序章 午前二時十三分
二〇二三年九月二十六日。
午前二時十三分。
匿名掲示板のオカルト板に、一つのスレッドが立てられた。
【実話】今、壁の中から俺の声がする
1:名無しの観測者
誰か起きてる?
壁の中から声がする。
さっきからずっと、俺の声で何か言ってる。
最初は気のせいかと思ったけど、スマホで録音したら入ってた。
これ、どうすればいい?
2:マサト
ネズミだろ。
3:01-p
壁の中に人間住んでるんじゃね。
4:名無しくん
動画あげろよ。
午前二時十八分。
投稿者は十一秒間の音声ファイルをアップロードした。
ファイル名は voice_0926.wav。
最初の七秒間は無音だった。
八秒目。何かが擦れる音。
九秒目。男の声。
『……開けて』
十秒目。『開けて』
最後の一秒。
『お前、そこにいるだろ』
音声を聞いた人間の反応は、最初こそ冷やかしばかりだった。
しかし、午前二時二十一分。
6:名無しの観測者
今、壁叩いたら向こうも叩き返してきた。
7:01-p
何回?
8:名無しの観測者
三回。俺が三回叩いたら、向こうも三回。
9:マサト
いや待て。
10:マサト
俺も聞こえる。
その書き込みを最後に、スレッドの空気は変わった。
北海道。東京。大阪。名古屋。
住んでいる場所も、年齢も、生活環境も違う人間たちが、同じ現象を報告し始めた。
壁の中から、自分の声がする。
三回叩くと、三回叩き返してくる。
そして、必ず最後にこう言う。
『お前、そこにいるだろ』
最初の投稿者は、何度も書き込んだ。
壁から離れた。部屋を出ようとした。
玄関のドアを開けようとした。それでも、声は聞こえ続けた。
壁からではない。天井からでもない。
部屋のどこにいても、声は自分のすぐ近くから聞こえるのだという。
午前二時三十一分。
17:名無しの観測者
もう無理。壁壊す。
18:マサト
やめろ。
19:名無しの観測者
なんで?
20:マサト
開けるな。
その書き込みに対し、誰もすぐには反応しなかった。
マサトは、それまで壁の中の声をネズミだと笑っていた。
それなのに、なぜ急に止めようとしたのか。誰も尋ねなかった。
午前二時三十七分。
スレッドに、新しい書き込みがあった。
21:名無しの観測者
壁が開いた。いや。
壁じゃない。
こっちが開いた。助けて。
それが、最初の投稿者による最後の書き込みだった。
午前二時四十一分。
スレッドは突然、閲覧できなくなった。
削除されたのか、運営によって非公開にされたのか。
理由は分からなかった。
その後、スレッドに参加していた複数の投稿者が、掲示板から姿を消した。
彼らのSNSアカウントも、次々と確認できなくなった。
プロフィールが削除されていた。
投稿履歴も消えていた。
本人に連絡が取れなくなったという書き込みもあったが、それらの記録も長くは残らなかった。
マサト。01-p。名無しくん。そして、最初の投稿者。
彼らが実在する人物だったのか。
何が起きたのか。
その後、誰も確かなことを語らなかった。
二〇二三年九月二十六日の出来事は、やがてインターネットの片隅から忘れ去られていった。
検索しても、当時のスレッドは見つからない。
関連する投稿も、ほとんど残っていない。
それでも、事件を記録していた人間がいた。
削除される直前のページを保存した者。
音声ファイルをダウンロードしていた者。
そして、ある人物のスマートフォンに残された、たった一つのファイル。
siesta.wav
再生時間は十一秒。
元の音声と同じ長さだった。
しかし、保存されていたファイルの最後には、当時のスレッドにはなかった声が入っていた。
『見つけた』




