたのか。
なぜ、三回叩くと三回返ってくるのか。
そして、最後の書き込み。
壁が開いた。
いや。壁じゃない。
こっちが開いた。助けて。
何度読み返しても、意味が分からなかった。
私はスレッドの最下部を確認した。
このスレッドは削除されました。
その表示の下には、保存者の名前が残っている。マサト。
彼だけが、当時の記録を保存していた。
そして、プロフィールにはこう書かれていた。
まだ、聞こえる。
私はその文字を見つめた。
三年前の事件が本当に起きたのなら、マサトは何を知っているのだろう。
どうして、今もあの掲示板を利用しているのだろう。
そして、どうして私のスマートフォンに、このアプリが入っているのだろう。
考えても答えは出なかった。
私は返信欄を開き、マサトに送ったメッセージを確認した。
「あなたは誰ですか?」
「どうして私がここにいると分かるんですか?」
既読はついていなかった。返信もない。
私はスマートフォンを閉じた。
その直後だった。
コン、コン。
扉が二回ノックされた。
「どうぞ」
返事をすると、扉が開いた。
入ってきたのは、三十代くらいの男だった。
白衣は着ていない。
スーツ姿で、片手に薄い封筒を持っていた。
「失礼します。警察です」
男は私のベッドの横まで歩いてきた。
「黒瀬といいます。少し、お話を伺ってもよろしいですか」
差し出された名刺を受け取る。
そこには、男の名前が印刷されていた。
黒瀬。
その下には、所属と肩書きが記載されている。
しかし、不自然だった。警察の文字が、黒い線で塗りつぶされていた。
印刷ミスではない。文字の上を、何度もペンでなぞったような跡があった。
「……これ」
思わず声が漏れた。
黒瀬は私の手元を見た。
「ああ。それは気にしないでください」
「どうして、ここだけ塗りつぶされているんですか」
黒瀬は、表情を変えずに答えた。
「古い名刺なんです」
古い名刺…それなら、なぜ今も持ち歩いているのだろう。
そもそも、古い名刺なら、普通は新しいものを渡すのではないだろうか。
私は名刺を返した。
黒瀬はそれを受け取ると、何事もなかったかのように胸ポケットへしまった。
「では、いくつか確認させてください」
黒瀬は封筒から書類を取り出した。
「お名前は、まだ思い出せませんか」
「はい」
「ご家族や、ご友人については?」
「何も」
「スマートフォンの中に、身元につながる情報はありませんでしたか」
私は一瞬、返事に迷った。
掲示板のこと。マサトという人物からメッセージが届いたこと。
奇妙なスレッドを見つけたこと。
そして、病室の壁から声が聞こえたこと。
どれも、誰かに話すべきことなのかもしれない。
けれど、目の前の男を信用していいのか、私には分からなかった。
「……特にありません」
私は、そう答えた。
黒瀬は、私の顔をしばらく見つめていた。
まるで、私が何かを隠していることを知っているかのようだった。
「そうですか」
彼は書類をしまった。
「実は、あなたが発見された場所について、少し進展がありました」
「私が倒れていた場所?」
「ええ」
黒瀬は封筒から、一枚の写真を取り出した。
そして、ベッド横の小さなテーブルに置いた。
古い雑居ビルの廊下だった。
壁紙はところどころ剥がれ、天井には黒ずんだ染みが広がっている。
まるで何年も放置され、使われていないような見た目をしている。
それから、写真の床には、何かを引きずったような跡が残っていた。
写真の奥には、地下へ続く階段が写っていた。
「この建物の地下から、複数の血痕が見つかりました」
私は写真を見つめた。
「血痕……?」
「はい。現在、詳しく調べています」
「何人分なんですか」
「まだ断定はできません。ただ、少なくとも一人分ではない可能性があります」
複数の血痕。地下へ続く階段。
床に残った、何かを引きずったような跡。
「私も、そこで怪我をしたんですか」
「その可能性はあります。しかし、あなたが負傷した経緯については、まだ分かっていません」
黒瀬は写真の一部分を指さした。
地下へ続く階段。その最初の一段に、黒っぽい染みが広がっていた。
私は、その場所から目を離せなくなった。
知らない場所のはずだった。初めて見る写真のはずだった。
それなのに、階段の奥を見た瞬間、変な想像を膨らませてしまった。
もしかして私この場所で死んだ…?
いや、私は生きている。でも。
これが、夢だとしたら?
頭がパニック状態になり息が浅くなる。
「……っ」
頭の奥が、ずきりと痛んだ。
私の頭に映像が映し出される。
ほんの一瞬だった。
暗い階段。濡れた床。
すぐ近くで、誰かが息をしている。
そして、暗闇の向こうから聞こえる声。
『先生』
私は反射的に目を閉じた。
次の瞬間黒瀬の声が聞こえた。
「大丈夫ですか」
私はゆっくりと目を開けた。
写真は、さっきと同じ場所に置かれている。
何も変わっていない。
「何か思い出しましたか」
黒瀬が尋ねた。
私は答えられなかった。
思い出した、と言えるほど確かなものではない。
ただ、あの声だけが耳に残っていた。
先生。
誰が呼んだのか。
誰に向かって呼んだのか。
私には分からなかった。
「……何も」
私はそう答えた。
黒瀬は、それ以上追及しなかった。
代わりに、写真を裏返した。
「もう一つ、確認していただきたいことがあります」
写真の裏側には、住所らしき文字が印刷されていた。
しかし、肝心の住所は文字化けしている。
読める部分は、ほとんどなかった。
その下に、建物名らしき文字が記されていた。
誰かが手書きしたような、滲んだ黒文字。
siesta
私は、その文字を見つめた。見覚えのある綴りだった。
スマートフォンに入っていた、あのアプリと同じ名前。
「この建物について、何かご存じですか」
黒瀬が尋ねた。
「……分かりません」
「本当に?」
「はい。初めて見ました」
口にしてから、自分の声が少し震えていることに気づいた。
それは建物名が奇妙なアプリアイコンと同じ綴りだったからだ。
黒瀬は私を見ていた。
目をそらすこともなく、何かを確かめるように。
やがて、彼は写真を封筒に戻した。
「分かりました。何か思い出したら、すぐに連絡してください」
「待ってください」
私は、帰ろうとする黒瀬を呼び止めた。
「その建物では、何があったんですか」
黒瀬は扉の前で立ち止まった。
「まだ調査中です」
「血痕が見つかったんですよね」
「ええ」
「ほかには?」
黒瀬は、少しだけ首を傾けた。
「ほかに、とは?」
私は言葉に詰まった。
自分でも、何を聞きたいのか分からなかった。
誰がいたのか。何が起きたのか。
どうして私が、そこで倒れていたのか。
聞きたいことはいくらでもあるはずなのに、どれも口に出せなかった。
「……いえ」
黒瀬は短くうなずいた。
「では、失礼します」
扉が閉まった。
黒瀨が出て行ったあと疑問が残るばかりだ。
黒瀬は警察の人間なのだろうか。
あの名刺は何だったのか。
なぜ、私が発見された場所について、あれほど曖昧な説明しかしなかったのか。
考えれば考えるほど、分からないことが増えていく。
私はスマートフォンを手に取った。
掲示板を開く。
マサトのプロフィールには、相変わらず同じ文章が表示されていた。
まだ、聞こえる。
その下に、新しい通知はない。
私はメッセージ欄を開いた。
「あなたは誰ですか?」
「どうして私がここにいると分かるんですか?」
送信した文章を見つめるだが、既読はついていない。
そのとき、画面の上部に小さな表示が現れた。
新着スレッド。
私は指を止めた。掲示板のトップ画面に戻る。
見覚えのないスレッドが、一番上に表示されていた。
投稿日時は、今日。
タイトルは、【実況】病院にいる女について
私は、眉をひそめた。病院にいる女?
まさか、私のことだろうか。
スレッドを開く。
1:名無しの観測者
まだ気づいていない。
私は画面を見つめた。
何に?誰が?
続けて、次の書き込みが表示された。
2:名無しくん
あの女、何者なんだ?
3:01-p
本人も分かってないんだろ。
4:名無しの観測者
刑事が帰った。
黒瀬が帰ったことを、この掲示板の名無しの観測者が知っている。
偶然だろうか。私は、画面を更新した。
5:名無しの観測者
写真を見た。
6:名無しくん
何の写真?
7:名無しの観測者
地下の階段。
私はスマートフォンを握りしめた。
黒瀬が持ってきた写真の事を話している。
あの写真は、私と黒瀬しか見ていないはずだった。
なのに、どうして。
画面が更新された。
8:名無しの観測者
まだ思い出していない。
9:01-p
思い出したらどうなる?
しばらく、書き込みは止まった。
私は画面から目を離せなかった。
そして、新しい投稿が現れた。
10:名無しの観測者
また、あそこに戻る。
その文章を読んだ瞬間、スマートフォンが震えた。
マサトからのメッセージだった。
私は慌てて開いた。
マサト:黒瀬という男に、何を見せられた?
私は返信欄を開いた。
「黒瀬のことを知っているんですか?」
そう打ち込もうとした。
しかし、送信する直前に、もう一件メッセージが届いた。
マサト:そいつを信用するな。
私は画面を見つめた。
先ほど抱いた疑問がふつふつと浮かぶ。
あの名刺は何だったのか。
なぜ、私が発見された場所について、あれほど曖昧な説明しかしなかったのか。
黒瀬は、本当に警察なのだろうか。
そもそも、あの建物は何なのか。
siestaとはどういう意味なのか。
私は返信欄を閉じた。
そして、スマートフォンを閉じようとした、そのときだった。
掲示板のスレッドが更新された。
11:名無しの観測者
今、スマホを閉じようとしている。
12:名無しくん
見えてるのか?
13:名無しの観測者
見えてる。
14:01-p
何が?
しばらくして、最後の書き込みが表示された。
15:名無しの観測者
こっちを見てる。
私は顔を上げた。
白いカーテン。ベッド。点滴。白い壁。
病室の状態は何も変わっていない。
けれど、さっきまで気にならなかったことが、急に気になり始めた。
私がどこの病院にいるのかということ。
思い返してみれば誰も教えてくれていない。
私は、ゆっくりとスマートフォンを持ち上げた。
掲示板には、新しい書き込みが表示されていた。
16:名無しの観測者
まだ気づかない。
17:名無しくん
何に?
18:名無しの観測者
ここは病院じゃない。
私は、息をするのを忘れた。
画面の文字を何度も読み返した。
ここは病院じゃない。そんなはずはない。
私は三日前に倒れて、救急搬送された。
医師が診察をした。点滴を受けている。
目の前には、病院にしか見えない設備がある。
それなのにどうして、誰も私の名前を知らないのだろう。
そのとき。扉の向こうから、三回の音が聞こえた。
コン。コン。コン。
黒瀬が出ていった、あの扉だった。
私はスマートフォンを握りしめた。
誰かが、扉の向こうにいる。
そう思った瞬間、かすかな声が聞こえた。
『……開けて』
私は息を止めた。
その声は、扉の向こうから聞こえていた。
『開けて』
今度は、もう一度聞こえた。はっきりと。
その瞬間、スマートフォンの画面が暗くなった。
電源が落ちたわけではない。
画面の中央に、白い文字が浮かび上がっていた。
siesta
その下に、小さな文字が一行。
次は、あなたの番です。
午前七時四十八分。
私は自分が本当に病院にいるのかどうか疑い始めた。
そして、扉の向こうでは、誰かがまだ三回ずつ、叩き続けていた。




