第七話 名乗らない客
尾根に入ったのは、十日目の朝だった。
空は朝から灰色で、ハンナは出発のときから「降ります」と言っていた。稜線の中ほどで、それが当たった。
雨というより、横から叩きつけてくる水だった。西からの風が稜線を舐めて、荷車の側板を押す。ハンナは前の日のうちに荷を中央へ寄せ、帆綱の結びで組み直していた。
「一台ずつ! 間を空けて!」
崩れた縁の二十二歩を、一台目は通った。ガルドが積んだ石は動かなかった。
二台目のとき、石が動いた。水を吸った土が、下から押し上げたのだ。
前輪が張り出しの端を踏んだ瞬間、荷台が谷側へ傾いた。縄が鳴り、木箱が滑る。
「切る!」
ハンナが叫んだ。手にはもう小刀があった。
俺は止めようとした。あの箱には細工物が入っている。給金の原資だ。
止める前に、彼女は切った。
谷側の縄が跳ね、箱が三つ、斜面へ落ちていった。落ちながら開いて、中身が散った。金属が岩を打つ音が、いくつも重なって遠ざかる。
荷台が戻った。輪が地面を噛んだ。
押していた男が二人、尻餅をついた。それだけだった。誰も落ちなかった。
「……すみません」
ハンナが小刀を握ったまま立っていた。
「切らなかったら、荷台ごと行ってました。押してた人も一緒に」
「でも、あれ、売り物で」
「人は売り物じゃない」
俺は斜面を覗き込んだ。三十尺ほど下で、金属が散らばって光っている。回収は無理だ。人を降ろすほうが危ない。
失った数を書いた。木箱三つ、細工物百二点。書くのに、少し時間がかかった。
六百四十七点が、五百四十五点になった。売値にして、五十枚ぶんは軽い。
「アルドさん」
「なんだ」
「日当、引かれますか」
「なんで」
「私が切ったので」
俺は帳面を閉じた。
「ハンナ、九日目に積み方を決めたのはあんただ。だから一台目は通った。今日切ったのもあんただ。だから誰も落ちなかった。どっちも仕事だ」
「……はい」
「引かない。むしろ書く」
雨は下りきる前に上がった。残った荷は濡れていない。エッダが挟んだ布は、乾いたままだった。
◇
ヴェルデは、思っていたより明るい町だった。
その日は尾根の上で野営した。十一日目の朝に下りはじめ、平地に入ったのは日が高くなる前だ。道の両側に麦の刈り跡が続き、その先に屋根の低い家が集まっている。市の立つ広場では、まだ昼前だというのに人が動いていた。
「王都より景気がいいわね」
ミラが荷車の上から言った。
「王都は宿舎を閉めてる最中だ。ここは物が通る町だからな」
俺たちは広場の端に荷車を停めた。積んできたのは見本だ。書物が二百冊、細工物が――積んだときは二百点あった。
羊皮紙の書物は一冊で腕一本ぶんの重さがある。六千冊を荷車で運ぶなど正気の沙汰じゃない。だから持ってきたのは、見本と、十一枚の目録だった。
商会の館は、広場の北側にあった。石造りの二階建てで、入口に秤の看板が下がっている。
「あたしは」
「町を見てきてくれ。何がいくらで売られてるか、書けるだけ書いてほしい。値段を知らないと、交渉できない」
「先に言いなさいよ、それ」
「今言った」
◇
通されたのは、一階の奥の部屋だった。
卓の向こうに座っていたのは、四十くらいの男だった。仕立てのいい上着を着て、指を組んでいる。ヴェルデ商会の番頭で、ラウという名だった。
その後ろに、もう一人いた。
窓際の椅子に、老人が座っている。膝に帳面を広げて、こちらを見もせずに何かを書き写していた。上着は上等だが、袖口が擦れている。長く使っている服だ。
紹介はなかった。
「魔王城の資産、ですか。これは、国のものではないので」
「王国戦後処理局の辞令です。処分は整理官の裁量に委ねられています」
俺は辞令書を卓に置いた。ラウはそれを一瞥して、目録に戻った。
「書物が六千百。ただ、魔族の書は買い手がおりません。読める者がいない」
「読めなくても、紙は紙です」
「……ほう」
「羊皮紙です。削れば書き直せる。修道院なら買います」
ラウの指が止まった。
「六千百、全部ですか」
「状態のいいものが六千百です。持ってきたのは、そのうち二百冊の見本と、目録だけです。残りは城にあります」
彼は目録に何か書き込んで、細工物の欄へ移った。
「こちらは、用途が分かりませんな」
「分かりません」
俺は正直に言った。
「分からないから、値もつけていません。そちらでつけてください」
「値をつけないで持ってきたのですか」
「はい」
ラウが顔を上げた。呆れているのか、面白がっているのか、判断がつかなかった。
「……失礼ながら、商いをされたことは」
「ありません。補給係でした。買うほうです。売るのは初めてです」
部屋が静かになった。ラウは目録を卓に置いて、指を組み直した。
「では、目録の全量で。書物六千百、細工物――」
彼が数字に指を置いた。俺は先に言った。
「五百四十五です」
「六百四十七と書いてありますが」
「尾根で百二点を失いました。谷へ落としました」
ラウが顔を上げた。
「……申告されるのですか」
「数が違えば、あとで揉めます」
「では、五百四十五点と、書物六千百冊。買い取り総額は銀貨七百九十枚。品はこちらから引き取りに参ります」
総額としては、悪くない。
「本日の手付は三百二十枚。残額四百七十枚は、引き取りの後に」
俺は息を止めた。
足りない。三百六十八枚が要る。
「――少ないですな」
声は、俺のものではなかった。
◇
窓際の老人が、初めて顔を上げていた。
「会長」
ラウが振り返った。老人は帳面を膝に置いたまま、俺の目録を見ていた。いつのまに見たのか分からない。
「羊皮紙が六千百。削り直しの手間を引いても、それだけで三百にはなる。細工物は魔族の金属だ。溶かして使う者はいくらでもおる」
「しかし、用途が」
「用途が分からんから安い、というのは買い手の理屈でな」
老人は椅子の背にもたれた。
「総額はそれでよい。ただし、手付を四百五十お出しなさい」
「手付、ですか。総額の半分を超えますが」
「十四台の荷車を揃え、城で引き取りを始めるまで一週間はかかる。その間、あちらは何で人を食わせる」
「安く買えば、次に売る物がなくなる。払いを遅らせるのも、同じことでな」
ラウが口を閉じた。老人はそれきり何も言わず、また帳面に目を落とした。
「……では、手付を四百五十。残りの三百四十は、引き取りの後に」
ラウが言った。
俺は、しばらく返事ができなかった。
城を出るとき、俺は総額で八百枚ほどを見込んでいた。百二点を失って、七百五十まで落ちた。七百九十という数字そのものは、悪くない。
引っかかったのは、手付のほうだ。
三百六十八枚は払える。残るのは八十二枚。二十日目の精算には、まるで足りない。
今日を救うには多く、ここから離れるには少ない。その加減が、うまくできすぎていた。
隣でガルドが身じろぎした。この男は交渉のあいだ、一度も口を開かなかった。鼻の骨が曲がった大男が黙って立っていると、それだけで部屋の空気が重くなる。連れてきた理由の半分はそれだ。
その男が、いま俺のほうを見ていた。
いいのか、という顔だった。
俺も同じことを考えていた。手付を削られるのは分かる。増やされるのは、分からない。
「その額で、お願いします」
俺は言った。断る理由がない。断る余裕もない。
ただ、帳面を開いて額を書き込むとき、俺は空白の欄を一つ作った。
誰が値を上げたのか。そこに書く名前が、まだない。
◇
書類を作るあいだ、老人が立ち上がって、俺の卓のそばまで来た。
俺は帳面を開いていた。売れた品目と額を、その場で書き込んでいたところだった。
老人は、それを覗き込んだ。
「その帳面」
しわがれた声だった。
「物だけじゃないのか」
俺は手を止めた。
開いていたのは、目録の続きのページだ。品目と数の下に、その日誰が何をしたかを書いた欄が並んでいる。ミラ、九日目、経路の踏査と作図。エッダ、八日目、細工物の梱包設計。
「人も書いています」
「なぜ」
「書かないと、なかったことになるので」
老人は、しばらくその欄を見ていた。表情は変わらなかった。
「――なるほど」
それだけ言って、離れた。
俺は書類にサインをして、それから顔を上げた。
「お名前を、伺ってもいいですか」
助けてもらった。礼を言うには、名前が要る。
老人は懐から印を出して、卓に置いた。商会連合の印だ。三つの環が組み合わさった紋様が彫ってある。
「印で足ります」
「ですが」
「わしの名を書いたところで、あんたの帳面の欄は埋まらんよ」
彼は印を懐に戻した。
「それより、王都は、まだ利払いを延ばしていますかな」
「……戦時債のことでしたら、今年に入って三度、繰り延べたと聞いています」
「三度」
老人はうなずいた。何かを確認したという顔だった。
「ご苦労さまでした。荷車は明日から手配します。十四台を揃え、十八日目に城へ伺います」
彼は部屋を出ていった。杖はついていなかった。歩き方は、年相応に遅かった。
◇
広場へ戻ると、ミラが待っていた。紙が三枚、びっしり埋まっている。
「麦が一袋で銀貨二枚、塩が一樽で九枚、荷車の車軸が一本で四枚。あと、宿の一泊が――」
「助かる。全部写しておいてくれ」
「いくらで売れたの」
「四百五十」
ミラの手が止まった。
「四百五十?」
「そうだ」
「……あんた、交渉うまいのね」
「俺じゃない」
俺は広場の向こうを見た。商会の館の窓は、もう閉まっていた。
「向こうが上げた」
「なんで」
「分からん」
帰り支度をしているとき、広場の掲示板が目に入った。
布告や売り家の貼り紙に混じって、真新しい札が一枚。墨がまだ黒い。
――傭兵、募集。経験不問。前金あり。
小さな札だった。町の掲示板には、こういうものがいくらでも貼ってある。
俺はそれを一度見て、それから荷車に戻った。
銀貨四百五十枚が、腰の袋の中で重かった。二日後に、三十一人へ払う金だ。
そのことで頭がいっぱいで、俺は札のことを、その日のうちに忘れた。
◇
契約書を作り、手付を受け取るころには日が暮れていた。その日はヴェルデに泊まり、十二日目の朝に帰路についた。
帰りの荷車は空だった。
空になった荷車は速い。尾根を登るのに半日かかったが、それでも往路の三分の一だった。ハンナが言った通り、荷がないと横風は怖くない。
十二日目の夜、尾根の中ほどで野営した。
火を囲みながら、ミラが町で写した紙を読み上げた。麦、塩、油、布、釘、蝋。値段が三枚びっしり並んでいる。
「これ、なんで書かせたの」
「城で作れるものを探すためだ」
「作る?」
「いつか売る物がなくなる」
俺は火を見ていた。
「城にあるのは、全部誰かが昔作った物だ。書物も細工物も、俺たちが作ったんじゃない。売れば減る。減ったら終わりだ」
「じゃあ何を作るの」
「分からん。だから値段を集めた。何が高いか分かれば、何を作ればいいか分かる」
ミラは紙をめくった。
「乾燥肉が高いわね。一袋で銀貨五枚。王都の倍近い」
「戦争が終わったからだろ」
ガルドが火の向こうから言った。
「行軍用の乾物を作ってたとこが、みんな畳んだ。作れる奴がいなくなった」
「そういうのは、先に言え」
「聞かれなかったからな」
俺は書いた。ガルド、十二日目、乾物相場について助言。
「値打ちのある話じゃないぞ」
「値打ちは、あとで決まる」
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