第九話 銀貨の使い道
金が入って三日目に、炉室の当番が二人、持ち場を空けた。
金が入ってからの三日間、城の空気は変わっていた。
悪くなったのとは違う。ただ、緊張が抜けた。十三日目までは、誰もが「明日、飯が出るのか」という顔で働いていた。十四日目から、その顔がなくなった。
夜、東翼の部屋から笑い声が聞こえるようになった。誰かがヴェルデで酒を買ってきていた。ガルドは何も言わなかったし、俺も言わなかった。銀貨は彼らのものだ。
その三日目の朝だった。
気づいたのは十六日目の朝だ。セロが青い顔で大広間に走り込んできた。
「炉の水位が下がってます。夜のあいだ、誰も見てなかった」
「止まったか」
「ぎりぎり止まってません。あと二刻遅れてたら、熱管が焼けてました」
十五日目の夜番は、二人だ。名前を確認して、その二人を探した。
東翼の空き部屋にいた。床に銀貨が散らばって、木の椀が伏せてある。賭けの道具だ。片方は壁にもたれて眠っていて、酒の匂いがした。
俺の後ろで、ガルドが息を吸った。
「おい、てめえ――」
「待て」
俺は腕を出して止めた。
「なんで止める。こいつら、炉を焼くとこだったんだぞ」
「焼いてない」
「焼いてたらどうする気だ」
「焼いてたら、全員でここを出るしかない」
俺は眠っている男の肩を叩いた。目を開けるまで、しばらくかかった。
「起きろ。話がある」
「……何時だ」
「朝だ。夜番の時間はもう終わってる」
男の目が、少しずつ焦点を結んだ。それから、床の銀貨に気づいて、慌てて掻き集めようとした。
「集めなくていい。それはあんたの金だ。賭けようが酒に換えようが、俺は口を出さない」
男が動きを止めた。
「じゃあ何の話だ」
「炉の話だ」
◇
その日の夜、大広間に全員を集めた。
三十一人が床に座った。二人は前のほうに座らせた。晒し者にするつもりはなかったが、他の場所に座らせるのも違うと思った。
「昨日の夜、炉番が空いた」
俺は言った。
「怒鳴るつもりはない。ただ、決めなきゃいけないことがある」
「規則を作るのか」
ガルドが聞いた。
「作る。ただし、俺が作るんじゃない」
俺は帳面を破って、白紙を床に置いた。
「俺が作った規則は、俺がいなくなったら誰も守らない。あんたらが作った規則は、あんたらが守る」
「そんなもん、変わるか?」
「変わる。俺は二年半、隊の規則を守らせる側だった。守らせるより、決めさせるほうが速い」
誰も、すぐには何も言わなかった。
最初に口を開いたのは、エッダだった。
「使い道は、自由でいいと思います。給金は本人のものだから」
「異論は」
誰も出さなかった。俺は白紙に書いた。
一、給金の使い道は本人の自由。
「でも」
エッダが続けた。
「炉が止まったら、みんな死にます。あれは自由じゃない」
「じゃあ、持ち場を空けるのを禁じるか」
「禁じても、寝る人は寝ます」
ヨルが言った。井戸掘りだった男だ。
「うちの現場だと、当番を代わってもらうときは、必ず先に言うことになってました。誰かに言えば、その人が代わりを探す」
「言わずに空けたら」
「そんときは、そいつが二回連続で入る。罰じゃなくて、埋め合わせです」
部屋の後ろで、手が上がった。夜番を空けた二人のうちの一人だった。
「……それだと、俺は二回入るのか」
「入る」
「殴られるほうが早いんだが」
「殴っても炉は直らん」
ガルドが鼻を鳴らした。
「そりゃそうだ」
誰かが笑った。空気が、少しだけ緩んだ。
俺は書いた。
二、持ち場を離れるときは、必ず先に誰かに伝える。伝えずに空けた分は、本人が埋める。
俺は続けて、三つ目を自分で書こうとした。
「三、炉番は、酒を飲んだ日は入らない」
書きかけて、手が止まった。部屋の空気が変わったからだ。
「そりゃ、どうかな」
ガルドだった。
「酒を飲んだ日は入るな、ってのは、いつ飲んだかを誰かが見張るってことだ。見張るのは誰だ。あんたか」
「……そうなるな」
「なら、隠して飲む奴が出るだけだ。隠して飲んで、隠して炉に入る。今より悪い」
俺は書きかけの三行目を、線を引いて消した。
消しながら、少し腹の底が冷えた。
二年半、俺は隊の規則を守らせる側にいた。守らせる側にいた人間が最初に思いつくのは、いつも見張る仕組みだ。名簿から人を外した式部官も、たぶん同じ頭でそれを書いた。
「すまん。今のは、俺が間違えた」
「間違えるのか、あんた」
「間違える」
ガルドは腕を組んで、少しだけ意外そうな顔をした。
「城を出るときも同じにしましょう」
リゼが言った。
「出て行くのは自由。でも、黙って消えられると、その人が野垂れ死んだのか、王都に着いたのか、こっちには分からない。診てあげることもできない」
俺は少し考えて、それも書いた。
三、城を離れるときは、事前に伝える。
「あと一つ、俺から出したい」
俺は懐から給金札を出した。誰かに渡す前の、番号だけ彫った予備の札だ。
「札を、賭けの担保にしないでほしい」
「なんでだ」
ガルドが眉を寄せた。
「札は金じゃない。あんたが誰かってことの証明だ。番号と帳面が揃って初めて精算できる。札が他人の手に渡ったら、俺には誰に払えばいいのか分からなくなる」
「借金のカタにするのもか」
「する。それを認めたら、いずれ札を集める奴が出る」
言ってから、自分の言葉に少し引っかかった。
札を集める。誰かの番号を、まとめて持つ。
それは、つまり――
「アルドさん?」
エッダの声で、我に返った。
「すまん。書く」
四、給金札を他人に譲らない。担保にしない。
四行になった。俺は紙を壁に貼った。
「一つ、聞いていいか」
ガルドが手を挙げた。
「この四行を破ったら、追い出されるのか」
部屋が静かになった。全員が、その答えを待っていた。
俺は少し考えた。考えてから、答えた。
「追い出さない」
「甘くないか」
「甘い。だが、追い出すと決めると、次に誰かが破ったとき、俺が決めなきゃいけなくなる」
「そりゃ、あんたが決めるだろ」
「決めたくない」
俺は壁の紙を見た。
「俺は、名簿から人を外される側にいた。外した奴は、たぶん悩んでない。規定だからで済ませた。あれを、こっちでやりたくない」
ガルドは腕を組んで、それから鼻を鳴らした。
「じゃあ、破ったらどうなる」
「書く。それだけだ。誰が、いつ、何を破ったか。消さずに残す」
「それ、罰にならんだろ」
「ならない」
俺は正直に言った。
「ただ、その帳面はずっと残る。俺が死んでも残る。罰よりきついかもしれん」
「――だったら、反対だ」
声が上がった。夜番を空けた二人のうち、若いほうだった。
「殴られりゃ終わりだ。追い出されても、よそへ行けば終わりだ。だけど帳面は終わらない。十年後に誰かが読んで、俺が何をしたか分かる」
誰も何も言わなかった。
「俺は、それが嫌だ」
俺は、すぐには答えられなかった。彼の言っていることは正しい。
「……その通りだ」
「認めるのか」
「認める。帳面は、いいことも悪いことも同じ強さで残す。罰するつもりがなくても、結果として罰になる」
「じゃあ、書くな」
「書かない帳面は、あんたの日当も証明できない」
男の口が止まった。
「同じ紙だ。都合の悪いところだけは抜けない」
彼はしばらく立っていた。それから、座らずに言った。
「賛成はしない」
「分かった」
「だが、反対したことも残すなら、七日だけ試す。七日たって嫌なら、また言う」
「七日だ」
俺は紙の余白に書き足した。
――違反記録を残すことについて反対あり。帳面は罰より重い、との意見。七日間の試行として合意。
「なんで、そんなことまで書くんだよ」
「反対があったことを、なかったことにしたくない」
男は舌打ちをして、それから座った。
「これでいいか」
誰も反対しなかった。ガルドが立ち上がって、紙の下に自分の名前を書いた。それを見て、次の男が書いた。
三十一人分の名前が並ぶまでに、四半刻かかった。
◇
十七日目の朝、二人が消えた。
夜番を空けた二人ではない。別の二人だった。荷物と、給金が消えていた。
「三、を破ったわけね」
ミラが壁の紙を見上げた。
「昨日、名前書いてたのに」
「書いてた」
「追う? 半日あれば追いつくけど」
彼女は本気だった。追える、と思っているのが顔で分かった。
俺は帳面を開いた。二人の欄がある。日付と、仕事と、額と、支払済みの印。
「追わない」
「なんで」
「追って連れ戻したら、この城は出て行けない場所になる」
「でも、規則は破ったわよ」
「破った。だから、そう書く」
俺は二人の欄の下に、線を引いた。消さなかった。消したら、この十六日間がなかったことになる。
――十七日目、無断離城。
「それだけ?」
「それだけだ」
ミラは何か言おうとして、やめた。彼女は最近、よく言いかけてやめる。
◇
十九日目の夕方、片方が戻ってきた。
門の外に立っていて、中に入ってこようとしなかった。俺が出ていくと、男は俺の顔を見られなかった。
「……戻ってきた」
「見れば分かる」
「もう一人は、来ない」
「そうか」
「王都に行った。ヴェルデで、傭兵の口があるって聞いて」
俺は、掲示板の札を思い出した。墨のまだ黒い、小さな札。
「前金が出るんだと。銀貨で三十」
「三十」
「ここの三十日分だ。あいつ、それで行った」
男は靴の先で地面を掻いた。
「俺も行こうとしたんだ。でも、途中で戻った」
「なんでだ」
「……分からん」
彼は本当に分からないという顔をしていた。
「札が、懐に入ってて。捨てりゃいいのに、捨てられなかった」
俺は門を開けた。
「入れ」
「いいのか。俺、規則を」
「破った。だから帳面に書いた。書いたことは消さない」
俺は帳面を開いて、彼の欄の下にもう一行足した。
――十九日目、帰還。
「明日、二回目の精算日だ。十七日から今日までは、日当がつかない。それでいいか」
男はしばらく黙って、それからうなずいた。
「……いい」
「なら、飯を食え。今夜は豆が多い」
男が中へ入っていくと、入れ違いにリゼが出てきた。薬箱を提げている。
「診ていい?」
「本人が嫌がらなければ」
「嫌がるでしょうね。ああいう人は」
彼女は門の外の暗がりを見た。
「二日、外で寝てるわ。この寒さで、足が動いてないもの。歩き方で分かる」
「頼めますか」
「頼まれなくても診るわよ。それが仕事だから」
彼女は少し間を置いて、付け足した。
「資格はないけど」
「帳面には書きます」
「書かないで、とは言わないわ」
リゼは薬箱を持ち直した。
「隠したら、隠すようなことをしてるって認めることになる。私は、傷を縫うのが悪いことだとは思ってないの」
「じゃあ、書きます」
俺は帳面を開いた。
――十九日目、リゼ、帰還者の足の処置。施術者は無資格。
書いてから、その一行をしばらく見ていた。
いつか誰かが、これを問題にする日が来る。来ると分かっていて、俺は書いた。
書かないほうが危ないと思ったからだ。理由は、そのときはまだうまく言えなかった。
その夜、俺は消えたもう一人の欄をもう一度見た。
銀貨三十枚の前金。ここの三十日分。
誰が、その金を出しているのか。
俺はまだ、そのことを深く考えなかった。明日は二十日目で、王都から二十三人が来る。考えることは、他にいくらでもあった。
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