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潮待ちのレール ― 凪の宿 ―  作者: たむ


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第一章 帳場の灯り

 春口の春は、港から先に来るわけではない。


 山のほうから下りてくるわけでもない。

 空気そのものが急にぬるむ日もなければ、花が一斉に咲いて町を塗り替えることもない。

 この土地の春はもっと曖昧で、もっと生活に近い。

 朝、港の水面の色が少しやわらかくなる。

 駅の花壇の土が冬の固さをほどき始める。

 魚屋の店先に並ぶものが少し変わる。

 それから、宿の帳場の灯りが、同じ明るさのまま以前より少しだけ温かく見え始める。

 そういう変化の積み重ねで、春口の春はやって来るのだった。


 相沢湊がその年初めて春口へ戻ってきたのは、桜の季節にはまだ早い、三月の終わりだった。


 新幹線を降り、在来線に乗り換え、海沿いを走る列車の窓から見る瀬戸内は、冬のあいだに覚えた色よりわずかに明るかった。冷たい光の底に、鈍い銀とは違うものが混じっている。島影はまだ淡いが、冬ほど硬くない。

 春口駅に降り立つと、赤い屋根の待合室の前に汐里が立っていた。

 薄いベージュのコートに、首元には白に近い灰色のストール。冬の名残をまだ少し残しながら、確かに季節をまたいだ顔だった。


「おかえりなさい」

 彼女が言う。

「ただいま」

 湊は答える。

 そのやり取りは、もう以前のように少し照れたものではなかった。

 春口は、今や湊にとって「来る理由をいちいち説明しなくていい場所」になっている。

 それがどれほど大きな変化か、自分でも時々驚くことがあった。


「東京はどうでした」

 坂道を下りながら、汐里が訊く。

「相変わらずです」

「いい意味で?」

「たぶん、どちらでもなく」

「なるほど」

「でも前より、息が詰まる感じは減りました」

「春口のおかげですか」

「それもあるかもしれません」

「それは、少しうれしいです」


 春口の港には、春の手前の匂いがしていた。

 潮の匂いに、乾いた草と、どこか青い葉の匂いが少し混じる。

 夏のような強い光はない。

 観光客もほとんどいない。

 けれど、町の輪郭がやわらかくなる季節特有の気配がある。

 春口は、こういう季節にもちゃんと生きているのだと、湊は何度目かの実感を得ていた。


 宿へ着くと、玄関先のオリーブは冬を越して葉の色を深くしていた。

 二階の同じ部屋に荷物を置き、窓を開ける。港の向こうに小さな船が見え、岸壁では作業着の男が一人、ロープを巻き直している。

 何も劇的ではない。

 だが、春口の魅力はもともとそういうところにはない。

 人が毎日を少しずつ受け取り直していく速度で、景色も変わる。

 その静かな変化が、この町では何より大事なのだ。


 階下へ下りると、汐里は帳場の前に座っていた。

 手元には古い宿帳が何冊か積まれている。

 去年の冬、澄江の箱を帳場の奥へ移したときから、彼女の中で何かがゆっくり変わってきていることを、湊は感じていた。

 島の名と春口の名のあいだで生きた母。

 届かなかった手紙。

 千紘の白い布切れ。

 それらを知ったあとで、宿という場所そのものを見直さずにはいられなくなったのだろう。


「それ」

 湊が宿帳を見て言う。

「もう始めていたんですね」

「ええ」

 汐里は頷いた。

「今回、見てもらいたいものがあるんです」

「宿のことですか」

「はい。母のことを辿ってきて、結局、宿のことに戻ってしまって」

「戻ってしまう、という感じですか」

「ええ」

 彼女は少しだけ笑った。

「母が何を守ろうとしていたのかを考えると、どうしてもここへ来るんです」


 帳場の上に置かれた宿帳は、今の予約台帳ではない。

 もっと古い、布張りの背表紙が色褪せた帳面だった。

 手に取ると、紙の端が少し波打っている。

 長いあいだ人の手に触れ、湿気を含み、乾き、また触れられてきたもの特有のやわらかさがあった。


「開けても」

 湊が訊くと、汐里は静かに頷いた。


 最初の頁には、昭和の終わりごろの日付と、客の名前、人数、到着の時刻、簡単な用件が書かれている。

 観光客の名は少ない。

 島へ帰る途中の家族。

 船の欠航で一泊した商店の男。

 朝一番の便を待つために泊まった学生。

 病院帰りの老夫婦。

 そして、「便つかず」「迎え待ち」「船止まり」といった短い書き込みがいくつもある。

 宿は単なる旅館ではなかった。

 すでにそこへ泊まる理由の多くが、観光ではなく“接続の失敗や延期”に関わっていることが分かる。


「すごいですね」

 湊が言う。

「観光の宿帳、という感じじゃない」

「そうなんです」

 汐里が答える。

「私も改めて見て、少し驚いています」

「島へ帰れなかった人とか」

「迎えが来なくて一晩だけ、という人も多いです」

「……」

「春口の宿って、そういう場所だったんでしょうね」


 そういう場所。

 その言い方に、湊は静かに頷いた。

 第一作で潮待ち浜を知ったとき、駅ではないのに待たされる時間のために存在していた場所があることを知った。

 第二作では夏の船着場が、会えなかった時間を引き受ける場所になった。

 第三作では島の渡し場が、風待ちの場所として現れた。

 そして今、第四作では宿そのものが、もう一つの待合として立ち上がろうとしている。


「母、宿を“家業”としてだけ見ていたわけじゃないのかもしれません」

 汐里が言う。

「どういう」

「便を逃した人、帰れなかった人、夜を越えるしかない人、そういう人を一晩だけ留める場所として」

「それは」

 湊は宿帳を見つめたまま言った。

「かなり大きいですね」

「はい」

「春口そのものの役割に近い」

「ええ。たぶん、この宿は町の縮図みたいな場所なんです」


 その表現は、あまりに的確だった。

 春口は、帰り先を一つに決められない人々の町だった。

 ならば、その中心にある宿は、そうした人々をひと晩だけ受け止める器であっても不思議ではない。


 次の頁をめくると、ある年の春先にだけ、同じ名前が何度か続けて出てきた。

 「冬木 恒一」

 その名の横に、三泊、二泊、一泊と断続的な宿泊記録があり、備考欄には小さく「迎え未果」「港行」「再泊」とある。


「この人」

 湊が言う。

「何度も」

「私も気になっていました」

 汐里が答える。

「しかも同じ春先に、短い期間で何度も泊まってる」

「迎え未果、って」

「迎えに行くつもりだったのに果たせなかった、という意味かもしれません」

「再泊」

「一度帰れずに、また泊まったのかも」

「……」


 そのとき、玄関のほうで戸の開く音がした。

 汐里が反射的に立ち上がる。

 客の気配だった。

 春口の宿では、こういう話をしている最中でも、生活は普通に続く。

 それがこの物語のいいところでもあり、残酷なところでもある。


 帳場へ出ると、玄関に一人の老いた男が立っていた。

 七十代の後半ほどか。背は高くないが、肩の線はまだ崩れていない。濃い灰色のコートを着て、小さな鞄を一つ持っている。

 その目が、宿の中へ入ってきた瞬間に一度だけ大きく揺れた。

 長いあいだ避けてきた場所へ、ようやく足を踏み入れた人の目だった。


「宿、まだやっておられますか」

 男が言った。

「はい」

 汐里が答える。

「お一人ですか」

「ええ。一晩だけ」


 男は帳場を見た。

 その視線が、積まれた古い宿帳の上で一瞬止まる。

 それから汐里の顔を見て、少しだけ目を細めた。


「……澄江さんの娘さんか」

 汐里の表情が変わる。

「母をご存じですか」

「少しだけ」

 男は答える。

「昔、この宿に泊まったことがある」

「お名前を」

「冬木です」


 湊は、卓上に開いたままの宿帳を思い出した。

 冬木 恒一。

 三泊、二泊、一泊。

 迎え未果。

 再泊。

 まるで、宿帳の中からそのまま現れてきたような名前だった。


 男――冬木は、帳場の前で少しだけためらったあと、低い声で言った。


「まだ、あの離れは閉まったままですか」

「離れ?」

 汐里が繰り返す。

「ええ。港側の」

 その瞬間、汐里と湊はほとんど同時に顔を見合わせた。

 港側の離れ。

 これまで特に深く気にしたことのなかった、使われていない小さな別棟。

 汐里はゆっくりと冬木を見た。


「あの離れを知っているんですか」

「知っています」

 冬木は言った。

「昔、あそこに泊めてもらった」

「どうして」

「迎えに行くはずだった人を、迎えに行けなかった夜に」


 居間の奥の空気が、静かに張りつめた。

 第四作がいま、宿そのものの核心へ触れ始めているのだと、湊にははっきり分かった。

 宿帳に残っていた名前。

 迎え未果。

 再泊。

 そして、港側の離れ。

 宿〈三崎〉がただの宿ではなく、「帰れない一夜」を受け止める場所として残ってきた理由が、ここから現れ始めるのだろう。


 汐里は少しだけ息を整えてから、帳場の鍵を取り上げた。


「お部屋、用意します」

 そう言う声は静かだったが、その内側には確かな緊張があった。

「……離れを開けますか」

 冬木が訊く。

 汐里はほんの一瞬迷い、それから首を横に振った。

「今日は母屋の部屋へ」

「そうですか」

 男はそれ以上は言わなかった。


 湊はそのやり取りを見ながら思った。

 第四作の始まりは、この老いた客と、閉じられた離れと、帳場の灯りから本格的に動き出すのだと。

 春口の宿は、やはりもう一つの待合だった。

 便を逃し、迎えに行けず、約束が切れ、帰る場所をその日のうちには決められなくなった人々が、一夜だけ留まる場所。

 その灯りが絶えずに残ってきた理由を、これから自分たちは知ることになるのだろう。

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