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潮待ちのレール ― 凪の宿 ―  作者: たむ


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第九章 冬木の朝

 迎えの部屋の鍵束を見つけた翌朝、春口はよく晴れていた。


 港の水面は静かで、春の手前の光だけが細かく散っている。風もほとんどない。駅の花壇の土は湿り、港へ下る坂道の石垣には、冬にはなかったやわらかい影がついていた。こういう朝の春口は、何かが解決する気配に似ている。実際には何も解決しないのに、景色だけが少し先へ進んだように見えるのだ。

 それがこの町の良さでもあり、時に残酷さでもある。

 人は、景色が前へ進むぶんだけ、自分の中に止まっていた夜を意識してしまう。


 湊が階下へ下りると、汐里は帳場の前で鍵束を前にしていた。

 昨夜、迎えの部屋から持ち出したまま、まだ元へ戻していない。

 澄江のメモは小さな封筒へ入れ直され、その上に古い鉄の鍵が三本並んでいる。

 帳場の光の中で見ると、それはただの金属というより、誰かが長く言いそびれてきた言葉の塊のようだった。


「眠れましたか」

 湊が訊くと、汐里は少し考えてから答えた。

「途中で何度か起きました」

「迎えの部屋のことを」

「ええ」

「怖かったですか」

「昨夜ほどではないです」

 汐里は鍵束を見つめたまま言う。

「でも、母がこの鍵をどういう気持ちでしまったのかを考えると、少しだけ苦しい」

「……」

「ただ閉じたんじゃない。開けたい気持ちごと預かったんだって、今は分かるから」


 その理解の深まりが、かえって痛い。

 死者を知り直すとき、人はいつも少しそうなるのだろう。

 分からなかったころにはただの沈黙だったものが、分かり始めると努力や逡巡の跡に見えてくる。

 澄江はこの部屋を放置したのではない。

 迎えという言葉ごと部屋を引き受けきれなくなり、それでも無かったことにはできず、鍵だけをしまった。

 それはきっと、一度は引き継ごうとした宿の役割を、途中で自分の手に余ると知った人の仕方だった。


「冬木さん」

 汐里が言った。

「はい」

「もう一度、会ったほうがいい気がするんです」

「帰る前に?」

「ええ」

「昨日もう見送ったでしょう」

「そうなんですけど」

 彼女はようやく顔を上げた。

「迎えの部屋のことを知ってからだと、冬木さんが離れに泊まった夜の意味も少し違って見える気がして」

「……」

「母が、離れは開けて、迎えの部屋は閉じた」

「その違いを」

「もう一度、本人の声で聞いてみたいんです」


 湊はすぐに頷いた。

 冬木は昨日帰った。

 だが、春口の宿帳に再訪と書き足された以上、この男もまた“一度で終わらない側の人”なのだろう。

 連絡先は宿帳の新しい控えに残っている。

 汐里が電話をかけると、冬木は少し驚いたようだったが、午後ならもう一度だけ戻れると言った。

 春口の外れの喫茶店で落ち合うことになる。

 宿そのものではなく、駅と港のちょうど中ほどにある古い店だ。

 それもまた、春口らしい場所の選び方に思えた。


 昼過ぎ、三人が向かい合ったのは、坂の途中にある小さな喫茶店だった。

 海は直接見えないが、窓の先に少しだけ港の屋根がのぞく。

 客はほかにいない。

 白いカップに入った珈琲の匂いだけが、古い木の店内へ静かに広がっていた。


「すみません」

 汐里が言う。

「昨日お帰りになったのに」

「いえ」

 冬木は首を振った。

「私も、少し考えていたところでした」

「迎えの部屋のことです」

 その言葉に、冬木の目がわずかに動いた。

「ご存じでしたか」

「昨夜、見つけました」

「……そうですか」


 冬木はカップを持ち上げたまま、しばらく黙っていた。

 やがて言う。


「若いころ、この宿には二つ、似た役割の部屋があった」

「離れと、迎えの部屋」

 湊が言う。

「ええ」

「どう違ったんですか」

「離れは、もうその日のうちには動けない人の部屋だった」

「帰れない夜のための」

「そうです。便が終わった、迎えが来ない、港に出ても仕方がない。そういう人を一晩留める部屋」

「では迎えの部屋は」

 汐里が訊いた。

「まだ“向こうへ行くかもしれない人”の部屋でした」

「向こうへ」

「港か駅か、あるいは坂道の途中か」

 冬木は言う。

「迎えに行く人、迎えを待つ人、夜のうちにまだ動こうとしている人が、一度荷物を置いて息を整えるための小さい部屋だった」


 汐里はゆっくり瞬きをした。

 迎えの部屋。

 名前そのままの役割だ。

 離れよりもっと、接続の途中にある部屋。

 まだ諦めきっていない夜のための場所。

 それは澄江にとって、離れ以上に重くなっても不思議はない。


「じゃあ」

 湊が訊く。

「冬木さんは、迎えの部屋ではなく離れに通された」

「ええ」

「その違いは」

「澄江さんが見たんでしょうね」

 冬木は静かに答えた。

「私がその夜、もう迎えに行く人ではなく、迎えに行けなかった人になっていることを」


 その一言で、喫茶店の空気が少し変わった。

 なるほど、と思った。

 迎えの部屋は、まだ行くかもしれない人のための部屋だ。

 だが冬木はその夜、すでに“行けなかった側”へ渡ってしまっていた。

 だから澄江は離れへ通した。

 帰れない夜の部屋へ。

 それは、客の状態を見極めて部屋を選ぶという以上に、澄江自身の人生観が反映された判断だったのだろう。


「母は」

 汐里が低く言う。

「迎えの部屋を、そのあと閉じた」

「そうでしょうね」

 冬木は頷いた。

「私が最後だったかもしれない」

「どうしてですか」

「私の一件だけが理由ではないでしょう。でも」

「でも?」

「迎えという言葉に、あまりにたくさんの失敗が集まっていた」


 その言葉を、冬木は説明しすぎない声で言った。

 それで十分だった。

 千紘。

 父。

 島の名。

 届かなかった手紙。

 そして、この宿で迎えに行けなかった人々。

 澄江の中で“迎え”という語がいつからただの宿の機能ではなく、自分自身の深いところへ刺さる言葉になっていたのか。

 その正確な瞬間は分からない。

 だが、閉じられたという事実だけで十分に重い。


「お母さんは」

 湊が言った。

「迎えの部屋を残したかったんでしょうか」

 冬木は少し考えてから答えた。

「残したかったと思う」

「どうして」

「春口には必要な部屋だからです」

「……」

「まだ行く人を留める場所は、たぶん離れより難しい。そこで少し気持ちを整えて、港へ出るか、駅へ向かうか、夜のうちに決める人もいたはずです」

「はい」

「でも、必要だからといって、自分が引き受けられるとは限らない」

「それで鍵だけ預かった」

「そうでしょう」


 必要だけれど、自分には引き受けられない。

 その感覚は痛いほど現実的だった。

 人は時に、自分がよく分かりすぎているものほど、仕事としては扱えなくなる。

 澄江は帰れない夜を知っていたから、離れを守ることはできた。

 だが迎えの失敗については、宿の部屋として一般化することができなかったのかもしれない。

 それは、自分の傷に近すぎたのだろう。


「冬木さん」

 汐里がまっすぐ訊いた。

「あなたは、今でもその人を迎えに行きたいと思いますか」

 冬木は、すぐには答えなかった。

 窓の外の、わずかに見える港の屋根を見つめ、それから言う。


「迎えに行きたい、というより」

「ええ」

「迎えに行かなかった自分のままで終わりたくないと思っていたんだと思います」

「……」

「相手に会うことより、自分がそこで止まったままなのをどうにかしたかった」

「それで再訪した」

「はい」


 その答えは、とても正直だった。

 人は時に、誰かのためより、自分の中で止まった夜のために戻る。

 それを利己的だとは思わなかった。

 むしろ、その正直さが春口らしい。

 誰かを救うためではなく、自分の止まった一夜を少しでも前へ進めるために戻る。

 この町は、そういう再訪を引き受けてきたのだろう。


「昨日、港に座って」

 湊が言う。

「何か変わりましたか」

「大きくは」

 冬木は答えた。

「でも、港に座る自分が“まだ迎えに行く人”ではないと初めて分かった」

「では」

「もう、迎えに行けなかった人として生きていくしかない」

「……」

「それを、ようやく引き受けられた気がします」


 喫茶店の窓から、午後の光が少しだけ傾き始めていた。

 春口の昼は短い。

 すぐに夕方の気配が混じり始める。

 その速さが、この町ではかえって良かった。

 人は長く話しすぎる前に、次の便や次の時間を意識せざるを得ないからだ。


 店を出たあと、三人は坂道を少しだけ港のほうへ歩いた。

 春の手前の風は冷たい。

 だが、冬木の背中はもう、前のように少し曲がったままではなかった。

 完全に軽くなったわけではない。

 それでも、止まった一夜をようやく自分の人生の中へ戻せた人の歩き方をしていた。


 別れ際、冬木は汐里に向かって言った。


「迎えの部屋を」

「はい」

「無理に開ける必要はないと思います」

「……」

「でも、鍵を捨てないでくれて、少し救われた」

「母が」

「ええ。そして、あなたも」


 それは、不思議な言葉だった。

 部屋を使わなくてもいい。

 だが鍵は捨てないでほしい。

 つまり、迎えという言葉を完全に無かったことにはしないでほしい、ということなのだろう。

 春口の宿が守るべきものは、部屋そのものではなく、そういう言葉の置き場所なのかもしれなかった。


 冬木が去ったあと、汐里はしばらくその場から動かなかった。

 やがて、小さく言う。


「母が閉じたものを、私は無理に開けなくてもいいんですね」

「そう思います」

 湊が答える。

「でも」

「でも?」

「鍵だけは預かっていていい」

「ええ」

「それもまた、宿の役目なのかもしれません」


 その理解は静かだったが、大きかった。

 第四作は、宿のすべてを開く話ではない。

 むしろ、開ける部屋と閉じる部屋、そのどちらも守ることが宿の仕事だと知る話なのだろう。

 離れは、一夜を留めるために開く。

 迎えの部屋は、まだその時ではないから閉じる。

 だが鍵は捨てない。

 その判断の積み重ねが、澄江の宿であり、これからの汐里の宿になっていく。


 宿へ戻る途中、港には夕方の船が入ってきた。

 ロープが鳴り、人が降り、また誰かが上がる。

 迎えに来る人も、来ない人もいる。

 けれど、今日の湊には、その光景が以前より少しだけ静かに見えた。

 迎えに行けなかった人がいる。

 迎えを待ち損ねた部屋がある。

 その事実を知ったうえでなお、港は毎日同じように便を受け入れている。

 春口は、そういう町だった。

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