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潮待ちのレール ― 凪の宿 ―  作者: たむ


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第二章 古い宿帳

 冬木が通されたのは、二階の海の見える角の部屋だった。


 港側の離れではない。

 それでも、その部屋もまた春口の宿らしい静けさを持っていた。

 障子越しに午後の光がやわらかく入り、床の間には季節外れになりかけた椿が一輪だけ活けてある。窓を開ければ港の屋根と、その向こうの海が少し見える。便を逃した人が一晩をやり過ごすには、ちょうどいい程度に外の気配が届く部屋だった。


 冬木は荷物を置いたあと、「少し休みます」とだけ言った。

 それ以上は何も話さない。

 迎えに行くはずだった人を迎えに行けなかった夜。

 港側の離れ。

 その断片だけを置いて、老いた男は部屋へ引き取った。

 言葉を急がないところが、かえって本気で戻ってきた人間らしかった。


 帳場へ戻ると、汐里は古い宿帳を開いたまま立っていた。

 さっきまで見ていた「冬木 恒一」の頁が、そのまま光の下にある。

 湊も隣へ寄り、二人で黙って文字を追った。


 昭和の終わり。

 三泊。

 備考欄に「迎え未果」。

 その数日後に二泊、「港行」。

 さらに数日後に一泊、「再泊」。

 たったそれだけだ。

 だが、今まさにその名前を持つ本人がこの宿の二階にいるとなると、一つひとつの短い語が異様な重みを持ち始める。


「母は」

 汐里が低く言った。

「この人のこと、話していたことはないです」

「ですよね」

 湊が答える。

「でも、知らないままではなさそうです」

「港側の離れまで知っていた」

「ええ」

「しかも、最初に訊いたのが“まだ閉まったままですか”だった」


 港側の離れ。

 宿の裏手、海へ少し張り出すように増築された小さな別棟。

 客室として使われていた時期はあるが、湊が春口へ来るようになってからはずっと閉じられたままだった。

 汐里も普段はほとんど触れないらしい。

 単に古くて使っていないのだと思っていたが、冬木の言葉で、それが“意図して閉じられてきた部屋”なのかもしれないと分かってしまった。


「離れ、見に行きますか」

 湊が訊くと、汐里は少し考えてから頷いた。


 宿の裏手へ回ると、春口の海がいつもより近く感じられた。

 離れは母屋に比べて少し低い位置にあり、港側へ張り出すように建っている。

 木の外壁は潮風で色が抜け、雨戸の戸袋にも古い塩の跡がある。

 廊下で母屋とつながってはいるが、心理的には独立した部屋に近い。

 ここへ泊まれば、宿に守られているようでいて、同時に港へ出ていく気配も濃く感じただろう。

 “翌朝早く出る人”や、“夜のうちにまだどこかへ行くかもしれない人”に向いた部屋なのだと、立っただけで分かった。


 汐里は鍵箱から古い鍵を取り出した。

 しばらく使っていなかったせいか、差し込むまでに少し力が要る。

 金属がひっかかるような音を立て、やがて錠が開いた。


 中には、思っていたよりもきちんとした空気が残っていた。

 長く閉め切っていた部屋特有の湿気は少なく、むしろ定期的に風を通していたような感じがある。畳は新しくないが荒れておらず、窓際には小さな文机まで置かれている。

 布団はない。

 床の間には何も飾られていない。

 人が去ってから「そのまま止めた」のではなく、何かを意図して“客を入れない部屋”として保たれてきた気配だった。


「母、掃除はしていたんですね」

 汐里が言う。

「そうみたいですね」

 湊は文机へ近づいた。

「閉じてはいたけど、荒らしてはいない」

「使わないのに?」

「だからこそ、かもしれません」


 窓を少し開けると、港の音がすぐ入ってきた。

 母屋の部屋より距離が近い。

 船のエンジン、ロープの軋み、岸壁を歩く人の足音まで、少し大きく聞こえる。

 ここは“泊まる部屋”であると同時に、“まだ港の途中にいる部屋”でもあったのだろう。

 完全に宿の内側へ入る前の、一夜の仮泊まり。

 その感触が、春口らしかった。


 文机の引き出しを開けると、何も入っていなかった。

 ただ、底に古い紙の擦れ跡のようなものが残っている。

 ここで手紙でも書いた人がいたのかもしれないと、湊はふと思った。

 迎えに行けなかった夜。

 離れ。

 港のすぐ近く。

 誰かがこの机に向かい、言い訳にもならない文を書こうとした可能性は、十分にある。


「この部屋」

 湊が言う。

「“便を逃した客”にちょうどよすぎますね」

「どういう意味ですか」

「普通の観光客なら、母屋の部屋のほうが落ち着く」

「ええ」

「でも、港をまだ気にしている人、朝一番で出る人、迎えを待っている人には、この距離のほうが近い」

「……」

「宿に泊まっていながら、完全には休めない人の部屋です」


 汐里は、その言葉をすぐには否定しなかった。

 むしろ、ゆっくり部屋を見回してから言った。


「母、これを分かっていて残してたんでしょうか」

「たぶん」

「だとしたら」

「はい」

「宿って、やっぱりただの商売じゃないですね」


 その言葉が、第四作の中心を静かに示している気がした。

 宿とは何か。

 泊まる場所。

 寝る場所。

 もちろんそれも本当だ。

 だが春口では、それだけではない。

 帰りきれない人が、接続の途切れたまま一晩だけ身を置く場所。

 凪の宿。

 荒れてはいないが、どこへも進めない夜に、人をひとまず沈めておく場所なのだ。


 離れを出て、再び帳場へ戻る。

 古い宿帳をさらに前へめくっていくと、客の種類が少しずつ見えてきた。

 島へ帰る人。

 病院帰りの付き添い。

 就職の面接へ向かう若者。

 船便が止まり、春口で一泊した家族。

 そして、名の後ろに「迎え待ち」「港呼出」「便つかず」といった言葉がついている人々。

 どの頁にも、春口が「途中の町」であることが刻まれていた。


「これ」

 湊がある頁を指した。

「“朝便まで預かり”って書いてあります」

「荷物のことだと思います」

 汐里が答える。

「宿に泊まらなくても、荷物だけ置いていく人もいたみたい」

「港の待合みたいですね」

「ええ」

「いや、待合より少し深い」

「深い?」

「待合は時間を待つ場所だけど、宿は人の身体ごと預かるから」

「……」

「それに、荷物も」

「たしかに」


 宿帳の隅には、時々、客の名前より目立つ言葉がある。

 「帰れず」

 「迎え違い」

 「夜更け着」

 「島送り翌朝」

 そうした短い語は、宿の業務メモであると同時に、この町の歴史そのもののようにも見えた。

 春口は、ただ美しい港町ではない。

 帰れなかった人々の事情が積もる場所であり、その事情のいくつかを一夜のあいだ預かってきた場所なのだ。


 夕方前、冬木が部屋から下りてきた。

 顔色は少しよくなっている。

 だが、休んだから楽になったというより、“もう少し話してもいい”ところまで自分を整えてきたような雰囲気があった。

 帳場の前で立ち止まり、古い宿帳のほうをちらりと見る。


「まだ残っていましたか」

 彼が言う。

「ええ」

 汐里が答える。

「さっき、あなたの名前を見つけました」

 冬木は、その言葉に一瞬だけ目を閉じた。

 逃げるような閉じ方ではなく、長いあいだ避けてきたものをようやく正面から受け取るための、小さな間だった。


「そうですか」

「迎え未果、と書いてありました」

「……」

「母の字です」

「そうでしょうね」

「何があったんですか」

 汐里の問いは、静かだったがはっきりしていた。


 冬木はすぐには答えなかった。

 代わりに、帳場脇の椅子に腰を下ろし、しばらく海の見えない廊下の先を見た。

 春口の宿に来る人間は、話す前に少しだけ風景の代わりとなる方向を見ることが多い気がした。

 海へ向くか、駅へ向くか、あるいはそのどちらでもない、廊下の先を見るか。

 語ることは、場所を選ぶことでもあるのだろう。


「若いころ」

 やがて冬木が言った。

「私は、港の仕事を手伝っていました」

「地元の方ですか」

 湊が訊く。

「いや。春口の外から来ていた」

「父と少し似ていますね」

 その言葉に、冬木はわずかに苦く笑った。

「そうかもしれない」

「……」

「ある春の日、この宿に泊まって、翌朝、港へ迎えに行くはずの人がいた」

「恋人ですか」

 汐里が訊くと、冬木は首を横に振った。

「そこまできれいな話ではない」

「では」

「妹のような存在でした」


 妹のような存在。

 その曖昧さが、春口らしかった。

 血縁ではない。

 だが、その土地と時間の中でだけ深くつながる関係。

 第二作で春乃が待っていた“迎えに来る側の人”とも少し似ている。


「島から来るはずだったんです」

 冬木が続ける。

「本土側の病院を退院して、親類に引き取られる前に、私が一度だけ港で受け取る話になっていた」

「でも」

「夜のうちに港の予定が変わった。便も遅れ、別の荷の手配も重なった」

「……」

「私は“少し遅れても間に合う”と思った」

 その言葉に、湊の胸の奥が静かに痛んだ。

 少し遅れても間に合う。

 第一作で父を通して何度も見た感覚。

 春口では、その“少し”が人の時間を切ってしまうことがある。


「結果として」

 汐里が低く訊く。

「迎えに行けなかった」

「ええ」

「その人は」

「別の親類に先に引き取られた」

「じゃあ、無事ではあった」

「無事ではあったんです」

 冬木は言った。

「でも、その後、一度も会わなかった」


 会えなかった。

 救われない話ではない。

 死んだわけでも、消えたわけでもない。

 それでも、一度の接続の不成立が、そのまま関係の終わりになってしまうことはある。

 春口の宿帳に「迎え未果」とだけ残るような話は、もしかしたら町のあちこちにあったのだろう。


「それで、この宿にまた泊まった」

 湊が言う。

「ええ」

 冬木は頷く。

「迎えに行けなかったその夜、離れに泊めてもらった」

「そして、再泊」

「翌日も、翌々日も、港へ行けばまだ会えるんじゃないかと思って」

「でも会えなかった」

「そうです」


 その言い方には、大げさな悲嘆はなかった。

 だが、長く持ち続けてきた重さははっきりあった。

 大事件ではない。

 誰かが死んだわけでもない。

 それでも、迎えに行くと約束した相手を受け取り損ねた一夜は、その人の人生に静かな傷を残す。

 そして、そういう傷を抱えた人間が一晩身を置いた場所として、この宿は記憶に残るのだろう。


「母は」

 汐里が言う。

「あなたに何か言いましたか」

 冬木は少し考え、それから答えた。


「“ここは、帰れない夜に泊まる部屋です”と」

「……」

「離れに案内してくれたときに」

「それ、母が」

「ええ」

「そんなことを」

「小さく、でもはっきり」


 帳場の空気が、その一言で変わった気がした。

 帰れない夜に泊まる部屋。

 離れはただ閉じられた客室ではなかった。

 澄江はそこを、帰れない人のための部屋として意識していたのだ。

 宿は商売でありながら、同時にそうした“一夜のための受け皿”でもあった。

 凪の宿。

 第四作の題が、ようやく現実の肌を持ち始める。

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