第一章 メサマス
二〇二六年九月二十六日。
午前六時四十二分。
目を覚ましたとき、私は自分の名前を思い出せなかった。
白い天井。白いカーテン。消毒液の匂い。
規則的に電子音を鳴らす機械。
病院だと理解するまでに、ずいぶん時間がかかった。
身体を起こそうとしたが、頭の奥に鈍い痛みが走った。
右手の甲には点滴が刺さっていた。
私は、自分の手を見つめた。
細い指。短く切られた爪。
手首には、薄い紫色の痣があった。
誰かに強く握られたような痕だった。
「……ここ、どこ?」
声がかすれた。返事はなかった。
ベッドの横には、透明な袋が置かれていた。
赤いスマートフォン。鍵が二本。数百円の小銭。
そして、血のついた白い布。
何の血なのかは分からなかった。
ただ、それを見た瞬間、胃の中身が逆流しそうになった。
私は布から目を逸らした。ナースコールを押す。
しばらくして、看護師が病室に入ってきた。
「目が覚めましたか?」
「ここは……どこですか?」
「病院ですよ。気分はいかがですか?」
「私、どうしてここにいるんですか?」
看護師は私の顔を見た。
「先生を呼びますね」
「待ってください。私の名前は?」
彼女は答えなかった。
カルテを確認し、私の顔をもう一度見つめた。
そして、何かを言いかけたように唇を動かしたあと、病室を出ていった。
私はひとりになった。名前さえ分からない。
自分が何者なのかも分からない。
それなのに、不思議と一つだけ確信していることがあった。
私は、ここにいてはいけない。
なぜそう思うのかは分からなかった。
ただ、身体の奥底から、逃げろという声が聞こえている気がした。
私は透明な袋からスマートフォンを取り出した。
画面にはひびが入っていたが、電源は入った。
ロック画面の日付は、二〇二六年九月二十六日。
午前六時五十一分。
通知はなかった。連絡先を開く。
登録されている名前は一つもない。
写真フォルダにも、何もなかった。
まるで、最初から誰も使っていなかったスマートフォンのようだった。
しかし、アプリの一覧を見ていると、見覚えのないアイコンが目に留まった。
黒い背景に、白い文字。
名前は短かった。
「siesta」
私は、その文字を見つめた。知らない。
こんなアプリを入れた覚えはない。
そもそも、自分のスマートフォンなのかどうかさえ分からない。
それでも、指は勝手にアイコンを押していた。
画面が切り替わる。
古びた掲示板のような画面が表示された。
白い背景。小さな黒い文字。
見覚えのあるような、ないような、奇妙なデザインだった。
画面の上部には、こう表示されていた。
過去ログ検索
私は検索欄に、適当な言葉を入力しようとした。
そのとき、ふと、ベッドの横に置かれた白い布が目に入った。
血のついた布。
なぜか、あの布のことが頭から離れなかった。
私は検索欄に入力した。
「血」
検索結果は0件だった。
「病院」0件。
「記憶喪失」0件。
何を入力しても、結果は表示されなかった。
私はため息をつき、検索欄を消した。
そのときだった。
画面の下部に、小さな文字が表示された。
おすすめの過去ログ
その下に、一件だけスレッドがあった。
タイトルを見た瞬間、指が止まった。
【実話】今、壁の中から俺の声がする
私は息を止めた。
なぜか、そのタイトルを知っている気がした。
けれど、思い出せない。
いつ見たのか。誰から聞いたのか。
何も分からなかった。
スレッドを開く。
投稿日時は、二〇二三年九月二十六日。三年前だった。
私は最初の書き込みを読んだ。
1:名無しの観測者
誰か起きてる?
壁の中から声がする。
さっきからずっと、俺の声で何か言ってる。
最初は気のせいかと思ったけど、スマホで録音したら入ってた。
これ、どうすればいい?
私はスクロールした。
ネズミだろ。
壁の中に人間住んでるんじゃね。
動画あげろよ。
どれも、普通の掲示板の書き込みに見えた。
しかし、音声ファイルの説明に差しかかったところで、指が止まった。
十一秒間の音声。
最初の七秒は無音。
八秒目に擦れる音。
九秒目に、男の声。
『……開けて』
私はスマートフォンを握り直した。
十秒目。『開けて』
最後の一秒。
『お前、そこにいるだろ』
読み終えた瞬間、背中が冷たくなった。
私は病室を見回した。誰もいない。
窓は閉まっている。
カーテンの向こうにも、人の気配はなかった。
気のせいだ。そう思い、再び画面を見た。
スレッドは続いていた。
北海道。東京。大阪。名古屋。
離れた場所に住む人間たちが、同じ現象を報告している。
壁の中から、自分の声がする。
三回叩くと、三回叩き返してくる。
そして、必ず最後に言う。
『お前、そこにいるだろ』
私は画面をスクロールした。
やがて、ある書き込みに目が留まった。
9:マサト
いや待て。
その次。
10:マサト
俺も聞こえる。
マサトは最初、投稿者を冷やかしていた。
それなのに、途中から態度が変わっている。
そして、午前二時三十七分。
最初の投稿者が、最後の書き込みを残していた。
21:名無しの観測者
壁が開いた。いや。
壁じゃない。こっちが開いた。
助けて。
私は、そこで指を止めた。
こっちが開いた。
どういう意味だろう。
壁が開いたのではなく、こっちが開いた。
まるで、壁の向こうに何かがあったのではなく、こちら側にいた人間が、何かを開いてしまったような。
その先を考えたくなかった。
私はスレッドの最後までスクロールした。
事件の記録はそこで途切れていた。
ページの下には、小さな文字が表示されている。
このスレッドは削除されました。
その下に、もう一行。
保存者:マサト
私は画面を凝視した。
マサトが、このスレッドを保存していた。
唯一、記録を残した人物。
私は検索欄に「マサト」と入力した。
検索結果は、1件。
ユーザー:マサト
プロフィール画像は設定されていない。
自己紹介文もない。
登録日は二〇十六年四月十七日。
最終ログインは――
二〇二六年九月二十六日。
今日だった。
私は、思わず時計を見た。
午前七時十二分。
マサトは、今もこの掲示板を利用している。
三年前の事件を知る人物が唯一の生き残り。
私はプロフィールを開いた。
そこには、短い文章が一つだけ書かれていた。
まだ、聞こえる。
その瞬間、病室の壁から、音がした。
コン。
私は動きを止めた。
コン。
二度目。
コン。
三度目。
誰かが、壁の向こうから三回叩いていた。
私はゆっくりと顔を上げた。
白い壁。何もない。
何もいるはずがない。そう思った。
しかし、壁の向こうから、声が聞こえた。
『……開けて』
男の声だった。低く、かすれている。
聞き覚えがあるような気がした。
私はスマートフォンを握りしめた。
画面には、マサトのプロフィールが表示されている。
そして、その下に新しい通知が現れた。
マサト:その壁から離れろ。
私は息を呑んだ。なぜ分かったのか。
私はまだ、何も書き込んでいない。
病院にいることも。壁から声がしたことも。
誰にも伝えていない。
震える指で、返信欄を開いた。
何と書けばいいのか分からなかった。
それでも、私は入力した。
「あなたは誰ですか?」
「どうして私がここにいると分かるんですか?」送信。
その後マサトから返信はなかった。
私は壁を見た。
声は、もう聞こえなかった。
静まり返った病室。
電子音だけが、一定の間隔で鳴っている。
私は、もう一度画面を見た。
そして、スマートフォンの画面に、新しい書き込みが表示された。
1:名無しの観測者
目が覚めたらしい。
私は画面を見つめた。
投稿日時は、二〇二六年九月二十六日。午前七時十三分。
タイトルは、【実況】病院の個室にいる女が目を覚ました
最初の書き込みには、こう続いていた。
2:名無しくん
誰?
3:01-p
記憶がない女。
4:名無しの観測者
今、スマホを見てる。
私は、スマートフォンを取り落とした。
床に落ちた画面には、さらに新しい書き込みが表示されていた。
5:名無しの観測者
この文章を読んでる。
私は息ができなくなった。誰が書いているのか。
どうして私の行動が分かるのか。
そして、なぜ三年前に消えたはずのハンドルネームが、今ここにあるのか。
震える手でスマートフォンを拾おうとした。
画面が切り替わった。
新しい書き込み。
6:マサト
後ろを向くな。
私は動けなかった。
背後には、何もないはずだった。
病室のドア。ベッド。
それだけのはずだった。
なのに、耳元で、何かが息を吸った。
湿った、深い呼吸。
人間のものとは思えないほど、長い吸気音。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
振り返ってはいけない。そう思った。
けれど、身体が勝手に動いた。
身体が、少しずつ後ろを向いていく。
止めようとしても、止まらない。
振り返ると人間の形をしていた。
頭があり、肩があり、腕が垂れている。
顔は見えない。
ただ、影の口元だけが、ゆっくりと動いた。
『開けて』
私は声を出せなかった。
影が、もう一度言った。
『開けて』
そして、私の口も動いた。
自分の意思ではなかった。
唇が開く。
私の声が、勝手に言葉を吐いた。
『開けて』
壁の向こうで、誰かが笑った。
その笑い声は、私のものと同じだった。
スマートフォンが震えた。
床に落ちた画面には、最後の書き込みが表示されていた。
7:名無しの観測者
やっと見つけた。
午前七時十四分。
私は、ようやく理解した。スレッドの三年前の事件は、終わっていないと。




