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潮待ちのレール ― 凪の宿 ―  作者: たむ


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第八章 鍵のない部屋

 春口の宿には、鍵を失ったまま使われなくなった部屋が一つある。


 離れではない。

 離れは閉じられてはいたが、鍵は残っていた。

 澄江が掃除をし、必要なときには開けられるように保たれていた。

 それに対して、その部屋はもっと曖昧な場所にあった。

 母屋の二階のいちばん奥、坂の間よりさらに奥まった小部屋。

 客室としては狭く、物置にしては丁寧に扱われている。

 汐里が幼いころから「そこは開かない」と聞かされてきた部屋だった。


 第四作のここまで、湊もその存在は知っていた。

 廊下の突き当たりに、襖だけが他の部屋より少し古い一室。

 だが、宿の中には古い部屋がいくつもある。

 離れや宿帳や冬木の再訪と比べれば、そちらに先に気を取られていた。

 それが今、凪の日の客たちを見送り、宿そのものの意味が少しずつ言葉になり始めたあとで、改めてその部屋の沈黙が気になりだしていた。


 朝、帳場の掃除をしながら汐里が言った。


「相沢さん」

「はい」

「一つ、見ていない場所があるんです」

「鍵のない部屋」

 汐里は少し驚いたようにこちらを見た。

「気づいてましたか」

「前から何となく」

「母が、生前、あの部屋のことだけはほとんど触れなかったんです」

「離れとは違って」

「ええ。離れは“使わない部屋”として分かるように閉じていた。でも、あっちは」

「鍵そのものがない」

「そうなんです」


 その言い方には、幼いころから抱えていた違和感がそのまま残っていた。

 使わないなら、使わないでいい。

 閉めるなら、鍵がある。

 だが鍵が失われたままにされているというのは、意図して入らないようにしてきたのか、あるいは意図せず入れなくなったのか、その境目が曖昧だ。

 春口に残る物語はいつも、そういう曖昧さの中に沈んでいる。


「開けてみますか」

 湊が言うと、汐里は少し考えてから頷いた。

「今なら」

「はい」

「今なら、見てもいい気がします」


 二階の廊下のいちばん奥は、昼でも少し暗い。

 坂の間や海の見える部屋を通りすぎ、そのさらに先へ行くと、宿の音が少し遠くなる。

 客の気配も、台所の湯気の匂いも薄れる。

 襖の前に立つと、引き手だけが他より少し新しいことに気づいた。

 だが鍵穴の部分には、昔の金具の跡だけが残っている。

 いまは中からも外からも錠をかける仕組み自体がなくなっていた。


「どうやって」

 湊が訊く。

「普段は」

「引き戸の前に箪笥を少し寄せていました」

 汐里が答える。

「それで“入らない場所”にしていたんです」

「じゃあ、物理的に閉めていたというより」

「気持ちの問題ですね」

「……」

「開けようと思えば開けられた。でも、誰も開けなかった」


 その言い方に、澄江らしさがあった。

 強く封印するのではなく、開けられる状態のまま、しかし開けない。

 それは離れの扱いとも少し違う。

 離れは“必要な夜のために残した部屋”だった。

 こちらは、“触れないままにした部屋”なのだろう。


 襖を引くと、思っていたより軽く開いた。

 長く動かしていないはずなのに、レールの滑りは悪くない。

 中は六畳ほどの小さな部屋だった。

 窓は一つだけで、坂道のほうを向いている。

 港は見えない。

 畳は古いが傷んではいない。

 床の間もなく、押し入れだけがある。

 客室としては簡素すぎる。

 家族の部屋としても、どこか仮の感じがある。

 宿の中にありながら、宿にも家にもなりきれていない小部屋だった。


「ここ」

 湊が言う。

「何の部屋だったんでしょう」

「分からないんです」

 汐里が低く答える。

「小さいころ、母に訊いたことがあります」

「何と」

「“使わない部屋です”って」

「それだけ」

「ええ。でも、離れのことを言うときとは違いました」

「どう違うんですか」

「離れは“今は使わない”だった。ここは、“使わない”しか言わなかった」


 その差は小さく見えて、大きい。

 今は使わない、には時間の流れがある。

 また使うかもしれない。

 しかし、使わない、にはもっと断ち切った響きがある。

 なのに完全には壊さず、掃除はされ、襖も傷んでいない。

 やはり澄江はこの部屋もまた“終わらせきらないままに残した”のだろう。


 押し入れを開けると、最初は空に見えた。

 だが上段の奥に、古い布包みが一つある。

 離れの箱ほど整ってはいない。

 むしろ急いで奥へしまい込まれ、そのまま触れられなかったような薄い埃のつき方をしていた。


「これ」

 汐里が手を伸ばす。

「重いですか」

「いえ、軽い」


 布をほどく。

 中から出てきたのは、古い鍵束だった。

 鉄の鍵が三本、麻紐でまとめられている。

 そのうち一つには、小さな札がついていた。

 字は薄れているが、読めないわけではない。


 ――迎え


 二人とも、しばらく声が出なかった。

 迎え。

 その札のついた鍵。

 春口でその言葉がただの出迎えを意味しないことを、もう二人ともよく知っている。

 迎えに行く。

 迎えが来ない。

 迎え違い。

 迎え未果。

 この町では、人の一生のほころびが、その一語に集まりやすい。


「部屋の名前でしょうか」

 湊がようやく言う。

「かもしれません」

 汐里が鍵を見つめたまま答える。

「昔の客室の呼び方の一つだったのかも」

「港、坂、奥、離れ、そして迎え」

「……」

「でも、どういう部屋なんでしょう」


 その答えはすぐには出なかった。

 ただ一つ分かるのは、この部屋が偶然閉じられたのではなく、「迎え」という札を持つ何らかの役割を失ってそのままになった部屋だということだった。


 さらに布包みの底に、薄い封筒が入っていた。

 中には紙が二枚。

 一枚は宿の簡単なメモ用紙。

 もう一枚は、客の宿泊控えらしい。


 宿泊控えには、名前の欄が空白で、日付だけがある。

 「午後遅着」「港待」「一夜のみ」。

 それだけだ。

 宿帳に正式に記録されていない客のための控えだったのかもしれない。

 もう一枚のメモには、澄江の字で短くこうあった。


 ――迎えの部屋は、使わないことにする。

 ――待たせるためではなく、朝まで守るために残したかったが、いまはまだ無理だ。

 ――鍵だけ預かる。


 汐里は、その文を読み終えたあと、長く息を吐いた。

 湊も胸の内側が少し冷えるのを感じていた。

 迎えの部屋。

 待たせるためではなく、朝まで守るために残したかった。

 しかし、いまはまだ無理だ。

 だから鍵だけ預かる。

 この部屋は、かつて離れと似た役割を持つはずだったのかもしれない。

 あるいは、もっと直接的に、迎えを待つ人のための小部屋として用意されていたのかもしれない。

 だが澄江は途中でそれを断念し、鍵だけをしまい、部屋を閉じた。


「何があったんでしょう」

 汐里が訊くというより呟いた。

「ここを使えなくなるようなことが」

「……お母さんが」

 湊は慎重に言った。

「この部屋の役割を引き受けきれなくなったのかもしれません」

「迎えの部屋、という名前ごと」

「ええ」

「どうして」

「たとえば」

 湊は言葉を選ぶ。

「“迎え”という言葉が、澄江さんにとって離れ以上に重くなりすぎたとか」

「千紘や」

「お父さんや」

「……」

「届かなかった手紙のあとで」


 それは十分あり得ることだった。

 離れは帰れない夜のための部屋として残せた。

 だが“迎えの部屋”は、澄江自身にとってあまりに直接的な言葉だったのかもしれない。

 迎えに行くはずだった人。

 迎えが来なかった子。

 迎えの行き違いで失われた接続。

 そのすべてが、この小さな部屋の名に集まってしまう。

 ならば、閉じるしかなかったのだろう。


 汐里は鍵束を両手で持ち上げた。

 小さいのに、妙に重そうに見える。


「母、これをずっとここに」

「ええ」

「鍵だけ預かる、って」

「部屋は使わないけど、無かったことにもしていない」

「……」

「まるで」

「まるで?」

「迎えそのものを捨てきれなかったみたいですね」

 その言葉に、汐里は目を伏せて頷いた。

 迎えの部屋は閉じた。

 だが鍵だけは預かった。

 澄江は、迎えにまつわる言葉を完全に失くすことはできなかったのだろう。


 部屋をもう少し見ていると、窓際にだけ畳の色がわずかに違うのに気づいた。

 何か家具が置かれていた跡かもしれない。

 椅子か、長椅子か、小さな荷物台か。

 誰かがそこで、坂道のほうを見ていたのだろうか。

 港ではなく、駅へ向かう道を。

 迎えに行く人間を待つのではなく、迎えから戻ってくる人間を待つ部屋だった可能性すらある。

 そう考えると、この部屋は離れよりさらに複雑な役割を担わされていたのかもしれない。


「相沢さん」

 汐里が小さく言った。

「はい」

「この部屋、私はたぶん、ずっと怖かったんです」

「どうして」

「母が何も言わなかったから」

「……」

「言わないということは、触れたくないんだろうと思っていた。でも、今は少し違って見えます」

「どう見えますか」

「触れたいけど、そのままでは触れられなかった部屋」

「ええ」

「だから、鍵だけ預かった」

「そうですね」


 その理解は、汐里の中で大きいのだろう。

 母はただ隠したのではない。

 扱いきれないまま、しかし無かったことにもせず、鍵だけを残した。

 それはこのシリーズの人物たちに共通する態度でもある。

 出せなかった手紙。

 出さなかった絵葉書。

 旧姓の木札。

 白い布切れ。

 どれも完全には終えられず、それでも捨てずに残された。


 部屋を出る前に、汐里は一度だけ振り返った。

 迎えの部屋。

 その名を今は口に出せる。

 それだけでも、澄江の時代から少しだけ時間が進んだのかもしれない。


 帳場へ戻ったあと、鍵束はしばらく卓上に置かれた。

 古い鉄の色が、昼の光の中で鈍く光る。

 湊はその小さな札を見ながら思った。

 第四作はここで、宿が人を泊める場所である以上に、「言葉を使い損ねたまま残しておく場所」であることを見せ始めている。

 迎えという一語を部屋の名前にした宿。

 それを閉じ、鍵だけを預かった澄江。

 春口のやさしさは、開きっぱなしの受容ではなく、ときに閉じることでしか守れないものも含んでいるのだろう。


 夕方、港には穏やかな光が落ちていた。

 海は凪いでいる。

 だが宿の中では、また一つ、長く閉じられていた波が見えたばかりだった。

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