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潮待ちのレール ― 凪の宿 ―  作者: たむ


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第十章 凪の宿

 春口に雨が降ったのは、冬木と喫茶店で会ってから二日後のことだった。


 春の雨は、冬の霧雨より少しだけ輪郭がある。屋根を打つ音があり、港の水面に細かな輪を作り、坂道の石を濃く濡らす。けれど土砂降りにはならない。春口の雨はたいてい、町を閉ざすためではなく、表面についた余分なものを一度しっとり洗い流すために来るように見えた。

 湊は縁側から港を見ていた。

 提灯もない、祭りの予定もない、ただの春先の港。

 それでも、ここへ来るたびに、港は少しずつ別の顔を見せる。

 第一作では父の背中の気配。

 第二作では会えなかった午後の明るさ。

 第三作では島影の向こうの旧姓。

 そして第四作の今は、港の音が近い離れと、閉じられた迎えの部屋の意味が、この雨の中で静かに沈んでいるように思えた。


 宿の中では、客の少ない午後らしいゆっくりした時間が流れていた。

 汐里は帳場で宿帳を閉じ、鍵束をいったん小箱へ戻したところだった。

 迎えの部屋の鍵。

 それはもう、恐ろしい物というより、扱いの難しいものへ変わっている。

 捨てられない。

 だが、すぐに使いもしない。

 その中途半端さごと預かる。

 それが宿の役目だと、二人ともここ数日で少しずつ理解していた。


「相沢さん」

 汐里が帳場から声をかけた。

「はい」

「少し、外へ出ませんか」

「雨ですよ」

「だからです」

「どういう意味ですか」

「母が、雨の日にだけ離れの雨戸を半分開けていたことがあるんです」

「港の音のために?」

「たぶん」

「じゃあ、今日みたいな日がちょうどいい」

「ええ」


 二人で離れへ行く。

 雨の中の裏手は、いつもより海が近く感じられた。

 潮の匂いは雨に混じって鈍くなっているのに、音だけが少し大きい。

 軒を打つ水の音、港でロープが擦れる音、遠くのエンジン、濡れた地面を歩く足音。

 離れの戸を開けると、畳は乾いており、部屋の中は思いのほか明るかった。

 窓辺で汐里が雨戸を半分だけ開ける。

 すると、音の入り方が変わる。

 外の景色は全部見えない。

 けれど、港がそこにあると分かるだけの音と光が入ってくる。

 湊はその加減に、ほとんど感心した。

 全部を見せない。

 だが閉ざしきりもしない。

 澄江のやり方は、いつもそうだったのかもしれない。


「このくらい」

 汐里が言う。

「ええ」

「母、よくこうしてたんです」

「何のために」

「分からなかったんです、子どものころは」

「でも今は」

「眠れない人に、港を見せすぎないためだったのかもしれません」

「音だけ残す」

「はい。行きたくなりすぎない程度に、でも、ひとりで閉じ込めすぎない程度に」


 その感覚は、宿というものの本質に近いように思えた。

 旅人に外を全部忘れさせるのではない。

 まだ外に用事のある人に、完全な室内の安堵だけを与えるのでもない。

 そのあいだの加減。

 少しだけ世界との接続を残したまま、夜を越させる。

 凪の宿とは、きっとそういうものだった。


「相沢さん」

 汐里が雨戸の前に立ったまま言う。

「はい」

「私、決めたことがあります」

「何を」

「離れは、このまま残します」

「ええ」

「でも、迎えの部屋は」

「はい」

「すぐには使いません」

「それでいいと思います」

「ただ」

「ただ?」

「鍵は帳場の奥に置いておきます」

「……」

「母がしたみたいに。捨てずに、でも無理にも開けずに」

「ええ」

「それが、今の私にできるいちばん正直なやり方な気がします」


 その言葉を聞いて、湊はようやく第四作の着地点が見えた気がした。

 宿を続けることは、全部を引き受けることではない。

 自分に開けられる部屋を開け、まだ開けられない部屋は鍵だけ預かる。

 その誠実さこそが、澄江から汐里へ渡っているものなのだろう。

 母と同じにはならない。

 だが、母が宿に残した態度は引き継ぐ。

 それは十分に“継ぐ”ということだった。


 その日の夕方、一人の女が宿へ来た。

 年は四十代半ばほど。旅行鞄は小さく、服装はきちんとしているが、観光客の明るさはない。

 帳場で名を書き、少しためらったあとで言う。


「一晩だけ、お願いします」

「はい」

 汐里が応じる。

「どちらから」

「本土のほうからです」

「島へ行かれるんですか」

「……明日、たぶん」

「たぶん」

「ええ。父の墓参りに」

「そうですか」


 それだけの会話なのに、その人が“帰れるのに今夜はまだ帰らない人”だと分かった。

 法事帰りの夫婦とはまた違う。

 帰る先はある。

 けれどその一歩手前で、一晩を要している。

 春口の宿に泊まる理由として、あまりにふさわしいものだった。


「離れもあります」

 汐里が自然に言った。

 女は少し顔を上げる。

「離れ?」

「港の音が近い部屋です」

「……」

「静かな奥の部屋もあります」

 しばらくの沈黙のあと、女は小さく言った。

「今日は、港の音が近いほうで」


 汐里は何も足さず、離れへ案内した。

 そのあと戻ってきたときの顔は、穏やかだった。

 不安も迷いもないわけではない。

 だが、自分がこの宿で何をしているのかをようやく自分の言葉で知っている人の顔だった。


「離れでよかったんですね」

 湊が訊くと、汐里は頷いた。

「はい」

「どうして分かったんですか」

「“明日、たぶん”の言い方です」

「……」

「まだ行く側の気持ちはある。でも、今夜のうちに全部決めきらなくていい人の声でした」

「だから離れ」

「ええ。迎えの部屋じゃなくて」


 その区別ができていることが、大きかった。

 汐里はもう、母の残した部屋の意味をただ知っているだけではない。

 今の客に対して、それを使い分け始めている。

 宿の主として、春口の時間を受け止める側に立っているのだ。


 夜、雨は上がり、港には薄い霧だけが残った。

 離れの灯りが一つ、やわらかく見える。

 女がそこでどんな夜を過ごしているのか、湊には分からない。

 明日ほんとうに墓参りへ行くのかも、行かないのかも分からない。

 だが、それでよかった。

 宿は答えを求めない。

 ただ、その人が決める前の夜を荒らさずに預かる。

 それだけで、朝は少し違うものになることがある。


 夕食のあと、汐里は帳場の灯りを少しだけ遅くまで残した。

 澄江のノートにあった通りに。

 迎えが来ない夜の人には、灯りを少し遅くまで残す。

 今夜の客は、迎えを待っているわけではない。

 けれど、過去の自分や、島の墓や、何かの終わりと向き合う夜もまた、同じ種類の暗さを持っているのだろう。


「母は」

 汐里が湯呑みを持ちながら言う。

「ずっとこういうことをしていたんですね」

「ええ」

「誰にも大きく知られないまま」

「そうですね」

「でも、それでよかったのかもしれません」

「どうして」

「大きな意味を持たせたら、宿じゃなくなってしまうから」

「……」

「宿は、やっぱり宿のままでいたほうがいい」

「一晩のための場所として」

「はい」

「それで十分なんでしょうね」


 その一言が、第四作の題を決定的にした気がした。

 凪の宿。

 波を止める宿ではない。

 人の人生を変える宿でもない。

 ただ、波が少し静まる一夜を渡す宿。

 それ以上でも以下でもない。

 だからこそ長く続くのだろう。

 澄江が守り、汐里がこれから守っていくものは、きっとそういう控えめな強さなのだ。


 翌朝、離れの女は静かな顔で朝食を食べた。

 多くは話さなかったが、出発の前に帳場で一度だけ言う。


「昨夜、よく眠れました」

「それはよかったです」

 汐里が答える。

「今日、行けそうです」

「ええ」

「たぶん、それで十分ですね」

「はい」


 そのやり取りを見ていて、湊は胸の中で静かに理解した。

 これがこの宿の仕事なのだ。

 “行くべきです”とも、“無理しなくていい”とも言わない。

 ただ、一夜を預かり、朝にその人が自分でそう言えるようにする。

 それだけのこと。

 だが、その“それだけ”が、人生には時々どうしようもなく必要なのだろう。


 女が出ていったあと、帳場の奥には変わらず母の箱があり、小箱の中には迎えの部屋の鍵があり、離れにはまだ昨夜のぬくもりの名残が少しだけ残っていた。

 春口の宿〈三崎〉は、劇的に変わったわけではない。

 看板もそのまま。

 部屋も大半は変わらない。

 それでも、汐里の中で、そして湊の中で、この宿の意味はもう以前とは違う場所へ届いていた。


 第四作の中心が、ようやく静かに定まったのだと、湊は思った。

 宿とは、人生の航路を示す場所ではない。

 ただ、便のあいだの一夜に、凪を渡す場所なのだ。

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