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潮待ちのレール ― 凪の宿 ―  作者: たむ


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第三章 閉じた離れ

 冬木が「帰れない夜に泊まる部屋」と澄江に言われたと口にしたあと、帳場の空気はしばらく静まり返った。


 外では、夕方の船が港へ入る音がしている。

 ロープを取る短い掛け声、エンジンの低い振動、岸壁を歩く足音。

 春口ではいつだって、誰かがどこかへ着き、誰かがどこかへ出ていく。

 だが、宿の帳場にいると、その往来のすべてが必ずしも「帰宅」や「出発」のまっすぐな言葉では括れないことがよく分かる。

 冬木のように、無事ではあったのに会えなかった相手。

 春乃のように、来たかった人と会えなかった午後。

 父のように、少し待たせたつもりが一生の遅れになった夏。

 そういう時間の人たちが、結局はこの町へ引かれてしまうのだろう。


 冬木はそれ以上、その夜のことを多く語らなかった。

 ただ、夕食の時間を聞き、静かに二階へ戻っていった。

 廊下を歩く背中に、長いあいだ同じ一夜を抱えてきた人特有の、少しだけ前屈みな気配があった。


「離れ」

 汐里がぽつりと言った。

「母は、本当にそういうふうに呼んでいたんでしょうか」

「たぶん」

 湊は答えた。

「冬木さんが作り話をする理由はない」

「そうですね」

「それに、あの部屋の空気も、ただ閉めた客室とは違いました」

「ええ」

 汐里は帳場の奥を見ながら頷いた。

「母は、使わないのに手入れをしていた」

「帰れない夜のために」

「……」

「あるいは、そういう夜を自分が忘れないために」


 その言葉に、汐里は少しだけ目を伏せた。

 澄江が離れを残した理由は、一つではないだろう。

 商売として必要だった時期もあったはずだ。

 だがそれだけではない。

 島の名を捨てきれず、春口の名だけにもなりきれなかった澄江にとって、「途中で止まったままの一夜」を引き受ける部屋は、他人事ではなかったのだと思う。


 夕食のあと、二人はもう一度離れへ行った。

 昼よりも暗いぶん、部屋の輪郭は少しだけ曖昧になる。

 灯りをつけると、畳の目や文机の木目がやわらかく浮かび上がった。

 窓を閉めていても、港の音は少し入る。

 母屋の部屋より近い。

 その近さが、この部屋の用途を何より雄弁に語っている気がした。

 眠るためだけなら、もっと奥の静かな部屋がいい。

 ここは、眠りきれない人の部屋だ。

 夜のうちにも港の気配を捨てられない人のための場所だ。


「文机、もう少しちゃんと見てもいいですか」

 湊が言うと、汐里は頷いた。


 昼間は何もないと思った引き出しの底に、よく見ると薄い紙が一枚貼りつくように挟まっていた。

 古く、ほとんど木の色に同化している。

 慎重に端をつまみ、破らないように引き出す。

 メモ帳の切れ端ほどの大きさで、そこに澄江の字らしい細い文字が残っていた。


 ――夜のうちに帰れなくても、朝は来る。

 ――それだけで人は少しだけ次の便を待てる。


 汐里が、その小さな紙を見つめたまましばらく動かなかった。

 やがて、かすれそうな声で言う。


「母ですね」

「ええ」

「この部屋で書いたんでしょうか」

「たぶん」

「誰かのために?」

「誰かのためでもあり、自分のためでもあったのかもしれません」


 その二行は、いかにも澄江らしかった。

 救済を大きく語らない。

 未来を明るく断言もしない。

 ただ、夜のうちに帰れなくても、朝は来る。その朝があることで、人は次の便を待てる。

 それだけのこと。

 だが、帰れない一夜にとっては、それだけが最も大事なのだろう。


「相沢さん」

 汐里が紙を見たまま言った。

「はい」

「母は、宿を続けることで、自分の帰れなかった夜を少しずつ手当てしていたのかもしれませんね」

「ええ」

「自分のためだけじゃなく、誰かのためにも」

「そうだと思います」

「……」

「お母さんは、たぶん、自分の痛みを直接言葉にする代わりに、部屋や食事や灯りに変えていたんでしょう」


 その見方は、第四作の中心そのものだった。

 澄江は沈黙の人だ。

 だが沈黙していたからといって、何もしなかったわけではない。

 島の名を抱え、千紘を置いてきた感覚を消せず、届かなかった手紙を確かめに島へ渡った人間は、その後で宿を守った。

 帰れない夜のための部屋を掃除し、灯りを残し、翌朝の朝食を出し、次の便まで人を留めた。

 それは、十分に能動的な生き方だったのだろう。


 離れの押し入れを開けると、布団はない代わりに、古い毛布が二枚きれいに畳まれていた。

 さらに奥に、小さな湯たんぽと、湯呑みが二つ。

 客室の備品というには少ない。

 むしろ「とりあえず今夜を越えるため」の最小限に見える。


「本当に」

 湊が言った。

「一晩だけの部屋ですね」

「ええ」

 汐里が答える。

「長く泊まってもらうためじゃない」

「朝まで留めるための」

「そうです」


 そのとき、母屋のほうから足音がして、汐里ははっとしたように立ち上がった。

 冬木かもしれない。

 二人で離れを出ると、案の定、廊下の途中に冬木が立っていた。

 表情は読みにくい。

 ただ、離れの灯りが点いているのを見て、何かを決めた顔をしている。


「入ってもいいですか」

 彼が言う。

 汐里は少しだけ迷い、それから頷いた。


 三人で離れへ戻る。

 冬木は文机の前に立ち、しばらく何も言わなかった。

 そして小さく息をつく。


「変わっていない」

「母が、手入れしていたんでしょう」

 汐里が言う。

「そうですね」

 冬木は窓のほうを見た。

「昔も、このくらい港の音がした」

「……」

「だから、眠れなかった」


 その言葉に、澄江の二行が重なった。

 夜のうちに帰れなくても、朝は来る。

 だがその朝までが長い。

 港の音は、人を安心させると同時に、まだ自分が途中にいることを突きつけもする。


「迎えに行けなかった夜」

 湊が言った。

「ここで何をしていたんですか」

 冬木は文机の表面を指でなぞる。

 木目に沿って、見えない線を探すように。


「最初は、翌朝になればまだ間に合うと思っていた」

「ええ」

「それから、間に合わないかもしれないと思い始めた」

「……」

「最後には、会えないことより、“迎えに行かなかった自分”のほうが強く残った」


 その言い方には、父の輪郭とも通じるものがあった。

 悪意のある裏切りではない。

 来ようとして来られなかったでもない。

 “行くつもりだったのに、その夜の判断を誤った自分”。

 春口では、そうしたわずかな判断の遅れが、人の一生に残ることがある。


「その人は、今どこにいるか知っていますか」

 汐里が訊いた。

「知らない」

 冬木は答える。

「無事に親類に引き取られた。それだけ聞いて、それ以上を追わなかった」

「どうして」

「追えば、言い訳を探しに行くことになる気がしたから」

「……」

「でも、追わなかったことで、ずっとこの部屋の夜だけが残った」


 その言葉は、第四作の重要な線になりそうだった。

 春口に残るのは、大きな事件ではない。

 追えば追えるかもしれない。

 会おうと思えば会えたかもしれない。

 それでも追わなかったことで、ある一夜だけが時間から切り取られ、宿の部屋に沈殿する。

 澄江は、その沈殿をよく知っていたからこそ、この離れを閉じながら残したのだろう。


「母は」

 汐里が言う。

「あなたに何か言いませんでしたか。あの夜」

 冬木は少し考えてから答えた。


「“朝、出ていくなら起こします”と」

「それだけですか」

「ええ」

「……」

「でも、朝になって起こしに来たとき、“まだ間に合うと思うなら、港へ行ってください”とも言われた」

「母が」

「そうです」

「それは」

 湊が低く言う。

「かなり大きいですね」

「ええ」

 冬木は頷いた。

「責めなかった。慰めもしなかった。ただ、“まだ間に合うと思うなら行け”と言った」

「お母さんらしい」

 汐里がほとんど無意識に呟いた。


 澄江は、自分もまた帰れなかった夜を知っていた。

 だからこそ、他人の帰れない夜に対して、余計な慰めを与えなかったのだろう。

 ただ、次の便があるなら行け。

 朝が来るなら、まだ港へ行け。

 その現実だけを差し出す。

 それが、宿の主としてできる最大限のやさしさだったのかもしれない。


 冬木は文机の前にしばらく立ったあと、「もう十分です」と言って部屋を出た。

 その背中は、帳場に現れたときより少し軽く見えた。

 解決したわけではない。

 会えなかった相手に急に会えるようになるわけでもない。

 だが、長いあいだ一人で背負ってきた一夜を、ようやく元あった部屋へ戻せたのだろう。


 離れに残った二人は、しばらく何も言わなかった。

 港の音が窓越しに細く入ってくる。

 夜の春口は、静かだ。

 しかしその静けさの中で、便を逃した人、迎えに行けなかった人、会えなかった人、帰れなかった人たちの息が、確かにまだ残っている気がした。


「この部屋」

 汐里がやがて言う。

「母にとっては、自分の部屋でもあったんでしょうか」

「そうかもしれません」

 湊が答える。

「客のための部屋であり、自分の帰れない夜のための部屋でも」

「……」

「だから閉じた。でも壊さず、掃除だけはした」

「ええ」

「まるで、終わっていないものを、終わらせずに整えておくみたいに」

「そうですね」


 離れを出るとき、汐里は文机の上の小さな紙片をそっと持ち上げた。

 母の字で書かれた二行。

 夜のうちに帰れなくても、朝は来る。

 それだけで人は少しだけ次の便を待てる。

 その言葉は、この宿の灯りそのもののように思えた。

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