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潮待ちのレール ― 凪の宿 ―  作者: たむ


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第四章 迎えに行けなかった人

 翌朝、冬木は誰よりも早く起きていた。


 まだ宿の台所にも本格的な火が入る前、港には薄い白さだけが広がっている。春の手前の朝は、夜より冷たいことがある。海も空も、いったん色を失ってから少しずつ戻ってくる。春口の朝はいつもそうだ。何かが劇的に始まるのではなく、止まっていたものが静かに動き直す。

 湊が階下へ下りると、帳場の前に冬木が立っていた。コートはもう着ていて、手には小さな鞄。まだ出発するには早すぎる時間だ。

 だが、その立ち方はどこか落ち着いていた。逃げるような早朝ではなく、朝の到来そのものをきちんと待ったあとで立っている感じだった。


「早いですね」

 湊が声をかけると、冬木は振り返った。

「歳をとると、どうしても」

「眠れませんでしたか」

「少しは」

 冬木は短く言った。

「でも、昔よりは眠れた気がします」


 その答えに、湊は小さく頷いた。

 離れの夜をもう一度見たこと。

 文机の前に立ったこと。

 澄江の言葉を思い出したこと。

 そのどれか、あるいは全部が、冬木の中の「迎えに行けなかった夜」を少しだけ現在の中へ戻したのだろう。

 長く抱え込まれた夜は、時が経つほど重くなる。

 だが、どこかで元の場所へ返されると、消えはしなくても、背負い方だけは変わることがある。


 冬木は帳場の横の壁を見た。

 そこには古い時計が掛かっている。秒針の音は小さく、けれど朝の静けさの中ではよく聞こえる。


「昔も」

 冬木が言う。

「同じような時計がありました」

「母屋に?」

 湊が訊く。

「ええ。離れには聞こえない程度に」

「……」

「港の音だけはよく聞こえるのに、時間だけが遠かった」

「時間が遠い」

「はい。部屋にいると、朝が来るのが遅いんです」

「でも実際には進んでいる」

「そうです。だから余計につらい」


 その感覚は、待たされた時間の本質に近い気がした。

 進んでいるのに、自分のほうへだけは届かない。

 夜は明けていく。

 便もいずれ出る。

 けれど、自分が迎えに行けなかったという事実だけは、その進行から取り残される。

 春口の宿は、そういう時間を一晩だけ留める場所なのだろう。


 台所から、味噌汁の匂いが流れてきた。

 汐里が起きてきたらしい。

 やがて彼女が帳場へ顔を出し、冬木の姿を見つける。


「おはようございます」

「おはようございます」

 冬木は少し頭を下げた。

「朝食、もう少しでできます」

「ありがとうございます」

「出る前に、何か」

 汐里は少しためらってから続ける。

「港へ行きますか」

 冬木はその問いに、すぐには答えなかった。

 代わりに、帳場の奥の暗がりを少し見て、それから言う。

「行こうと思っています」

「ええ」

「今さら何があるわけでもないですが」

「そうですね」

 汐里は静かに頷く。

「でも、だから行かなくていいとも限りません」


 その返し方に、澄江の気配を感じた。

 慰めない。

 断定しない。

 ただ、その朝の現実だけを差し出す。

 まだ間に合うと思うなら港へ行け。

 その言葉と同じ種類の静かな背中の押し方だった。


 朝食はいつも通りだった。

 焼いた魚、味噌汁、湯気の立つご飯、浅漬け。

 冬木は食べ方も静かで、箸の持ち方がきれいだった。長く一人で暮らしてきた人間の食べ方だと、湊は思った。雑でもなければ気取ってもいない。ただ、誰かと食卓を囲むことにもう慣れきってはいない感じがある。


「その人は」

 食後、冬木がぽつりと言った。

「もう、どこにいるのかも分かりません」

「ええ」

 湊が応じる。

「親類に引き取られた先も、その後にどうなったかも」

「……」

「会いたいんですか」

 冬木は少し考えた。

「会って何を言うのか分からない」

「でも」

「でも、“迎えに行けなかった”という事実だけは、ずっと言葉の手前に残っている」


 その表現もまた、春口らしかった。

 言葉にはなっていない。

 謝罪として完成していない。

 だが、言葉の手前にずっと留まっている。

 それは父の手紙にも、春乃の絵葉書にも似ていた。

 出されなかったもの、届かなかったもの、言いそびれたもの。

 このシリーズでは、完成しなかった言葉のほうが人を長く縛る。


 朝食後、冬木は一人で港へ出た。

 湊も少し離れてあとを追った。

 汐里は宿に残ると言ったが、玄関先まで出て、その背中を見送っていた。

 春口の港は朝の光の中でまだ静かだった。

 定期船の準備をする男が一人、岸壁のロープを点検している。

 魚を積んだ軽トラックが一台。

 待合には、買い物に出るらしい老婦人が一人腰かけているだけだ。


 冬木は、港の端に立った。

 そこが、昔その人を迎えに行くはずだった場所なのだろうか。

 あるいは、迎えに行けなかったと自分で決めてしまった場所なのだろうか。

 遠くから見ているだけでは分からない。

 ただ、その背中が“今でもまだ迎えに来る人の立ち方”を少しだけ残していることは分かった。


 しばらく海を見ていた冬木は、やがて待合の屋根の下へ入り、ベンチに腰を下ろした。

 それは劇的な行動ではない。

 名前を呼ぶわけでもなく、誰かを探すわけでもない。

 ただ、その朝の港に座る。

 しかし、その何でもなさのほうが、この人にとって必要だったのだろうと思えた。

 迎えに行けなかった夜の延長ではなく、いま朝の港にいる自分として。


 湊は少し離れたところから、その様子を見ていた。

 第一作のころなら、自分はもっと答えを求めていたかもしれない。

 相手は誰だったのか。

 どうして会えなかったのか。

 その後どうなったのか。

 だが今は、それらすべてが分からないままでも、冬木がこの港に座っていること自体に意味があると感じられる。

 人は、ときどき結末ではなく、場所に身体を戻すことでしか、過去を現在に触れさせられないのだ。


 宿へ戻ると、汐里は帳場の掃除をしながら言った。


「港へ行きましたか」

「ええ」

「どうでした」

「ただ座っていました」

「そうですか」

「でも、それで十分な気がしました」

「私も、たぶんそう思います」


 彼女はそう言ってから、古い宿帳の冬木の名前の頁を開いた。

 しばらくそのまま見つめ、それから鉛筆を一本取り出す。

 備考欄の少し下、余白に小さく新しい字を書き足した。


 ――再訪


 湊はその二文字を見て、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。

 宿帳は過去の記録であると同時に、いまも続く帳面なのだ。

 冬木は昔ここに泊まり、迎えに行けなかった夜を過ごした。

 そして今、再訪した。

 会えなかった相手のためではなく、自分がそこで止まっていた夜を少し動かすために。

 その二文字は、宿が過去を保存するだけの場所ではなく、再び触れ直す場所でもあることを示していた。


「いいんですか」

 湊が訊く。

「昔の宿帳に」

「本当はだめかもしれません」

 汐里は少し笑った。

「でも、母もこういうことをした気がする」

「ええ」

「ただの記録ではなく、その人の時間がもう一度ここへ来たことを残したかったんじゃないかって」

「そうかもしれません」


 昼前、冬木は港から戻ってきた。

 表情は行く前と大きく変わらない。

 だが何かが少しだけ済んだ顔だった。

 宿の玄関で立ち止まり、帳場の汐里へ向かって言う。


「ありがとうございました」

「こちらこそ」

 汐里が答える。

「離れを開けてくれて」

「ええ」

「もう一度、泊まれてよかった」


 その「泊まれてよかった」は、観光地の宿への感想ではない。

 春口のこの宿でなければ意味のない一言だった。


「帰りますか」

 湊が訊くと、冬木は頷いた。

「はい」

「今度こそ」

 その言葉に、冬木は少しだけ驚いたように湊を見て、それから苦くも温かくもない笑みを浮かべた。

「そうかもしれない」


 見送るために、三人で駅まで歩いた。

 春口の昼はやわらかい。

 春の手前の光が、港のトタン屋根や石垣の縁を少しだけ明るくしている。

 冬木の歩き方はゆっくりだが、足取りは来たときより安定して見えた。

 人はたとえ一夜しか泊まらなくても、泊まる前とあとでは少しだけ身体の重さが変わることがある。

 この宿は、その微細な変化のために存在してきたのかもしれない。


 春口駅のホームで列車を待ちながら、冬木は最後に言った。


「澄江さんに」

「はい」

 汐里が応じる。

「昔、お礼を言えなかった」

「……」

「あなたに言うのは違うかもしれないが、それでも」

「いえ」

 汐里は静かに言う。

「母は、そういう言葉を直接受け取る人じゃなかったかもしれません」

「そうですか」

「でも、ここへもう一度来てくれたことは、たぶん受け取ったと思います」

「……」

「宿って、そういう場所なんでしょうから」


 冬木はそれを聞いて、何度も頷くようにはしなかった。

 ただ一度だけ、ゆっくり頭を下げた。

 列車が来て、扉が開く。

 男は振り返らずに乗り込み、窓際へ座る。

 発車の合図。

 車体が動き出し、ホームが後ろへ流れ、やがて赤い屋根の待合室だけが一瞬視界に残った。


 見えなくなったあとも、しばらくレールの音が続く。

 汐里はその音が消えるまで、ホームに立っていた。

 湊も隣にいた。

 春口では、見送るということは、相手が去った瞬間では終わらない。

 音が消えるところまでが見送りだ。

 その感覚にも、いつのまにか慣れてきている自分に、湊は少し驚いていた。


「相沢さん」

 音が消えたあとで、汐里が言った。

「はい」

「宿って、ほんとうに不思議ですね」

「どういう意味で」

「誰かの人生を変えるほど大きなことはできないのに」

「ええ」

「それでも、一晩だけなら支えられる」

「……」

「そしてその一晩が、あとになってずっと残ることがある」


 その言葉は、第四作の核そのものだった。

 宿は人生を解決しない。

 だが一夜を受け止める。

 その一夜が、後々の人生の置き方を変えることがある。

 春口の宿帳に残ってきた無数の小さな記録は、その証拠なのだろう。


 宿へ戻る道すがら、港には昼の便が入ってきた。

 今日もまた、誰かが到着し、誰かが去っていく。

 その流れの中で、宿は灯りを残し、湯を沸かし、夜のうちに帰れない人のための部屋を持っている。

 澄江が守ってきたものの意味が、汐里にも、そして湊にも、少しずつ言葉になる場所まで来ているように思えた。

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